2026年1月31日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1341) 「シラウ川・シリ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シラウ川

siri-aw
あの山・隣
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川の南支流で、平取町を流れる川では最南端に位置しているでしょうか。『北海道実測切図』(1895 頃) にも「シラウ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「シラウ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

扨東岸には槲柏原、岸は崖になり上は平地
     シラウ
右の方相応の川、清冷、鱒・鯇有。其名義虻多しと云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.650 より引用)
あぶ」を意味する siraw という語があるので、siraw だけであれば「虻」でしかありませんが、本来は後ろに -us あたりがついていて、それが省略されたとすれば納得できます。

永田地名解 (1891) には……あれ、見当たらないような。松浦武四郎が「相応の川」としている通り、この川はそれなりの規模のある支流なのですが、何故か永田地名解には載せられなかったみたいですね。

ただ、かつては沙流川の南の河岸段丘を siri(あの陸、あの山、あるいはあの崖)と呼んでいたと思しき節があるので、「シラウ」は siri-awsir-aw だった可能性が高くなったように思います。

あとは aw をどう解釈するかなのですが、pet-aw で「川・枝」すなわち「枝川」を意味するので、aw は「枝」と見るのが一般的でしょう。ただ『地名アイヌ語小辞典』(1956) には以下の四通りの解釈が記されていました。
 ① 木や鹿角の枝;川で言えば枝川
 ② 舌
 ③ 内
 ④ 隣

浦河の「ケバウ川」は kep-aw で、aw は「隣」じゃないか……と考えてみたのですが、「シラウ川」も河岸段丘の縁を流れているようにも見えます。「シラウ」は siri-aw(音韻変化で sir-aw)で「あの山・隣」だったのではないでしょうか。

シリ沢川

siri?
あの山
(? = 旧地図等に記載あり、既存説、類型未確認)

2026年1月30日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1340) 「紫雲古津」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

紫雲古津(しうんこつ)

siri-un-kot??
あの山(断崖)・そこにある・窪地
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町南西端で沙流川の北側、国道 237 号沿いの一帯の地名です。ところが 『北海道実測切図』(1895 頃) には何故か沙流川の南側に「紫雲古津」と描かれています。これは明治から大正にかけて「紫雲古津村」が存在したことを示すものですが、当時は川の南側(現在の平取町川向)を指す地名だったようです。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でも同様で、現在の平取町川向のあたりに「シユムンコツ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」にも次のように記されていました。

また川まゝ五六丁上るや、西岸雑木原・槲柏原也。川岸ピラに成りたり。右の方に
     シユラシユツ(シユムンコツ)
平の傍に小川有。是より上り上は平地にて白(茅)也。此処少し高きが故に水の患なし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.651 より引用)
やはり、少なくとも明治の初めまでは沙流川の南東側に「シユムンコツ」があり、明治から大正のどこかで沙流川の北西側に「紫雲古津村」が集団移転したっぽい感じですね。松浦武四郎は当時の「シユムンコツ」は「水の患なし」としていますが、これは河岸段丘の上にコタンを構えていたことによると見られます。

「シユムンコツ」こと「紫雲古津村」がいつ沙流川の北西側に移転したのかは定かではありませんが、『角川日本地名大辞典』(1987) によると、1885(明治 18)年からアイヌに対する農業授産事業が始まったとあるので、その前後で川向かいの高台に住んでいたアイヌも「職住近接」を目指して引っ越してきた可能性もありそうです。

西の地面? 油?

肝心の「シユムンコツ」の意味については、地元のアイヌにもわからないとしつつ、次のように記されていました。

シユンコツなれば西の地面と云儀にて、或土人の云には、むかし此川にて鱒が多く取れし時に、此処にて油を取りしによつて此名有とも云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.651 より引用)
「シユンコツなれば西の地面」とありますが、これは sum が「西」を意味することから導き出された解でしょうか。ただ kot は「窪地」を意味するので、厳密には「西の地面」とは言えないような気もします。

また「鱒が多く穫れた時に油を絞った」というのは、sum が「油」を意味することから導き出された解のようです。sum も様々な意味があり、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

sum, -i すㇺ ①西。(対→ menas)。②【H】油。=ke. ③【K】泡。=koy-sum. ④合成語の中では水の意をあらわすこともある。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.126 より引用)
名詞句としての解釈だけで複数存在するのに、更には動詞としても毛色の違う解釈ができるとのこと。

sum すㇺ 《完》① しおれる;なえる。② 【ナヨロ】溺死する。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.126 より引用)
故に「シュンベツ」という地名・川名はいつも解釈に苦しむのですが、今回の「シュムンコツ」も同様だ……ということになりますね。

鍋のある谷?

ところが、永田地名解 (1891) が例によって「違う、そうじゃない」と言って変化球を投げてきました。

Shū un kot   シュー ウン コッ   鍋谷 紫雲古津村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.228 より引用)
永田地名解は何故か地名の解釈に「鍋」を持ち込むことが好きだったようにも思えて仕方がないのですが、「紫雲古津」も「鍋のある谷」ではないかと考えたようです。

永田方正が画期的な新解釈を打ち出したものの、地元民から「そんなことはあらへんやろ~」と総スカンを喰らう……というのがお約束になりつつあるのですが、ところが『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) には次のように記されていました。

Nabesawa ナベサワ【名】[日本語][人名]鍋沢(沙流川下流の紫雲古津(しうんこつ)に多い姓。その地名が[su-un-kot 鍋・そこにある/あった・くぼみ]と解されてつけられた姓だと言われる。)
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.406 より引用)
なんと「鍋のある谷」説は地元民から絶大なる支持を受けていた……ということになりますね。

西の窪み?

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) では、松浦武四郎と永田方正の解釈を引用した上で、次のような試案が示されていました。

 あるいは部落の西側の沙流川の崖にあった窪地を shum-un-kot(西・の・窪)と呼んでいて,それがこの名の起こりだったのかもしれない。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.362 より引用)
現在の地形図を見ると、平取町立紫雲古津小学校の西に窪地があることがわかりますが、山田さんの文章を良く読むと「部落の西側の沙流川の崖」とあります。これは山田さんが本来の「シユムンコツ」が沙流川南東側の地名だったことを踏まえた上で解を捻り出していて、また、紫雲古津周辺の地形を考慮することは全く意味がないということを示唆しています。

山田さんの sum-un-kot で「西・の・窪地」という試案は無理のないものですが、一方で個人的にはやや違和感を覚えるものでした。「集落の西にある窪地」だから「西の窪地」を集落名にした……というのは循環参照気味にも思えるのですね。

あの断崖にある窪地?

