2025年8月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1276) 「ライベツ川・オサルンナイ川・ケバウ川(元浦川支流)」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ライベツ川

ray-pet
死んだ・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
元浦川の東支流で、浦河姉茶の北を流れています。『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川が描かれているものの、川名は記入されていません。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ライヘツ」という川名が描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

また上るや東岸に
     ライベツ
右のかた川、巾五六間也。浅し。弐三丁も上に大なる原有。其名義は死だ川と云るなり。是昔しの本川なりしが、今古川となりて、新川は是より西に有るよりして、ライの二字を附る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.463 より引用)
ふむふむ。「東西蝦夷──」では「ライヘツ」と描かれたあたりが川中島のようになっていたのですが、「ライヘツ」は旧流で、北西側に新しい流れが形成されていたのですね。ray-pet で「死んだ・川」と見て良さそうです。

オサルンナイ川

o-sar-un-nay
河口・葭原・ある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年8月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1275) 「ホロトナイ川・サツメナイ川・ウツシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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ホロトナイ川

poro-nay?
大きな・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国土数値情報によると、道道 1025 号「静内浦河線」沿いを流れて「イカベツ川」に合流する川……とのこと。これまでは、古い記録が存在する川名でありながら、(国土数値情報が)頓珍漢な位置にプロットしている……というパターンが続きましたが、今回はほぼ同じ位置に『北海道実測切図』(1895 頃) に「ポロナイ」という川が描かれています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ホロナイ」という川が描かれていました。更に下流側には「キンクシホロナイ」と「ヒシクシホロナイ」があるのですが、これらとの関係は不明です。

国土数値情報によるとこの川は「ホロナイ」ではなく「ホロトナイ」らしいのですが、戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」にも次のように記されていました。

過て
     ホロナイ
右の方相応の川也。其名義は大川と云儀也。其源はイフイの山のユウルシと一枕になるとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.462 より引用)
どこからどう見ても poro-nay で「大きな・川」です。ただ実測切図の「ポロナイ」は広い湿地帯の中を流れているので、そのことを指して poro-to-nay で「大きな・沼・川」と呼ぶ流儀もあったのかもしれませんね。

サツメナイ川

sat-mena?
乾いた・枝川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年8月29日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1274) 「赤川(荻伏)・イカベツ川・クチャメナ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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赤川(あか──)

hure-pet?
赤・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かつての JR 日高本線・荻伏駅の南で元浦川に合流する西支流です。同名の川浦河町西幌別にもあります。

荻伏の赤川は「荻伏中学校」の西で人工河川と見られる「新赤川」と分かれていて、「新赤川」は国道 235 号の「荻伏大橋」の近くで元浦川に注いでいます。

北海道実測切図』(1895 頃) には、国土数値情報が「新赤川」とした川の河口附近に「フレペ」と描かれていました。

国土数値情報が「赤川」とした、荻伏駅(跡)の南で元浦川に合流する川は、『北海道実測切図』では「ト゚クミㇺタラ」とあるのですが、『改正北海道全図』には「ト゚クミㇺタラ」の流域に「問民」と描かれていました。なかなか傑作な当て字なのでは……。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ウレヘチ」と描かれている川が、現在の「赤川」に相当する可能性がありそうです。ただよく見ると、「トクニンタレ」(=実測切図の「ト゚クミㇺタラ」か)の川向に「フレヘツ」があります。

戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

それよりして東岸まゝ上ること十丁計にして、向ふの方に
     ウンベチ
西岸に岩崩平有。其また上に小川有。本名はフンベチにして、鯨が、有る海嘯の時に上りしによつて其名残りと云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.457 より引用)※ 原文ママ
戊午日誌「宇羅加和誌」は「ウレヘチ」ではなく「ウンベチ」だとしています。「鯨が」とあるので、「ウンベ」は humpe だと見て良さそうな感じです。

一方で「フレベツ」は「トクニンタラ」よりも上流の川(東支流)として、次のように記されていました。

しばしにて
     フレベツ
東岸谷地より落来る悪水也。依て赤き故に此名有るなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.460 より引用)
これは間違いなく hure-pet で「赤・川」と見て良いでしょう。

ややこしいことに、松浦武四郎が「ウンベチ」(humpe-pet?)とした川が「実測切図」では「フレペ」となり現在に至るように見えます。川名が取り違えられたようにも見えますが、あるいは単純に転訛したという可能性も捨てきれません。

ただ(荻伏の)「赤川」に相当する川が「フレペ」と呼ばれた時期があった(実測切図)のは確かなので、「赤川」は hure-pet だ……と言うことにしておきましょうか……?(誰と相談している

イカベツ川

ika-pet?
溢れる・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年8月28日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (35) 「ジャンクションとは何か」

日本海東北自動車道、本荘 IC の次は「大内 JCT.」です。あれっ、こんな近くに別の自動車専用道路がありましたっけ……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この区間の制限速度は、なんと驚きの「50 km/h」とのこと(!)。特に天候が悪そうには思えないので、ほぼ恒常的に 50 km/h 制限ということでしょうか。

2025年8月27日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (34) 「最大 108 cm 程度沈下している軟弱路盤」

日本海東北自動車道の本荘 IC にやってきました。「自動車専用道路」の案内標識が立っているのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「自動車専用道路」の下に「EXCLUSIVE CAR ROAD」とあります。これって以前からこんな表記でしたっけ……?

2025年8月26日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (33) 「横荘鉄道の謎」

国道 108 号を北上していましたが、日本海東北道・本荘 IC に向かうために「玉ノ池」交叉点を右折して秋田県道 43 号「本荘西目線」に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

子吉川を渡ります。前郷(旧・由利町)の市街地は川の東側にあるので、最初から川の東側を通っておけば良かったのに……と思ったのですが、本荘の市街地(駅や城趾など)が川の西側にあるため、国道 108 号(と由利高原鉄道「鳥海山ろく線」)は川の西側スタートだったようです。

2025年8月25日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (32) 「由利仲八郎政春」

子吉川沿いの国道 108 号を北に向かいます。由利本荘市山本(西滝沢駅のあるあたり)にやってきました。右折すると「由利総合支所」とのことで、要は旧・由利町の中心街ということのようです。
「西滝沢駅」があり「西滝沢郵便局」もあるのに「山本」とは解せないなぁ……と思ったのですが、陸軍図には「西瀧澤沢村」の「山本」とありました。ここはかつての由利町ですが、由利町自体が「東滝沢村」「西滝沢村」「鮎川村」が合併して誕生したとのこと。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

