2025年4月30日水曜日

非名阪をゆく (2) 「加太越え」

名阪国道・伊賀 IC 付近にあるクランク状の交叉点にやってきました。国道 25 号(いわゆる「非名阪」)はここを右折ですが……
かなりレトロなデザインの 105 系標識と、下には何故か傾いている「⇒国道25号」の補助標識?が。これは……わくわくドキドキですよね(何が)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

伊賀ドライブイン

レトロな感じのする国道 25 号ですが、今風の 118 号標識がこの道が「国道 25 号」であることを示しています。

2025年4月29日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (177) 黒石(黒石市) (1878/8/6(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第三十一信」(初版では「第三十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

旅先の珍しさ

第三十一信は次の文から始まっています。

 昨日はよい天気であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.325 より引用)
第三十信は冒頭に「黒石にて 八月五日」と明記されているのですが、第三十一信は「黒石にて」としか記されていません(原文では Kuroishi. のみ)。イザベラが隣家の覗きに興じていたを観察していた(その後、クリスチャン学生の訪問も受けている)のが 1878/8/5(月) だとすれば、第三十一信の言う「昨日」とは別の日だと考えたいところです。とりあえずイザベラの言う「昨日」を 1878/8/6(火) と想定しましたが、もしかしたら数日のブレがあるかもしれません。

伊藤がついて来るのを初めて断って、私は一人で人力車に乗り、たいそう楽しい遠出をして、山で行き止まりの道を進んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.325 より引用)
イザベラは通訳兼アシスタントの伊藤を伴って旅をしているのですが、自身はどの程度の日本語を操ることができたのでしょう。伊藤を伴わずに人力車に乗る……ということは、自力で車夫と交渉したのでは……と思わせますが、あるいは交渉までは伊藤も立ち会ったとかでしょうか……?

車夫は親切で楽しそうな良い人間で、外国人が一度も来たことのないような町へ、外国人のようなすばらしい見世物を乗せてゆく機会が得られたことをたいそう喜んでいる、と伊藤が言っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.325 より引用)
あ、軽く種明かしがありますね。やはり交渉には伊藤も同席したっぽい感じでしょうか。ただ「外国人のようなすばらしい見世物」という表現は、色々と良くないような……(言い回しはさておき、人種差別そのものとも言えるので)。

私は、日本の中を旅行するのは絶対に安全だということをだいぶ前からよく理解していたから、粕壁カスカベで私が危険を感じて恐ろしかったことも、今ではばからしく思われてくる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.325 より引用)
「絶対に安全」というのは思い切った表現ですが、原文を見てみると……

In the absolute security of Japanese travelling, which I have fully realised for a long time,
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
確かに the absolute security of Japanese travelling とありますね。そして粕壁(春日部)で何があったかと言うと……宿屋で「怖い思いをした」という話のようですね。夜中に大勢で拍子木を叩いて「火の用心!」と繰り返しながら練り歩くというのも、それを知らない人にとっては恐怖の対象となり得る……ということですね。

人力車の上からイザベラが眺めた景色は「素朴で家庭的な風景であり、まことに楽しい土地であった」とのこと。「美しい」や「みすぼらしい」という表現が出てこないあたり、イザベラの感性がワンランクアップしたような気もするような……そうでもないような……(どっちだ)。

粗末な住居

イザベラは「農民は実に原始的な住居に住んでいる」とも記していました。原文では very primitive habitations で、wretched(みすぼらしい)ではありません。イザベラが「原始的な住居」と記したのは……

壁土の家で、あたかも手で木の枠に泥をなすりつけた感じである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.325-326 より引用)
あー。でも竹の格子に土を塗り固めた壁って、昭和の頃でも普通に見かけたような気がします。これって「竹小舞土壁」と言うそうですね。

壁は少し内側に傾斜し、藁葺きも粗末で、軒は深く、いろんな材木でおおわれていた。煙の穴のある家もあったが、大部分は煉瓦窯のようにあたり一面に煙を出していた。窓はなく、壁と垂木は黒光りしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.326 より引用)
「壁は少し内側に傾斜し」というのは、確かにちょっと不安を覚えますね。「壁と垂木は黒光りしていた」ともありますが、これは煤によるものでしょうか。木材を燻煙させることで腐りにくくし、また防虫の効果もある……なんて説もありますが、当時はどこまで意図的に行われていたのでしょうか。いつの間にかそうするのが当たり前になってしまって、効能・効用が意識されなくなったというオチがあったりして……。

原始的な素朴さ

イザベラは、農家とそこでの人々の暮らしぶりを詳らかに記していました。

鶏や馬は家の内部の片側に住み、人は別の側に住んでいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.326 より引用)
ふむふむ。畜舎と家が一体化しているのですね。

家には着物をつけていない子どもたちが群がっていた。私が夕方にふたたび通ったときには、腰まで裸の男女が、家の外に腰を下ろしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.326 より引用)
あー……。これは明治政府にとっては隠しておきたかった話かも。それだけおおらかな時代だったと言えるのかもしれませんが、「近代的」な暮らしだったかと言われると、若干の疑問が出てきそうなエピソードです。

一方で、イザベラは「百姓たちは多くの良い馬をもち、その作物もすばらしかった」としていて、また「彼らがそれほど貧乏だとは思えない」とも記しています。彼らは「現在の生活に満足している」としつつ、次のように続けていました。

しかし彼らの家は今まで見たことがないほどひどいものであり、泥まみれになったエデンの園の素朴な生活といった感じで、毎週一回でも入浴しているだろうかと疑いたくなる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.326 より引用)
入浴については……まぁ、ごく一部の都市部を除けば必要最低限だったのだろうなぁ……と想像できます。家畜とともに暮らしていたということもあるので、臭気の面や衛生面では今とは比べ物にならないところが多々あったのでしょうね。

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2025年4月28日月曜日

非名阪をゆく (1) 「サンガリア帝国」

伊賀上野からは、国道 25 号で亀山方面に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「西大手」交叉点を右折して、国道 25 号(と国道 163 号の重複区間)を東に向かいます。

2025年4月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1232) 「歌露」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

歌露(うたろ)

o-nit-tarara-p??
河口・串・上に高く差し上げている・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町東洋の北西、西東洋覆道を抜けた先の地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「歌露」と描かれています。かつて「歌露村」が存在した……ということですね。陸軍図では海岸部の地名として「歌露」と描かれていました。

砂浜の道……?