これらの点を再認識した上で地形図を眺めてみると、平取町川向の河岸段丘のほぼ真ん中を「シリ沢川」という川が流れていることに気づきました。この「シリ沢川」は『東西蝦夷山川地理取調図』でも「シリ」と描かれていますが、sir は本来は陸地や大地、山などを意味する語で、川を意味する語ではありません。

この sirsum に負けず劣らず多くの解釈が成り立つ語で、『地名アイヌ語小辞典』には次のような解釈が列挙されていました。
 ① 地;大地;土地;所
 ② 山
 ③ 水際のけわしい山;きりぎし;断崖
 ④ 目に見えるかぎりの空間;あたりいちめん;そこらじゅう
 ⑤ 昼夜
 ⑥ 天候
 ⑦ 気温
 ⑧ なぎ

ただ、それぞれの用例を見てみると、本質的には同一の事柄を指している……と思わせるところもあります。「シリ沢川」の「シリ」は川や平地、葭原(sar)に対しては「山」ですし、また「水際の断崖」と捉えても差し支えないものです。

ここで(これまた例によって)大胆な仮説を唱えたくなるのですが、「シユムンコツ」は本来 siri-un-kot で「あの山(断崖)・そこにある・窪地」だったのではないでしょうか。

地形図を眺めてみると一目瞭然ですが、「シリ沢川」は川向の段丘において圧倒的な存在感があります。そのため「あの断崖にある窪地」と呼んだとしても不思議はない……と思えるのですが、いくつか問題点もあります。

まず siri-un-kot と「シュムンコッ」には無視できない違いがあるんじゃないか……と指摘されそうな気もしますが、これはまぁ……そういうこともあるかも知れないなぁ、などと……(弱気)。

また「左留日誌」には「シユムンコツ」から「五六丁を過ぎた」ところに「シリ」という小川が存在すると書かれているのですが、窪地そのものよりもやや離れた高台にコタンを構えて、地名だけ「シユムンコツ」のままだったと考えることも可能かもしれません。

更に悪あがきをすると、シリ沢川の南西に「シラウ川」がありますが、この「シラウ」も siri-un と関係あるかも……とか。「川岸の断崖」の南西端をどこに置くかという話にもなってきますが、シラウ川のあたりが「紫雲古津発祥の地」で、「シラウ」という川名と「シユムンコツ」という地名に分化した……という仮説を立てることも一応は可能なのかもしれません。

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2026年1月29日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (4) 「旧上磯 旧大野」

函館新道を大沼方面に向かって走行中です。前方に「藤城こ線橋」が見えてきましたが、これは函館本線の支線(通称「藤城線」)をオーバークロスするものです。
藤城線は駒ヶ岳の東をグルっと迂回する通称「砂原線」と同様に急勾配を回避するために建設された……と記憶していますが、この手の勾配緩和ルートの多く(砂原線を含む)が戦中に建設されたのに対し、藤城線が開通したのは 1966 年で、若干のタイムラグがあります。

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次は七飯藤城 IC です。「七飯」町の「藤城」地区にある IC なので「七飯藤城」ですが、アルファベット表記では Nanae-Fujishiro となっていて、事実上の分かち書きがなされています。

2026年1月28日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (3) 「高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路」

七飯町に入りました。「七飯」は「七重」と「飯田」の合成地名らしいですが、「七重」と同じ読みにしたこともあってか、それほど違和感のない地名です(まぁ「厚賀」もよくできていますが)。
ただ「飯」を「え」と読ませるのは比較的珍しいかも……?

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函館新道……今ググって知ったのですが、「はこだてしんどう」なんですね……は高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路、いわゆる「A'路線」ですが、これは「隠れ高速」と呼ばれることもあるように「限りなく高速道路に近い高規格道路」です。

2026年1月27日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (2) 「関東仕入」

「五稜郭駅前」交叉点を通過します。あまり駅前っぽくないなーと思ったりもしますが、コジマ×ビックカメラの向かい(左側)には立体駐車場があるので、そう言われてみれば駅前っぽいかも……。
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函館新道」と「函館江差自動車道」の函館 IC は 4 km 先とのこと。

2026年1月26日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (1) 「増車」

Day 3 は青森を出発して函館にゴールインという、過去に類を見ないレベルの短距離旅程でした。それを反省して……ということでは無いのですが、Day 4 は 600 km 近く移動することにしました。
一日の走行距離は 400 km 程度が一つの目安なのですが、今回はその 5 割増ということになります。ただ Yahoo! カーナビの予想では約 8 時間 28 分で到着できるのではとのこと。17 時半に到着できるのであれば全然問題ありませんよね。

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なお、現時点での推定走行可能距離は約 450 km とのこと。これから 600 km 走ることを考えると明らかに不足しています。早めに給油したほうが良さそうですね。

2026年1月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1339) 「美達坡・ビラウトリ川・阜威発普」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

美達坡(びたっぱ)

pitar-pa
小石川原・端
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高町富川の市街地の北、日高道・日高富川 IC の西に「美達坡」という名前の三等三角点が存在します(標高 66.4 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ピタラパ」と描かれているように見えます。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

     ヒタラバ
西岸平山の間の河也。其名義は末が野原と云義也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.642 より引用)
頭註には「pitar 小石河原の」「pa 頭」とありますが、その通りのような気がします。pitar-pa で「小石川原・端」と見ていいかと思われます。

富川の市街地の北西は台地が広がっていて、国道 235 号は台地に向かって駆け上がることになるのですが、「美達坡」三角点のあたりは台地の東端で岬のような地形です。

pa には「頭」や「崎」と言った意味もあるので、一瞬迷いそうになりますが、pitar(小石川原)を受けての pa なので、やはり「小石川原の先端」と理解すべきなのでしょうね。

既に失われた地名だと思っていたのですが、ここもひっそりと三角点の名前として生き延びていたようです。若干珍妙な読みになっちゃってるのは惜しいところですが……。

ビラウトリ川

pira-uturu-nay
崖・間・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年1月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1338) 「冨仁家・雨餘普」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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冨仁家(ふにか)

tunni-kar?
柏の木・切る
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年1月23日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1337) 「ハトナイ川・ラムシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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ハトナイ川

at-tunnay?
もう一つの・谷川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高町字広富の道道 80 号「平取門別線」に「鳩内橋」があり、この橋のすぐ南で「ハトナイ川」が日高門別川に合流しています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「アトナイ」と描かれていますが……


北海道実測切図』(1895 頃) では、現在と同名の「ハトナイ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「茂無辺都誌」には「余は上らざれども聞まゝを志るし置に」との注釈つきで(要は「聞き書き」だよ、ということです)次のように記されていました。

左りの方に
     アトナイ
相応の川也。其名義は天気つゞきの時にても、此沢目洪水跡の如く土柔にしてぬかると云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.626-627 より引用)
また『午手控』(1858) にもほぼ同じ内容が記されているのですが、微妙に相違があるので念のため引用しておきますと……