旧・矢島街道を離れた別ルート

国道 108 号は再び「子吉川」を渡ります。ごくごく自然な道筋ですが、旧・矢島街道が子吉川の東側を通っていたのに対し、国道 108 号は西側のバイパスルートを通る……ということのようです。

2025年8月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1273) 「男舞川・オコチナイ川・トヤイ川」

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男舞川(おまい──)

o-maw-us-i
河口・ハマナスの実・多くある・ところ
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
向別川河口の西側は浦河町堺町東と堺町西の市街地が広がっていて、「男舞川」は堺町西の市街地から国道 235 号で海沿いを西に向かった先(浦河町字井寒台)で海に直接注ぐ川……だとされています(国土数値情報による)。

読み方が不明だったのですが、「オマイガワ」と読むとの情報提供をいただきました(ありがとうございます)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オマウウシ」という川が描かれていました。o-maw-us-i であれば「河口・風・ある・もの(川)」と読めそうかな……と思ったのですが、『午手控』(1858) の「ウラカワ領海岸地名の訳」には次のように記されていました。

ヲマウシ マウウシと云也。玫瑰はまなす多し
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.174 より引用)
そっちかー! o-maw-us-i で「河口・ハマナスの実・多くある・ところ」ということになりますね。

ところが『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲヤウシ」と描かれていました。これだと o-ya-us-i で「河口・網・ある・もの(川)」になってしまいます。

ただ『初航蝦夷日誌』(1850) には「ヲマウシ 小川有」とあり、『竹四郎廻浦日記』(1856) にも「ヲ(コ)ウシ」と記されていました。「東西蝦夷──」の「ヲウシ」は「ヲマウシ」の誤記と考えたいところです。

オコチナイ川

poro-o-u-kot-nay?
大きな・河口・互い・くっついている・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年8月23日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1272) 「メナブト・ルート川・オショロベツ川」

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メナブト

menas-kot-pet??
東・窪地・川
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
向別川を遡ると「目名太橋」のあたりで二手に分かれていて、右側(東側)の支流が「メナブト川」です。「メナブト」はメナブト川を遡ったあたりの地名(通称かも)です。

北海道実測切図』(1895 頃) には「メナコㇷ゚ルイ」という名前の川が描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「メナコヒレ」と描かれているように見えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「牟古辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     メナコビ(レ)
右の方相応の川也。其名義は不解也。此川すじ鯇・鱒の二種有。源はホロヘツのケハウの山に至るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.442 より引用)
頭註には次のように記されているのですが……

mena 細流川
ko  に向って
pur  出水
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.442 より引用)
うーん、何となく違和感が……(「感覚」で評価するのはいかがなものか……という話もありますが)。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

(通称)メナブト 向別川は上向別地区で,メナ川と本沢 2 つの枝流となる。メナ川は数㌖余だが,ここにも川沿いに水田が多い。メナ川の川口の意の地名。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.577 より引用)
まぁ、普通はそうなりますよね。mena-putu で「たまり水・その口」と解釈できるでしょうか。

かなり強引な試案ですが

色々と可能性を考えてみましたが、まず mena から疑ってかかりたいところです。前述の通りメナブト川は向別川と二岐になっていて、*どちらかと言えば*「東」側に位置しているように思われるので、mena ではなく menas だったのでは無いかと……。

あとは「コビシ」あるいは「コビレ」、「コㇷ゚ルイ」をどう捉えるかですが、案外 menas-kot-pet で「東・窪地・川」とかだったりして……。「向別」が mo-kot-pet だとしたら、menas-kot-pet は「東向別川」だった可能性すら出てきそうな……。

まぁ、この考え方だと「実測切図」の「コㇷ゚ルイ」を完全に切り捨てることになるのですが、petpe-ru と解したとか……(かなり無理矢理感が)。ただ悪くないところもあって、-pet-putu に化けたと考えることもできたりして……。

ルート川

ru-turasi-pet
道・それに沿って上がる・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年8月22日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1271) 「シンケブシ橋・ソマシナイ橋・ラムシ川」

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シンケブシ橋

sinkep(-us-i)
エゾヤマハギ(・多くある・もの(川))
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦河町向が丘を流れる「熊谷川」に「シンケブシ橋」という橋が存在するとのこと(位置は誤っているかもしれません)。『北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「熊谷川」の位置に「シシンケㇷ゚ウㇱュナイ」と描かれています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シンケフ」という川が描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「牟古辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     シンケブ
左りの方小川。其名義は、胡枝花やまはぎ多く有るよりして号る也。本名はシンケフウシといへるよし也。道よろしき時は此川まゝ上りてイフイえ山こしをなし、其より又ウラカワの川すじえ山越するによろしきなりと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.440-441 より引用)
「ヤマハギの多いところ」とありますが、知里さんの『植物編』(1976) には次のように記されていました。

§ 183. エゾヤマハギ  Lespedeza bicolor Turcz.
(1) sinkep(sin-kep)「志ンケㇷ゚」[止め串?]莖《長萬部,幌別,穗別,樣似,足寄,名寄
  注 1.──§ 195,(2),注 2,參照。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.107 より引用)
「§ 195,(2)」によると美幌屈斜路足寄では「ホザキシモツケ」も sinkep と呼ばれたとのこと。注によると、sinkep は蓆を止める「止め串」に由来する可能性があるのでは……とあります。

現在の「熊谷川」がかつての「シンケフ」で、sinkep(-us-i) で「エゾヤマハギ(・多くある・もの(川))」だったと見て良さそうです。由緒正しい?川名は失われてしまったものの、橋の名前としてひっそりと生き残っていた……ということになりそうですね。

ソマシナイ橋

suma-us-nay
岩・多くある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年8月21日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (31) 「三セクと並行する路線バス」

国道 108 号で日本海東北自動車道の「本荘 IC」に向かいます。旧・矢島町域には新庄ならぬ「新荘」という場所があるとのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

A コープやしま店の手前には「国定公園 鳥海山・矢島口」と書かれたオブジェが。

2025年8月20日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (30) 「消えたツルハ」

「鳥海グリーンライン」が残念なことに通行止めだったため、しずしずと来た道を引き返します。ブルーシートで覆われた青看板が見えてきました。
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再び「柴倉大橋」を渡ります。通ったばかりの道を引き返すのも、景勝地を二度も楽しめるのでお得ですよね!(ぐぬぬ……)