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 歌露(うたろ)
 えりも町海岸漁村。オタ・ルで砂浜の道という意味。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.88 より引用)
また、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

歌露 うたろ
 東洋から少し北に行った処の海岸。オタ・オロ(ota-or 砂浜の・処) ぐらいから来た名であろうか。あるいはオタ・ル(砂浜の・道) か。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.338 より引用)
ところが、不思議なことに『北海道実測切図』や『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりません。しかも『初航蝦夷日誌』(1850) や戊午日誌「南岬志」にも見当たらない……ということで、環境に優しいコピペでお届けしますと……

初航蝦夷日誌戊午日誌「南岬志」東西蝦夷山川地理取調図 (1859)北海道実測切図
チヤラセナイホロチヤラセナイチヤラセナイチヤラセナイ
-ホンチヤカキシ-ホンサカキウシ
-ホロチヤカキシ-サカキウシ
---カムイオマナイ
ヲニタラヽフヲニタヽラフヲントタルオン子タタロプ
ヱンシヤニエイシユマエイシユマエエンシュマ
-ヒン子ワタラ--
-マチワタラ--
リフンヱントモリフンエントモ-エンルㇺ
ヲリマツフチカフノコエチカフノツ-
-ヤンケヘツヤンケフチヤンゲペツ

なんということでしょう~™。どうやら「歌露」は「ヲニタヽラフ」あるいは「オン子タタロプ」だったみたいなのですね。なお永田地名解 (1891) は「ポン チャラセ ナイ」の次が「エエン シュマ」なので、スルーされた可能性がありそうです。

薬草が多くある?

謎の「ヲニタヽラフ」ですが、戊午日誌「南岬志」には次のように記されていました。

またしばしにて
     ヲニタヽラフ
本名ヲンラフシナイと云し由也。土人等薬に用ゆる草が多く有りしによつて号しと云へり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.198 より引用)※ 原文ママ
頭注には次のようにありました。

歌 露
ontrep
反魂草
七ツ葉
神経痛等に
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.198 より引用)
「神経痛等に」というのが興味を惹きますね()。「反魂草」は知里さん風に書けば「ハンゴンソォ」ですが、『植物編』(1976) には「反魂草」を意味する語彙として、以下が列記されていました。
  • ionka-kuttar名寄近文
  • oro-mun(胆振・日高沙流郡)
  • oremu長万部
  • oroma-kuttar穂別
  • yuk-kuttar(穂別)(上川)
  • yuk-kutu様似
  • pekampe-kutu(美幌・屈斜路足寄
  • pekampe-kuttar(石狩)
  • urayni-kina(白浦)※ 樺太
  • urayne-kina(眞岡)※ 樺太

また、用法としては次のように記されていました。

  葉わ,それを燒いて,灰を濕疹にすりつけた(眞岡)。莖葉も黒燒にして犬の油で練り白癬に塗った。根わ,煎じて咽喉の痛みに含嗽した(白濱)。根わ,また,鍋の水が半分になるほど濃く煎じて,性病,子宮病,神經痛,關節炎等の患部を洗った(眞岡)。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.21 より引用)※ 原文ママ
なるほど、確かに「神経痛」とありますね。

「薬」か、それとも「保存食」か

ただよく見ると「反魂草」の上に ontrep とあります。これについても『植物編』に言及があり……

 莖葉を敷いてその上にオォウバユリの鱗莖の搗き粕を寢かせておく。この寢かせておいたものを「おント゚レㇷ゚」on-turep(風化した・ウバユリ)とゆう(名寄)。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.21 より引用)※ 原文ママ
turep は「ウバユリの根」で on は「発酵する」を意味します。鷹栖町(と旭川市)を流れる「ヨンカシュッペ川」という川があるのですが、これは「アレウバユリの根をいつも発酵させる川」だとされています。

福岡イト子さんの『アイヌ植物誌』(1995) には次のように記されていました。

 オサラッペ川の川上に向かって右側の支流に、イオンカウシベツ(それを・風にさらし・つけているところの・川)、つまり、「ウバユリの根を搗き砕いてでん粉をとり、その繊維を乾かし、かためた場所の川」がある。発酵し、少し乾燥したでん粉を円盤状に丸める。指で中央とその周りに穴をあけてひもでつるし、屋内て乾燥させ、保存食とする。
(福岡イト子『アイヌ植物誌』草風館 p.97 より引用)
この「イオンカウシベツ」が「ヨンカシュッペ川」のことです。固めて乾燥保存したウバユリの根の澱粉は、適宜マキリ(ナイフ)で切り出したものを水で戻して、穀物や豆類を混ぜてお粥にして食べるとのこと。どことなくブルーチーズあたりと共通するものがありそうな感じも……。

ただ、これ、ちょっと気になりませんか? 松浦武四郎は「土人等薬に用ゆる草が多く有りし」と記していて、また(ネタ元と思われる)『午手控』(1858) では「ヲンラフシとは薬草の名のよし」と記しています。turep(オオウバユリの根)は確かに薬としての用法もあったようですが、on-turep(発酵したオオウバユリの根)はどう見ても「保存食」としか思えないのですね。

ヤマシャクヤク?

なので、「ヲンラフシ」は horap-us-i で「ヤマシャクヤク・多くある・ところ」と見るべきでは無いでしょうか。「ヤマシャクヤク」については、『植物編』には以下のように記されていました。

(參考)風邪の際の熱さましに,或いわ腹痛に,この根を單獨で,或いわ蕗の葉・イブキボォフゥの根・クズの根などと混ぜて煎じて飮んだ(幌別)。腹痛にわまた生の根を噛んで水で飮んだ(B)。根を噛んで關節の痛みにつけた(B)。この根を乾しておき,それを粉末にして湯でこねて布に塗り,打身の患部に貼った(白浦)。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.150 より引用)※ 原文ママ
色んな用法があったようですが、実はまだまだ続きがありまして……。

種子を噛み碎いて布で漉し,その汁を目藥にした(B 鵡川)。耳痛にわ根を燒いて温い水氣のあるものを布に包んで濕布した(幌別)。或いわ種子を粉末にしたものを煙草にまぜてその煙を耳の穴に吹き込んだ(B 有珠)。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.150-151 より引用)※ 原文ママ
まぁ、実は「また,この根わ食用にもなった」とも記されていて、白浦では on-turep と全く同じ形で調理されていた……ともあります。ただ on-turep(-us-i) よりも horap(-us-i) のほうが「ヲンラフシ」に近いと思うんですよね。

「オン子タタロプ」は実在したか

そして……最後に重大な問題が残りました。地元で「ヲンラフシ」と呼ばれていたのは horap-us-i じゃないか……と想像ができたのですが、「歌露」の元になったと思われる「ン子タプ」の意味が良くわからないのですね(汗)。

普通に解釈すると「オン子」は onne で「年長である」という意味なので、あとは「タタロプ」が何を指すか……ということになります。ただ、この地名(川名)がこれまでどう記録されてきたかを改めて振り返ると……

初航蝦夷日誌 (1850)ヲニタラヽフ-
午手控 (1858)ヲニタヽラフ本名ヲンラフシナイ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヲントタル-
戊午日誌 (1859-1863)ヲニタヽラフ本名ヲンラフシナイ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲニタヽラフ本名ヲシラフシ
北海道実測切図 (1895 頃)オン子タタロプ-
陸軍図 (1925 頃)歌露-

面白いことに、『北海道実測切図』以外は「オン子」と明記した記録が見当たりません。また「オン子タタロプ」の周辺に「なんとかタタロプ」あるいは「タタロプ」という地名や川があるかと言うと、それも見当たらないのですね。

タタラフ? タララフ?

