2025年10月31日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1301) 「有勢内川・ロクマップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

有勢内川(うせない──)

esan-nay
岬・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「ロクマップ川」の謎

有良川静内川の間を流れる川です。比較的短い川ですが、「昼休所」があったからか、古くから名の知られた場所だったようです。せっかくなので表にまとめてみましょうか。

東蝦夷地名考 (1808)ウセナイ未考
東行漫筆 (1809)ウセナイ人馬継立所
大日本沿海輿地全図 (1821)ウセナイ-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ウセナイ只の沢
初航蝦夷日誌 (1850)ウセナイ夷人小屋有
竹四郎廻浦日記 (1856)ウセナイ人馬継立所
辰手控 (1856)ウセナイ-
午手控 (1858)ウセナイ此所出さきに有る沢故
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ウセナイ-
戊午日誌 (1859-1863)ウセナイ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ウセナイあらわる義。此處岬なる故になづけし
永田地名解 (1891)ウセイ ナイ湯川
北海道実測切図 (1895 頃)ウセイナイ-
1/50000 地形図 (1896) ウセイナイ-
1/50000 地形図 (1919) ウセナイ(地名として)
1/50000 地形図 (1945) --
1/50000 地形図 (1958) --
1/25000 地形図 (1976) ロクマップ川-
1/50000 地形図 (1977) --
国土数値情報有勢内川-
地理院地図ロクマップ川(!)-
地理院地図(地名情報)ロクマップ川-

困惑を隠せないのですが、地理院地図ではこの川は何故か「ロクマップ川」という扱いになっています。地理院地図と国土数値情報で川名が異なるケースは少なからずあり、その多くは国土数値情報が頓珍漢なのですが、今回は『北海道実測切図』の「ウセイナイ」と国土数値情報の「有勢内川」の位置が一致するので、地理院地図の認識に問題がありそうに思えます。

国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で過去の図幅をチェックしてみたのですが、1976(昭和 51)年に測量された 1/25000 地形図でこの川は「ロクマップ川」ということにされてしまい、そのまま修正されずに現在に至るように見えます。

そして表にすることで明確になるのですが、「有勢内」を「ウセイナイ」としたのは永田方正っぽいですね。永田方正が「『ウセナイ』じゃない『ウセイナイ』だ!」としたものの、結局「そうは言ってもウセナイだったよね」ということでいつの間にか元通り……という、いつものパターンがここでも見られます。

「只の沢」説

地名解ですが、上原熊次郎の『蝦夷地名考幷里程記』には次のように記されていました。

ウセナイ               休所番家有 ミツイシ江三里程
  夷語ウセナイとは、「凡」の沢といふ事。扨、ウセとは、「凡」「又」は顕れると申事。ナイは沢又は小川の事にて、此川に何魚もなきゆへ此名ありといふ。未詳。
(上原熊次郎『蝦夷地名考幷里程記』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.54-55 より引用)

「出岬」説

また『午手控』の「シヅナイ海岸地名の訳聞書き」には次のように記されていました。

一、ウセナイ 出沢。此所出さきに有る沢故号
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.207 より引用)
『東蝦夷日誌』には次のように記されていました。

ウセナイ(小澤、平地にて馬や、晝休所、番や、板藏)シツナイ〔靜内〕繼立を此處にてす。名義、あらわる義。此處岬なる故になづけしなり。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.176 より引用)

「湯川」説

永田地名解には次のように記されていましたが……

Usei nai   ウセイ ナイ   湯川「ウセナイ」ニテ田澤ナリト云フハ非ナリ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.251 より引用)
更科源蔵さんは、この解について『アイヌ語地名解』(1982) で次のように記していました。

ウセウまたはウセイはわかした湯のことで、わかし湯の川などという地名はうなずけない。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.83 より引用)
バッサリと行きましたね。この指摘の是非はさておき、ほぼ全ての記録が「ウセイ」ではなく「ウセ」だったことは重要ですね。

「出岬」説ふたたび

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

野作えぞ東部日記(松浦氏と同時代) は「宇瀬は出と云夷語にて此処出岬なる故にしか云」と書いた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.351 より引用)
思いっきり孫引きですいません。「ウセは出るという意味」というのは『午手控』と一致しますね(!)。

esonesan

となると「出る」という意味の「ウセ」という単語が見つかれば一件落着?なのですが、手元の辞書類にはそれらしい単語が見当たりません。バチェラーの『蝦和英三對辭書』(1889) にもそれらしい記載はありませんし、『藻汐草』(1804) にも見当たらないように思えます。

『藻汐草』によると「ウーセ」で「湯、沸かし湯」とのこと。これは永田地名解の解釈そのものですね。

服部四郎の『アイヌ語方言辞典』(1964) を眺めていたところ、帯広美幌旭川などで eson omaneson asin という用例が記録されていました。「eson は《外へ》」とあるので、厳密には eson は「出る」という意味では無いのですが……。

ただ「外へ」を意味する eson という語があり、「ウセ」=「出る」=「岬」であれば……あ。esan で「」という語があるじゃないですか。「エサン」が「ウセ」に転訛した……と考えるのも少々勇気が必要ですが、古い記録を素直に解釈するとその可能性も出てくるのかな……と。

esanu-sap

ちょっと気になるのが日高町(新ひだか町ではなく、国鉄の「日高町駅」のあったところ)に「右左府うしゃっぷ」という地名があったことです。これは u-sap だったとも考えられるのですが、「ウセナイ」も同様に esan ではなく u-san だった……という可能性も認識しておきたいです。