アトナイ
 天気のよろしき時も、此処水をながせし様成ゆるがしたる処と云よし
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.442 より引用)
「アト」あるいは「ハト」をどう解釈すれば「土がぬかるむ」のか良くわからないのですが、「海」を意味する atuy という語があるので、そこからの連想でしょうか。

あるいは、もしかしたら……ですが、「吐く」あるいは「嘔吐する」を意味する atu という語があるので、そこからの連想という可能性もあるかもしれません。吐瀉物というのは清冽ではあり得ないと思われるので、「常に泥まみれである」を吐瀉物と考えた……とかでしょうか。

ちょっと気になったのが『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) の次の記述ですが……

Hatonay ハトナイ【名】[hat-o-nay ブドウの実・たくさんある・沢][地名]
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.173 より引用)
確かに hat で「山ぶどうの果実」を意味するので、hat-o-nay は「山ぶどうの果実・多くある・沢」と解釈できるのですが……。

hat-o-nay については「有力な仮説のひとつ」だと思われるのですが、あるいは at-tunnay で「もう一つの・谷川」と考えられないでしょうか。atunnay から atuy(海)や atu(吐く)と言った解が類推されて、松浦武四郎が記録した珍妙な解に繋がったのでは……という想像です。

ラムシナイ川

rap-us-nay
羽・ついている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年1月22日木曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (9) 「函館と言えば」

新しい朝を迎えました。希望の朝です(いつの時代だ)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ホテルに宿泊する際は「朝食付き」のプランにすることが多いのですが、この日は何故か素泊まりのプランにしていました。今となっては明確な理由を思い出せないのですが、「そもそも設定が無かった」ような気も薄っすらと……。

2026年1月21日水曜日

Bojan のホテル探訪~「フォーポイントバイシェラトン函館」編(トレインビュー編)

部屋を予約した際のメールには「リミテッドビュー」との説明があったのですが、なるほど確かに部屋からの眺めは微妙……かもしれません。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ちなみにちょいと左には函館駅が丸見えで……。

2026年1月20日火曜日

Bojan のホテル探訪~「フォーポイントバイシェラトン函館」編(バス・トイレ編)

続いてバスとトイレを見ていきましょう。バスとトイレが一室に同居しているビジネスホテルならではのレイアウトですが、比較的ゆったりした感じですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

バスタブのサイズも十分大きなものです。昨今はバリアフリー対応のためか複雑な形状のバスタブが多いですが、このバスタブはかなりシンプルなデザインですね。

2026年1月19日月曜日

Bojan のホテル探訪~「フォーポイントバイシェラトン函館」編(お部屋編)

函館駅前にかつて存在した「フォーポイントバイシェラトン函館」にやってきました。
過去形である理由は前回の記事でも記した通り、かつての「ロワジールホテル函館」が 2017 年 4 月にマリオット傘下の「フォーポイントバイシェラトン」となったものの、2023 年 5 月末でフランチャイズ契約が終了し、現在は「プレミアホテル CABIN PRESIDENT 函館」として営業中とのこと。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

スタンダードルーム

チェックインを済ませて部屋に向かいます。この日の部屋は「スタンダードルーム(禁煙)ツインベッド2台(セパレート)」で、24 平米、下層階、リミテッドビューとのこと(汗)。写真を見る限り、どうやら 6 階だったようですね。

2026年1月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1336) 「手保舞・ルイカナイ川・セヌシベ橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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手保舞(てぼまい)

tepa-oma-i
ふんどし・そこにある・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
王幸納」三角点の南、庫富沢川の西に「手保舞」という名前の四等三角点が存在します(標高 216.5 m)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「テポマイ」という川が描かれていました(三角点よりも北東寄りですが)。


「東西蝦夷──」には描かれていない?ものの、何故か戊午日誌 (1859-1863) 「茂無辺都誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     テホマイ
同じく左りの方相応の川のよし也、其名義はモンヘツ土人チカフ(チカペラン)の祖曽父、酒に酔て此処を通る時、*鼻渾を落し置しによつて、此村の者等其を爰の名とせしとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.619 より引用)※ 原文ママ
「犢鼻渾」には頭註があり「とくびこん」「ふんどし」「レパ・テパ」とあります。どうやら「犢鼻」が正しい表記らしいのですが……。

まだ続きがありました。

本名はレハマイのよし。褌の夷言レバと云よし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.619-620 より引用)
「ふんどし」を意味する tepa という語がありますが、松浦武四郎はインフォーマントから「『テパ』は正確には『レパ』なんだ」と聞かされたようです。ただ手元の辞書類を見た限りでは repa で「ふんどし」を意味するという記述は無く、『アイヌ語方言辞典』(1964) でも全道的に tepa となっていました。

「ふんどし川」という川名は珍妙に感じられますが、深川に「デバウシナイ川」という類例があります。アイヌは川を擬人化していた……と言われることがありますが、知里さんの考えではそうではなく「川は生物そのものだった」とのこと(詳細は氏の『アイヌ語入門』(1956) を参照ください)。

「川は生物」なので、河口は o-(尻)と形容することが多いのですが、知里さんは o- を「陰部」と表現することもありました。つまり「ふんどし川」は「陰部」を隠す何かを形容すると考えられます。具体的には河口のすぐ手前で流れが二手に分かれていて、中洲のような場所があった……のではないでしょうか。

「テホマイ」は tepa-oma-i で「ふんどし・そこにある・もの(川)」だったのでは……と思われます。

ルイカナイ川

ruyka-nay
丸木橋・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年1月17日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1335) 「ピシナイ川・王幸納」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ピシナイ川

pesi-nay??
あの水際の崖・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

「モヘシユイ」と「モペㇱュナイ」

日高町庫富くらとみで日高門別川に注ぐ北支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) では「モペㇱュナイ」と描かれているように見えます。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モヘシユイ」と描かれていますが、何故かモンヘツ(=日高門別川)の南側に描かれています。どうも日高門別川筋の描かれ方には不正確な点が多そうな……?