また、よく見ると『午手控』『戊午日誌』『東蝦夷日誌』が「──タヽラフ」なのに対し、『初航蝦夷日誌』だけは「──タラヽフ」と記録されています。

tatara ではなく tarara であれば、「──を高く持ち上げている」を意味します。また『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると nottarara という自動詞があり、これは not-tarara で「あご・を上に高く差し上げている」と分解できるとのこと。

前述の通り、「オン子タタロプ」が onne- だったかどうかは疑いを挟む余地があります。つまり、o-not-tarara-p で「河口・あご・を上に高く差し上げている・ところ」と解釈できる余地もあるのです。

「あご」ではなく「串」……?

ただ『初航蝦夷日誌』から『東蝦夷日誌』までの記録は、いずれも「ヲニタ──」です。となると o-nit-tarara-p で「河口・串・上に高く差し上げている・ところ」と考えられないでしょうか。

地名においては、imanit(魚焼串)という語が頻出します。大抵は巨大化した判官様(源義経)が魚を串焼きにした跡とされ、近くに osor-kot(尻の跡)と呼ばれる窪地が、なにかの拍子に(巨大化した)判官様が尻もちをついた跡として伝わっている……というのがお約束となっています。

また nit 単独では「三石」の語源とされる「蓬莱山」が有名で、まるで串のように細長く聳えた岩を指します。o-nit-tarara-p であれば、河口に串のような岩が高く聳えているところ……と解釈できるのですが、これまた都合の良いことに、陸軍図にそれらしき岩が描かれているようにも見えるんですよね。

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2025年4月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1231) 「エンドモ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エンドモ

entom?
突き出ている海岸の断崖
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町東洋の西に位置する海岸段丘のあたりの地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「エンルㇺ」と描かれています。段丘が「へ」の字状に海に張り出していて、ちょうど岬にあたるあたりの地名のようです。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヤンケフチ」(=焼別川)の隣に「チカフノツ」と描かれていて、更にその隣に「エイシユマ」とあります。これは「実測切図」の「エエンシュマ」のことだと思われるので、「実測切図」の「エンルㇺ」は「東西蝦夷──」では「チカフノツ」と描かれている、ということになるでしょうか……?(実はそうでも無さそうなのですが)

「エンルㇺ」≠「チカフノツ」?

このあたりの記録は資料によってブレが生じているので、表にまとめてみましょう。

初航蝦夷日誌戊午日誌「南岬志」東西蝦夷山川地理取調図 (1859)北海道実測切図
チヤラセナイホロチヤラセナイチヤラセナイチヤラセナイ
-ホンチヤカキシ-ホンサカキウシ
-ホロチヤカキシ-サカキウシ
---カムイオマナイ
ヲニタラヽフヲニタヽラフヲントタルオン子タタロプ
ヱンシヤニエイシユマエイシユマエエンシュマ
-ヒン子ワタラ--
-マチワタラ--
リフンヱントモリフンエントモ-エンルㇺ
ヲリマツフチカフノコエチカフノツ-
-ヤンケヘツヤンケフチヤンゲペツ
-ヲチヨロツケヲチヨロケオショロシケ
シヽヤモサキシヽヤモサキ--
-ホンヌルホンヌル-
アブラコマアブラコマシリホクシリポク

どうやら「エンルㇺ」と「チカフノツ」は別の地名で、「エンルㇺ」は「リフンエントモ」の短縮形のようにも見えますね。「エンルㇺ」は en-rum で「突き出ている・頭」(=岬)と考えて良さそうでしょうか。

「エントモ」→「エンルム」?

戊午日誌「南岬志」には次のように記されていました。

また少し行て
     リフンエントモ
一ツの岬也。此岬北のかたエントモカと対し其間一湾をなしたり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.199 より引用)
「北のかたエントモカ」が少々謎ですが、「東西蝦夷──」に「エンルンカ」とある岬(現在の「東歌別」あたり)のことでしょうか。ただ実際には間の「坂岸」にも岬状の地形があるので、何らかの認識違いがありそうにも思えます。

「エントモ」は「エンルム」だったのか

「エントモ」が「エンルム」に化けるメカニズムも謎ですが、同系の地名と考えられる室蘭の「絵鞆えとも」について、永田地名解 (1891) は次のように記していました。

Enrum etup   エンルㇺ エト゚プ   岬 即チ江鞆岬ナリ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.194 より引用)
この考え方は知里真志保山田秀三共著の『室蘭市のアイヌ語地名』(1960) にもほぼ同じ形で受け継がれ、山田秀三『北海道の地名』(1994) でも追認されています。ただ、これについては平山裕人さんが次のような疑問を呈しています。

 『永田』にエントモ~地名は 1 例もない。『山川』にもエトモが 1 例(室蘭市エトモ半島)、エントモエトコが道北にあるだけである。サハリンの大泊郡千歳村にはエントモヲロ(『樺』では「wen-tum-oro 悪い・の中の・所」と訳す)がある。南千島や東北地方には見えない。
(平山裕人『アイヌ語古語辞典』明石書店 p.210 より引用)
ちょっと遠回りになりますが、重要な指摘なので、順を追って引用します。まず「永田地名解 (1891) には『エントモ』地名が存在しない」という点ですが、なるほど今回も永田地名解には記録がありません。該当しそうなところを引用すると……

Een shuma   エエン シュマ   鏡石 「エエイシェマ」トモ云フ「エエン」ヲ「エエイ」ト云フ「ウエン」ヲ「ウエイ」ト云フニ同ジ
Chikap nok-o-i   チカㇷ゚ ノコイ   鳥卵アル處 鷲ノ卵アル處
Yange pet   ヤンゲ ペッ   アゲ川 諸物ヲ海ヨリ川ヘ運ビ陸揚スル處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.287 より引用)
「エエンシュマ」については記載があるものの、「エンドモ」の記載はありません。また『東西蝦夷山川地理取調図』に「リフンエントモ」に相当する地名が描かれていないのも、前記の表にある通りです。これは鋭い指摘ですね……!

