2026年3月31日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (32) 「国道は無いけど鉄道はある町」

深川 JCT からは、稚内に向かう最短ルートである「深川留萌自動車道」に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「深川留萌自動車道」は無料開放されているので、深川 JCT が有料区間との境界となります。そのため JCT ですが料金所が併設されています。

2026年3月30日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (31) 「赤いきつねと」

滝川 IC のすぐ手前(空知川)で滝川市に入りました。カントリーサインはグライダーが描かれていますが、確か市内に滑空場があるんですよね。
背景が曇り空ということもあり、いい感じにトーンカーブを弄るのも難しかったので、オブジェクトを選択してトーンカーブを弄るという「ウソくさい補正」の出番となりました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

深川留萌自動車道の起点となる「深川 JCT」まで、あと 12 km とのこと。ナンバリングが枝番ですが、道央道を建設した当時は計画に無かった……ということなんでしょうね。

2026年3月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1363) 「モソシベツ川・総主別川・宿主別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

モソシベツ川

mo-so-us-pet
小さな・滝・ついている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取ダムの手前(西側)で南から額平川に合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「モソウㇱュペ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モシヨシヘツ」と描かれていました。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Moso ush pe   モソ ウㇱュ ペ   ウジ多キ處 鹿死シテ蚋多シ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.236 より引用)
これは……。ちょっと俄には信じたくないような解ですね。『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると mosospe で「ウジ虫」を意味するようですが、永田方正はこれを moso に略してしまった、ということでしょうか。

一方、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

しばし過て
     モウシヨシベツ
右の方小川。高山より滝に成て落るが故に此名有と。モウとは小さし、シヨシとはシヤウウシの詰りにして、滝有る川と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.32 より引用)
こちらはめちゃくちゃ安心感のある解ですね。mo-so-us-pet で「小さな・滝・ついている・川」と見て良いかと思われます。

となると、永田方正は何を思って「ウジが湧いているところ」という解を記録したのかが気になってきます。インフォーマントにそう吹き込まれた、ということなのでしょうか……?

総主別川(そうしゅべつ──)

so-us-pet
滝・ついている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年3月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1362) 「トエナイ川・芽生・ペンケペッカンロ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

トエナイ川

tuye-nay?
切る・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アブシ川のすぐ東で額平川に合流する北支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) にも「トエナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トウナイ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     トウナエ
左りの方平山の間小沢。其名義川口に小沼有、よつて此名有るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.30 より引用)※ 原文ママ
to-nay で「沼・川」だよ、ということでしょうか。ただ 陸軍図を見た感じでは、沼らしきものは見当たらないようにも思えます。


さてどうしたものか……という話ですが、tuye-nay で「切る・川」と考えられそうな気がします。トエナイ川は東西に伸びる尾根を「切っている」ので、「切る川」と呼んだのではないかと……。

芽生(めむ)

mem
泉池
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年3月27日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1361) 「志文川・アブシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

志文川(しぶん──)

supun-us-nay
ウグイ・多くいる・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
額平川の北支流で、平取貫気別の北東、タシュナイ川の東を流れています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シュプンウㇱュナイ」という川が描かれているほか、川の西に「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」という山も描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

しばし上りて
     シユブン
左りの方小川。此川には桃花魚うぐい多きよりして号しものなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.30 より引用)
supun は「ウグイ」を意味します。岩見沢に同名の「志文」という地名があるほか、新日本海フェリーが発着する苫小牧東港の「周文埠頭」や大沼公園 IC の近くを流れる「宿野辺川」も supun 系の地名だったと記憶しています。

supun-us-nay であれば「ウグイ・多くいる・川」ということになりそうですが、ちょっと疑問なのが「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」という山名です。現在の「三角山」のことだと思われますが、「ウグイの円山」という山名はなんとも珍妙なものです。

アイヌ語の地名は「先ず川名ありき」で、山の名前はオマケ程度だ……と考えることもできるのですが、「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」についてもまさにそんな感じだったのかもしれませんね。

アブシ川

apa-us-i?
入口・ついている・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年3月26日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (30) 「ないものはない!」