2025年8月19日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (29) 「クマに注意」

花立牧場公園のほぼ南端に位置する交叉点にやってきました。「鳥海グリーンライン」こと秋田県道 32 号「仁賀保矢島館合線」はここで秋田県道 58 号「象潟矢島線」と合流します。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

県道 58 号と言えば……「鳥海グリーンライン」も最初は県道 58 号でした。その後県道 289 号 → 県道 312 号 → 県道 285 号 → 県道 32 号を経て再び県道 58 号に戻ってきたことになります。ここまでのルートをググるとこんな感じです。


ちなみに秋田県道 58 号「象潟矢島線」は鳥海山の北斜面を通るルートで、「桑ノ木台湿原」へのアクセスルートでもあるようです。


「鳥海グリーンライン」のルートは路線名もバラバラですが、地元一押しの「観光地」を繋いだルートとして売り出そう……ということなのでしょうね(なんか察した)。

よりどりみどりの登山道

T 字路の正面にはこの先の観光地が案内されていました。鳥海山はブルーラインから入る「吹浦ふくら口」と「象潟口」のほかに、竜ヶ原湿原から入る「矢島口」や鳥海町猿倉から入る「猿倉口」、法体ほったいの滝の近くから入る「百宅ももやけ口」、大物忌神社口ノ宮のある上蕨岡(山形県飽海郡遊佐町)から入る「蕨岡口」などがあり、また山形県道 368 号「鳥海公園青沢線」を経由する「湯ノ台口」もあるみたいです。

2025年8月18日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (28) 「南由利原・花立牧場公園」

由利本荘市に入りました。2005 年 3 月に本荘市・由利郡矢島町やしままち岩城町いわきまち由利町ゆりまち西目町にしめまち鳥海町ちょうかいまち東由利町ひがしゆりまち大内町おおうちまちと合併して成立した市です。
由利本荘市の市域は 1,209.59 km2 で、秋田県の自治体ではもっとも広いとのこと。ただ全国的には 16 位で、北海道の自治体と比較すれば新ひだか町より広く別海町よりは狭いみたいです(何故に北海道基準)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路脇には「鳥海高原」と題した案内板があり、「南由利原旅行村」や「由利高原オートキャンプ場」などが案内されています。この「南由利原」はかつての由利郡由利町エリアのようです。

2025年8月17日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1270) 「赤川・後鞆・タンネベツ」

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赤川(あか──)

hure-pet
赤・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高幌別川の西、国道 236 号の西側を並行して直接海に注ぐ川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「フレレペッ」という名前の川が描かれていて、日高幌別川の河跡湖から流出しているようにも見えます。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「フウレヘツ」と描かれていました。『初航蝦夷日誌』(1850) や『竹四郎廻浦日記』(1856) にも「フウレヘツ」と記録されています。

「フウレヘツ」は hure-pet で「赤・川」と見て良いかと思われます。赤土の土壌を流れる川であるとか、あるいは水に錆びた金属分が多く含まれて赤く見える、などの可能性が考えられそうです。

後鞆(しろいづみ)

sir-entom??
陸・突き出ている海岸の断崖
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年8月16日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1269) 「ソガベツ川・幌春山・春別山」

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ソガベツ川

so-ka-pet?
滝・上・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高幌別川の上流部で合流する東支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ソカペッ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ソウカベツ
右のかた小川。右の川の上に大滝有。此処まで鮭・鯇・鰔等上れども、それより上えは一尾も上ることなしと。是より両岸峨々たる峻壁になりて、猛獣・豪鷲多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.422 より引用)
「右の川の上に大滝有」とありますが、地理院地図にも「ソガベツの滝」が描かれています。『北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 ソガベツ川 トヨニ岳に発する春別川左支流。
 ソガベツ沢 野塚岳に発するソガベツ川の左支流の沢。アイヌ語「ソカペッ」で滝の上の川の意か。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.575 より引用)
so-ka-pet で「滝・上・川」ではないかとのことですが、若干据わりが悪い感があります。本来は so-ka-o-pet で「滝・上・そこにある・川」とか、あるいは so-ka-oma-pet で「滝・上・そこにある・川」だったのかもしれません。

幌春山(ぽろしゅん──)

poro-sum-pet?
大きな・西・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年8月15日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1268) 「フレベツ川・ワツコイ川・好角山」

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フレベツ川

hure-chis??
赤い・中凹み
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
シマン川日高幌別川に合流する地点から(日高幌別川を)3 km ほど遡ったところで西から合流する支流です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には(日高幌別川とシマン川を取り違えるという大きなミスがありますが)「フレチ」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「フレッチ」という川が描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     フレチ
左りの方小川。其両岸赤岩崩なるよりして号るよしなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.421 より引用)
「フレ」は hure で「赤い」ですが、「チ」は何なんでしょう……? あ、hure-chis で「赤い・立岩」か、あるいは「赤い・中凹み」の可能性がありそうですね(道内に類例がありそう)。

名詞としての chis, -i は少々解釈にブレがあるっぽい感じで、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

chis, -i ちㇱ ①立岩。②【ナヨロ】岩石の坊主山;丸い岩山。③ 中凹み。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.20 より引用)
今回は「其両岸赤岩崩なる」とあるので「中凹み」と見るのが良さそうでしょうか。根室の「落石おちいし」は ok-chis で「うなじ・中凹み」とされますが、その類例と言えそうです。

ただ陸軍図では(現在の名前に近い)「フレベツ澤」に改められていました。理由は不明ですが、「わかりやすさ」を優先したんでしょうか……?