『永田地名解』には、道内各所の地名を記録することでアイヌ語地名の権威となった永田方正が、自らの「知識」をベースに「校訂」を加えていたと思しき形跡があります。実際に、「永田地名解以前」と「以後」で地名の記録がガラっと変わった例を、これまでも何度も見てきました。中には永田地名解が斬新な解釈を持ちだしたものの、的外れだったのか、いつの間にか元に戻ってしまった例もありましたが……。

「エントモ」=「エンルム」説

平山さんは次のように続けていました。

 島根県鹿島町に恵曇(エトモ)という地名があるが、これをエトモイ(岬の湾)と解いたバチェラーに対し、金田一京助が『北奥地考』で徹底的に批判する。むしろ、エンルムで解釈すべきだし、それとても、これをアイヌ語地名と認めるためには、いくつもの手続きが必要だと言う。
(平山裕人『アイヌ語古語辞典』明石書店 p.210 より引用)
ふむふむ。確かに『北奥地名考』(1932) には次のように記されていました。

 出雲の語原はアイヌ語のエトモイ(etu-moi)で岬の湾の意味であると解かれ、此も多くの支持者を有して今日に至ってゐる。
金田一京助『北奥地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.246 より引用)
この考え方に対して、金田一京助は次のように批判しています。

アイヌのモイは静かなこと、また静かな所、即ち波が立たず舟を泊するによい陸地に囲まれた小さい入海のことであるが、宍道湖の様なものは、アイヌ語では寧ろ必ずトー(湖沼、潟)と呼ぶべきものであって、決してあれはモイではない。のみならず、エト・モイといふ結合は、アイヌ語としてどうも余り聞かない熟語である。我々にはどうも本当のアイヌ地名解としてピッタリ来ないのである。
(金田一京助『北奥地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.246 より引用)
そして「敢えて『出雲』をアイヌ語で解こうとしたならば」と前置きして、次のように続けています。

 併乍、強ひてアイヌ語でイヅモの語原を説かうとなれば、一語で岬を意味する古語にエンルム(enrum)がある。北海道には、日常に用ゐない語となってしまってゐるが、叙事詩の中には岬の意味にはっきり出て来て、古老はその意味を理解してゐる。
(金田一京助『北奥地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.246-247 より引用)
enrum が「岬」を意味する古語(!)であるとした上で、その「出自」について次のように続けていました。

さて此のエドモは、もとエンドモといひ、元禄郷帳などにもさう出てゐる所で、永田方正翁の北海道蝦夷地名解に、はっきりとこの語は「岬」の意味の enrum の訛りであることを論証し、幌泉の方は poro enrum「大岬」の意味であることを考定してゐる。
(金田一京助『北奥地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.246-247 より引用)
面白いのが、「元禄郷帳などにもそう出ている」とあるところで、金田一京助も古い記録では「エンドモ」であることを認めています。

尚、出雲の北部の突出地帯も恵曇エドモ郡と呼ばれるが、そこの何れの地点かのエンヅムから出た名ではないだらうかといふ想像も出て来る。丁度北海道のエンルムが、襟裳エルモ岬になったり、絵鞆エドモになったり、幌泉ホロイヅミイヅミになったりしたやうに、ルがドになり、エがイになったり、〔m〕がモになったりする転訛は、無理のない程度の変化であるといへよう。
(金田一京助『北奥地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.247 より引用)
うーむ……。確かにフランス語でも de ledu になったような気もしますし、rudu に転訛したとしても不思議では無い感じもしてきました。

「エントモ」と「エンルム」は違う?

ただ『アイヌ語古語辞典』(2013) の平山さんは、この論考に対して次のように記していました。

 『伊能』にはエントモヲロ(ホロイヅミ場所)、エントモコマナイ川(ハママシケ場所か)、エントモカ岬(ソウヤ場所)などが見える。エトモは『伊能』、18世紀の『拾』『志』、17世紀の『主』『津』に連綿と見える。
(平山裕人『アイヌ語古語辞典』明石書店 p.210 より引用)
文字数を削るためには仕方がなかったのだと思いますが、まるで暗号のようになってしまっていますね。『拾』は『蝦夷拾遺』(1786)、『志』は『蝦夷志』(1720)、『主』は『松前主水広時日記』(1692) で『津』は『津軽一統志』(1731) とのこと。『伊能』は『大日本沿海輿地図蝦夷地名表』(1821) だと考えられます。

 また、サハリンの地名として、『北』にエントモカオマップ、エントモイドが見える。『永田』には伝わらなかったが、古い時代には定の数のエントモ~地名があったと言えよう。
(平山裕人『アイヌ語古語辞典』明石書店 p.210 より引用)
『北』は『北海随筆』(1739) とのこと。引用順が前後しますが、これらのことから平山さんは「エンルㇺとは別な語としてエントモがあったらしいことは、今までの調査から推測できる」としています。

「エントモ」は「鼻」?

『永田地名解』に「エントモ」が見当たらないというのは、永田方正が自身の美意識?で「エントモ」→「エンルム」という(余計な?)「校訂」を行ったと考えれば、まぁ納得できなくもありません。ただ「東西蝦夷──」に見当たらないというのはかなり謎です。

少なくとも、松浦武四郎は「エントモ」という記録を抹殺しようとしていた形跡は無さそうに思えます。戊午日誌「南岬志」に「リフンエントモ」(「リフン」は rep-un- か?)と記されているのは前述の通りで、他にもこのような記述もありました。

また少し過
     エントモカ
一ツの岬也。此サキはホロイツミと対峙する也。エトモとは鼻の事にて、さし出たる処也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.197 より引用)
「エトモとは鼻の事」とあるのが興味深いですね。etu であれば確かに「鼻」ですし、あるいは etu-mo で「鼻・小さい」という(古い?)言い回しがあった……ということでしょうか?

「エントモカ」は「エンルムカ」(!)

『再航蝦夷日誌』(1850) には、樺太(サハリン)のクシユンコタン(久春古丹、後の大泊→コルサコフ)近郊の地名として次のように記されていました。

并て
     エントモカ
またエンルムカとも云り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 下巻』吉川弘文館 p.189 より引用)
ここには堂々と「エントモ・・カ」は「エンルム・・カ」だと記されています。またすぐ近くに「エンルモ・・カヲマナイホ」という川があったとも記しています。

「エントモカ」が「エンルムカ」だとするのは「エントモはエンルムとは別の語」とする主張に疑問を挟むものですが、一方で「エントモ・・カ」と「エンルモ・・カ──」という地名がすぐ近くに併存しているということは、両者が使い分けられていたと見ることもできます。

つまり、近くに「エンルム」を冠する地名が複数存在していたとして、片方だけ「エンドモ」に転訛したというのは不自然ではないか……ということです。ただ、わざわざこの例を以て論証するまでも無く、「襟裳岬」と「エンドモ」がそれほど離れていないところに存在しているという時点で、「あれれぇ~」と気づくべきでした。

「エントモ」は「鼻」では無い!?

そしてこんな記述もありました。

三、四丁行て
     フシコナイ
此処
     エントモイト
同じの崎こへて
     エントモカヲマナイ
ホロトマリ弐り。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 下巻』吉川弘文館 p.226 より引用)
これは同じく樺太(サハリン)のクシュンナイ(久春内、現在のイリンスコエ、またはイリンスキー)からヒロツ(広地ひろち、現在のプラウダ)の間の記録で、おそらく、かつての野田(野田寒、現在のチェーホフ)のあたりだと考えられます(駅の北西の山か?)。


問題は「エントモイト」で、「イト」は etu で「鼻」だと考えられるので、もし「エントモ」が etu-mo であれば etu-mo-etu で「山本山」のようになってしまいます。ということは「エントモ」は etu-mo 以外の何か……ということになりそうですね。

「エントㇺ」は「突き出ている海岸の断崖」?