「質問する川」説

戊午日誌 (1859-1863) 「茂無辺都誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     ヒシナイ
左りの方相応の川也。其名義昔し山の土人山より下り、浜の土人上り来りて、此処にて出合、互に山の事や浜の事を聞、其後大に喧嘩をなせしと云よりして号しと。ヒシは聞と云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.616 より引用)
「ヒシとは聞くと言う事」とありますが、さてそんな意味があったかな……と思って辞書を見てみると、普通に pisi は「たずねる、質問する」とありました(汗)。

「水穴のある小川」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Mo pe shui   モ ペ シュイ   水穴アル小澤?
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.237 より引用)
pe は「水」で suy は「穴」を意味するので、pesuy で「水穴」を意味します。mo-pesuy で「小さな・水穴」を意味することになるのですが……

「ヒシナイ」と「モヘシユイ」

ところが、ちょっと妙なことに気づいてしまいました。「東西蝦夷──」では「モヘシユイ」が日高門別川の側に描かれている……ということは前述の通りですが、戊午日誌「茂無辺都誌」を良く見てみると、p.616 に「ヒシナイ」と記された後の p.619 に「モヘシユイ」とあるのですね。

また少し上りて
     モヘシユイ
右の方小川也。其名義はトレフも干て仕舞頃まで此処は皆掘に来る故に、此処には其穴が多く有ると云義のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.619 より引用)
妙なことになってきたので、今更ですが表にまとめてみました。

東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ヘシナイモヘシユイ
戊午日誌 (1859-1863)ヒシナイモヘシユイ
北海道実測切図 (1895 頃)モペㇱュナイ山モンペッ
国土数値情報ピシナイ川-
地理院地図ピシナイ川-

どうやら「東西蝦夷──」に「ヘシナイ」と描かれている川?が「ヒシナイ」、あるいは「ヒシナイ」だった可能性がありそうです。

そうなると「ヒシナイ」と「モヘシユイ」は別物と考えるべきであり、『北海道実測切図』が現在の「ピシナイ川」の位置に「モペㇱュナイ」とプロットしたのが怪しく思えてきます。少なくとも「ピシナイ川」が「水穴のある小沢」と考えるのは無理がありそうですね。

浜のほう? あの小石?

となると松浦武四郎の記録を前提に考えるしかありません。まぁ「裸になる川」があるなら「言い争いをする川」があっても不思議ではないのですが、どちらも「言葉遊び」(ダジャレ?)の可能性を考えておきたいところです。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には、pesuy と似た語として pisoy という語の項目があります。「魚なら腹部の線」とあり、「対→aka」とあるのですが、aka は「尾根」や「崖」「岬」などを意味するとのこと。

また「地形では磯辺」とあり、これは pis-o-i で「浜・にある・ところ」と考えられるのではないかとのこと。pis(浜)は kim(山)の対義語で、kim(山)は nupuri(山)と異なり「概念としての山」を意味するので、pis も「海岸」ではなく「海のほう」を意味する……と見るべきでしょう。

ところが「ピシナイ川」はどう見ても「海のほう」にあるとは考え難い立地です。「小石」の所属形が piti らしいので、理屈の上では「あの小石の川」であれば piti-nay となっても不思議はないのですが、単なる小石ではない「あの小石」とは何なのか、という謎が残ります。

あの水際の崖?

となると……思いっきり消去法ですが、「水際の崖」を意味する pes という語があるので、pes-nay で「水際の崖・川」あたりでしょうか。所属系は pesi らしいので、pesi-nay で「あの水際の崖・川」だった可能性もあるかもしれません。

地形図を見る限り、そこまで厳しい崖が続く川にも見えませんが、地形図を見ると「庫富簡易郵便局」の北にごく小さな崖らしき地形が描かれています。このことを指したネーミングだったんでしょうか……?

類型がありそうな感じもしますが、ちょっと思い出せないので一旦は「類型未確認」としておきます。

王幸納(おさつない)

o-sat-nay
河口・乾いている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年1月16日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1334) 「イクナイ川・倆達内・志美台橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

イクナイ川

yuk-chise???
鹿・家
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高町字幾千世を流れる日高門別川の南支流、幾千世左二号川の支流です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には面白いことに「幾千世」の原型と思われる「ユクチセ」の文字が無く、代わりに「ユクヲロ」と描かれています。


北海道実測切図』(1895 頃) には「ユクチセ」が複数描かれているように見えます。これはちょうど図幅の切れ目に位置していたことに依るものですが、南側の「ユクチセ」が現在の「イクナイ川」に相当する位置に描かれているようにも見えます。


南側の「ユク」の文字を「ユク」と誤読して「ユクナイ」という川名が創出され、その後「ユク」が「イク」に転訛して「イクナイ」に化けた……という可能性を考えたいところです。

「幾千世」は yuk-chise で「鹿・家」だとされます。「ユクチセ」が転訛と誤謬を重ねて「イクナイ」に化けてしまった……のかもしれません。

倆達内(にたつない)

nitat-nay?
湿地・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年1月15日木曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (8) 「淀みに浮かぶうたかたは」

青函フェリーの函館ターミナルで北海道に上陸しました。前方に「青函フェリー」の文字が見えていますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

よく見ると「待合室」の文字が。函館ターミナルも青森ターミナルと同様に、ターミナルの建物は船から少し(150 m ほど?)離れたところに立地しています。徒歩での乗船の場合、雨が降ったときは傘が必要になるかもしれません。

2026年1月14日水曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(下船編)

15:11 になりました。これから函館港の防波堤の中に突入するのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

なんと、早くも車輌甲板が開放されたとのこと。4 分遅れで航行中と思っていたのですが、改めて案内を見てみると「15:18 着予定」とのこと。なお所定の到着時刻は「15:25」なんですが(画面右下に出ていますね)、7 分早着?の筈なのに「定刻通り」とあります(!)。

2026年1月13日火曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(バルクキャリア編)

15:03 になりました。青函フェリー 7 便は 15:25 着予定のところを約 5 分遅れで航行中なので、到着まであと 25 分ほどかかる筈ですが、近くを航行する船の数がめちゃくちゃ増えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右舷側に貨物船が見えてきました。

2026年1月12日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (6))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

「毛むくじゃらのアイヌ」

「蝦夷に関するノート」ですが、続いては「毛むくじゃらのアイヌ」と題された内容です。原文が気になるところですが、THE "HAIRY AINOS." とのこと。

イザベラはアイヌのことを「旅行者であるわたしの主な関心の対象」として、次のように紹介していました。

蝦夷の、いや、ことによると日本全土の先住民であるアイヌは温和な未開人で、漁や狩りをして海辺または内陸に住み、日本を征服した人々にとってはアメリカ人にとってのレッド・インディアン、マレー人にとってのジャクン族、シンハラ族にとってのヴェッダ族に当たる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25-26 より引用)
イザベラはアイヌについて「ことによると日本全土の先住民である」可能性を仄めかしていますが、原文では not improbably となっていました。これは二重否定ということでしょうか。

「日本を征服した人々」というのも妙な表現ですが、原文では their Japanese subjugators となっていました。要は「和人」のことですね。

イザベラは次のような文章を続けていました。

実のところ、アイヌは彼らの征服者からこういった従属民族のどれよりもよい待遇を受けていると言い添えておかなければならない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.26 より引用)
これには「え……」と思わず絶句してしまいますね。この点はイザベラの目が節穴だった……と見るべきかもしれませんが、あるいは(イザベラが列挙した)他国の被征服者は更に非人間的な扱いを受けていた……と言うことかもしれません。21 世紀の現在においては適切とは言えない文章のように思われます。