ロクマップ川

ru-mak-oma-p
路・山手・そこにある・もの
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年10月30日木曜日

やっぱり夏こそラーメン (11) 「サンクスまで 453.4 km」

青森市に入りました。古き良き公団ゴシックの文字の上には「ねぶた」のイラストが。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

2017 年時点では 4 車線化工事中でしたが、現在はちょうど青森市(かつての浪岡なみおか町域)に入ったあたりから 4 車線化が完成しています。

2025年10月29日水曜日

やっぱり夏こそラーメン (10) 「最後の公団ゴシック」

「月山と鳥海山と西津軽」も (66) まで来てしまいましたし(五・七・五にしたのでお気に入りではあったのですが)、突然ですがタイトルを変えてみました。まさかの「夏こそラーメン」が復活です。

現時点では単なる十字路の「つがる柏 IC」から津軽自動車道に入りました。いずれ(延伸時に)消滅するであろう右カーブの途中で「五所川原市」に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

五所川原市には「五所川原北 IC」「五所川原 IC」の他に「五所川原東 IC」があります。ストレートなネーミングですが、他所の人間にとってはわかりやすいかも……?

2025年10月28日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (66) 「気まぐれオレンジハート」

国道 101 号の右側にはこんな看板が。そういや津軽って(物量では)日本最大級の「偽書」が出たところでしたよね……。戦後に建てられた民家の屋根裏から何故か古文書がどんどん発掘される(一度に発掘されたのではない)というミステリーが話題を呼んだものでしたが……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

交叉点の手前の 108 系標識には「森田駅」の文字が。駅名は「陸奥森田」ですが「陸奥」が省略されています。かつての森田村の中心駅でしょうか。

2025年10月27日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (65) 「21 世紀は食料・農業・農村の時代(だった)」

「津軽自動車道」の一部となっている、国道 101 号の自動車専用道路「鯵ヶ沢道路」の終点(当時)にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前方が盛土のようになっていますが、現在は立体交叉でそのまま直進できるようになっています。

2025年10月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1300) 「ヌプキウシナイ川・オサナイ川・真歌」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヌプキウシナイ川

nupki-us-nay??
にごり水・ある・川
(?? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
捫別川の西隣を流れる「有良ゆら川」の東支流で、この川を遡った先には三等三角点「佐妻山」(標高 296.3 m)が存在する……とされています(国土数値情報による)。

ところが、不思議なことに 『北海道実測切図』(1895 頃) には、現在の「ヌプキウシナイ川」とは異なる位置に「ヌㇷ゚ト゚ウシナイ」という川が描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりません。

「ヌプキウシナイ」を素直に解釈すると nupki-us-nay で「にごり水・ある・川」となるでしょうか。「実測切図」が「ヌㇷ゚ト゚ウシナイ」としたのは……誤記……でしょうかね……。

オサナイ川

o-sar-un-nay
河口・湿原・そこに入る・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年10月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1299) 「西川・ニウシリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

西川(にしかわ)

sum-pet
西・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町静内川合(「川合」は川が合流するから?)から「捫別川」を北に遡ったあたりの地名です。かつての静内郡静内町西川で、現在は正式には「新ひだか町静内西川」です。

北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「捫別川」が「シュㇺペッ」と描かれていました。川の左には「佐妻」とありますが、これは「さめ」と読むとのこと(佐妻村: 1871(明治 4)年~1909(明治 42)年)。


なお「サメ」自体は「シュㇺペッ」の北支流だったようで、戊午日誌 (1859-1863) 「茂宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て山間え上る哉
     サ メ
左りの方小川。其名義は往昔海嘯の時、此処にて鮫を打上げしと云儀也。依て号るよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.554 より引用)
えー……。良くある「津波の際にここまで○○が上がった(から地名にした)」説ですが、この手の説話は大体ウラがありそうな印象があるんですよね……。

『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

捫別川上流のシュンベツ(西の沢) の流域にあたることから命名。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1080 より引用)
「西川」は sum-pet で「西・川」に由来する……ということになりますね。あまりにそのまんまですが、アイヌ語意訳地名ということになるかと。

ニウシリ川

ni-us-sir
木・多くある・山
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町静内西川で「捫別川」に合流する西支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ニウㇱュナイ」と描かれています。


ただ興味深いことに、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ニウシリ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「茂宇辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ニウシリ
左りの方小川。其名義は木多き山と云儀也。本名はニウシシリと云也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.554 より引用)
ni-us-sir で「木・多くある・山」のようですね。となると何故「実測切図」は「ニウㇱュナイ」と描いたのか、という話になります。「ウュ」というのは永田地名解 (1891) の有名な癖ですが、やはりと言うべきか、永田地名解には次のように記されていました。

Ni ush nai   ニ ウシュ ナイ   樹木多キ澤
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.261 より引用)
これはちょっと評価が難しいのですが、松浦武四郎は「左りの方小川」として ni-us-sir という地名を記録しています。ただ sir は「山」や「土地」を意味する語なので、本来は川の名前としては相応しくありません。