改めて色々と調べ直してみたところ、佐々木弘太郎さんの遺稿『樺太アイヌ語地名小辞典』(1969) にこんな記述が見つかりました。

58チヌカレントム (千賀)北知床半島。官11。「チ・ヌカル・エントㇺ」ci-nukar(C. VI. 131)-entom 【われら・物見をする・つき出ている海岸の断崖】。
(佐々木弘太郎『樺太アイヌ語小辞典』みやま書房 p.96 より引用)
この「チヌカレントム」という地名は「北知床半島」(現在のテルペニエ半島)の中部、地峡部分の北西に位置していたと考えられます(西村いわおさんの「南樺太」によれば、かつての散江さんえ千賀ちが)。


ポイントは「エントㇺ」を entom で「つき出ている海岸の断崖」としているところです。「C. VI.」とあるのは『地名アイヌ語小辞典』(1956) のことですが、131 ページには tokomtok-se の項はあるものの、entom という謎の語について直接言及があるわけではありません。

ただ、ここまで見た感じでは、やはり「エンルㇺ」と「エントㇺ」という似て非なる語があり、両者が似た特徴を有するが故に「エンルㇺ」に一本化されてしまった……と考えるべきではないか、と思えてきます。

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2025年4月25日金曜日

夏の東北・北海道の旅 2017(プロローグ)「ある晴れた夏の日」

ある晴れた夏の日(毎度おなじみテンプレ書き出し)、国道 165 号を東に向かっていたのですが……
おやっ、前方から素敵なクラシック・ミニが。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

名張からは国道 368 号を北上します。これまた素敵な看板が……

2025年4月24日木曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(下船編)

徳島の市街地が見えてきました。「フェリーかつらぎ」はあと 25 分ほどで徳島港に入港です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

車輌甲板へ

到着に先立つこと十数分前に、車輌甲板が開放された旨のアナウンスがありました。下船に備えてささっと車輌甲板に向かいましょう。

2025年4月23日水曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(太陽光発電編)

「フェリーかつらぎ」は和歌山港を出港しました。和歌山マリーナシティの近くにある変電所の鉄塔が見えていますね。
やや右の方に三つの建造物が並んでいますが、あれは海南市青石鼻にある「和歌山石油精製貯油基地」でしょうか。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

太陽光発電パネル屋根

出港から 1 時間ほどが経過しました(早っ)。「フェリーかつらぎ」の船内はひと通り見て回ったつもりだったのですが、一つ見落としがありました。2 甲板の後方にある「喫煙場所」の上が「太陽光発電パネル屋根」になっているらしいのですね。

2025年4月22日火曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(グリーン席編)

3 甲板の右舷側を歩いていたのですが、前方に 2 甲板に下りる階段が見えてきました。3 甲板の前方は立入禁止のようなので、2 甲板に戻ることにしましょう。
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2 甲板に下りたところ……あれっ、こんなところに「徳島港下船口」が。

2025年4月21日月曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(展望デッキ編)

「フェリーかつらぎ」の出港まで、あと 12 分となりました。2 甲板後部のオープンエリアから航送車待機場を眺めてみたところ、……えっ、いつの間にこんなに車が……。
後ろに「和歌山港駅」の築堤も見えます。(現在の)和歌山港駅の開業は 1971(昭和 46)年で、踏切が無いことで知られる国鉄・湖西線の開通が 1974(昭和 49)年なので、既に踏切の新設が許容されない時代に建設された……ということになりそうですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「高野」と「阿波野」……!

以前にも記した通り、和歌山港で徒歩乗船する場合は、船尾部のオープンデッキから船に乗り込むことになります。船の中央部にある客室の入口では、南海フェリーの「公式キャラクター」である「高野たかのきらら」がお出迎えです。

2025年4月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1230) 「ピリカノカ襟裳岬・オショロスケ川・焼別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ピリカノカ襟裳岬(オンネエンルム)

onne-enrum
長大な・岬
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
北海道の脊梁山脈の最南端に位置する岬です。地理院地図で襟裳岬を見ると、岬の先に伸びる岩礁群のところに「∴ピリカノカ襟裳岬(オンネエンルム)」と描かれています。

襟裳岬がどのように呼ばれてきたか、手元の資料をまとめてみました。

東蝦夷地名考 (1808)ヱリモ崎古名ヱンルモイドと云
東行漫筆 (1809)エリモの崎鼠之事を云
大日本沿海輿地全図 (1821)ヱリモ岬-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ヱリモ鼠といふ事
初航蝦夷日誌 (1850)ヱリモ岬遠くより見る時は鼠の如し
竹四郎廻浦日記 (1856)エリモ岬-
辰手控 (1856)エリモはオン子エンルンと云処也
午手控 (1858)エリモむかし此処の岩皆鼠の如く見えし
東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
エリモサキ沖合に「ヲン子エンルン」の記載あり
戊午日誌 (1859-1863)エリモサキ鼠の形ち成る故
東蝦夷日誌 (1863-1867)エリモ岬遠くより眺む時、鼠の伏たる如き故
蝦夷地道名国名郡名之儀
申上候書付 (1869)
エリモ岬をヲンネエンルンと言て
改正北海道全図 (1887)襟裳岬-
アイヌ語地名の命名法 (1887)エリモザキ(岬)Enrum nottu「ネズミ岬」
永田地名解 (1891)オンネ エンルㇺ襟裳岬ノ元名
北海道実測切図 (1895 頃)襟裳岬-
アイヌ語地名単語集 (1954)エン「尖っている」、ルム「頭」
これが訛ってエドモともエリモともなる
地名アイヌ語小辞典 (1956)en-rum岬[つき出ている・頭]
北海道地名誌 (1975)襟裳岬「エンルㇺ」で岬の意
北海道の地名 (1994)襟裳岬enrum 岬

見落としもあると思いますが、大体こんな感じでしょうか。「襟裳えりも」は erum で「ネズミ」だとする解が長らく大勢を占めていましたが、「北海道駅名の起源 (1973) (昭和29年版)」の付録だった「アイヌ語地名単語集」(執筆:知里真志保)で en-rum で「尖った・頭」という解釈が出され、現在はこの解釈が一般的です。

また「ヲンエンルン」という記録もありますが、これは onne-enrum で「長大な・岬」と考えられます。「オン子エンルン」という呼び方は、えりも町の隣の様似町にも「エンルム岬」があり、この岬を pon-enrum(小さな・岬)と呼んだのに対比するものとされます。

