(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
イタラッキ川
ita-ratki-i??
お盆・下がって行く・ところ
お盆・下がって行く・ところ
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚別川の支流の中では比較的大きなものの一つで、道道 80 号「平取門別線」の「正和橋」の近くで厚別川に合流しています。道道 80 号には「イタラッキ川」を渡る橋もあるのですが、名前がなんと「板羅喜橋」とのこと。夜露死苦!イタラッキ? イタラㇲケㇷ゚?
現在の川名は「イタラッキ川」ですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「イタラㇲケㇷ゚」という名前で描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「イタラツケ」と描かれています。これは……毎度おなじみ永田地名解 (1891) が……という展開の予感……。
ということで永田地名解を見てみたところ……
Ita rasukep イタ ラㇲケㇷ゚ 材木ヲ割ル處あー、やはり。となると戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には「イタラツケ」に近い形で記録がありそうですが……
只鹿道を認 めて上り
イタラツケ
左りの方相応の川也。其名義は往昔海嘯の時に、此処まで船板流れ来りしよりして号しもの也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.120 より引用)
松浦武四郎と永田方正の解が微妙に食い違っていますね。まぁ、これは良くあることですが……。津波で舟が
それよりも気になるのが戊午日誌の「ナヌニ」(=菜実)の解です。其名義往昔海嘯 の時此処え大船の鷁 首板一枚流れ行しと云よりして号し也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.118 より引用)
またかよ……という話ですが、「里平橋」のあたりに流れ着いたのは舟の「舳先」で、舟の「板」はさらに山奥の「正和橋」まで流れ着いた……というストーリーなのかもしれません。舟ではなくて食器?
「ナヌニ」と「イタラツケ」はどちらも「津波で舟が」というストーリーが語られていますが、両地点の間を流れる「ヌモト゚ル」は nima-utur ではないかと考えています。nima と ita はどちらも「木製の食器」ですが、ita は nima よりも浅めで「お盆」に相当するとのこと。要は nima があるなら ita があってもいい……という考え方です。イタラッキ川の河口のある「正和橋」のあたりも、ちょっとした盆地状の地形ですが、「里平橋」のあたりより若干標高があるように見えるので、それが「ニマ」と「イタ」の違いなのかな……という想像もできる、かもしれません。
ぶら下がるのではなく
……と、ここまでは割といい感じに想像できたのですが、問題は「ラツケ」をどう捉えるかです。ratki は「ぶら下がっている」という意味なのですが、「お盆がぶら下がっている」というのはあまりに意味不明です。何かヒントが無いかなー……と思って手元の辞書類を眺めてみたのですが、『アイヌ語千歳方言辞典』(1995) に次のような記述がありました。
「垂直に」という意味合いはない。むしろ「上から下までひと続きにつながっている」という感覚が強い。
(中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館 p.406 より引用)
あっ……! そうか、そういうことか! イタラッキ川は厚別川の支流ですが、そこそこの規模の支流で、左右に崖が迫るようなところはほぼ見当たりません。つまり上流部まで「お盆」が続いている……と言えるのでは……!ita-ratki は「お盆・下がって行く」で、要は「盆地が河口に向かって続いている」という意味なのでは……と考えてみました。川名なので、もしかしたら ita-ratki-i で「お盆・下がって行く・ところ」あたりだった可能性もあるかもしれません。
樺司山(かばしやま)
kapas-sir-o-i
平たい・山・ある・ところ
平たい・山・ある・ところ
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚別川をずっと遡った先、里平川の「リビラ大滝」との間あたりの山上に「樺司山」という三等三角点が存在します(標高 1,110.9 m)。「点の記」によると、所在地は「日髙国沙流郡貫氣別村」の俗称「カバシ山」とのこと。何故に平取の地名をこのタイミングで……という話なのですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には厚別川の支流として「カパㇷ゚シュイ」という川が描かれていました。
また『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「カハシユイ」という川が描かれていました(こちらは何故か厚別川の南支流という扱いですが)。
神様がご飯を食べたので
戊午日誌 (1859-1863) 「安都辺都誌」には次のように記されていました。また山間しばしを過
カバシユ
左りの方小川。此処にて昔し神様が樺の鍋にて飯を炊て喰玉ひしによつて号しとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.123 より引用)
「左りの方小川」とあるので、「東西蝦夷──」が東西を誤ったというオチのようですね。そして地名解ですが「ここで神様が樺の鍋でご飯を食べたから」とのこと。思わず頬が緩みますね。コウモリの洞窟?
やはりと言うべきか、永田地名解 (1891) には異なる内容が記されていました。Kapap shui カパㇷ゚ シュイ 蝙蝠洞?えー……と思ったのですが、確かに『地名アイヌ語小辞典』(1956) の「索引と補遺」にも kapap は「コーモリ(蝙蝠)」とあります。kapap-suy で「コウモリ・穴」というのは納得感のある解ですが、敢えて難癖をつけるならば kapap としたのは(地名を自己流に捻じ曲げる悪癖のある)永田方正なんですよね。
しかも「点の記」には俗称「カバシ山」とあり、「ㇷ゚」の音が消え失せています。果たして本当に kapap(コウモリ)がいたのか、疑わしく思えてしまうんですよね。
薄っぺらい山がある……?
「カハシユイ」を素直に……いや、無理やり解釈すると kapas-sir-o-i で「平たい・山・ある・ところ」が「近い」のではないでしょうか。「実測切図」にプロットされた「カパㇷ゚シュイ」の位置が正しいと仮定すれば、この川?は現在の道道 71 号「平取静内線」沿いだった可能性があり、かなり穏やかな分水嶺があるところなのですね。kapas-sir については「まぁあるんじゃないかなぁ」くらいの感覚なんですが、問題は「ユイ」に相当する部分で、-o-i とするのは凄く違和感があります。何か見落としているような気がするのですが……。
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