2025年11月15日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1308) 「目梨別橋・ペンケオニケムシ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

目梨別橋(めなしべつ──?)

menas-pet
東・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
静内川(新ひだか町)にある「高見ダム」の下流側には水力発電所があり、道道 111 号「静内中札内線」から水力発電所に向かう道路は「目梨別橋」で静内川を渡っています。

「目梨別橋」は「静内川」を渡る橋ですが、『北海道実測切図』(1895 頃) では「静内川」が「メナシュペッ」となっています。これは支流の「シュンベツ川」と対になる概念で、当時は「シュンベツ川」との合流点より上流側は「メナシベツ川」だったようです。


戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」にも次のように記されていました。

     メナシベツ
此川東川と云儀也、西川より少し川巾ひろけれども、其地形は同じ事にして、両岸同じく高山にして其山根は大岩峨々として聳え、異草も多く有哉に見え、また両岸少しヅヽの小石原有るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.608 より引用)
menas-pet で「東・川」ということですね。いつしか「メナシベツ川」の名前が失われて「静内川」に変わったようですが、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」によると、1977(昭和 52)年の 1/50000 地形図「農屋」では「メナシベツ川」で、1993(平成 5)年の「農屋」で「静内川」に変わっていました。思ったよりも最近の出来事だったんですね。

「目梨別橋」は、失われた「メナシベツ川」の名前を発掘したネーミング……かと思ったのですが、「高見ダム」の建設が開始された時点の川名は「メナシベツ川」だったので、単に川名を借用しただけだったのかもしれません。ところが何故か「メナシベツ川」の名前が失われ、「目梨別橋」(目梨大橋とも)だけが残ってしまった……ということのようです。

ペンケオニケムシ川

penke-o-niti-us-pe?
川上側の・河口・串・ついている・もの(川)
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
高見ダムの堰堤のすぐ北で高見湖(ダム湖)に注ぐ川です。この川名は以前にも検討したことがあったのですが……(参考)。

記録によって異同が激しいので、まずは表にまとめてみました。

午手控 (1858)ハンケヲニチフシケヘンケ──────
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ハンケヲニチミフヲニチミフ
戊午日誌 (1859-1863)パンケヲニチフシケペンケヲニチフシケ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ヲニチブシケベンケチブシケ
永田地名解 (1891)オニチム シュベ
北海道実測切図 (1895 頃)パンケオニチムㇱュペペンケオニチムㇱュペ

「櫛のような岩」説

地名解ですが、戊午日誌「志毘茶利志」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ハンケヲニチフシケ
     ヘンケヲニチフシケ
等二川とも左りの方也。魚類は鱒と鯇と有るとかや。其名義は櫛の如き岩有るによつて号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.614 より引用)※ 原文ママ
また『東蝦夷日誌』には次のように記されていました。

ヲニチブシケ(左)、ベンケチブシケ(同)ここには櫛齒くしのはの如き數本立並びたる石有と。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.173 より引用)

伝家の宝刀「?」

永田地名解は例によって変化球を投げてきましたが……

Onichimshbe   オニチム シュベ   ?
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.256 より引用)
残念なことに伝家の宝刀「?」が出てしまいました。

「櫛」ではなく「串」

松浦武四郎は「櫛のような岩」あるいは「──石」と記していますが、面白いことに『午手控』では……

ハンケヲニチフシベ くしの如き木有るによって号
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.267 より引用)
「くしの如き」と記しています。

「櫛」はアイヌ語では kiray ですが、「ヲニチフシケ」のどこに kiray が入るのか良くわかりません。……実はこれ、おそらく「櫛」ではなく「串」が正解なのでしょう。『午手控』には「くしの如き」とあるので、それを『戊午日誌』で清書する際に「櫛」としてしまったものかと。

「串」は nit で、所属形「あの串」が niti となります。o-niti- まではほぼ確定として、あとは「──フシケ」や「──ミフ」あるいは「ム シュベ」をどう解釈するか……ですね。

「──フシケ」は -uske かと思ったのですが、これは動詞や連体詞の後ろに置かれるものらしいので、名詞である niti の後ろに来ることは無さそうです。となると -us-pe で「ついている・もの」でしょうか。penke-o-niti-us-pe であれば「川上側の・河口・串・ついている・もの(川)」となりそうです。

あとは永田地名解の「オニチム シュベ」をどう考えるかです。一般的には mu は「塞がる」という意味ですが、釧路方言の使い手として知られる八重九郎さんによると mu で「~を這い上がる」を意味するとのこと。静内で釧路方言が通じるとは思えませんが、mu の語源だったのか、あるいはそういった拡大解釈ができたのかもしれません(塞がれたものを乗り越えるには這い上がるしかないので)。

「串」の正体

北海道実測切図』には「ペンケオニチムㇱュペ」と「パンケオニチムㇱュペ」が描かれていました。


ところが、よく見ると現在の「ペンケオニケムシ川」とは位置が異なっています(現在の「ペンケオニケムシ川」の位置には「ポロピナイ」という川が描かれていて、本来の「ペンケオニチムㇱュペ」の位置には、現在「鬼渓橋おにけばし」があります)。

陸軍図を見てみると、「ペンケオニチムㇱュペ」と「パンケオニチムㇱュペ」は、それぞれ長く伸びた尾根の西側を流れています。どちらも尾根の先端が小さな山のようになっていて、これを「串」と見たのかもしれません。

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