その一方で、永田方正は ni-us-nay で「木・多くある・川」としました。「川の名前」としては極めて妥当なものですが、実際にそう呼ばれていたのか、それとも永田方正が「川の名前に sir はおかしい」と判断してを試みたのか……。

ここまで見てきた限りでは、永田地名解が「独自の判断」で記録に手を加える可能性は十分にありそうな気もします。松浦武四郎は基本的にこのあたりの「校正」を加えることは滅多に無く「変だと思うけどそのまま記録する」というスタンスなので、結果的により貴重な記録となった……ような気がします。

現在の川名は「ニウシリ川」ですが、これは「実測切図」の「ニウㇱュナイ」という川名を否定した……と見ることもできます。「アイヌ語地名の権威」だった永田方正の加えた「修正」が「なかったことにされる」というケースが思いのほか多い印象もありますが、これは地元で「違う、そうじゃない」という声が多かった……ということなのかもしれませんね。

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2025年10月24日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1298) 「サテキナイ川・オバシ川・シンノスケ捫別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

サテキナイ川

sattek-nay
やせている・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町静内川合で西から捫別川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「サツテキナイ」と描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) にも「サッテキナイ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「茂宇辺都誌」には次のように記されていました。

また七八丁も上るや
     サツテキナイ
左りの方小川。其名義は干たる川と云儀なり。此川すじ魚類はいとうに鯇多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.551 より引用)
どうやら sattek-nay で「やせている・川」のようですね。sattek は『地名アイヌ語小辞典』(1956) によると「川が夏になって水がかれて細々と流れている状態」とのこと。ただ松浦武四郎は「イトウ」と「アメマス」が多いと記しているので、季節によっては魚が入る川だったみたいですね。

オバシ川

upas?
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)

2025年10月23日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (64) 「鯵ヶ沢道路」

「マックスバリュ鯵ヶ沢店」の前にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「マックスバリュ鯵ヶ沢店」、「よる 10 時まで営業」とあって「げげげ」と思ったんですが、最新のストリートビューでは……


「よる 9 時まで営業」に微修正?されていました。これでもまだ遅すぎるくらいなのでは……。

ちなみに「マックスバリュ鯵ヶ沢店」の向かいには「ハッピー・ドラッグ青森鯵ヶ沢店」があるとのこと。僅か 300 m ほどの間に「スーパードラッグアサヒ鯵ヶ沢店」「ツルハドラッグ鯵ヶ沢店」「ハッピー・ドラッグ青森鯵ヶ沢店」が軒を連ねる異常事態?に……。

ゆとりの駐車帯(!)

郊外型店舗が過密状態になっている一角を抜けると、国道 101 号バイパスはまたしても木々に囲まれた区間に戻りました。めちゃくちゃメリハリがありますが、これは都市計画の産物なんでしょうね。

2025年10月22日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (63) 「インディーズ系青看板もどき」

国道 101 号のバイパス区間を五所川原に向かいます。300 m 先で青森県道 3 号「弘前岳鯵ケ沢線」が分岐していて、町役場に向かうには右折とのこと(2017 年時点。現在は役場の移転に伴い「鯵ヶ沢駅」に変更済み)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

何故か歩道の上に青看板のようなものがあり、「焼きイカ通り」「海の駅『わんど』」と記されています。これは青看板に擬態した非公式な看板のようですね。

2025年10月21日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (62) 「鰺ヶ沢町の鰺ケ沢駅」

西津軽郡鯵ケ沢町に入りました。対向車線の頭上に小さな看板が見えますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

反対側から見ると、やはり「深浦町」の看板でした。このマークは何を意味しているのだろう……と思ったのですが、あ、もしかして「フ」でしょうか。


なお不思議なことに「鯵ケ沢町」の看板は少し手前にありました。地図を見た限りでは「鯵ケ沢町」の看板が妥当な位置っぽくて、「深浦町」の看板はやや手前にあるように思えますが、何故ズレているのかは謎です。


ここは……どこでしょう(汗)。地理院地図には「牛島」とあり、住所は「鰺ヶ沢町大字うば袋町」と表示されます(大字姥袋町、字牛島?)。ところが Google マップには「大磯」と表示されていて……。

2025年10月20日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (61) 「江沢民」

国道 101 号で鰺ヶ沢方面に向かいます。右手の斜面には東屋が見えますが、Google Map によると「折曽おりそのイチョウ」というスポットがあるとのこと。ただ位置的にちょっとズレてるような気もするので、無関係かも……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

北海道が見えるか見えないか

50 m 先で「電気工事中」みたいです。警備員の方が赤い旗を上げて停止を促しています。

2025年10月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1297) 「知野美・ゼンボツナイ沢川・ポロナイ川(ホロナイ川)」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

知野美(ちのみ)

chi-nomi
我ら・祭る
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高郡新ひだか町の「オコツナイ川」と「アザミ川」の間の山の頂上付近に三等三角点「知野美」が存在します(標高 134.0 m)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には海岸部の地名として「チノミ」と描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) にも「アサミ」(=アザミ川)の南に「チノミ」と描かれていました。