イザベラは Sir Harry Parkes の依頼により Mr. Yasuda Sadanori, First Secretary of the Kaitakushi Department からの情報提供を受けたとして、次のように記していました。

この Mr. Yasuda Sadanori を時岡敬子さんは「安田定則」としていますが、確かに Wikipedia の「安田定則」の記事を見る限り、間違いなさそうな感じですね。

 「一八七三年に行われた大まかな一斉調査によると、アイヌの人口は
   男性…………六一一八人
   女性…………六一六三人
    計……一万二二八一人
 となっている。
  この年以降個別人口調査はなにも行われていないが、アイヌの数は減少しつつあると考えられている」
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.26 より引用)
現在のアイヌの人口はソースによりばらつきが見られますが、北海道アイヌ協会の「アイヌの生活実態」によると「北海道に住むアイヌ民族の人数は 66 の市町村に 16,786 人」とあり、これらの情報がいずれも正確なものであるとすればアイヌの人口は「現状維持」と言ったところでしょうか。

また、1878 年当時のアイヌに対する政策としては次のように記しています。

 「税に関しては、金納と物納が混在」
 「文部省の教育法は北海道には適用されないが、同様の制度が開拓使により施行されており、全島民に対して生まれの区別なく適用されている。帝国政府の目的はアイヌと日本人を同等に教育することにある」
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.26 より引用)
明治の時点でも物納による納税があったのですね。また帝国政府が「アイヌと日本人を同等に教育する」ことを目指していた……とありますが、これは「同化政策」であり文化的ジェノサイドとも言えるものです。

イザベラが「アイヌと日本人を同等に教育する」ことの是非を述べていないのは賢明だったと思われるのですが、改めて読み直してみると「全島民に対して生まれの区別なく」教育の機会が与えられていることに対する「帝国政府の目的」が明記されていることに気付かされます。

つまりイザベラは淡々と事実を列挙した上で「帝国政府の目的」を追記しているので、これは「帝国政府による『同化政策』が行われている」ことを事実ベースで広く世に知らしめるものであり、「帝国政府による同化政策」をやんわりと告発している……と見ることも可能かもしれませんが、それは必ずしも人道的な見地によるものでは無かったとも言えそうな気がします。

イザベラ本人は否定するかもしれませんが、彼女は常に「大英帝国の利益」のために動いていたと思しき節も見られます。欧米列強にしてみれば「アイヌは日本人とは違う」としたほうが、何かと都合が良かった筈です。

イザベラは「多毛のアイヌ」について、次のように続けていました。

「多毛のアイヌ」と呼ばれてきたこの未開人は、鈍くて、温和で、気立てがよくて、従順である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.28 より引用)
時岡敬子さんの訳は 2008 年に初版が刊行されたもので、ポリティカル・コレクトネスを考慮した穏当なものになっているように見受けられます。原文では次のようになっていました。

   The "hairy Ainos," as these savages have been called, are stupid, gentle, good-natured, and submissive.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
更にイザベラは次のように続けていました。

日本人とはまったく異なった民族である。肌の色はスペインやイタリア南部の人々に似ており、顔の表情や礼儀・好意の表し方は東洋的というよりむしろ西洋的である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.28 より引用)
ああ、やはり。アイヌは「のっぺりした顔立ち」の和人とは異なり「彫りの深い顔立ち」だとされますが、イザベラはこのことから「アイヌと西洋人」の間に関連を見出そうとしています。

あわよくば「アイヌは西洋人」だとして「蝦夷地」を西洋の植民地にしようとした……というのは言いすぎかもしれませんが、その一歩手前までは考えていたとしても不思議はありません。

イザベラはアイヌの外見的な特徴を記したのに続き、文化的な特徴について記していました。

言語はとても単純である。文字、文献、歴史はなにもなく、伝統はごくわずかにあるばかりで、自分たちが追い出された地にはなんの痕跡も残していない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.28 より引用)
改めて読み直してみると意味深長な内容ですね。特に「自分たちが追い出された地」について、イザベラはアイヌを「ことによると日本全土の先住民である」と記しているので、これは本州・四国・九州を想定していたということでしょう。

少なくとも北東北にはアイヌ語に酷似した言語を操る人々が住んでいたことがいくつかの史料から明らかになっています。故にアイヌが「日本全土の先住民だった」とする仮説も蓋然性に富むものですが、完全に証明されたとも言えないのが現状でしょうか。

イザベラの時代の外国人がこの手の「仮説」を多く唱えたのはある種の「下心」があった……という点にも留意すべきかと思われます。

蝦夷の魅力

イザベラは「蝦夷に関するノート」の締めくくりとして「蝦夷の魅力」を記していました。

 蝦夷において、旅行者であるわたしは本州で嗅ぎ取ったより自由な雰囲気があるのに気づいた。空気が本州より自由に循環しているばかりでなく、人も獣も手足を伸ばせる空間をたっぷり有しているのである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.28 より引用)
イザベラはここまで「野心」が透けて見える文章を記していた(と言われても本人は否定しそうですが)ことを考えると、この文も意味深長に考えたくなってしまいますが、これは流石に「下衆の勘繰り」でしょうか。

まずまずの馬を手に入れて好きに乗り回しても、侵入禁止の立て札や水田にじゃまされることはない。道からはずれて、紅ばらが群生しそよ風の吹く海辺の公有地を何マイルも疾走できる。川で泳ぎ、山に登り、「森で火をおこす」という半ば未開の生活を送っても、「規則」を犯さずにすむ。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.28 より引用)
これらの文章は、現在でも「北の大地」愛好家の共感を得るものかもしれません。実際には「立入禁止」の立て札は至るところにあり、田畑に勝手に立ち入ることはできません。もちろん好き放題にキャンプができる筈もありませんが……。

ひと言で言えば、本州ではできないことがすべてできるのである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.28-29 より引用)
このまとめ方は「お見事!」ですね。イザベラは「蝦夷の魅力」について、次のような叙情的な文章を綴っていました。

また調査と観察に関したことから離れても、この人の少ない地には魅力がある。苫小牧とまこまい襟裳えりも岬間の太平洋があげる長く悲しげな音、内浦湾付近の荘厳なわびしさ、蝦夷の暮らしの軽やかさと自由。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.29 より引用)
イザベラは蝦夷地で「こういったもの」に「心を奪われた」として、「蝦夷の思い出」を「日本で得た最も楽しい思い出」にしてくれた……と締めていました。

時代は変わり、今や 500 万人近くが暮らす北の大地では失われたものも少なくありませんが、それでも日本中、あるいは世界中から「まだ見ぬもの」を求める人々を魅了し続けている……そんな感じがします。

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2026年1月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1333) 「豊郷メップ川・エサンヌップ橋・班渓野羅」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