ワツコイ川

sa-un-o-so-us-nay?
前(浜側)・にある・河口・滝・ついている・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年8月14日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (27) 「冬師湿原」

「鳥海ブルーライン」をドライブしていたのですが、なんと「鳥海グリーンライン」なるパチもん道路もあるそうで、勢いで突入してしまったのですが……
あれ、なんか「パノラマライン」という案内が出てますね。いつの間に……?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前方に風力発電のタービンが見えてきました。この先に「仁賀保高原風力発電所」があるとのこと。

2025年8月13日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (26) 「鳥海グリーンライン」

秋田県道 131 号「鳥海公園小滝線」、通称「鳥海ブルーライン」を北に向かっていたのですが……
え、この先 300 m で右折すると「鳥海グリーンライン」!?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

まさかの「鳥海グリーンライン」へ

ここまで来れば乗りかかった船だろう……ということで、右折して「鳥海グリーンライン」に向かってみました。見たところ、普通に秋田県道 58 号「象潟矢島線」のように見えますが……。

2025年8月12日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (25) 「奈曽の白滝」

鳥海ブルーラインは下り坂が続きます。ここもセンターラインが黄色の線から白い点線に変わっていますね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

超小型の青看板には「象潟 13 km」の文字が。

2025年8月11日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (182) 青森(青森市)~函館(函館市) (1878/8/11(日)~12(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十二信」(初版では「第三十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

あいにくの警官

青森に到着したイザベラは、「洋食」を出すという料理店で「魚肉」を一口食べて、そのまま函館行きの船の波止場に急いだ……と記していました。ん、これって「遅刻する食パン少女」の原型だったのでは……(たぶん違う)。

イザベラは蒸気船に乗船したものの、海は荒れ模様で、しかも通り雨がやってきました。イザベラが出航を待っていると、警官がやってきて旅券の呈示を求められてしまいました。最悪なタイミングでの警官の登場にはイザベラも閉口したようで……

一瞬私は、彼らも旅券も海中に落ちてくれればよいのにと思った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
この節の題「あいにくの警官」は、原文では Inopportune Policemen で、「時期を失した──」や「不適当な──」と言ったニュアンスで捉えれば当たらずとも遠からずでしょうか。時岡敬子さんも高梨謙吉さんと同様に「あいにく」と訳出していました。

嵐の航海

イザベラは、乗船した汽船についての情報も詳らかに記していました。

汽船は約七〇トンの小さな古い外輪船であった。宿泊設備はなく、甲板に船室が一つあるだけだった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
ちなみに青函連絡船「八甲田丸」の総トン数は 8,313.75 トンだったとのこと。「むつ湾フェリー」の「かもしか」が 611 総トンで、「シィライン」で 2008 年まで使われていた「ほくと」が 90 総トン、羽幌沿海フェリーの高速船「さんらいなぁ2」が 122 総トンとのこと。イザベラの乗った船は、シィラインの「ほくと」や羽幌沿海フェリーの「さんらいなぁ2」に近かった……と考えないといけませんね。

船はヨットのように清潔で整頓してあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
あー、船の規模感を考えると「ヨットのように」というのは理解できるかも。そして「清潔で整頓してあった」というのは、イザベラらしからぬ「お褒めの言葉」ですが……

そしてヨットと同じように、悪天候にはまったく不適当であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
まぁ、そういうことですよね(汗)。青森と函館を結ぶ「旅客船」の「定期航路」がいつ頃からあったのかは不勉強で良く知らないのですが、1878(明治 11)年時点では、かなり小ぶりだったとは言え「旅客船」の「定期航路」が存在していた……ということになりそうですね。

船長も、機関士、船員も、すべて日本人で、英語は少しも話されなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
英語については「そりゃまぁそうだろうなぁ」と思わせますが、青森・函館航路がプロフェッショナルに運航されていたことがわかります。そう言えばイザベラは「ミツビシ」会社で切符を買ったと言ってましたが、三菱系の会社だったのでしょうか……?

私の服は全部濡れており、夜間は日中よりも寒かったが、船長は親切にも数枚の毛布を床に敷いて私をくるんでくれたので、苦しいことはなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
なんと……、なかなか良くできた船長さんじゃないですか。

船は夕方に出帆した。爽快な北風が吹いていたが、急に南東の風に変わり、十一時までには強風となった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
イザベラ(と伊藤)が乗船したのは「夜行便」という認識だったのですが、少なくとも出航は「夕方」だったのですね。急に風向きが変わったというのは不吉な感じがするのですが……。

波が高くなり、船は難航を続け、何度か波をかぶった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
「船は難航を続け」という一文が気になったのですが、どうやら原文では the steamer laboured and shipped several heavy seas, とあるあたりでしょうか。

船長は三十分毎に下りて来て、晴雨計を調べ、少しお茶を啜り、私に角砂糖を一つ出し、顔や手ぶりで悪い天候のことを語った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
船長は英語を全く話さないにもかかわらず、わざわざ定期的に説明に来るあたり、生真面目なプロフェッショナルだったのでしょうか……?

私たちは午前四時まで波にひどく揉まれたが、大雨が降ってくると、強風も一時的に治まった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
イザベラを乗せた船は、青森から函館まで 14 時間ほどで航行したらしいので、「午前 4 時」と言えば全行程の 75 % ほどの時点ということになりますね。ところでこの船について、イザベラは不思議なことを記していました。

この船は夜の航行の設備はしていないし、悪天候になりそうなときはいつも港内に退避する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
え……? 夜間航行の設備が無いにもかかわらず、荒れた海の中を北に向かったとはどういうこと……と思ったのですが、原文では The boat is not fit for a night passage とあるので、時岡敬子さんの「夜間航行には適さず」とした訳のほうがしっくり来るでしょうか。

更に謎なのが続く一文ですが……

このたびは一月以来津軽海峡を襲った最大の強風だといわれたから、船長は船について心配していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332-333 より引用)
そこまで海況がヤバいと知りながら、何故出航した……?(しかも夜間に)

「おいおいそれはどうなのよ」というイザベラの暴露が続きますが、一方で船長に対しては次のようにも評価していました。

しかし不安に思いつつも、彼はあたかも英国人の船長であるかのように、多大の冷静さを見せていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
さすがは船長と言うべきなのか、肝が据わった人物だったようですね。まぁ、イザベラ(と伊藤)は米代川でも目の前で屋形船が制御不能になる様を目撃していたりするので、ある意味ではイザベラ好みの人物だったのかもしれません(何故)。

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2025年8月10日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1267) 「メナシュマン川・シンノシケシュマン川・利居山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

メナシュマン川

menas-{sum-un(-pet)}?
東・{シマン川}
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
シマン川は河口(日高幌別川への合流点)から 4.5 km ほど遡ったところで二手に分かれていて、西側が本流(シマン川)で東支流が「メナシュマン川」です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) は日高幌別川本流(ホロヘツ)とシマン川(シユンヘツ)の東西を取り違えるという大ミスをやらかしているため、位置が誤っているものの、「ヘテウコヒ」で「シイシユンヘツ」(シマン川本流)と「メナシユンヘツ」(メナシュマン川)に分かれるように描かれています。