砂川市に入りました。このカントリーサインはヨットのようですが……?
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砂川市に入ってからすぐのところに「赤いきつねと緑のたぬき」が並んでいる標識があります。何故たぬきが緑色なんでしょうね……(すっとぼけ)。

2026年3月25日水曜日

きょうの出来事(2026/3/25)

今日も引き続き太平洋の上からおはようございます。
朝の 8 時を少し過ぎたところですが、早くも伊良湖岬の灯台が見えてきました。

2026年3月24日火曜日

きょうの出来事(2026/3/24)

太平洋の上からおはようございます。
今回乗船した等級は、食事が 5 食(!)ついてくるので、朝食券を片手にレストランに向かいます。

2026年3月23日月曜日

きょうの出来事(2026/3/23)

洞爺湖を眺められる高台のホテルで朝食をいただきます。ホテルの従業員の人の出身地が多種多様に亘っていたのが印象的でした。
今日はフェリーに乗船するだけという超ゆるゆるなスケジュールなので、ホテルでかなり粘ってからの出発です。

2026年3月22日日曜日

きょうの出来事(2026/3/22)

まずは朗報から。浦河の「ウエリントンホテル」さんの朝食は 7:00~8:30 だったんですが、寝過ごすことなく無事にいただくことができました!
ちなみに 2F のレストランは「マンガ喫茶」のようになっていました。この手の構造は他のビジネスホテルでも見かけますが、本棚を見栄えの良い状態にキープするのが意外と難しそうな印象があります。ウエリントンホテルさんの本棚はまるで書店のようにきれいになっていて、これは大したものですね。

2026年3月21日土曜日

きょうの出来事(2026/3/21)

目を覚ますと、釧路の街が薄っすらと雪化粧していました。もう春の訪れが近いと思っていたのですが、北海道の冬はまだまだ終わらない!……ということなんでしょうか。
流石に 2 日連続で目が覚めたら朝食終了……というのはマズいので、今日はちゃんと起きて朝食会場に行ってきました。毎度おなじみ、17F(最上階)の「トップ・オブ・クシロ」です。

2026年3月20日金曜日

きょうの出来事(2026/3/20)

「紙の街」苫小牧からの出発です。駐車場の日陰部分には氷が張っていて「さすが……!」と思ったものの……

ヒャッホウ!

幸いなことにいい天気で路面もドライでした。これは「厚幌ダム」ですが……

2026年3月19日木曜日

きょうの出来事(2026/3/19)

日本海の上からおはようございます。
今日は新日本海フェリー「すずらん」で敦賀から苫小牧東港に移動中です。

2026年3月18日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (29) 「ナンパの聖地」

美唄市に入りました。江別以来、久しぶりのアイヌ語由来地名ですね。
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鉄道コンテナを輸送中のトラックが走っていました。JR 函館本線が並行する区間なので、ちょっと色々と考えてしまいますね(少なくとも旭川までは JR 貨物の列車がある筈なので、これは鉄道沿線から最終目的地に向かうコンテナなのかもしれませんが)。

2026年3月17日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (28) 「幻の『孫別 SA』」

岩見沢市に入りました。一日かけて函館から稚内に向かう *だけ* のトピックなんですが、この調子だとまだまだ連番が伸びそうですね……(汗)。
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クリーム色のバスに追い越されました。「北の星」と書いてあるので「宿泊施設の送迎バスか何かかな?」と思ったのですが、「株式会社ケーエス 北の星観光バス」という函館の会社とのこと。このバスは札幌ナンバーのようですが、千歳にも営業所があるようです。

2026年3月16日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (27) 「江別のランドマークと言えば」

江別市に入りました。時間は 13 時を 10 分ほど過ぎたところですが、この先想定される走行距離は 316 km ほどとのこと。
これは中々……微妙な線ですね。移動は 1 日あたり 400 km が大体の目安なので、残り 316 km というのは「げっ、まだそんなにあるのかよ」とも思ってしまうのですが、この日はそもそも 627 km ほど移動する予定を立てていたので、そろそろハーフウェイに差し掛かったことになります。ここまでのところはかなり順調と言えそうです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

野幌 PA の 3 km ほど手前にやってきました。地形図をよく見ないと気づかないのですが、大麻から野幌にかけては台地状の地形なんですね。江別西 IC は「台地の下」にあるので、道央道は掘割を若干の上り坂で駆け上がることになるようです。

