2026年1月1日木曜日

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「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (5))

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

怠りない警察

前回に引き続き「怠りない警察」の話題です。イザベラは函館の街について「役所の建物は非常に大きく」とした上で「病院と監獄は現地人のみごとな管理の下にある」と記しています。

函館は遠隔地にあるのに、わたしには同規模のほかのどの都市と比べても、運営、設備全般、清潔さ、秩序において遅れているようには見えない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
これは意外なほどの高評価とも言えますが、「蝦夷地」は「未開の地」であるという、イザベラの「期待」を裏切る内容だったが故……と見ることもできるかもしれません。

また開拓使は市内に 17 校の学校を開き、生徒は「読み書き」、「算数」、「世界史」と「地理」を学んでいる……としつつ、イザベラは「私立の学校が多数ある」とも記しています。イザベラによると「私立の学校」は「読み書きのみを教える」とのこと。ハイエンドな人材育成に特化した公立校を補完する立ち位置だったようです。

たいへん啓発された商店主のなかには、昼間働いている一二歳から一八歳までの徒弟や助手のために夜学校をつくった者もいる。こういった学校の費用はすべて手ごろな額に抑えてある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
「開国」と「大政奉還」というのは「革命」に相当する出来事で、当時の日本人は「イチからやり直し」と考える者が多かったのでは……と想像します。「明治維新」で全てがご破算になったとは言え、「士族」や「華族」と言った身分制度が存置された社会は封建的な色合いが濃く残り、やがて「軍部」という新たな特権階級が跋扈して破滅への道を歩み始めることになるのは、皆さん良くご存知の通りです。

あれ……何の話をしようとしたんでしたっけ。私財を投じて次世代に資する学び舎を設けるという辺りに「新たな日本」への胎動が見て取れるのですが、「開化の気風に富んだ日本人」は一体どこへ消えてしまったのでしょうね。

 郵便局と税関は日本人官吏により外国の慣例に合わせて手際よく運営されている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
日本がなんとかして「遅れてきた文明国」入りしようと努力していた例のひとつでしょうか。「鹿鳴館」に代表される「文明開化」への取り組みは、多分に「見掛け倒し」で滑稽なものでしたが、「先進国」と比べて「遅れている」という自覚(コンプレックス)があり、恥も外聞もかなぐり捨てて「近代化」に邁進した当時の日本人を嗤う資格は、今の我々には無いでしょう。

司法局にはあまり感心しないものの、警察は非常に有能で、英国領事が「いかなる泥棒や犯罪者も当局の警戒から逃れられない」と公式に報告しているほどである!
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
「警察は非常に有能で」としつつ「司法局にはあまり感心しない」と一刺しを忘れないイザベラ姐さん……(笑)。原文では though the Judical Department gives little satisfaction とある部分でしょうか。警察の有能さは、当時の社会が封建的であったことの証左でもある……ような気もします。

当時の日本は「関税自主権」を持たず、また欧米に「治外法権」を認めるという、限りなく「植民地」に近い状態でしたが……

また日本の商人は衣料、食料、金物、陶器、ガラス、小間物、アルコール飲料などの外国製品を輸入しており、外国商店がないという気がほとんどしないくらいである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)
その一方で「商才の逞しさ」が見て取れます。明治の日本は「先進国の猿真似」に終始していたとも言えるのですが、海外から優れた文物を積極的に取り入れるという姿勢は再評価すべきなのでは、と思わせます。

イザベラにしてみれば、当時の日本は何でも言い値で買ってくれる「新たな優良顧客」であり、当然ながら悪い気はしなかったでしょう。函館の驚異的な発展についても手放しで絶賛しています。

 これらは発展を示すちょっとした印で、なにしろ一八五九年にオールコック氏が英国領事館設立のために訪れたときは、人口わずか六〇〇〇で数隻の捕鯨船しか来ない町だった!
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24 より引用)

スポンサー向けの内容

「蝦夷に関するノート」は「普及版」では全てカットされていますが、スポンサー(教会)向けのレポートが続いていました。

 函館は北海道の伝道活動の拠点で、現在ギリシャ正教会、ローマ・カトリック教会、英国聖公会宣教協会、米国メソジスト監督教会が伝道員を置いているが、正規の通行証を取得しないかぎり、もちろん活動は二五マイルという条約で取り決められた距離の範囲に制限されている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.24-25 より引用)
この「伝道活動」というのは実に厄介なもので、教育や医療を無償、あるいは格安で提供することで民衆の歓心を買い、それを足がかりに「信者」を獲得する……というプロセスを踏んでいたと考えられます。

こういった「企て」は実際に北海道では有効に機能していたと考えられるのですが、幸いなことに国全体がキリスト教に乗っ取られることはありませんでした。ただ 21 世紀の日本は「カルト」に乗っ取られてしまったのですが……。

地誌的な内容に戻ります。イザベラは、「(北海道には)函館以外に重要な町はふたつしかない」として「松前」と「札幌」を挙げていました。

松前は人口約一万六〇〇〇のさびれたところで、かつては非常に有力な大名の居住地であった。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
「松前」は蠣崎氏が道内の橋頭堡にした場所ですが、やがて函館にそのポジションを奪われ現在に至ります。これは函館平野の治水が行われた時点で勝負あったと見るべきなのでしょう。

札幌は人口三〇〇〇の主都で、アメリカ式の都市として構想され、広い碁盤の目のような通りが走っていて、そこに低い日本式の家屋と商店、それに味気ない木造の独立家屋が立ち並んでいる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
現在の札幌を知る者にとっては、これは当然の帰結のようにも思えますが、札幌の立地は少なからずセオリーに外れたところも見受けられるようにも思えます。特に扇状地が北に向かって広がるところが意外な感じがするのですが、「手稲山の東麓の扇状地」というロケーションが、風雪を凌ぐ上で非常に有効に機能したという点は外せないのでしょうね。

札幌の発展を支える農業生産についても、「冬は長くて厳しい」としつつ「気候と土壌は冬小麦、とうもろこし、きび、そば、じゃがいも、婉豆えんどう、その他の野菜と穀物にはとくに好ましい」と記しています。

実際に日本有数の穀倉地帯となった現状を知る身にとっては「うんうん、そうだよね」という話でしか無いのですが、1878 年時点でのイザベラの口上は「投資を促すためのリップサービス」に過ぎないという点には注意が必要でしょう。確かに高いポテンシャルを有する土地だったのかもしれませんが、それをここまで開花させたのは人々の不断の努力があったこその話ですので。

よく灌漑された何千エーカーもの草原が、石狩川河畔の札幌近辺にはまったく無益に広がっているのである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
札幌から石狩、当別にかけての平野部は、当時は広大な湿地帯に過ぎなかった筈なので、「よく灌漑された草原」というのは……。数十年後に日本人が「満州」(現在の中国東北部)に対して抱いた「夢」ともどことなく被るものがありそうな(もっともあちらは、既に開墾済みの農地を簒奪するものでしたが)。

 野生の鳥獣は人の入れない内陸の原生林におびただしく棲息している。函館の市場では四季それぞれに雷鳥、野うさぎ、うずらしぎ小鴨こがも、鹿肉、山鴫、野鴨のがも、熊肉が手ごろな値段で手に入る。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.25 より引用)
イザベラは「肉」に対して殊の外ご執心だったようにも思えますが、これは肉類によって補われる栄養素の存在を(経験則によって)認識していた、ということなのでしょうね。

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