2025年4月6日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1226) 「シトマン川・ルーラン・千平」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シトマン川

si-utumam-pet?
主たる・抱き合う・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町庶野の南、庶野小学校の南を流れる川です。面白いことに「シトマン川」である部分はかなり短く、支流である「ガロウ川」や、「ガロウ川」の支流である「牧場の川」のほうがはるかに長くなっています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「シトマヘツ」と描かれていて、「ヘンケシトマヘツ」「ノシケシトマヘツ」「シノマンシトマヘツ」に枝分かれしていることになっています。「東西蝦夷──」には他に川名が未記入の支流も描かれていて、これらの川が現在どの川に当たるのかは判断が難しいところです。

北海道実測切図』(1895 頃) では「シトマウンペッ」と描かれていました。陸軍図では現在と同じ「シトマン川」で、支流の「ガロー川」と「牧場澤」も描かれています。

『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

是より岳の腹を南え廻、左りにエリモ崎等を望、行事少しにて
     ハンケシトマヘツ
     シトマヘツ
     ヘンケシトマヘツ
三ケ所共谷川。地名シトマヘツは雪風厳敷して歩行にくきこと云斗なき由。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.485 より引用)
これは豊似湖から歌別に抜けた際の記録と思われるので、素直に解釈すると以下のようになるでしょうか。
ハンケシトマヘツ牧場の川
シトマヘツガロウ川
ヘンケシトマヘツシトマン川
戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

並びて
     シトマヘツ
小川也。其処の浜小石也。名義は恐ろしきと云儀の由。惣て恐しきと云事をシトマレと云よりして名づけし哉。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.207 より引用)
あー。sitoma は「恐れる」という意味なので、sitoma-pet で「恐れる・川」ではないか……ということですね。

午手控 (1858) には、更に具体的に記されていました。

シトマヘツ 恐ろしき処計多きによって号。蝮蛇多きとも云也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.126 より引用)
なぜ「恐れる」のか、その理由として「マムシが多いからかも」としています。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Shitoma un pet   シトマ ウン ペッ   恐川 怖ルベキ物多シ故ニ名クト「アイヌ」云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.289 より引用)
概ねこれまでの解を踏襲していますが、-un が追加されているのが目新しいでしょうか。ただ sitoma は名詞ではなく他動詞なので、-un で受けるのは文法的におかしいような気も……。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 シトマン川 庶野市街で海に出る川でアイヌ語「シトマ・ウン・ペッ」で恐川としている解釈もあるが,由来について定かでない。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.584 より引用)
おやっ。ここまでほぼ「恐れる川」という解釈で統一されていたのに、この慎重さは意外な感じがしますね。

この川の流域にはかつて様似から広尾に抜ける道があったため、マムシがいる、あるいは吹雪が酷いから「恐れる川」という考え方も理解できなくはありませんが、個人的には少々納得が行かないので、別の可能性も考えたくなります。

「抱き合う」あるいは「交合する」を意味する utumam地名アイヌ語小辞典 (1956) では utumamu)という語があります。シトマン川は下流部でガロウ川と合流していて、ガロウ川自体も牧場の川と合流しています。様似の「鵜苫川」が utumam ではないかと思われるのですが、シトマン川も si-utumam-pet で「主たる・抱き合う・川」と考えられないでしょうか。

「交合する川」は o-u-kot-pe で「陰部・互いに・くっつける・もの」とするケースが一般的ですが、日高南部では何故か utumam が多いのかもしれない……とも考えてみました。

si-utumam-pet 説は永田方正がどこからか持ち出してきた -un の出所も説明できるのですが、それらしい伝承が皆無だという重大な欠点も残ります。ただ utumam はその意味を口にするのが少々憚られる一方で、たまたま川名に似た sitoma という語があったので、いつしか「公式見解」がすり替わってしまった……という可能性も考えたくなります。

ルーラン

ru-e-ran-so-ya
路・そこから・降りる・水中のかくれ岩・岸
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
広尾から襟裳岬に向かう場合は、シトマン川の南で国道 336 号を離れて道道 34 号「襟裳公園線」を南に向かうことになります。ルーランは道道 34 号沿いの、段丘の下に続く集落です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ルーランソウヤ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ルエランソヤ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

其上をこへて、其内
     ルイランソウヤ
少しの澗也。此名義は道より下る岩磯の有る処と云儀也。ルイとは山道、ランとは下る、ソウヤは前に云如し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.206-207 より引用)
ru-e-ran-so-ya で「路・そこから・降りる・水中のかくれ岩・岸」と見て良さそうですね。ru-e-ran-i も道内の各所で見かける地名です。

千平(ちぴら)

chip-ran-so-ya
舟・降りる・水中のかくれ岩・岸
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ルーランの南西にある集落で、海沿いの台地には同名の四等三角点(標高 8.8 m)もあります。ジェイ・アール北海道バス・日勝線のバス停もありますが、こちらは「千平」で「ちら」と読むとのこと。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「チビランケ」と描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) では「チピランソヤ」と描かれていて、また現在の「千平川」の位置に「チピラウシ」という川が描かれています。陸軍図ではカタカナで「チピラ」という地名が描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

少し行て
     チヒランケソウヤ
小川有。此処少しの岬に成る也。前に岩磯有。其名義は舟を下る岩磯なりと云よし也。チヒは舟の事也。ランケは下る、ソウヤは岩磯の事を云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.206 より引用)
どうやら chip-ranke-so-ya で「舟・下ろす・水中のかくれ岩・岸」と考えられそうですね。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chipiran soya   チピラン ソヤ   舟ヲ下ス岩㵎 「ソーヤ」ハ岩磯ノ義此處岩間ノ小灣二十以上アリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.289 より引用)
戊午日誌の解とほぼ同じですが、ranke ではなく ran となっています(地名では chip-ranke-us-i という形が一般的です)。ここまで見た限りでは「永田地名解がまたやりおったわ」状態ですが、『初航蝦夷日誌』(1850) にも「チヒランヤ」と記録されているので、ここでは chip-ranke ではなく chip-ran という表現が一般的で、松浦武四郎はあえて一般的な表記に「校正」を行ったという可能性もあるかもしれません。

chip-ranke は「舟・下ろす」ですが、chip-ran であれば「舟・降りる」となります。chip-ran-so-ya であれば「舟・降りる・水中のかくれ岩・岸」となりそうですね。一般的な形とは少々異なるのが気になるところですが、あるいは ru-e-ran-so-ya の影響を受けたのかも……?

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