2026年3月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1360) 「ウペレ沢川・タラック川・ヒカルノ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ウペレ沢川

suop-sar??
箱・やぶ
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町旭の「旭新栄橋」の近くで貫気別川に南西から合流する支流です。道道 71 号「平取静内線」は「シブサ橋」でこの川を渡っています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「シユㇷ゚ウト゚ル」という名前で川が描かれているように見えます。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい名前の川が見当たりません。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      シユブシヤ
 右のかた小川。本名はシユウフシヤと云よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.27 より引用)

行者にんにくを煮て食べた?

この文に続いて由来も記されていたのですが……

 昔し饑飢の時に土人共山に入、此処にて茖葱を取りて煮て喰、其にて生命を全ふせしよりして号たりとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.27 より引用)
頭註によると「茖葱」は「行者にんにく」とのこと。頭註でも指摘がありますが、午手控 (1858) には次のように記されていました。

シユブシヤ
 フクシヤを煮て喰しと云事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.444 より引用)
「フクシヤ」は pukusa 即ち「行者にんにく」のことです。実際にそういった故事があったのかもしれませんが、いかにも「創作説話」っぽい感じがプンプンしますよね。

「ウペレ」は「ウト゚ル」か

現在の川名「ウペレ沢川」は、「シブサ橋」や「シユㇷ゚ウト゚ル」、あるいは「シユブシヤ」と関連があるのでは……と考えてみました。具体的には「ウト゚ル」が誤読または転記ミスで「ウペレ」になったのでは……と。

「箱」だった?

松浦武四郎は「シユブシヤ」の本名が「シユウフシヤ」だと記していますが、この「シユブ」あるいは「シユウフ」は suop で「箱」だった可能性があるかと思います。いやまぁ辞書からそれらしい語を拾っただけなんですが、この川の流域は箱のような地形に見えるので……。

「シユブシヤ」の「シヤ」は sar でしょうか。位置的に「湿原」では無さそうですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) を良く見ると sar には「やぶ」や「しげみ」とも解釈できるとのこと。suop-sar で「箱・やぶ」だった可能性がありそうに思えてきました。

となると「実測切図」の「シユㇷ゚ウト゚ル」が謎めいてきます。素直に suop-utur で「箱・間」と見ても良いのですが、suop-sar の転記ミスだった可能性もありそうな気がするのですね。

ただ、この「箱」と呼べそうな盆地状の地形も川上側でいくつかに別れているようにも見えるので、「箱の間」と呼ばれた地形があった可能性もゼロでは無さそうにも思えます。現時点では「真相は謎」でしょうか。

タラック川

不明
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2026年3月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1359) 「ニタツナイ川・ニタンペツ川・須留久雲山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ニタツナイ川

nitat-nay?
やち・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町旭で貫気別川に合流する南支流です。陸軍図には「ニタツナイ」が地名として描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ニタツナイ」と描かれています。


面白いことに、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 また向岸に
      ニタツベツ
 右の方小川也。此沢樺木多く有るよりして号ると申也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.26 より引用)
『東西蝦夷山川地理取調図』では「ニタツナイ」でしたが、『北海道実測切図』(1895 頃) には何故か「ニタッナイ」と「ニタッペッ」がそれぞれ独立した川として描かれていました。


松浦武四郎が記録した地名解もやや謎で、「樺の木」は tat-ni と呼ぶのが一般的です。nitat であれば「湿地」あるいは「やち」なので、nitat-nay あるいは nitat-pet は「やち・川」と解釈すべきだと思われるのですが……。

ニタンペツ川(アイワ沢川)

nitat-pet?
やち・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年3月13日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1358) 「セタナイ川・土用井・モイワ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