豊郷メップ川(とよさと──)

mep
泉池
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
波恵川の河口近くで合流する支流です(元は海に直接注いでいた可能性もありそうですが)。『北海道実測切図』(1895 頃) には「イオチク」と描かれているように見えます。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「エヲチウエ」と描かれています。こちらは「ハイ」(=波恵川)の支流ではなく、直接海に注いでいます。


「東西蝦夷──」には、「ハイ」(=波恵川)の支流として「ハンケミフ」「ヲヒシヨマコツ」「ヘンケミフ」などが描かれています。『北海道実測切図』にも「パンケプ」「ペンケプ」などが描かれていて、陸軍図には現在の「波恵沢川」に相当する位置に「メップ」と描かれています。


どうやら現在の「波恵沢川」がかつての「パンケ子プ」だった可能性がありそうです。午手控 (1858) には次のように記されていました。

ハ イ
 ハンケミフ
  ハンケメッフと云よし
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.465 より引用)
これも慶能舞川の支流の「ホロメップ川」と同様に、mep で「泉池」だったと見て良さそうですね。

メップ? ネㇷ゚?

ところが、永田地名解 (1891) を見てみると……

Panke nep   パンケ ネㇷ゚   下ノ流木アル處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.238 より引用)
ちょっと違う解が記されています。そう言えば「実測切図」も「プ」としていましたね。

但し「流木」を意味する語は net が一般的で、永田地名解の「パンケ ネㇷ゚」をそれらしく記してみるならば panke-net(-o)-pe あたりになるでしょうか。少なくとも「ネㇷ゚」とはならないように思えます。

今回も永田方正が「『メップ』じゃない『ネㇷ゚』だ!」としたものの、「でも『メップ』だよね」といういつもの流れに落ち着いたような感じですね。

閑話休題それはさておき

波恵川沿いには、かつて道南バスの「豊川高校~上清畠~新生~富川高校」を結ぶ路線が走っていたみたいです(現状は確認できないので廃止されたのかも)。

当該路線には「メップ」というバス停があったようですが、これは現在の日高自動車道の近くに存在していたとのこと。これは「パンケ子プ」ではなく、川上側の「ペンケ子プ」に由来するネーミングだった可能性もありそうですね。

エサンヌップ橋

esan-nutap
岬・川の湾曲内の土地
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年1月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1332) 「ホロメップ川・オシヨップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ホロメップ川

poro-mep
大きな・泉池
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
慶能舞川の最下流部の支流で、日高自動車道の橋から 0.3 km ほど遡ったところで北西から合流しています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ホンメ」と「ホロメ」という川が描かれています。


北海道実測切図』(1895 頃) には「ポンメム」と「ポロメム」が描かれています。どうやら「ポロメム」が現在の「ホロメップ川」のようですね。


『午手控』(1858) には次のように記されていました。

ケノマヱ
 ホンメフ
  のよし。蘆原または草原の本川口のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.463 より引用)
いきなり「のよし」と言われても……と思ってしまいますが、頭註に「ホンメップと称しているが、本名はポンメムのよし」とフォローがありました。本文でも次のようにフォローがなされています。

  メッフはメムも同様の様成事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.463 より引用)
へぇ……と思ったのですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のように記されていました。

mep めㇷ゚ mem の転訛
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.59 より引用)
うわわ、見落としてました。なお『午手控』には何故か「ホンメフ」だけが記されていて「ホロメフ」の記載がありませんが、poro-mep で「大きな・泉池」だったと見て間違いないかと思われます。

オシヨップ川

o-so-o-p??
河口・滝・そこにある・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)

2026年1月9日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1331) 「キシマツ川・ポロソの滝」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

キシマツ川

okiska-tu??
尻尾・尾根
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
賀張がばりがわ最大の支流(東支流)です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「キシマチ」と描かれているように見えます。


ところが、不思議なことに 『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりません。


また『永田地名解』(1891) にも「賀張川筋」にはそれらしい川が見当たらないように思われます。

「爺」は二人いた?

『戊午日誌』(1859-1863) にも見当たらないのですが、幸いなことに『午手控』(1858) には次のように記されていました。

 キシマチ
  爺と婆と爺が此処にて喰物もなくして陰茎を握りて死せしとかや。本名チーキシマと云よし。キシマは握ると云義也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.462 より引用)
……は? 確かに kisma は「握る」という意味ですが……。

あまりにあんまりな内容なのでうっかり見落としそうになりましたが、よく見ると「爺と婆と爺が」とあります。「爺」は二人いたのでしょうか。

知里さんは、著書『アイヌ語入門』(1956) にて「川はまた、生物であるから、生殖行為もいとなむ」として、具体的には「抱きあっている川」や「交尾している川」などがある……と記していました(p.41)。たとえば様似町西部の「鵜苫」は「抱き合って寝る川」ではないかと考えられますし、オホーツク海沿いの「興部」は「交尾している川」ではないかとされています。

故に下ネタっぽい内容が地名解に含まれることも十分にあり得るのですが、それにしてもこれは酷い……ですね(汗)。

類例①「南キシマナイ沢」

このままではどうにも理解が進まないので、類例に範を取ってみましょう。紋別市の立牛川支流に「南キシマナイ沢」という川があるのですが、これは ninar-kes-oma-nay ではないかとのこと。「キシマツ」の「キシマ」も kes-oma で「末端・そこにある」である可能性が考えられますが、その場合は何の末端だったかが不明……ということになりますね。

類例②「オキシマップ山」

えりも町には「オキシマップ山」がありますが、これは okiska-nupuri で「尻尾・山」ではないかと考えられます(独自説ですが)。okiska あるいは okiska-oma-p あたりが「オキシ」に化けたというのは興味深いような……。

尻尾の尾根?

「キシマツ川」も似た解釈ができないか、ちょっと地図を眺めてみたのですが、「川田」三角点のあたりにお誂え向きの地形があるようにも思えます(似たような地形はどこにでもあるかもしれませんが)。

現在の川名は「キシマツ」で、松浦武四郎も「キシマチ」と記録しているため、元が okiska だったとするのは、論理が K 点超えの大ジャンプのような気もしますが、okiska-tu あたりで「尻尾・尾根」だったのでは……と考えてみました。やがて正確な由来が忘れられるとともに珍妙な解釈が幅を利かせるようになった……と言ったところだったのでは……。

ポロソの滝

poro-so?
大きな・滝
(? = 旧地図等で未確認、既存説、類型あり)

2026年1月8日木曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(画像検索編)

もうすぐ 15 時になろうかというタイミングで、左手に高規格道路の橋が見えてきました。ほら、あの名前が妙に長いあの道路です。えーと……「函館江差自動車道」ですね。
「名前が長い」んだったら「旭川紋別自動車道」も同類なんですが、こっちは何故かちゃんと覚えているんですよね。旭川も紋別も通らないのに

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「拓洋丸」?