『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

並て
     ヲタクヘウシ
     チノミ
川巾弐間斗、橋有て此処に昔夷家八軒有之候ひし由。今は一軒もなし。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.516 より引用)
「川巾弐間斗」とあるので、幅が 3~4 m ほどの川があったことになりますが、「ヲタクヘウシ」と「チノミ」のどちらが川の名前だったのかは断定できない……でしょうか。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chi nomi   チノミ   酹祭處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.251 より引用)
」は「ライ」と読み、意味は「酒を地に注いで神や死者を祭る」とのこと。chi-nomi は「我ら・祭る」で、「チノミシリ」と呼ばれた祭礼の場は道内各所に存在していました。

ということなので「チノミ」は川名では無いことが多いのですが、何事にも例外はあるので……。「チノミ」に「乳飲み子」の「乳呑」という字を当てるケースがありますが、「知野美」というのはオリジナリティがありますね。

ゼンボツナイ沢川

chep-ot-nay
魚・群在する・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)

2025年10月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1296) 「音江・ウシュッペ川・オコツナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

音江(おとえ)

o-tuy-us-i
河口・崩れる・いつもする・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町静内春立(かつて日高本線・春立駅のあったあたり)の北の山上に四等三角点「音江」が存在します(標高 187.9 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「音江」と描かれていました。これは当時「音江村」が存在したことを示しています(1871~1909)。同名の「音江」という地名が深川市に存在しますが(道央道に PA がある)、無関係の筈です。


『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

 おとえむら 音江村 <静内町>
日高地方中部,布辻川下流右岸。地名はアイヌ語のオトイウシ(そこが川口のきれる所の意)に由来する(静内町史)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.308 より引用)
あれ? と思って『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) を見てみたところ、確かに「ヲトエウシ」という川が描かれていました。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

O tui ushi   オ ト゚イ ウシ   川尻破裂スル處 音江村ノ原名ニシテ靜内郡ニ屬ス
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.269 より引用)
o-tuy-us-i で「河口・崩れる・いつもする・もの(川)」と見て良さそうな感じですね。深川の「音江」と本質的には同じ地名と言えそうです。

ウシュッペ川

ras-ne-pe??
割木・のような・もの
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)

2025年10月17日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1295) 「モブシ川・サルガナイ川・横山川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

モブシ川

mo-{pus-i}
小さな・{布辻川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町三石西端にしはたを流れる布辻ぶし川の東支流で、モブシ川自体の南支流として「ポンモブシ川」も存在します(川名は国土数値情報による)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モフシ」と描かれています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ポロモプシ」とあります。poro- は「大きな」を意味し mo- は「小さな」を意味するので「???」となりますが、隣の「ポンモプシ」との対比ということでしょう。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Mo pushi   モ プㇱ   小破川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.269 より引用)
今回の場合は「プシ川筋」(=布辻川筋)なので、mo-{pus-i} で「小さな・{布辻川}」となりそうです。「ポロモプシ」であれば poro-{mo-{pus-i}} で「大きな・{モブシ川}」だったことになりますね。

サルガナイ川

sar-ka-nay
葭原・のかみ・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年10月16日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (60) 「日本一の大イチョウ(日本一の大イチョウ)」

千畳敷海岸のすぐ先(東隣)にある「大戸瀬崎」を通過します。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

海岸段丘の上に灯台と展望台があり、国道からは階段が通じています。


「大戸瀬崎灯台」をトンネルでショートカットしていた五能線と再び合流です。

2025年10月15日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (59) 「最北端の千畳敷」

対向から「不老ふ死温泉」のマイクロバスがやってきました。ここから「不老ふ死温泉」までは 27 km ほどあるみたいですが、かなり手広く送迎を行っている……ということでしょうか。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりも標高 30~50 m ほどの海岸段丘が続いていて、段丘に向かう道路も存在します。パワー不足気味の車だと、ちょっとしんどそうな坂ですね。

力技……

JR 五能線・大戸瀬おおどせ駅の近くにやってきました。国道の左側に家屋が立ち並んでいて、右側は海岸段丘の崖……の筈ですが、国道は段丘を切り刻む形で右にカーブしています。
明らかに段丘を削ってスロープを設けた形ですが、なんというか……力技ですね。今は重機があるのでこれくらいは「なんてことない」のかもしれませんが……。

海の向こうに陸が見える!

どうやらこのスロープは JR 五能線をオーバークロスするためのものだったようです。正面に海が見えるオーシャンビューの道ですが……
この橋は大戸瀬集落を横切る形になっていました。良く道を通すスペースがあったな……と思ったのですが、もしかしたら立ち退いた家屋もあったのでしょうか。


海の向こうに陸地が見えます。松前か!と思ったのですが、津軽半島かもしれませんね(西端の小泊岬が見えているのかな、と)。

静けさや

駅名は「大戸瀬」ですがこのあたりの地名(大字)は「田野沢」のようです。「大戸瀬」は「千畳敷」の先にある岬の名前で、なぜか 2 km ほど離れた駅の名前に採用されて現在に至る……ということでしょうか。
隣に JR 五能線の線路が見えてきました。花壇も整備されていて美しい花を咲かせています。
五能線の線路の右側には岩崖があるのですが、これ、明らかにヒビが入ってますよね。岩に染み入る蝉の声……じゃなくて水分が凍結すると体積が膨張するのですが、それが原因で岩にヒビが入り、最終的には崩落に繋がる可能性があります。

千畳敷

「千畳敷」にやってきました。どことなく宗谷岬に似た雰囲気がありますが、右側に五能線の線路があるという点で明らかな違いがありますね。
五能線には、例の黄色い「◇□」の標識が。カーブの手前に立っているので、やはり「カーブ注意」なんでしょうか……?