北海道実測切図』(1895 頃) では、「シュマン」は「シュㇺシュマン」と「メナシュマン」に分かれるように描かれています。ほぼ現在通りですが、「シマン川本流」が「シュㇺシュマン」となっているのが興味深いでしょうか。これは sum(-un)-{sum-un(-pet)} で「西(・に入る)・{シマン川}」で、つまり「西に入る・西に入る川」ということに……(汗)。

ただ、戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

  またしばしを過て
       シイシユマン
  是本のシユンヘツと云儀なり。其源シルトルといへる山より落る。其山シユマンとメナシシユマンの間に在る山也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.420 より引用)
sum-{sum-un} ではなくて si-{sum-um} で「主たる・{シマン川}」ではないかとのこと。位置的には「西・西川」でも良さそうな気もしますが、なるほどそう解釈したか……。

閑話休題それはさておき。戊午日誌「保呂辺津誌」は「メナシュマン川」について次のように記していました。

 またしばし上りて
      二 股
 有、此処より左右に分る。然るに是よりはまたの支流なるが故に、二字を下げ志るし置に、東の方に当るを
       メナシシユマン
  是東のシユンベツと云儀なり。其処右のかた小川に成る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418-419 より引用)
「メナシシユマン」は「東のシユンベツと云儀なり」とあります。menas-{sum-un(-pet)} で「東・{シマン川}」、つまり「東に入る・西に入る川」ということになりそうですね。「コイポクシュメナシュンベツ川」に続き井上陽水テイスト全開ということに……。

シンノシケシュマン川

sinnoski-{sum-un(-pet)}
真ん中の・{シマン川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年8月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1266) 「シマン川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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シマン川

sum-un(-pet)?
西・にある(・川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
メナシュンベツ川の 0.3 km ほど上流で日高幌別川に合流する支流です。河口から日高幌別川を遡るとこのあたりで三つに分かれていることになります。

三つの川の名前

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「シュマン」と描かれていました。

現在は西から「日高幌別川」「シマン川」「メナシュンベツ川」に分かれていることになっていますが、古い記録には異同が見られます。表にまとめるとこんな感じです。

東西蝦夷山川地理取調図 (1859)シユンヘツ*1-メナシヘツ
戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」シユンベツホロヘツ*2メナシベツ
東蝦夷日誌 (1863-1867)西河シユンベツ中川東河メナシベツ
北海道実測切図 (1895 頃)シュㇺペッシュマンメナㇱュウンペッ
陸軍図 (1925 頃)春別川シュマン川メナシュウンベツ川
土地利用図 (1982)-シュマン川メナシュンベツ川
現在日高幌別川シマン川メナシュンベツ川

*1 最も西側の川そのものの名前ではなく、その支流として描かれている
*2 源流部に「シノマンホロヘツ」の記録あり

本流はどれ?

表からは奇妙なことに気付かされます。現在はかつての「シユンベツ」が日高幌別川の本流とされていますが、松浦武四郎は現在の「シマン川」が本流だったとしています。

更に厄介なことに、戊午日誌「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

扨また此処より本川まヽ弐三丁も上るや、左の方に
     シユンベツ
是西川と云儀也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418 より引用)
メナシベツ(メナシュンベツ川)の合流点から「本川」を 218~327 m ほど遡ったところに「左から合流する川」ということなので、これは現在の「日高幌別川(本流)」のことだと見て間違いないでしょう。

松浦武四郎の大き過ぎるミス

ところが、この「シユンベツ」川沿いには、左に「ヌフントニ」という山、右に「タン子ルベシベ」という小川と、同じく右のほうに「シケンカヒナイ」という小川があり、その先に

 またしばし上りて
      二 股
 有、此処より左右に分る。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418 より引用)
「二股」で川が二手に分かれていると記しています。そしてその続きには……

 然るに是よりはまたの支流なるが故に、二字を下げ志るし置に、東の方に当るを
       メナシシユマン
  是東のシユンベツと云儀なり。其処右のかた小川に成る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418-419 より引用)
「シユンベツ」=「シユマン」だと記しています。最も西側を流れるとした「シユンベツ」の川筋を記している筈ですが、実際にはどう見ても現在の「シマン川」(三つの河川の真ん中を流れている)の川筋の情報です。

そして日高幌別川「本流」の情報が続いていました。

扨三ツ股よりして中に到る本川のすじの義、是また聞取りて志るし置に、シユンヘツフトより凡七八丁も過て
     ホロカン
左りの方小川。其名義他に同名多きものなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.420 より引用)
ただ「三ツ股よりして中に到る」と明記しているので、位置からは現在の「シマン川」の情報である筈ですが……

またしばし過て
     フレチ
左りの方小川。其両岸赤岩崩なるよりして号るよしなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.421 より引用)
これは『北海道実測切図』に「フレッチ」と描かれた川で、現在の「フレベツ川」に相当します。この「フレベツ川」は日高幌別川、つまり「三ツ股の西川」の支流です(!)。

巨大なミスはあるものの

ここまで見た限りでは、松浦武四郎は明らかに「中川」(現在のシマン川)と「西川」(現在の日高幌別川本流)の川筋の情報を取り違えて記録しています。「是また聞取りて志るし置に」とあるので、実際に現地に赴いたのではなく聞き書きだったと推察されるのですが、インフォーマントとのやり取りに何らかの齟齬があった可能性もありそうです。

東西蝦夷山川地理取調図』をよく見ると、見事に現在の「日高幌別川本流」と「シマン川」の情報が逆になっていることがわかります(「フレチ」は現在の「フレベツ川」で、「タン子ルヘシヘ」は現在の「カラフト川」だったと見られます)。

松浦武四郎の記録は、「日高幌別川本流」と「シマン川」を取り違えるという致命的なミスがあるものの、支流の情報は『北海道実測切図』とも概ね整合性が取れているため、それなりに信が置けるように思われます。となると「シユマン」は「シユンベツ」だったということになるのでしょうか。

「シユマン」と「シュㇺペッ」

ところが『北海道実測切図』は「シユマン」(=シマン川)と「シュㇺペッ」(=日高幌別川本流)を別の川として描いています。ただ松浦武四郎は「シユンベツ」「ホロヘツ」「メナシベツ」があったとしているので、北海道実測切図が「シユマン」と「シュㇺペッ」を別個の川として描いているのは疑わしく思えてきます。

