2025年11月23日日曜日

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「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (4))

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見てみることにしました。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

怠りない警察

「漁業」の話題はここまでで、ここからは「怠りない警察」と題された章が続きます。

 北の開港場である函館は人口三万七〇〇〇の繁栄する都市で、どの方向の風からも守られたすばらしい港があり、当然のことながら中心地となっている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22-23 より引用)
「天然の良港」という便利な表現がありますが、函館はまさしくその一つですね。1878(明治 11)年の時点では函館が「北海道の玄関」であり、札幌は「開拓の最前線」だったということが良くわかります。

その後、札幌の開発が進むとともに「北海道の中心地」となり、旭川が「開拓の最前線」になった時代もあったような気がします。ただ、おそらくは地理的な「難点」が足を引っ張り、旭川は「第二の札幌」になりそこねたのではなかろうか……と思ったりもします(個人の感想です)。

イザベラは函館について、以下のように手放しで絶賛しています。

砂礫層の丘陵斜面にあり、日照がよく、また天然の排水もすばらしく、横浜や東京の蒸し暑さで消耗した体力を補充するには最適である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
函館平野には石狩川のような大河はありませんが、平野自体が巨大な扇状地のようなものなので、水(湧き水)にはそれほど苦労しない……ということなんでしょうか。道南の玄関口が松前から函館に移ったのも、地形面でのアドバンテージを考えると当然の結果だったのでしょうね。

一一月に九インチ[約二二センチ]の雪で地表が覆われることがときおりあるものの、島の北部ほど過剰な降雪はない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
いつものことですが、こういった情報はどこで仕入れているのでしょうね。島(北海道)の北部では「過剰な降雪」があるのは確かです。

雪はいつまでも消えないわけではなく、冬でも晴天の日が多い。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
これは「根雪は存在しない」と解釈していいんでしょうか。根雪がない代わりに雪解け水のぬかるみができるため、イザベラはこれを「雪より始末が悪い」としていますが……。

イザベラは「年間の平均気温は低い」とし、また「寒暖の差は江戸よりずっと大きい」と記した上で、次のように続けていました。

最低が華氏二度[摂氏マイナス約一六・七度]、最高が八八度[摂氏約三一度]である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
時岡さんの訳は、摂氏でのフォローがあるのが助かりますね……。

九年間の平均降雨量は五一・九インチ[約一二九八ミリ]で、平均降雨日数は九八日である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
これは「気象台」が統計を取っていたということでしょうか。こういった記録は長期的な視野からはかけがえのない財産になるので、しっかりと続けて記録を取り続けてほしいものです。

 函館は外国貿易港としては年々落ち込みつつある。事実、海外貿易はゼロにまで減少しつつある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
ちょっと意外な気もするのですが、まぁ横浜や神戸と比べると、函館は二の次になるということなんでしょうか。イザベラは続けて「外国人居住者は清国人をのぞいて 127 人しかいない」としていますが、清国人の位置づけが単なる「外国人枠」では無いのが興味深いですね。

イザベラは「活気のなさは新潟とほぼ同じくらい」としながらも、次のように続けていました。

しかし日本国内向けの港としてはますます繁盛している。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
イザベラは函館の現状を「外国貿易港としては落ち込みつつある」としましたが、その理由を「日本の蒸気船が大きく増加したため、わざわざ外国船が函館を目指す必要が無くなった」と見ていたようです。国際貿易港としての地位こそ低下したものの、北海道の玄関口としての重要性は益々増していたと見るべきでしょう。

外国製品はいまや日本の商人により日本の船で輸入されており、また主な移・輸出品目──干魚、海藻、皮革──は現地の船で清国および本州に直接送られている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
貿易相手国としての「清国」の重要性が良くわかる一節ですね。

貨物船のほかに、三菱会社[郵便汽船三菱会社]のすばらしい蒸気客船が函館─
横浜間を一〇日に一度、新潟までは月に一度航行しているし、外国の艤装をつけた現地の船やジャンクが順風のたびに数多く出入港している。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23-24 より引用)
……あ。これまでも何度か「三菱会社」が出てきましたが(原文では Mitsu Bishi office)、これは「郵便汽船三菱会社」、現在の「日本郵船」のことだったんですね!

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