「千畳敷」には駐車場のほかに食堂や旅館もあるとのこと。あとは神社とガソリンスタンドがあれば宗谷岬と勝負できるのですが……(勝負とは

見た目は新しくても

ただ「千畳敷」には JR 五能線の駅(千畳敷駅)があります(!)。
陸軍図にはそれらしい駅が描かれておらず、見た目も新しいので最近できたのかなーと思ったのですが、実は 1954(昭和 29)年に「千畳敷仮停留場」として設置されていて、2025 年で 71 歳だったようです。


割と新しく見えるのはスロープが新設されたからかもしれません。ホームは鉄骨ベースの無骨な構造ですが、1954(昭和 29)年に設置されたにしては近代的すぎるような気もします。おそらく木製かなにかの、もっとシンプルな構造のホームがあって、どこかのタイミングで作り直したのかな……と想像します。

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2025年10月14日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (58) 「黒いマグロの謎」

深浦町は風合瀬かそせにやってきました。毎度おなじみ「深浦マグロ」の看板ですが、レア物の「黒いマグロ」です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

それにしても、この「黒いマグロ」、色々と謎めいています。どうやらこの「深浦マグロ」の看板は 2014 年のストリートビューでは確認できないので、2014 年 5 月以降(2017 年 8 月以前)に設置されたものみたいです。

となると「赤いマグロ」はそれ以前から存在していて、増設する前にマグロの色を赤から黒に変えたのかと思ったのですが、ところが「赤いマグロ」も 2014 年以前のストリートビューでは確認できないのですね。

プロトタイプがあった?

ただ、ちょっと面白いこともわかりました。これは「赤いマグロと黒いマグロ」でも紹介した「横磯」の「赤いマグロ」ですが……


2014 年のストリートビューでは、その「プロトタイプ」とも言うべき看板が立っていました(少し位置が異なるのですが)。


もしかしたら……ですが、元々地名看板が立っていたところは「赤いマグロ」で、新たに増設したところは「黒いマグロ」とかなんでしょうか。整備の根拠となる予算の出どころが違うとか、限りなく内部的な「大人の事情」があったのだとしたら面白いかも……?

トイレの前の「深浦まぐろバーガー」

さて……風合瀬の「黒いマグロ」に戻りましょう。道路の右側には「深浦まぐろバーガー」の幟も立っていますが……

2025年10月13日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (2))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見てみることにしました。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

開拓使

イザベラは「地形的特徴」で自然地理的な内容を一通り記述した後、「開拓使」(原文では The Colonisation Department)という項以降で「蝦夷地の現状」を詳らかに記していました。

イザベラは、まず The Colonisation Department という名称について次のように記していました。

 蝦夷の公式名称は北海道で、さまざまな現実的もしくは想像上の事情により、植民省コロニゼーション・デイパートメントという政府の独立した省が管轄しているが、日本語でこの省は「開拓使カイタクシ」といい、「開拓省デイヴエロプメント・デイパートメント」と訳すべきである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
このあたりのネーミングセンスは日本らしいと言うべきか……。「開拓使」が英語では「植民省」だったというのも、改めて考えてみると意味深長に思えますね。まぁ実態は似たりよったりかもしれませんが。

この省は蝦夷の開拓に莫大な費用をかけてきており、成果のない高額な実験に消えてしまった資金もあれば、生産的な改良に実を結んでいるものもある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
これも昔からそうですよね。もっともわかり易い例が「稲作の試み」でしょうか。試行錯誤の結果、稲作の北限は遠別のあたりまで達したことになりますが、そこに辿り着くまでは無数の試行錯誤があった筈です。

イザベラによると「蝦夷は──日本の他の地方とは非常に異なっているので、通常の税金が免除され、産物特殊課税の対象となっており」とありますが、これは江戸時代からそうでしたよね(コメを産しないので「石高」は見做しだった筈)。

人口が少ないのに年間約七万二〇〇〇ポンドという高額の税収をもたらしている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
うーむ。明治政府(開拓使)は北海道に多額の投資を行った……と思っていたのですが、ちゃんと取るものは取っていたのですね……。

新しい中心地

「開拓使」に続いては「新しい中心地」という項で札幌の現状について述べていました。

 石狩川河畔にある都市札幌はこの省が建設した。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
「札幌」ですが、原文では Satsuporo となっていました。古い仮名遣いでは「さつほろ」となりそうですが、ちゃんと「ぽ」になっているのが目を引きます。

ここにおける主要かつ最有望な事業がマサチューセッツ農科大学をモデルにした農学校で、校長は日本人であるが、教授陣は優秀なアメリカ人教授を四名揃えている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
お、これは「札幌農学校」のことですよね。さすがイザベラ、お目が高い……。