また別の言い方をすれば、最も西にある川を「シュㇺペッ」としたのは松浦武四郎の誤謬をそのまま引き継いだ……となるかもしれません。

現段階での結論としては、「シユマン」は「シユンベツ」であり、sum-un(-pet) で「西・にある(・川)」だったと考えています。もちろん本流の側に「西にある川」が流れているというのは奇妙なのですが、ホロベツ(日高幌別川)に二つの大きな東支流があり、両者を区別するために「メナシ」(東)と「シュム」(西)に呼び分けた……と見るべき、でしょうか。

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2025年8月8日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1265) 「面射岳・幌尻・オムシャヌプリ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

面射岳(おむしゃだけ)

umusa-nupuri??
久闊を叙する・山
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
メナシュンベツ川」を遡った先に「楽古岳」という山があるのですが、山頂付近に「面射岳おむしゃだけ」という名前の一等三角点(標高 1471.4 m)があります。ややこしいことに、「面射岳」三角点の 6 km ほど北西に「双子山(オムシャヌプリ)」という山があるのですが……。

北海道実測切図』(1895 頃) には、やはりと言うべきか、現在の「楽古岳」の位置に「オムシヤヌㇷ゚リ」と描かれていました。陸軍図ではこの山が「樂古岳」となりますが、現在の「双子山(オムシャヌプリ)」のあたりは無名峰のままです。

確認できた中では、現在の位置に「オムシャヌプリ」と明記されたのは 1956 年測量の 5 万分 1 地形図「楽古岳」が一番古いようです。

「オムシャ」と言えば、真っ先に思い浮かぶのが江戸時代にアイヌを「撫育」するために行われた行事です。

松前藩とアイヌの間の交易でも初期には交歓の意味での儀礼であったが、後に交易や漁労の終了時のアイヌに対する慰労行事となり、更に蝦夷地統治の手段として転化していくことになる。儀式の執行者は当初は場所請負制の下で請負を行った商人であったが後には松前藩もしくは江戸幕府の役人が行った。
(Wikipedia 日本語版「オムシャ」より引用)
この「オムシャ」という語については、和語由来説とアイヌ語由来説があり……

オムシャの語源としては、日本語の「おびしゃ(御奉射)」「おぶしゃ(御撫謝)」の転訛説とアイヌ語の御無沙汰の挨拶として互いの頭を撫でる儀式「ウムシャ」に由来する語とする説がある。
(Wikipedia 日本語版「オムシャ」より引用)
東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のような註がつけられていました。

ヲムシヤ=蝦夷語ウムシヤの轉訛で、蝦夷が久しぶりで會った際、たがいに身體を撫であって久濶を叙する禮式をいう。場所を知行された知行主と、知行場所に住む蝦夷の酋長との關係は、このヲムシヤという儀禮を通じて結ばれた。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.48 より引用)
註には続きがまだまだあるのですが、興味を持たれた方は「国立国会図書館デジタルコレクション」の送信サービスで読むことができます。いい時代になったものですが、古本屋さんに取っては死活問題という話も……(汗)。

また、東蝦夷日誌には「ヲムシヤ考」という論考があり、著者の石場高門は「予が考には御赦おんしやならめと思ふ」と記しています。「オムシャ」は最終的には幕府の役人がアイヌに酒などを「下賜する」儀式になったので、確かにこれは「恩赦」というニュアンスが近いのですが、当初は「年一度の挨拶回り」に近いものだったことを考えると、これは「こじつけ」に近いでしょうか……?

鎌田正信さんの『道東地方のアイヌ語地名』(1995) によると、更科源蔵「アイヌ伝説集」に「ラッコ岳の雷神」にまつわる伝説が紹介されているとのこと。当該書には以下の文章が記されていました。

古い地図にラッコ岳をオヌシャヌプリと書いたのであるが、オヌシャヌプリ(そこに祭壇のある山)は沢の入り口にある小さい山で、山に入るときに必ずこの山に木幣をあげ挨拶して入らなければ、行きたいところには行けないところであった。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈1〉アイヌ伝説集』みやま書房 p.179 より引用)
「オシャヌプリ」がいつの間にか「オシャヌプリ」になっているのですが、o-nusa-nupuri だと「そこに・幣場・山」となるでしょうか。文法的に若干変ですが、nusanupuri の間に何らかの動詞が存在していた(抜け落ちた)と考えれば良さそうですね。

まとめ?

そろそろまとめに入らないと行けないのですが、手元の地図では軒並み「オシヤヌプリ」となっているので、個人的には更科さんの「幣場のある山」説は少々無理があるかなぁ……と思わせます。

『北海道実測切図』では「オムシヤヌㇷ゚リ」は「ピロロヌㇷ゚リ」と「ポロシリ」の間の山として描かれています(理由は不明ですが、何故かこの三山が連山のように描かれています)。

案外、「オムシャヌプリ」は、「ポロシリ」と「ピロロヌㇷ゚リ」が「暮れの元気なご挨拶」を交わしている……と言った風に見られていたのかもしれないなぁ……などと思い始めています。umusa-nupuri で「久闊を叙する・山」だったのではないかと……。

幌尻(ぽろしり)

poro-siri
大きな・山
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年8月7日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (24) 「鳥海ブルーライン(秋田側)」

秋田県にかほ市に入りました。「次は鳥海山鉾立 2 km」とあり、下に Hokodate Ent. と書かれていますが、Ent.Entrance のこと……でしょうか?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

2 km ほど走って「鳥海山鉾立」にやってきました。「道の駅」ならぬ「高原の駅」なんですね。鉾立ほこだては鳥海山象潟きさかた口の 5 合目で、標高は 1,150 m とのこと。

2025年8月6日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (23) 「鳥海ブルーライン(山形側)」

鳥海ブルーラインで鳥海山に向かいます。麓の原野っぽいところですが、このあたりは鬱蒼とした森が切り拓かれていて、道路沿いに結構な数の民家があります(「小野曽神社」のあるあたりです)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

麓の開拓地?を過ぎると、かつてのホッケンハイムリンクを思い起こさせる森の中の一本道になります。道路の左側に妙に広い路側帯がありますが、かつての料金所跡、でしょうか……?