そして問題の「ピリカノカ」が全く出てこないのですが、実は……「室蘭の観光情報サイト おっと!むろらん」にこんな風に記されていました。

北海道には、アイヌのユーカラに謡われた物語や伝承の舞台をはじめ、アイヌ語により命名された独特の地形から成る土地など、文化財として保護すべき名勝地が数多く存在します。これらの言語に彩られた、良好な自然の風致景観を持つ優秀な景勝地をアイヌ語で「美しい・形」を意味する「ピリカノカ」と総称し、国指定の名勝として保護されています。
は? なんと……そういうオチでしたか。pirka は「良い」とか「美しい」という意味で noka は「形」とか「像」とか「姿」を意味しますが、これらの語を組み合わせて「創出」された「概念」だったんですね(つまり地名ではない)。

確かに、改めて考えればアイヌ語の地名としては奇妙なものですが、アイヌ語の単語が組み合わされていると、昔からそう呼ばれていた……と勘違いする人が出てくるかもしれません(私のように)。気をつけたいものです(汗)。

オショロスケ川

esoro-us-ke??
それに沿って下る・いつもする・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年4月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1229) 「オクイマス・小越」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

オクイマス

okoyma-us-i?
小便する・いつもする・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町字えりも岬の北側の地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) では、四等三角点「海浜」(標高 15.5 m)の北に「オコイマウシ」という名前の川が描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲコエマウス」とあります。

『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

又弐丁半強ニ而
     ヲコヘマウシ
岩岬有。岡の方樹木多し。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.346 より引用)
「岩岬有」とあるのですが、「海浜」三角点のあたりにはそれらしい岬は見当たりません。となると『北海道実測切図』に記録された川の位置が間違っているのか……と思ったのですが、本文に添えられた「蝦夷地行程記」によると「ヲコヱマウス」から「シユマウス」までは「十二丁」、そして「シユマウス」から「トワンベツ」(苫別か)までは「六丁」とあります。18 町はざっくり 2 km 弱なので、「実測切図」の「オコイマウシ」の位置とは矛盾しない……と言えそうです。

戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

またしばし行、過て
     ヲコヱマウシ
本名はヲコヱウシの転じたるなり。其名義はヲコヱとは小便の事なるよし。此崖より小便の如流るヽによつて号しとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.205 より引用)
……。確かに辞書類を見ても okuyma あるいは okoyma で「小便する」とあります。okoyma-us-i で「小便する・いつもする・ところ」となりますね(汗)。

謎の「業平貝」

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Okoima ushi   オコイマ ウシ   噀沙蟲アル處 海中ニ蟲アリ沙ヲ噀ク溺ノ如シ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.288 より引用)
あー、なるほど。「噀」という字は「ソン」と読むのですが(JIS 第4水準)、意味は「水などを噴き出す」という意味だとのこと。「噀沙蟲」の正体は不明ですが、知里さんの『動物編』(1976) に次のような記述がありました。

§ 487.キ 772  なりひらがい,業平貝 コタンオコイマ,シュルクコル
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.234 より引用)
「キ 772」ですが、「出典の略称」によると「キ」は「金田一京助『和愛辞典』」とのこと。これによると「コタンオコイマ」は「業平貝」のように見られます。実は「業平貝」自体が正体不明なのですが、「ナリヒラシジミ」というマシジミの一種があるとのこと。

おそらく、勢いよく水を吐き出す貝を「小便する貝」と呼んだのでしょう。そういった貝が多く生息していたので okoyma-us-i なのだ……と解釈できそうです。

まぁ「いつも小便する川」、あるいは「小便のような川」というのも「珍名」と言えそうですが、「オコイマ」を「貝」とする記録が非常に乏しい(但し皆無では無い)のも事実です。

敢えて「小汚い名前」で呼んだ?

ここからは想像ですが、かつての「オコイマウシ」は百人浜から襟裳岬に向かう場合、「最後の川」と言えそうな位置にあります。小流であり、また貴重な真水を得られる川として大事にされたので、敢えて「小便川」と呼んだのではないかな……などと。

アイヌの流儀として、子供を病魔から遠ざけるために敢えて「汚い」名前で呼んで、成長した後に改めて本人に相応しい名前をつけるというやり方があったそうです。

「オコイマウシ」という川名も、元は「水の流れがちょろちょろしている」ということからの連想だったのかもしれませんが、貴重な川から他者を遠ざけるために敢えて「汚い」名前で呼んだんじゃないか……と想像してみました。

小越(おごし)

o-kus-i
そこ・通行する・ところ
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年4月18日金曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(客室編)

車輌甲板に車を置いて、真っ先にすべきことは「客室入口」を探すことですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

お、右舷側に階段が見えますね。

2025年4月17日木曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(車輌乗船編)

南海フェリー「フェリーかつらぎ」は 13 時過ぎに和歌山港に到着しました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

航送車待機場で乗船が始まるのを待っているのですが……あ。

2025年4月16日水曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(接岸編)

「フェリーかつらぎ」が桟橋の目の前で転回中です。このアングルでフェリーを眺められるのもなかなか貴重なのでは……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

上部デッキには接岸の様子を眺めるお客さんの姿も。

2025年4月15日火曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(入港編)

13:40 に和歌山港を出航する「フェリーかつらぎ」の到着をのんびりと車内で待っていたのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

12:50 頃に、早くも船が見えてきました!

2025年4月14日月曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(フェリーのりば編)

「フェリー前」交叉点を左折します。コンクリートプラントの壁には何故か「紀州産南高梅」「和歌山のお土産に是非、どうぞ」の文字が。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

乗船車以外進入禁止

ボーディングブリッジと「紀州産南高梅」の壁の間を海に向かって進みます。「フェリーのりば」はこの先を更に左折するようです。

2025年4月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1228) 「キスケ川・乙部橋・苫別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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キスケ川

kiske-p?
茅を背負う・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町・百人浜にいくつか存在する潟湖の一つに注ぐ川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「キシケ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) では「キシケプ」と描かれています。

『三航蝦夷日誌』(1850) には「キシケ」と記録されています。また戊午日誌「南岬志」にも次のように記されていました。

過て
     キシケ
砂浜なり。其名義不解也。此処にて浜形巳向(南々東)に成る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.206 より引用)
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kishikep   キシケㇷ゚   荷物ヲ負フ處 荷物ヲ馬背又ハ人肩ニ負フヲ「キシケ」ト云フ和俗此處ヲ百人濱ト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.289 より引用)
永田方正は「キシケ」を「荷物を背負う」という意味だとしましたが、『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) では kiskeki-sike だとし、「ヨシ/カヤを背負う」という意味だとしています。

「荷物を背負う川」というのは意味不明ですが、「茅を背負う川」であれば「時折茅原が水没する川」と考えられそうです。kiske-p で「茅を背負う・もの(川)」と考えて良いのではないでしょうか。

乙部橋(おとべ──)

o-to-un-pe?
河口・沼・そこに入る・もの
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年4月12日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1227) 「アアツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

アアツ川

apa-ot-i?
戸口・多くある・もの
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町千平の南西、百人浜北部の潟湖に注ぐ川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「アブツ」とあります。

北海道実測切図』(1895 頃) には「アプト」という川が描かれているのですが、現在の「アアツ川」に相当する位置には「オトペ」と描かれています。陸軍図では現在の位置に「アーツ川」と描かれています。現在の「アアツ川」と「在田川」が注ぐ潟湖の海への出口は北側にありますが、時代によっては出口が南側にあったのかもしれません。

本名アンツ……?