本科は四年制で、生徒数は六〇名に限定されている。堅実な英語教育が行われ、通常の道路、鉄道、下水、灌漑の各工事に必要な測量と土木工学は特に重視されており、また蝦夷での農営に不可欠な農学と園芸学は徹底した教育が行われている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
北海道が農業において大きく成功したのは誰もが知るところですが、その可能性を最初に認識したのは誰だったのでしょう。石炭を代表とする「鉱業」を発展させるためには自給自足が必要だ(故に農業に注力する)というスタンスだったのかもしれませんが、気がつけば今や日本人の胃袋を満たす最重要産地です。

札幌と、函館に近い七重ななえの両方にモデル農場があり、また異国の樹木、野菜、花を育てる苗床がある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
札幌に農場があったのはまぁ当然として、七重にもあったんですか。ググると「七重官園」と出てきたのですが、時岡さんが Nanai を「七飯」ではなく「七」としたのはお見事ですね。

開拓使は羊と豚を導入しつつあり、純血種を輸入して馬と牛の品種改良に努めようとしている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20-21 より引用)
あー、言われてみればこれもその通りですね。道内でジンギスカンが味わえるのも開拓使のおかげ……。

札幌には大きな製材所、絹織物工場、皮なめし工場、醸造所があり、大型の製粉所が札幌と七重の両方にある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
農学校」がなぜ七重にも施設を有していたのか謎ですが、どうやら先ず「七重官園」を設置し、その後新都市「札幌」を建設した際に「札幌農学校」を開校した……ということみたいです。「札幌農学校」の開校は 1876(明治 9)年だそうですから、イザベラが蝦夷地を旅した僅か二年前だったことになります。

 開拓使が蝦夷を開発するために試みてきたことをひとつひとつ挙げてみてもおもしろくはなさそうである。その計画の多くは完全に水泡に帰してしまった。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
うーん、これはちょっと残念ですね。むしろ水泡に帰した計画のほうが面白いのに……(ぉぃ)。

計画の資金は、俸給を受け取り「不正所得」をせしめながら、たばこを喫んでおしゃべりをすることくらいしかしない無用の役人にまちがいなく消費されている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
あははは(笑)。さすがイザベラ姐さん、良くわかってらっしゃる(笑)。

イザベラはまた「道路が大いに必要である」と記しています(原文では Roads are much needed.)。

函館から札幌に至る広い道路は常々大金が投じられていながら、恒常的にお粗末な状態にあり、利用するのは主に荷馬の長い列で、深く交差したわだちは九月になっても残っていた。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
この「道路」は現在のどのルートを指しているのでしょうか。現在の国道 230 号に相当する「本願寺道路」が開通したのが 1871(明治 4)年で、現在の国道 36 号に相当すると考えられる「札幌本道」が開通したのが 1873(明治 6)年とのこと。

またこの幹線道路の二五マイル[約四〇キロ] 分に当たる渡船に用いられている蒸気船は、時速五マイルが限度で、言い得て妙な現地のことばを借りれば、ボイラーがつねに「具合が悪い」。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
どうやらこの「渡船」は「森蘭航路」のことみたいですね。となるとイザベラが惨状を記したのは「札幌本道」のことですね……。

 政府は蝦夷開発という観点で計画を二件立てているとされる。ひとつは人口過剰と考えられる地域から住民を入植させる土地を用意すること、もうひとつは蝦夷に人口を移すことにより、ロシアが抱いていると思われる侵略的な目論見に対して、いわば堡塁ほうるいを築くことである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
あー……。これ、全く同じロジックを後に現在の「中国東北部」で目にしたような気がします。

ロシアという大国は、イギリスにおいてと同じく、日本においてもあまり信用されていない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21-22 より引用)
あはははは(笑)。イギリスというか、西欧においては「ロシア」という大国は、我々が思っている以上に「目の上のたんこぶ」であり、トラウマの元だということをこの数年で再確認したところですね。Russophobia という単語が辞書に載っているくらいですし。

蝦夷地(北海道)への「入植」については、「きわめて多数の士族に土地が下付された」とし、次のように続けていました。

種子と果樹はとても安い価格で入植者に販売され、本州では見られない農耕上の便宜が数多く提供されている。とはいえ、そもそも入植を嫌う気風のせいか、あるいは生産物に課される税を怖れてか、依然として北海道は人気を集めてはおらず、六〇〇万人を養える地域にもかかわらず、おもに海岸沿いにたった一二万三〇〇〇人というまばらな住民しかいない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22 より引用)
「入植」は、有名な「晩成社」のように「北の大地に夢を描いて」というパターンもあったと思いますが、「戊辰戦争で没落したので」というパターンも少なくなかったように思われます。

要はある種のペナルティとして甘んじて受け入れていたということなので、イザベラが「北海道は人気を集めてはおらず」というのも当然の帰結だったとも言えそうですね。

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2025年10月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1294) 「シュンベツ川(布辻川支流)・ホロナイ沢川・トロンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シュンベツ川(布辻川支流)

sum-{pus-i}
西・{布辻川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かつて三石郡三石町と静内郡静内町の境界だったところを布辻ぶし川が流れていますが、その西支流です(静内川にも同名の支流があります)。「瞬別しゅんべつ橋」という橋もありますが、当て字のセンスが良いですね。