セタナイ川

sep-tunnay??
広い・谷川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町貫気別の南東で貫気別川に南から合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケセタナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヒタナイ」という川が描かれていますが、これが現在の「セタナイ川」のことであるかどうかは不明です。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 また少し上り
      セタナイ
 右の方小川有、上は平山。本名セタヲワイナイのよし。昔し土人の犬此処に来り穴を掘、其処にて子を持ちしによつて号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.25-26 より引用)※ 原文ママ
「犬がここに穴を掘って子を産んだから」と言うのですが……。seta は確かに「犬」を意味する語なので、seta-nay であれば「犬・川」ということになりますね。「ヲワイ」については手元の辞書を少し調べてみましたが、良くわかりませんでした。『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると ay-ay で「人形」や「赤ちゃん」を意味する(幼児語?)とありましたが……。

さて、このまま seta-nay で「犬・川」と考えていいものか……という話です。このあたりの松浦武四郎の記録は、実に興味深いものが多いという印象があります。最近だと「アシバキ川」を「ここで聾者が死んだので」としていたのですが、率直に言って「それってどうなのよ」とツッコミを入れたくなるものです。

ということで「犬・川」についても疑いの目で見たくなるのですが、「セタナイ」が seta-nay では無いとすれば、どういった解が考えられるでしょうか。

少し考えてみたのですが、sep-tunnay で「広い・谷川」だった可能性は無いでしょうか。sep は「節婦」と同様に、入口が狭く奥が広い川ではないかと考えてみたいところですが、「セタナイ川」についても割とそれっぽいのではないかと……。

東隣には「ペンケセタナイ川」があり、このネーミングからは同様の特徴を有していたと見るべきでしょう。この川も「入口が狭く奥が(ちょっと)広い」川だと……言えなくは無いんじゃないかな、とも。

土用井(どよい)

toy-o-i
畑・ある・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年3月12日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (26) 「札幌・ミルウォーキー・マルセイユ」

札幌市に入りました。函館からおよそ 3 時間半ほどで札幌までやってきたことになりますが、流石は「高速自動車国道」ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

札幌南 IC まであと 2 km となりました。枝番なのは、元は苫小牧・千歳方面のみのハーフ IC だったからとのこと。

2026年3月11日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (25) 「財界さっぽろ」

北広島市に入りました。このカントリーサインは凄くわかりやすいですよね。ええ、アレです、アレ(どれ?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

走行車線が規制されていましたが、どうやら路肩の再舗装を行っていたようですね。道路脇には PA の案内が出ていますが、旭川方面と小樽方面の案内があるのは気が利いていますね。

2026年3月10日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (24) 「迫りくる北海道中央バス」

恵庭市に入りました。「千歳恵庭 JCT」で道東道が道央道に合流して、あとは札幌に向かうだけ……ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ほぼ日課のようになりつつありますが、秋の空がいい感じですよね……(語彙力)。

2026年3月9日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (23) 「魅惑の上下線分離区間」

函館を出発してから 3 時間と少しを経過したあたりで千歳市に入りました。あれ、実は意外と遠くなかったりする……?
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千歳 IC と千歳恵庭 JCT、そして札幌と帯広までの距離が示されています。比較的新しいタイプの看板ですが、何故か「道東道分岐」の番号が欠落しています。

2026年3月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1357) 「貫気別・タシュナイ川・イペペシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

貫気別(ぬきべつ)

nupki-pet
にごり水・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取荷負から額平川を遡ると、南から貫気別川が合流しています。平取町貫気別は貫気別川の合流点の北東に位置する集落です。同名の川が存在し、虻田留寿都村・虻田郡洞爺湖町・虻田郡豊浦町を流れています。

北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「貫氣別」と描かれています。これは当時「貫気別村」が存在したことを示しています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヌツキヘツ」と描かれています。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nupki pet   ヌプキペッ   濁川 貫氣村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.234 より引用)
地名アイヌ語小辞典』(1956) にも nupki は「にごり水」とあります。「貫気別」は nupki-pet で「にごり水・川」と見て良さそうですね。

タシュナイ川

tay-us-nay?
林・ついている・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年3月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1356) 「荷負・キタルシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

荷負(におい)

ni-o-i?
漂木・多くある・ところ
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号と道道 71 号「平取静内線」が分岐するあたりの地名です。ただ 『北海道実測切図』(1895 頃) では額平川を少し遡ったあたりに漢字で「荷負」と描かれています。これは当時「荷負村」が存在していたことを示すものです。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でも、現在「荷負」とされるあたりは「ヘテウコヒ」(=二股)と描かれていて、「ニヨイ」は現在の「荷負」と「貫気別」の間あたりに描かれていました。


陸軍図でも「ニオイ」は貫気別の近く、「荷負川」の河口付近に描かれています。


「荷負」こと「ニオイ」は、本来は「荷負川」あたりの地名で、一帯の村名に昇格した後に、西側のホビボエ(=ポピポイ)やペナコレ(=ペナコリ)あたりを指すようになってしまった……ということのように思われます。広義の「移転地名」とも言えそうですね。

彫刻する?