(またしても)左手前方に船が見えてきました。

2026年1月7日水曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(競合ではない他社編)

階段の裏手に設置された自販機の横を……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右舷側に抜けて……

2026年1月6日火曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(競合他社編)

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」2F「2 等椅子席」のカウンター席(長いな)でのんびりと景色を眺めていたのですが……あれ、奥のほうに見えている山は何でしょう?
あれが竜飛岬なのだとしたら、ちょい前に見えた灯台は「平舘灯台」だったことになりますが……。それとも福島から知内にかけての山、なんでしょうか?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

流浪の船「ブルードルフィン 2」

そして……左前方に何か見えてきました(!)

2026年1月5日月曜日

青函フェリー(共栄運輸)「はやぶさ」乗船記(出港!編)

青函フェリー(共栄運輸)の「はやぶさ」は、予定通り 11:35 に青森を出港しました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

津軽海峡フェリーの「ブルーマーメイド」を眺めます。「ブルーマーメイド」は 2014 年就航で、東日本フェリーが「消滅」してから建造された初の新造船とのこと。

2026年1月4日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1330) 「オサツナイ川・コマチップ川・福種」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オサツナイ川

o-sat-nay
河口・乾く・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高自動車道・日高厚賀 IC の東で厚別川に合流する北支流です。陸軍図には「オサツナイ」という地名が描かれています。


北海道実測切図』(1895 頃) には「アカム」の隣に「オサツナイ」と描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ヲサツナイ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

また少し上り
      ヲサツナイ
左りの方小川、其名義川口おりおり干るよりして号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.105-106 より引用)
はい。素直に o-sat-nay で「河口・乾く・川」と見て良さそうですね。

コマチップ川

kuma-chi-tuye-p?
横山・自ら・切る・もの
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年1月3日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1329) 「イタラッキ川・樺司山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

イタラッキ川

ita-ratki-i??
お盆・下がって行く・ところ
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚別川の支流の中では比較的大きなものの一つで、道道 80 号「平取門別線」の「正和橋」の近くで厚別川に合流しています。道道 80 号には「イタラッキ川」を渡る橋もあるのですが、名前がなんと「板羅喜橋」とのこと。夜露死苦!

イタラッキ? イタラㇲケㇷ゚?

現在の川名は「イタラッキ川」ですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「イタラㇲケㇷ゚」という名前で描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「イタラツケ」と描かれています。これは……毎度おなじみ永田地名解 (1891) が……という展開の予感……。


ということで永田地名解を見てみたところ……

Ita rasukep   イタ ラㇲケㇷ゚   材木ヲ割ル處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.242 より引用)
あー、やはり。となると戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には「イタラツケ」に近い形で記録がありそうですが……

只鹿道をしたためて上り
     イタラツケ
左りの方相応の川也。其名義は往昔海嘯の時に、此処まで船板流れ来りしよりして号しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.120 より引用)
松浦武四郎と永田方正の解が微妙に食い違っていますね。まぁ、これは良くあることですが……。

津波で舟が

それよりも気になるのが戊午日誌の「ナヌニ」(=菜実)の解です。

其名義往昔海嘯つなみの時此処え大船の*首板一枚流れ行しと云よりして号し也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.118 より引用)
またかよ……という話ですが、「里平橋」のあたりに流れ着いたのは舟の「舳先」で、舟の「板」はさらに山奥の「正和橋」まで流れ着いた……というストーリーなのかもしれません。

舟ではなくて食器?

「ナヌニ」と「イタラツケ」はどちらも「津波で舟が」というストーリーが語られていますが、両地点の間を流れる「ヌモト゚ル」は nima-utur ではないかと考えています。nimaita はどちらも「木製の食器」ですが、itanima よりも浅めで「お盆」に相当するとのこと。

要は nima があるなら ita があってもいい……という考え方です。イタラッキ川の河口のある「正和橋」のあたりも、ちょっとした盆地状の地形ですが、「里平橋」のあたりより若干標高があるように見えるので、それが「ニマ」と「イタ」の違いなのかな……という想像もできる、かもしれません。

ぶら下がるのではなく

……と、ここまでは割といい感じに想像できたのですが、問題は「ラツケ」をどう捉えるかです。ratki は「ぶら下がっている」という意味なのですが、「お盆がぶら下がっている」というのはあまりに意味不明です。

何かヒントが無いかなー……と思って手元の辞書類を眺めてみたのですが、『アイヌ語千歳方言辞典』(1995) に次のような記述がありました。

「垂直に」という意味合いはない。むしろ「上から下までひと続きにつながっている」という感覚が強い。
(中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館 p.406 より引用)
あっ……! そうか、そういうことか! イタラッキ川は厚別川の支流ですが、そこそこの規模の支流で、左右に崖が迫るようなところはほぼ見当たりません。つまり上流部まで「お盆」が続いている……と言えるのでは……!

ita-ratki は「お盆・下がって行く」で、要は「盆地が河口に向かって続いている」という意味なのでは……と考えてみました。川名なので、もしかしたら ita-ratki-i で「お盆・下がって行く・ところ」あたりだった可能性もあるかもしれません。

樺司山(かばしやま)

kapas-sir-o-i
平たい・山・ある・ところ
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年1月2日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1328) 「チライコッペ川・ケライ左川・樺奴山・保井山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

チライコッペ川

chiray-kor-pe
イトウ・持つ・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 71 号「平取静内線」の「里平橋」のすぐ先で里平川に合流する北支流です。国土数値情報では「チライコッペ川」です。

北海道実測切図』(1895 頃) には「チライペッ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「リヒラ」(=里平川)が不当に短く描かれているということもあってか、それらしい川が見当たりません。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      チラヱコツペ
 左りの方小川。此川春いとう多く入るが故に号しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.113 より引用)
どうやら chiray-kor-pe で「イトウ・持つ・もの(川)」と見て良さそうな感じですね。ごく単純な解ですが以前の記事ではミスっていたような気がするのでリライトしました(汗)。

ケライ左川

{chiray-kor-pe}?
{チライコッペ川}
(? = 旧地図等で未確認、既存説、類型あり)

2026年1月1日木曜日

「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (5))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

怠りない警察

前回に引き続き「怠りない警察」の話題です。イザベラは函館の街について「役所の建物は非常に大きく」とした上で「病院と監獄は現地人のみごとな管理の下にある」と記しています。

函館は遠隔地にあるのに、わたしには同規模のほかのどの都市と比べても、運営、設備全般、清潔さ、秩序において遅れているようには見えない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
これは意外なほどの高評価とも言えますが、「蝦夷地」は「未開の地」であるという、イザベラの「期待」を裏切る内容だったが故……と見ることもできるかもしれません。