北海道実測切図』(1895 頃) には「シュムプシ」と描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シユンフシ」とあり、「ホロナイ」以下の東支流があるように描かれています。

『東蝦夷日誌』(1863-1867) には次のように記されていました。

小舟にて上る。(五六町)ヲトエウシ〔音江〕(三石人家)過てトイベツ〔遠別〕(左川)、二股ヘテウコヒ、是より東メナシベツ(小川)、またモフシ(此上ホンモフシ、其外小川多し、三石川へ道有)と云。西をシユンブシ(西方)と云。此處迄上る。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.180 より引用)
「シユンブシ(西方)」とありますが、永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Shum pushi   シュム プㇱ   西ノ破裂川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.269 より引用)
sum-{pus-i} で「西・{布辻川}」と見て良さそうですね。あるいは sum-un-{pus-i} で「西・にある・{布辻川}」だったかもしれません。

永田地名解や「東西蝦夷──」は「シユンフシ」(西布辻川)と「メナシフシ」(東布辻川)を記録していますが、『東蝦夷日誌』は何故か「メナシフシ」を「メナシベツ」としています。

布辻川流域では「メナシフシ」=「メナシベツ」と認識されていたので、同様に「シユンフシ」も「シユンベツ」と認識されていて、そこから現在の川名になったのかもしれません(単に転訛しただけという可能性もありそうですが……)。

ちょいと余談ですが、「シュンベツ」の西がシヅナイ(静内)アイヌの領分で、「メナシベツ」(=布辻川)の東がミツイシ(三石)アイヌの領分だったとのこと。「シュンベツ」と「メナシベツ」の間は双方が自らのテリトリーであると主張したため、両者の入会地になっていたそうです。この問題は 2006 年に静内町と三石町が合併したことで解決したと言えそうですね(違)。

ホロナイ沢川

poro-nay
大きな・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)

2025年10月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1293) 「姨布川・ニノコシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

姨布川(おばふ──)

ohak-nay?
浅い・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町三石港町(かつての三石町港町)で海に注ぐ川です。地理院地図には川として描かれていますが、川名の記載はありません。国土数値情報によると姨布川の支流に「ポンオバフ川」があるとのこと。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オマㇷ゚」という川が描かれていて、その上に「姨布」とあります。これは当時「姨布村」が存在していたことを表しますが、何故かアルファベットでも Obapu と描かれています。『北海道実測切図』におけるアルファベット表記は、大きな山や大きな川に対して行われるのが一般的なので、この Obapu 表記は異例です。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲハケ」と描かれています。

「ヲハフ」は「ミツイシ」

『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

並て
     ミツイシ
三ツ石の名は此会所前に三つの暗礁あるよりして起ると。本名はヲハフ(まま)と云よし。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.512 より引用)
どうやらミツイシ会所の所在地だったようで、「ヲハフ」=「ミツイシ」と認識されていたせいか、『初航蝦夷日誌』(1850) などでは「ヲハフ」の記載を見つけられません(見落としていたらすいません)。『東蝦夷日誌』(1863-1867) には「ヲバフ」と記されていました。

「かわいがる」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Omap   オマㇷ゚   愛敬 「オマプ」ハ愛スルノ意、又抃手禮ヲ爲スヲ云フ靜内ト三石ノ土人面會シ抃手禮ヲ爲シタル處ナリト云フ一説「オハプ」ニテ空處ノ義、國後騒擾ノ時此地ノ土人山中ニ逃匿シ一村居人ナキニ至ル故ニ名クト蝦夷紀行ニ東南山ノ間清水ノ流レヲ「オハクナイ」ト云フト之ニ據レバ「清淺ノ川」ノ義ナリ○姨布オバフ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.263 より引用)
なるほど……。「オマㇷ゚」を素直に解釈すると oma-p で「そこにある・もの」あたりになるので、oma の前にあった何かが消え失せたのかと思ったのですが、「オマㇷ゚」は永田方正が捻り出した解かもしれませんね。

永田地名解が饒舌になったときは、だいたい内容に自信がない時という認識なのですが(人のことは言えない)、田村すず子さんの辞書によると omap は子どもなどを「かわいがる」とのこと。

「空虚である」説

さすがに地名でこの解釈は無いよなーと思ったのですが、幸いなことに「一説」が二つも追記されていました。

一つは oha-p で「からである・もの(ところ)」という説で、國後騒擾、すなわち「クナシリ・メナシの戦い」の際にコタンが無人になったことに由来する……とか。

「浅い川」説

もう一つは aahak-nay で「浅い・川」ではないかとのこと。aahak という語はこれまであまり目にした記憶がないですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

aahak アあハㇰ【H 南】《完》《常》浅くアル(ナル)。(=hak ;対 ooho, oho, oo)。[たぶん ahak の強調形,ahak は ohak(→ ohax)の転訛で,oha(空でアル〔ニナル〕),ha(浅くアル〔ナル〕,〔腫れや潮などが〕引く)に関係があるだろう。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.3 より引用)
ほぼまるまる引用しちゃいましたが(すいません)、要は aahak も元を辿れば oha じゃないかとのこと。aahak あるいは ohak と「ヲバフ」というのは少し違いがあるように思われますが、ohak-nay で「浅い・川」と見ていいんじゃないかと思われます。