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ニヨイ
右の方相応の川也。ニヨイとは此辺の惣名にして村名に成居たり。則下のヘナコリ、シケレへと当所川の南北に有ども、惣名はニヨイ村と云也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.17 より引用)
「荷負」がこのあたり一帯を指す地名になったのは明治以降かと思ったのですが、これを見る限り、松浦武四郎が紀行した当時から一帯を指す地名だったようですね。

名義は、此上の山に何か雑木が多く有るが、遠目に見ては彫刻にてもなせし物の様に見ゆるが故に号しと。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.17 より引用)
ここまで見た限りでは、ni-o-i で「樹木・多くある・ところ」のように思えますが……

惣て夷人は*繍のみならず、*刻等の類ひ皆ヌヒと云、また文字等を書ことまでもヌヒと称する也。其れの如しと云より起りしと。今訛りてヌイをニヨイとと転じたる也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.17-18 より引用)
頭註によると「* 縫繍」は「裁縫・刺繍」とあり、「* 劂刻」は「けつこく・彫刻」とあります。どうやら松浦武四郎は「ニヨイ」を nuye(彫刻する;書く)の転訛と捉えたようですね。

漂木がある?

ただ永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nioi,=Ni-oーi, ニオイ   樹木多キ處 ○荷負村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.234 より引用)
この解に対して、山田秀三さんは『北海道の地名』(1994) にて次のように指摘していました。

永田地名解は「ニ・オ・イ。樹木多き処」と書いたが,知里博士は,立木の多いのはニ・ウㇱ(樹木・群生する)で,ニ・オは「地面から離れた木,木片がごちゃごちゃある」と解すべきだとされていた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.365 より引用)
個人的には「ぐう正論」と思わせる指摘です。松浦武四郎が「ニヨイ」を nuye と解したのは少々気になりますが、「ニヨイ」は ni-o-i で「漂木・多くある・ところ」と見ていいのではないでしょうか……?

キタルシナイ川

kuttar-us-nay?
イタドリ・多くある・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年3月6日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1355) 「パンケオタスイ川・アシバキ川・ウンチャシ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケオタスイ川

ota-suy?
砂・穴
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
額平川の南支流で、シラカベ川の東隣を流れています。パンケオタスイ川の東(川上側)には「ペンケウタスイ川」も流れていて、その間に「歌吹」という四等三角点(標高 168.8 m)もあるのですが……なんと「点の記」によると「うたふき」と読むとのこと。

「吹」は「吹田」や「吹奏楽」では「すい」と読むので、きっと元々は「うたすい」と読ませていたのだと思われますが……。

北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケオタシュー」と「ペンケオタシュー」という川が描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲタシユ」と「ヘンケヲタシユ」と描かれています。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ota shū   オタ シュー   土鍋 土鍋ヲ作リシ處ナリト云
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.233 より引用)
鍋料理の美味しい季節になって久しいですが(実は年中いつでも美味しい)、永田方正さんは「紫雲古津」も「鍋谷」とするなど、無類の鍋好きだった可能性が取り沙汰されています[誰によって?][要出典]

その証拠……というわけではありませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌​」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ハンケヲタシユイ
右の方小川也。此川鱒・鯇入るよし也。其名義は砂計有る川と云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.15 より引用)
「砂ばかりある川」とのことですが、確かに ota は「土」と言うよりは「砂」と解釈するほうが自然でしょうか。