『三航蝦夷日誌』(1850) には「アチフ」あるいは「アフチ」と記されています(本文では「アチフ」で行程記では「アフチ」)。また『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

少し行
     ア ブ チ
此処より百人浜を眺望するによろし。昼休所一棟(十七坪半)。此辺水無が故に皆シトマベツより持運ぶ。地名アフツは本名アンツの訛言なるよし。古く此辺の山々ヲヒヤウ多くして皆アツシを織に皮を剥に来りし故号るとかや。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.485 より引用)
「地名アフツは本名アンツの訛言なるよし」とありますが、これは一体……?

アフチヘツ

戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ア フ チ
同じく砂に小石まざり。小川有。此川山道の昼休所アフチヘツより来る川也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.206 より引用)
「アフチヘツ」とあるので、「アフチ」単独では川を意味しないということが読み取れます(a-pet では無いということ)。

釣り針を作るところ?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Aptu   アㇷ゚ト゚   鉤ヲ作ル處 「アイヌ」云「アプト」ハ「アプタ」ト同意ナリト今暫ク之レニ從フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.289 より引用)
ふむふむ。ap-ta で「釣り針・作る」ではないか……という説ですね。この解は道南の「虻田」を始めとして、ちょくちょく見かける印象がありますが、個人的には疑問の残る解です(何故そこで釣り針を作る必要があるのか……という必然性が読み取れないので)。

「釣り針」じゃなく「戸口」?

ap 系の地名の多くは apa(戸口)だったのでは無いか……と疑っています。chise(家)における apa がどこを指していたのか、田村すず子さんの辞書から引用しようかとも思ったのですが、著作権的に少々びみょうな感じがしたので、めちゃくちゃシンプルに書き直してみました(真ん中にあるのは apeoy「囲炉裏」です)。
西側から東にあるチセを眺めた場合、こんな風に見えることになります。
ポイントは、apa が横を向いているので chise の中が外から丸見えにはならないというところです。道北の中川町に「安平志内川」という川がありますが……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
北から南に向かう際に、やや迂回して apa を通る必要があるように見えます。故に apa-us-nay で「戸口・ついている・川」ではないか……と考えています。

また、浦幌町の「厚内川」支流の「シイアップナイ川」も、河口部に……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
apa 状の地形がある、別の言い方をすれば下流(南東)側から上流(北西)側が直接「覗けない」地形になっています。

戸口が多くあるもの?

今回の「アアツ川」も似たような地形があるんじゃないか……と思ったのですが……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
この辺の地形が、いかにも apa っぽいような……?

松浦武四郎が記録した「アフチ」は apa-ot-i で「戸口・多くある・もの」と読めそうな気もします。あるいは apa-at で「戸口・多くある」と認識されていた可能性もある……かも。

同系の地名とは地形の類似性もあると思うのですが、唯一引っかかるのが『三航蝦夷日誌』の「地名アフツは本名アンツの訛言なるよし」です。無理やり解釈するなら at-tu で「もう一つの・尾根」とかでしょうか。

アアツ川の西に、地理院地図では「町有上歌別牧野」という場所があるのですが(牧場跡?)、ここから南西に伸びる尾根と南東(アアツ川沿い)に伸びる尾根が別れているようにも見えるので、そのことを指した……と考えられなくも無いのですが。

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2025年4月11日金曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(水軒編)

かつての「100 円橋」こと「紀ノ川河口大橋」を渡ってからは、県道 752 号「和歌山阪南線」の「紀の川大橋」で紀の川の南岸に戻って、そのまま県道 15 号「新和歌浦梅原線」(大浦街道)を南に向かったのですが、そろそろお腹が空いてきたので……
ちょいとすき家へ。

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新和歌浦線

その後は県道 151 号「新和歌浦線」をのんびりとドライブしました。ご覧の通りのかなりツイスティな道です。

2025年4月10日木曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(紀の川河口大橋編)

和歌山港フェリーターミナルの駐車場に戻ってきました。和歌山港駅の築堤・ホームとのツーショットです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 7 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駐車場の北端(ループ橋の南側)には「徳島港ゆき きっぷうりば」と書かれた小ぶりな看板がありました。

2025年4月9日水曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(和歌山港駅編)

和歌山港駅の自動改札の横には時刻表が掲げられていました。わざわざ「電車時刻表」と明記してあるのが良いですね(フェリーの時刻表やバスの時刻表もあるので)。
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本数は……びみょうなところですね。平日は「なんば」行の直通列車が 6 本設定されているのが目を引きますが、ほかは「和歌山市」までの区間列車ばかりです。

2025年4月8日火曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(駅前広場編)

恐ろしく緑豊かな「和歌山港駅」の話題を続けます。和歌山港駅は築堤の上にあるのですが、これは県道 16 号「和歌山港線」との立体交叉を考慮した構造なんでしょうか。
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ホームと線路は「3 階」に相当する位置にあり、改札口は「2 階」に相当する位置にあります。改札口とフェリーの桟橋の間はボーディングブリッジで直結されていて、階段の上り下りが最小限で済むようになっています。

2025年4月7日月曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(和歌山港フェリーターミナル編)

南海フェリーの「和歌山港フェリーターミナル」にやってきました。「南海四国ライン」というロゴが見えますが、これは和歌山港と徳島港を結ぶ航路の愛称で、かつて存在した「南海淡路ライン」(深日ふけ港と洲本港を結んでいた)と区別するためのネーミング……でしょうか。
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車検証を片手にターミナルに向かいます。「いらっしゃいませ ご利用ありがとうございます」の文字が嬉しいですね。

2025年4月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1226) 「シトマン川・ルーラン・千平」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シトマン川

si-utumam-pet?
主たる・抱き合う・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町庶野の南、庶野小学校の南を流れる川です。面白いことに「シトマン川」である部分はかなり短く、支流である「ガロウ川」や、「ガロウ川」の支流である「牧場の川」のほうがはるかに長くなっています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「シトマヘツ」と描かれていて、「ヘンケシトマヘツ」「ノシケシトマヘツ」「シノマンシトマヘツ」に枝分かれしていることになっています。「東西蝦夷──」には他に川名が未記入の支流も描かれていて、これらの川が現在どの川に当たるのかは判断が難しいところです。

北海道実測切図』(1895 頃) では「シトマウンペッ」と描かれていました。陸軍図では現在と同じ「シトマン川」で、支流の「ガロー川」と「牧場澤」も描かれています。

『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

是より岳の腹を南え廻、左りにエリモ崎等を望、行事少しにて
     ハンケシトマヘツ
     シトマヘツ
     ヘンケシトマヘツ
三ケ所共谷川。地名シトマヘツは雪風厳敷して歩行にくきこと云斗なき由。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.485 より引用)
これは豊似湖から歌別に抜けた際の記録と思われるので、素直に解釈すると以下のようになるでしょうか。
ハンケシトマヘツ牧場の川
シトマヘツガロウ川
ヘンケシトマヘツシトマン川
戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