ニノコシ川

nino-uk-us-i?
ウニ・取る・いつもする・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)

2025年10月10日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1292) 「作拝山・ピラシュケ川・美河」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

作拝山(さくばいざん)

sakipe-o-i?
鱒・多くある・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
三石ダム」の 2 km ほど南に「作拝山」という名前の三等三角点が存在します(標高 604.8 m)。この「作拝山」ですが、三角点の 3 km ほど南をかつて「サㇰパイ」と呼ばれた川(現在の「咲梅川」)が流れていたことに由来すると思われます。

戊午日誌 (1859-1863) 「計理麻布誌」には次のように記されていました。

出立して山間まゝ上り行候や
     サクバイ
左りの方小川。其名義は此川鱒多きによつて号るとかや。当川すじ鱒の事をサクバイと云よし。魚類鱒・いとう・鯇、尤も雑喉多しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.501 より引用)
これは sak-ipe で「夏・魚」、すなわち sakipe で「マス」を意味したみたいです。ただ永田地名解 (1891) には異なる解が記されていました。

Sakpai   サㇰパイ   夏場所
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.268 より引用)
これは sak-paye-i で「夏・(山の方へ)行く・ところ」でしょうか。あるいは sakpa-i で「夏の間・ところ」かもしれません(いずれもえりも町の「咲梅川」の記事にて既述)。ただ今回の「サㇰパイ」は「鱒が多い」という記録もあるので、sakipe-o-i で「鱒・多くある・もの(川)」と見ていいのかなと思わせます。

ピラシュケ川

piraske?
広くなる
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年10月9日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (57) 「セパレートタイプの『ゆずり車線』」

国道 101 号「追良瀬バイパス」の「夕陽海岸大橋」を渡って海沿いに降りてきました。JR 五能線の「驫木とどろき駅」はここを左折とのことですが……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 101 号(大間越街道)は標高 50 m 超の段丘の上を通っていますが、五能線はそこまでの標高差をクリアできないので、段丘と海の間のギリギリの場所を通っていました。もっとも海沿いには何もないわけではなく漁港があるので、漁港の近くに駅を設ければリーズナブルだと思われるのですが、驫木駅は(広戸駅と同様に)集落から 1 km ほど離れた場所に設置されていました。


なお、広戸駅と驫木駅の間にある追良瀬駅は集落にほど近いリーズナブルな立地なので、広戸駅と驫木駅が集落から離れたところに設置された理由は良くわかりません……(そういや松神駅もそうでしたね)。

駐車場またはチェーン脱着場

海側には駐車場がありました。ここも「もしもしピット」の看板はありません。

2025年10月8日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (56) 「夕陽海岸大橋」

追良瀬おいらせ川河口部の海岸沿いを北東に向かいます。左に JR 五能線の線路が見えていますが、道床が流失したところに機関車が突っ込み運転士が亡くなる事故があったとのこと(1972(昭和 47)年)。事故の慰霊碑がとても小さくですが写っているかもしれません。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 101 号は右に大きくカーブして五能線沿いから離れます(現在は五能線沿いにバイパスを建設中の模様)。旧道を利用したと思しき駐車場が見えますが……

2025年10月7日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (55) 「突然の『岩手県交通』」

深浦駅前にやってきました。右側には何故か「岩手県交通」のバスが停まっていますが、貸切……でしょうか?
前方に見える壁が水色の建物は回転寿司屋さんだったようですが、閉業して久しかったようで、現在は解体済みです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

2017 年の時点では「ファミリーマート深浦駅前店」は未開業だったようで、ちょうど敷地では建物の解体作業が行われていました。

2025年10月6日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (54) 「赤いマグロと黒いマグロ」

深浦町横磯にやってきました。毎度おなじみ「深浦マグロ」がお出迎えです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

横磯には JR 五能線の「横磯駅」もあります。五能線には 43 の駅があるのですが、そのうち 18 駅が深浦町内に存在するとのこと。驚異の占有率 41 % ……!

2025年10月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1291) 「幌毛・シカルベ山・ウツマ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

幌毛(ほろげ)

poro-kenas
大きな・木原
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「シカルベ山」の北西、「三石川」と「ヌサウシ川」の間に「幌毛」四等三角点(標高 372.8 m)が存在します。『北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「幌毛」と描かれていて、これは当時「幌毛村」が存在していたことを示しています(『角川日本地名大辞典』(1987) によると 1868(明治初)年から 1906(明治 39)年まで)。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ホロケナシ」と描かれていました。また戊午日誌 (1859-1863) 「美登之誌」には次のように記されていました。

     ホロケナシ
左りの方大原、其上に樹木有る処也。大なる樹木原と云義なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.526 より引用)
「ホロケナシ」と「幌毛」の間のミッシングリングは、永田地名解 (1891) が埋めてくれそうです。

Poro kenashi   ポロ ケナシ   大林 幌毛村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.265 より引用)
poro-kenas で「大きな・木原」と見て良さそうですね。この「幌毛」という地名は(三石)富沢に改められてしまい失われた……と思っていたのですが、三角点の名前としてひっそりと生き延びていたようです。

シカルベ山

sikari-pe?
丸い・もの(山)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)