日高山脈を越えた先にある新得町にも、ほぼ同名の「パンケオタソイ川」「ペンケオタソイ川」があり、山田秀三さんによると……

読みにくい地名なので日高の萱野茂氏に相談したら,オタスイなら沙流川筋の額平川にもある。ぼろぼろな砂岩にシュイ(スイ。穴)があってその名がついたと語られた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.320 より引用)
ota-suy で「砂・穴」だったのではとのこと。他ならぬ(二風谷の)萱野さんの解なので、現時点ではこの解が最有力候補と言ったところでしょうか。正直に言えば、ちょっと喉に小骨が引っかかったような感覚も無いわけでは無いのですが……。

なお、かつて樺太は敷香の郊外に「オタスの杜」と呼ばれる少数民族の居住区(穏当すぎる表現かも)が存在していて、そこは ota-sut で「砂浜・根もと」だった可能性があります。ota-sut という地名の具体的なイメージは持ち合わせていないのですが、ちょっと気にしておきたいところです。

アシバキ川

as-pake??
立っている・岬の突端の崖
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年3月5日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (22) 「秘境感ただよう」

苫小牧東 IC の近くまでやってきました。日高道と接続するジャンクション的な位置づけの IC ですが、日高道(無料)との境界として料金所が存置されたこともあるので、機能的には「インターチェンジ」そのものですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

昨日の記事でも触れましたが、「秋の雲」に覆われた「秋の空」が広がっています。

2026年3月4日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (21) 「ここでもう一句」

苫小牧市に入りました。初心者マークをつけた車にぶち抜かれているようにも見えますが、気にしてはいけません。
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昨日の記事で「575 がいい」と記したのですが、いきなり「誰うま」系で来ましたね。

2026年3月3日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (20) 「ここで一句」

白老郡白老町に入りました。虻田郡洞爺湖町以来、久しぶりの「町」です。
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札幌まで 110 km まで近づいてきました。あと 1 時間 20 分ほどで札幌に着く計算ですが、この時点で 11:52 だったので、……まぁそんなものですかね。

2026年3月2日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (19) 「登別・室蘭」

鷲別川を渡って登別市に入ります。……登別市に入った筈なんですが、そういやカントリーサインはどこに……?
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長さ 1,800 m の「鷲別トンネル」に入ります。

2026年3月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1354) 「ポピポイ・シラカベ川・ポンスケレベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポピポイ

hopi-puye??
捨て去る・あのこぶ山
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取荷負から道道 71 号「平取静内線」を東に入ったところに「ポピポイ入口」というバス停がありました。道南バスの Web サイトに「ポピポイ入口」というページがありますが、道南バスの貫気別線は 2022/3/31 で廃止され、現在は平取町がデマンドバスを運行中とのこと。残念なことにデマンドバスには「ポピポイ入口」というバス停の存在を確認できていません。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ホエポエ」と描かれていました。


陸軍図には「ホビボエ」という地名が描かれていました。現在の荷負の集落、あるいはその東の丘陵を指しているように見えます。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」にはそれらしい記述を見つけられませんでした。

さて、あとはこの地名をどう読み解くかですが、残念なことに類例を思い出せません。ただ「ペテウコピ」(pet-e-u-ko-hopi-i で「川・そこで・互い・に・捨て去る・所」、即ち「二股」)の近くにあるので、「ポピ」あるいは「ホエ」は hopi で「捨て去る」ではないかと考えたいところです。

となるとあとは「ポエ」あるいは「ポイ」をどう考えるかですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) に次のような項目がありました。

puy, -e ぷィ ①穴。=suy. ②【シャリ】頭;岬。③こぶ山。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.103 より引用)
……あ。puy は「穴」だと思っていたのですが、実は「こぶ山」と解する流儀もあったんですね。となると hopi-puye で「捨て去る・あのこぶ山」と考えられそうな気がしてきました。

「捨て去るこぶ山」とは何事……という話ですが、これは pet-e-u-ko-hopi-puye では長いのでザクッと省略された……と考えたいところです。平たく言えば「川がそこで互いを捨て去るところのこぶ山」だったのではないでしょうか。

なお、現在は「平取町荷負」ですが、この「荷負」は本来はもう少し東側の一帯の地名だったようです。本来の地名は「ポピポイ」に類したものだったのが、いつの間にか「荷負」に取って代わられたと見られます。

シラカベ川

suma-ka-pet?
岩・上・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)