並びて
     シトマヘツ
小川也。其処の浜小石也。名義は恐ろしきと云儀の由。惣て恐しきと云事をシトマレと云よりして名づけし哉。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.207 より引用)
あー。sitoma は「恐れる」という意味なので、sitoma-pet で「恐れる・川」ではないか……ということですね。

午手控 (1858) には、更に具体的に記されていました。

シトマヘツ 恐ろしき処計多きによって号。蝮蛇多きとも云也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.126 より引用)
なぜ「恐れる」のか、その理由として「マムシが多いからかも」としています。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Shitoma un pet   シトマ ウン ペッ   恐川 怖ルベキ物多シ故ニ名クト「アイヌ」云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.289 より引用)
概ねこれまでの解を踏襲していますが、-un が追加されているのが目新しいでしょうか。ただ sitoma は名詞ではなく他動詞なので、-un で受けるのは文法的におかしいような気も……。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 シトマン川 庶野市街で海に出る川でアイヌ語「シトマ・ウン・ペッ」で恐川としている解釈もあるが,由来について定かでない。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.584 より引用)
おやっ。ここまでほぼ「恐れる川」という解釈で統一されていたのに、この慎重さは意外な感じがしますね。

この川の流域にはかつて様似から広尾に抜ける道があったため、マムシがいる、あるいは吹雪が酷いから「恐れる川」という考え方も理解できなくはありませんが、個人的には少々納得が行かないので、別の可能性も考えたくなります。

「抱き合う」あるいは「交合する」を意味する utumam地名アイヌ語小辞典 (1956) では utumamu)という語があります。シトマン川は下流部でガロウ川と合流していて、ガロウ川自体も牧場の川と合流しています。様似の「鵜苫川」が utumam ではないかと思われるのですが、シトマン川も si-utumam-pet で「主たる・抱き合う・川」と考えられないでしょうか。

「交合する川」は o-u-kot-pe で「陰部・互いに・くっつける・もの」とするケースが一般的ですが、日高南部では何故か utumam が多いのかもしれない……とも考えてみました。

si-utumam-pet 説は永田方正がどこからか持ち出してきた -un の出所も説明できるのですが、それらしい伝承が皆無だという重大な欠点も残ります。ただ utumam はその意味を口にするのが少々憚られる一方で、たまたま川名に似た sitoma という語があったので、いつしか「公式見解」がすり替わってしまった……という可能性も考えたくなります。

ルーラン

ru-e-ran-so-ya
路・そこから・降りる・水中のかくれ岩・岸
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年4月5日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1225) 「トセップ・庶野」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

トセップ

tu-sep??
岬・広い
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 336 号「黄金道路」の南端に位置する「フンコツトンネル」から 0.6 km ほど南に進んだあたりの地名です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トセツフ」とあります。

北海道実測切図』(1895 頃) では「ト゚ーチェプ」と描かれているのですが、陸軍図では現在と同じく「トセップ」となっています。これは「東西蝦夷──」の「トセツフ」と近く、先祖返りしたような印象です。

戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

     ト セ フ
此岩浪打際に有。此神はエリモの神様と兄弟にして、至て恐しき神なるが故に此処え置といへり。トセフは広きと云儀也。また幅と云にも当る也。此処少し廻りて
     フヨカシユマ
大岩峨々と突出したり。其下に大なる穴有、此穴潜り行によろし。フヨとは穴の事、シユマとは大岩の事也。穴岩の儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.208 より引用)
ところが東蝦夷日誌 (1863-1867) では若干ニュアンスが違った形で記されていました。

小石濱(九丁五十間)、トウセツプ(大岩岬、穴有) 是にエリモ〔襟裳〕の兄弟の神在すよし言傳ふ。又イトセフは廣き幅と云義也。又此石をフヨシユマとも云り。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.249 より引用)
一方で、永田地名解 (1891) にはかなり異なる解が記されていました。

Tu chep   ト゚ー チェプ   二魚フタツウヲ 鱈、オヒヨウ魚ノ二魚ヲ漁スルニヨリ此名アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.289 より引用)
tu-chep で「ふたつ・魚」だと言うのですが……。

北海道地名誌』(1975) にも、また異なる解が記されていました。

(通称) トセップ 庶野北方小漁村。アイヌ語「トシセ・プ」(凸出しているもの) で大岩岬がある。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.586 より引用)
「トシセ」という語も謎ですが、tokse で「凸起している」という語があるので、tokse-p で「凸起している・もの」と考えたのでしょうか。ただ地名では tokse-i で「凸起している・もの」となるのが一般的で、tokse-p という形は記憶にありません。

『戊午日誌』では「トセフは広きと云儀也」とあり、これはこれで意味不明なのですが、東蝦夷日誌には「イトセフは廣き幅と云義也」とあります。「イトセフ」という記録は他に見当たらないので、誤記の可能性も十分に考えられるのですが、etu-sep で「岬・広い」と見ることができそうに思えます。また tu-sep でも「岬・広い」と見ることが可能です。

永田地名解の「ト゚ー チェプ」については、『北海道実測切図』に影響を与えたものの、陸軍図では「トセップ」に戻っているということもあり、コンセンサスを得られなかった可能性がありそうです(故に仮説としては棄却しても良いかと)。

『北海道地名誌』の「トシセ・プ」説は一考の余地はあるものの、tokse-p という形が一般的ではないという点が引っかかります。もっとも etu-sep という形も類例が無いという点では似たようなものですが、より実際の地形に即しているような気がするので……。

庶野(しょや)

so-ya
水中のかくれ岩・岸
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年4月4日金曜日

南海フェリー「フェリーかつらぎ」乗船記(プロローグ)

和歌山 IC にやってきました。2017 年のある夏の日の出来事です。
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和歌山 IC の料金所です。かなり多くの料金ブースがありますが、よく見ると右端の 4 レーンほどは完全なダミーですね……。

2025年4月3日木曜日

小笠原の旅 2024/春 (エピローグ) 「企画展ジャッカ・ドフニ」

竹芝駅前からタクシーで向かったのは……
日本橋の高島屋でした(何故)。

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店内に入り、4F(婦人服売り場)に向かいます(だから何故)。

2025年4月2日水曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(下船!編)

右舷側に勝どきの高層マンション群が見えてきました。
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手前の埠頭には東京海洋大学の演習船?も見えます。

2025年4月1日火曜日

小笠原海運「おがさわら丸」スイート乗船記(レインボーブリッジ編)

レインボーブリッジの手前に 2 隻の船が並んでいました。まるで「いすず ジェミニ」みたいですね(たとえが古い)。
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それにしても、見事なまでに横並びですよね。例の「ジェミニ」の CM は車体を連結して撮影したそうですが、この船も実は双胴船だったりして(それは無い)。