2025年8月5日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (22) 「十六羅漢岩」

燃料補給を済ませて、国道 7 号を北に向かっていたのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ふと燃料計を見てみると、なんと残り 1/4 しか入っていないという表示が! これまで燃料系の異常は経験したことがなく、燃料が漏れていたらどうしよう……とパニックになり、ガソスタにとんぼ返りしてしまいました。

2025年8月4日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (21) 「スギッチ!」

国道 7 号を北に向かいます。現在ではこの先に日本海東北自動車道の「遊佐比子 IC」が存在するあたりです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

秋田土崎港まで 96 km

ちょうどこの先に「遊佐比子ゆざひこ IC」が建設されることになるのですが、2017 年当時は「新日本海フェリー」の看板が立っていました。

2025年8月3日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1264) 「オホナイ川・馬櫛山・タンネルシュベツ川・コイポクシュメナシュンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オホナイ川

oho-nay
深い・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
メナシュンベツ川の支流である「ニオベツ川」を 0.5 km ほど遡ったところで合流する北支流(ニオベツ川支流)です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲホナイ」という川が描かれています(但し、松浦武四郎が記録したメナシュンベツ川流域の情報は信頼性に難のあるものが多い印象があります)。

北海道実測切図』(1895 頃) では、やや西よりの北支流(メナシュンベツ川支流)として描かれていました。『北海道実測切図』と「国土数値情報」で異なる位置に描かれているのですが、どっちが正解なのか、それともどちらも誤りなのかは不明です。

戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

 又しばし過て
      ヲホナイ
 左りの方小川。此川狭くして深きが故に号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.417 より引用)
oho-nay で「深い・川」ということになりますね。ohoooho あるいは oo と同義で「深い」を意味するのですが、これらとは別の「深い」を意味する rawne という語もあります。

oohorawne の違いについて、知里さんの『アイヌ語入門』(1956) では次のように記されていました。

 この 2 種の「深川」のうち,Ooho-nay〔オおホナィ〕は「水の深い川」の意味であり,Rawne-nay〔らゥネナィ〕の方は「底の深い川」の意味で深くえぐれた谷の底を流れている川をさすのである。
(知里真志保『アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために』北海道出版企画センター p.92-93 より引用)
永田地名解 (1891) には「オホナイ川」を念頭に置いたと見られる解が記されているのですが……

Ooho nai   オオホ ナイ   深川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.279 より引用)
知里さんの分類では、これは「水の深い川」に該当するとのこと。ただこの地形を見る限り、「水が深い」のではなく「底が深い」川とすべきに思えます。

ここまで見てきた限りでは、ooho が「底の深い」を意味すると見られるケースは道東に多かった印象があります。日高地方は「道東」とは言いづらいものの、静内川よりも南東側は「メナシュンクル」(東の人)の勢力圏だったので、そういう意味では「道東系」の地名があったとしても不思議はありません。

馬櫛山(おまくしやま)

o-maw-kus-nay?
河口・風・通る・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年8月2日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1263) 「ムコロベツ川・ルチシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ムコロベツ川

mokor-pet?
眠っている・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 236 号「天馬街道」の「女名春別橋」の近くで南からメナシュンベツ川に合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) では「ムコロペッ」と描かれていて、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「モコロヘ」と描かれています。

ただ「爾萬」の項でも記した通り、『東西蝦夷山川地理取調図』と『北海道実測切図』の記録は看過できないレベルの異同があります。改めて現存の川名を含めて表にしてみると……

戊午日誌
(1859-1863)
東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
北海道実測切図
(1895 頃)
現在(推定含む)
メナシベツメナシヘツメナㇱュウンペッメナシュンベツ川
--サウンウペㇱペッシマン入口川
サウヌウベンヘ
(右の方小川)
サヌウシヘキムウンペㇱペッシシャモ川
-ニマムノキペパ?田中川?
キムヌベンベツ
(右の方小川)
キムンウシヘムコロペッムコロベツ川
ニマム
(左りの方小川)
---
ヌイベハ
(左りの方小川)
ヌイヘハ--
ワツコイ
(左りの方小川)
ワツコイ--
ホロコツ
(左りの方平山)
ホロコツ--
コヱホクメナシベツ
(左の方小川)
(メナシベツ中の大川)
コエホクメンヘツニオペッニオベツ川
ホロカン
(右のかた小川)
ホロカンニナラケㇱュオマナイ?-
モコロベ
(右のかた小川)
モコロヘニナルナイ?-
サウントイ
(右のかた小川)
サウシベルベㇱュペ?-
ヲホナイ
(左りの方小川)
ヲホナイエオルケㇱュオマナイ?-
ブトヒリカナイ
(左りの方小川)
フトヒリカナイ-
--エオルオムナイ-
ニナルケシヨマナイ
(左りの方小川)
---
キムントイ
(右の方小川)
(其上に沼有)
ニヲヘツタン子ルㇱシュペ?タンネルシュベツ川
ニヲヘツ
(左りの方小川)
-ニサキオルナイ?メナシュンベツ一号川
-ニナルヘツウヌンコイマウカクシュナイ?メナシュンベツ二号川
ニナルベツ
(左りの方小川)
(シノマンメナシヘツ)
ニナルケシヲシマナイコイカクㇱュメナㇱュウンペッ?-
--コイポクウㇱュメナㇱュウンペッコイポクシュメナシュンベツ川
-ニイカウシベ--
--エオリナイ-
--プト゚ピリカウンナイ-
--メナシュクシュナイ-
--シュムクㇱュペッ-
--アシ子ヘツ-
--オムシャランペッ-
--オムシャヌプリ楽古

もはや表として成立しないレベルになってしまいました。この手の表を作成する場合、*確実に* 同一と見做せる川名をピックアップして基準にするのですが、今回はなんと「メナシベツ」(=メナシュンベツ川)以外に確実なものが見当たらないように思えます。

「東西蝦夷──」と「実測切図」、信用すべきは

戊午日誌「保呂辺津誌」の記録で唯一使えそうだと思われるのが「メナシベツ中の大川」と記録された「コヱホクメナシベツ」で、「最大の左支流」であれば現在の「ニオベツ川」に相当すると見込まれます。

この表を良く見ると、名前が似ていて位置が異なる川が非常に多いことに気付かされます。たとえば「モコロベ」と「ムコロペッ」の他にも「ニヲヘツ」と「ニオペッ」や、「ブトヒリカナイ」と「プト゚ピリカウンナイ」、「コヱホクメナシベツ」と「コイポクウㇱュメナㇱュウンペッ」などがあります。

普通に考えればこれらの記録が同一の川を指していると見るべきなのですが、川と川の前後関係を考慮すると、矛盾なく並べることができないように思えます。

北方資料デジタルライブラリーで閲覧できる北海測量舎図には、北海道実測切図に記入のない川名も描かれていました。何かのヒントになるかと思ったのですが、更に混迷の度を深めただけでした……。

「東西蝦夷──」と「実測切図」でこれだけの違いがあるというのは、どちらかが、あるいは両方が大きく誤っているということになります。地図としての精度は「実測切図」のほうが上なので、「松浦武四郎がガセネタを掴まされた」と仮定すれば全てが片付くという噂もありますが……。

ツルニンジンの根のある川?