また開拓使は市内に 17 校の学校を開き、生徒は「読み書き」、「算数」、「世界史」と「地理」を学んでいる……としつつ、イザベラは「私立の学校が多数ある」とも記しています。イザベラによると「私立の学校」は「読み書きのみを教える」とのこと。ハイエンドな人材育成に特化した公立校を補完する立ち位置だったようです。

たいへん啓発された商店主のなかには、昼間働いている一二歳から一八歳までの徒弟や助手のために夜学校をつくった者もいる。こういった学校の費用はすべて手ごろな額に抑えてある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
「開国」と「大政奉還」というのは「革命」に相当する出来事で、当時の日本人は「イチからやり直し」と考える者が多かったのでは……と想像します。「明治維新」で全てがご破算になったとは言え、「士族」や「華族」と言った身分制度が存置された社会は封建的な色合いが濃く残り、やがて「軍部」という新たな特権階級が跋扈して破滅への道を歩み始めることになるのは、皆さん良くご存知の通りです。

あれ……何の話をしようとしたんでしたっけ。私財を投じて次世代に資する学び舎を設けるという辺りに「新たな日本」への胎動が見て取れるのですが、「開化の気風に富んだ日本人」は一体どこへ消えてしまったのでしょうね。

 郵便局と税関は日本人官吏により外国の慣例に合わせて手際よく運営されている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
日本がなんとかして「遅れてきた文明国」入りしようと努力していた例のひとつでしょうか。「鹿鳴館」に代表される「文明開化」への取り組みは、多分に「見掛け倒し」で滑稽なものでしたが、「先進国」と比べて「遅れている」という自覚(コンプレックス)があり、恥も外聞もかなぐり捨てて「近代化」に邁進した当時の日本人を嗤う資格は、今の我々には無いでしょう。

司法局にはあまり感心しないものの、警察は非常に有能で、英国領事が「いかなる泥棒や犯罪者も当局の警戒から逃れられない」と公式に報告しているほどである!
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
「警察は非常に有能で」としつつ「司法局にはあまり感心しない」と一刺しを忘れないイザベラ姐さん……(笑)。原文では though the Judical Department gives little satisfaction とある部分でしょうか。警察の有能さは、当時の社会が封建的であったことの証左でもある……ような気もします。

当時の日本は「関税自主権」を持たず、また欧米に「治外法権」を認めるという、限りなく「植民地」に近い状態でしたが……

また日本の商人は衣料、食料、金物、陶器、ガラス、小間物、アルコール飲料などの外国製品を輸入しており、外国商店がないという気がほとんどしないくらいである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
その一方で「商才の逞しさ」が見て取れます。明治の日本は「先進国の猿真似」に終始していたとも言えるのですが、海外から優れた文物を積極的に取り入れるという姿勢は再評価すべきなのでは、と思わせます。

イザベラにしてみれば、当時の日本は何でも言い値で買ってくれる「新たな優良顧客」であり、当然ながら悪い気はしなかったでしょう。函館の驚異的な発展についても手放しで絶賛しています。

 これらは発展を示すちょっとした印で、なにしろ一八五九年にオールコック氏が英国領事館設立のために訪れたときは、人口わずか六〇〇〇で数隻の捕鯨船しか来ない町だった!
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)

スポンサー向けの内容

「蝦夷に関するノート」は「普及版」では全てカットされていますが、スポンサー(教会)向けのレポートが続いていました。

 函館は北海道の伝道活動の拠点で、現在ギリシャ正教会、ローマ・カトリック教会、英国聖公会宣教協会、米国メソジスト監督教会が伝道員を置いているが、正規の通行証を取得しないかぎり、もちろん活動は二五マイルという条約で取り決められた距離の範囲に制限されている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24-25 より引用)
この「伝道活動」というのは実に厄介なもので、教育や医療を無償、あるいは格安で提供することで民衆の歓心を買い、それを足がかりに「信者」を獲得する……というプロセスを踏んでいたと考えられます。

こういった「企て」は実際に北海道では有効に機能していたと考えられるのですが、幸いなことに国全体がキリスト教に乗っ取られることはありませんでした。ただ 21 世紀の日本は「カルト」に乗っ取られてしまったのですが……。

地誌的な内容に戻ります。イザベラは、「(北海道には)函館以外に重要な町はふたつしかない」として「松前」と「札幌」を挙げていました。

松前は人口約一万六〇〇〇のさびれたところで、かつては非常に有力な大名の居住地であった。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
「松前」は蠣崎氏が道内の橋頭堡にした場所ですが、やがて函館にそのポジションを奪われ現在に至ります。これは函館平野の治水が行われた時点で勝負あったと見るべきなのでしょう。

札幌は人口三〇〇〇の主都で、アメリカ式の都市として構想され、広い碁盤の目のような通りが走っていて、そこに低い日本式の家屋と商店、それに味気ない木造の独立家屋が立ち並んでいる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
現在の札幌を知る者にとっては、これは当然の帰結のようにも思えますが、札幌の立地は少なからずセオリーに外れたところも見受けられるようにも思えます。特に扇状地が北に向かって広がるところが意外な感じがするのですが、「手稲山の東麓の扇状地」というロケーションが、風雪を凌ぐ上で非常に有効に機能したという点は外せないのでしょうね。

札幌の発展を支える農業生産についても、「冬は長くて厳しい」としつつ「気候と土壌は冬小麦、とうもろこし、きび、そば、じゃがいも、婉豆えんどう、その他の野菜と穀物にはとくに好ましい」と記しています。

実際に日本有数の穀倉地帯となった現状を知る身にとっては「うんうん、そうだよね」という話でしか無いのですが、1878 年時点でのイザベラの口上は「投資を促すためのリップサービス」に過ぎないという点には注意が必要でしょう。確かに高いポテンシャルを有する土地だったのかもしれませんが、それをここまで開花させたのは人々の不断の努力があったこその話ですので。

よく灌漑された何千エーカーもの草原が、石狩川河畔の札幌近辺にはまったく無益に広がっているのである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
札幌から石狩、当別にかけての平野部は、当時は広大な湿地帯に過ぎなかった筈なので、「よく灌漑された草原」というのは……。数十年後に日本人が「満州」(現在の中国東北部)に対して抱いた「夢」ともどことなく被るものがありそうな(もっともあちらは、既に開墾済みの農地を簒奪するものでしたが)。

 野生の鳥獣は人の入れない内陸の原生林におびただしく棲息している。函館の市場では四季それぞれに雷鳥、野うさぎ、うずらしぎ小鴨こがも、鹿肉、山鴫、野鴨のがも、熊肉が手ごろな値段で手に入る。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
イザベラは「肉」に対して殊の外ご執心だったようにも思えますが、これは肉類によって補われる栄養素の存在を(経験則によって)認識していた、ということなのでしょうね。

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