現在の「ムコロベツ川」が松浦武四郎が記録した「モコロベ」と同一位置にあるかは疑わしい……ということになりそうですが、『北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 ムコロベツ川 メナシウンベツ川の左小支流でつるにんじんのある川の意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.575 より引用)
確かに muk で「ツルニンジンの根」を意味するので、muk-oro-pet で「ツルニンジンの根・の所・川」ではないか……ということですね。ただ、手元の資料では、-or あるいは -oro の前に特定の植物名が来るケースが殆ど見当たらないのですね。

muk を名詞ではなく完動詞と見た場合は、mu と同様に「塞がる」という意味になるのですが、-or あるいは -oro の前に動詞が来るのはあり得ないように思えます。

眠っている川!?

少し考えてみたのですが、muk-ot-pet で「ツルニンジンの根・多くある・川」であれば違和感が少ないかな、と思えてきました。そして、もう一つの可能性として mokor-pet で「眠っている・川」と考えられたりしないかな、と。

「『川が眠る』とは何だ?」と思われるかもしれませんが、実は自分でも良くわかっていません(ぉぃ)。網走の近くの「藻琴湖」も mokot-to で「眠っている・沼」ではないかという説がありますが、「山に囲まれていて波が静かである」故に「眠っている」のではないか……とのこと。

ん、そう言えば松浦武四郎は「ベ」と記録していましたね。よく見たら mokor-pet そのものじゃないですか……(!)。

そして「東西蝦夷──」と「実測切図」はどっちが信用できるか……という話ですが、「ムコロベツ川」と支流の「ホリカン川」の地形上の特徴を考慮すると、どちらも「実測切図」に軍配が上がります。わざわざでっかい表を作って検討したものの、メナシュンベツ川筋の松浦武四郎の記録は、特にその位置(や順序)については深く信が置けるものではないのかもしれません。

ルチシベツ川

{ru-chis}-pet??
{峠}・川
(?? = 旧地図で未確認、独自説、類型あり)

2025年8月1日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1262) 「爾萬・シシャモ川・ホリカン川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

爾萬(にまん)

nima??
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
メナシュンベツ川シマン川(どちらも日高幌別川の支流)の間あたりに「丸山」という山があるのですが、その頂上付近に「爾萬にまん」という三等三角点があります(標高 287.0 m)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「メナシヘツ」(=メナシュンベツ川)の支流として「ニマム」と描かれていました。『北海道実測切図』(1895 頃) では「メナㇱュウンペッ」(=メナシュンベツ川)と「シュマン」(=シマン川)の間に「ニマム」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

 またしばしを過て
      ニマム
 左りの方小川にして、其名義不解なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.416 より引用)
ここで気になるのが「左りの方小川」という記述なのですが、戊午日誌が記録した川名と、東西蝦夷山川地理取調図・北海道実測切図に描かれた川を表にして、現在の川名を推定することにしました。

戊午日誌
(1859-1863)
東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
北海道実測切図
(1895 頃)
メナシベツメナシヘツメナㇱュウンペッ
--サウンウペㇱペッ(*1)
サウヌウベンヘ右の方小川サヌウシヘキムウンペㇱペッ(*1)
-ニマム-
キムヌベンベツ右の方小川キムンウシヘムコロペッ(*2)
ニマム左りの方小川-ノキペパ?
ヌイベハ左りの方小川ヌイヘハ-
ワツコイ左りの方小川ワツコイ-
ホロコツ左りの方平山ホロコツ-
コヱホクメナシベツ左の方小川
メナシベツ中の大川
コエホクメンヘツニオペッ(*3)
ホロカン右のかた小川ホロカンニナラケㇱュオマナイ?
モコロベ右のかた小川モコロヘニナルナイ?

*1 北海道実測切図はメナシュンベツ川河口附近(志満橋附近)に「サウンウペㇱペッ」を描いているが、戊午日誌は「サウヌウベンヘ」について、メナシベツ河口から「しばしを上り」と記しているため、記述に矛盾があると判断した。

*2 実測切図は「ムコロペッ」としているが、戊午日誌には更に山奥に「モコロベ」が存在すると記録していて、また「モコロベ」の手前に「メナシベツ中の大川」とされる左支流が存在するとの記録を考慮すると、実測切図の「ムコロペッ」の位置には疑義が生じる。

*3 実測切図はメナシュンベツ川の最大の支流を「ニオベツ川」とするが、松浦武四郎の記録では「コヱホクメナシベツ」としている。最大の支流であることを考慮すると「コヱホクメナシベツ」というネーミングのほうが妥当に思われる。

実測切図の川名は信頼できるか?

ここまで見た限りでは、メナシュンベツ川最大の支流を「ニオペッ」とする実測切図が疑わしく思えてきます。「では松浦武四郎の記録に信が置けるのか?」という話ですが、戊午日誌にはメナシベツの河口に止宿する前に「余は小使壱人を召連て、三ケ所の川々を見物に上りぬ」と記しているので、少なくともこのあたりの記録は聞き書きでは無さそうに見えます。

本題の「ニマム」ですが、位置的には「女名春別橋めなしゆんべつばし」の近くでメナシュンベツ川に合流する「田中川」に相当する可能性がありそうに思えます。

肝心の地名解ですが、これがまた謎でして……。古語で「舟」を意味する nimam という語があるので、nimam で「」と考えられるかどうか……。なお『藻汐草』(1804) によると「ニマム」で「舟の神」「海の神」を意味するとのこと。

また nima で「」などの木製の皿を意味するとのこと。『午手控』(1858) には「キムヌヘンヘツ」の次に「ニマ小川」とあるので、「ニマン」は nima に関係する地名である可能性も考えたいところです。

「田中川」や「学校の沢川」が流れるあたりは「上杵臼開拓地」で、山の中にしては南向きのちょっとした地のようになっています。この地形を「浅い皿」に見立てた符丁だった……と想像するのは、さすがにやり過ぎでしょうか……。

シシャモ川

sisam???
日本人
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)