2025年6月29日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1249) 「シミチカップ川・門別川・平宇」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シミチカップ川

sum(-un)-chi-kaye-p?
西(・にある)・自ら・折る・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かつて日高本線の終着駅だった「様似駅」から 2.5 km ほど東のあたりを流れて海に注ぐ川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シミチカヨㇷ゚」と描かれています。

ただ困ったことに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には描かれておらず、また『初航蝦夷日誌』(1850) や『東蝦夷日誌』(1863-1867) などの松浦武四郎の著作群にも見当たらないようです(詳細は「ポンサヌシベツ川」の記事の表を参照ください)。

熊鷹のいる沢?

1868(明治初)年から 1882(明治 15)年までは、この川の流域に「染近呼村」(1876(明治 9)年からは「染近しみちか村」)が存在したとのこと。『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

地名は,アイヌ語のシチカプナイ(熊鷹のいる沢の意)にも由来し,これを和人がシミヅカップと訛ったものと思われる。明治 15 年平鵜村の一部となる。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.675 より引用)
知里さんの『動物編』(1976) によると、si-chikap は「オジロワシ」とのこと。もっとも「クマタカ」を chikap と呼ぶケースもあったとしているので、{si-chikap}-nay を「{熊鷹}・沢」と解釈しても間違いとは言えないかもしれません。

「近呼川」との関係

ただ「実測切図」に描かれた川名は「シミチカヨㇷ゚」であり、これが「シチカㇷ゚」に化けたというのは……ちょっと都合が良すぎませんか? と思ったりもします。

また様似町のお隣のえりも町近浦に「近呼川」が存在することも気になります。困ったことに「近呼川」と「シミチカップ川」は、かなりそっくりな地形を流れているのですね。つまり「シミチカヨㇷ゚」は ???-{chi-kaye}-p である可能性が出てくるのです。

chi-kaye-p は「自ら・折る・もの(川)」と考えられ、あるいは {chi-kaye}-p で「{折れる}・もの(川)」と見ることもできそうです。

……と、ここまでは良かったのですが、「シミ」あるいは「シミチ」をどう解釈したものか、全くこの先に進めなくなってしまいました。一応 chimi で「左右にかき分ける」という語があるので chimi-chi-kaye-p で「左右にかき分ける・自ら・折る・もの(川)」と見ることは可能ではあるのですが、何か間違っているような感じがするんですよね……。

まさかの「西近呼川」?

あと、これは「まさか……」という感もあるのですが、sum(-un)-chi-kaye-p で「西(・にある)・自ら・折る・もの(川)」だったらどうしよう……と思えてきました。アイヌ語の地名で方位を冠するものは滅多に無いのですが、えりも町の「近呼川」との対照と考えるならば、凄くしっくり来るんですよね。

門別川(もんべつ──)

mo-pet
穏やかな・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「シミチカップ川」の西を流れる川で、「ポンヒラウ川」や「ポンモンベツ川」などの支流を持ちます。『北海道実測切図』(1895 頃) には「モペッ」と描かれていて、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モンヘツ」と描かれています。

東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。

モンベツ〔茂別〕(小川)、其名義、他處に多ければしるさず。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.215 より引用)
えっ、そんなぁ……。気を取り直して『竹四郎廻浦日記』(1856) を見てみたところ……

     モンベツ
地名モンベツは遅流と云事也。深けれども水悪敷して魚類なし。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 上』北海道出版企画センター p.493 より引用)
「遅流」であれば moyre-pet で「流れの遅い・川」となりそうな感じもしますが、mo-pet で「静かな・川」あるいは「穏やかな・川」あたりと見ていいのかもしれません。

ここでちょっと気になるのが昨日取り上げた「ポンサヌシベツ川」で、「棚山の傍の川」かと考えたのですが、「穏やかな川」の対になる概念としての「出水の良くある川」だった可能性もあるのかも……?

平宇(ひらう)

pira-utur?
崖・間
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
門別川流域の地名です。シミチカップ川とポロサヌシベツ川の間には「平」という名前の三等三角点(標高 74.0 m)もあります。『北海道実測切図』(1895 頃) にも漢字で「平鵜」と描かれていて、かつてこのあたりが「平鵜村」だった(1868(明治初)年~ 1906(明治 39)年)ことを示しています。後に様似村の大字となり、1941(昭和 16)年に「字平宇」になったとのこと。

『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

 ひらう 平宇 <様似町> 古くはピラウトルといった。日高地方南部,太平洋沿岸の西平宇川流域。地名は,アイヌ語のヒラウトル(美しい砂の意)に由来(廻浦日記)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1259 より引用)
なんとも珍妙なことが書かれていますね。pira-utur であれば「崖・間」の筈ですが、pirka-ota で「美しい・砂浜」と考えたのでしょうか。

確かに『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。

しばし行、
     ヒラウト(ピラヲタ)
地名ヒラウトルは美き砂と云事也。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.493 より引用)
「ヲタ」が「ウト」に転訛したと考えられるかもしれませんが、「ピㇽカ」が「ピラ」に転訛したというのは、ちょっとどうなんだろう……と思えてきます。

ただ『午手控』(1858) の「シャマニ海岸地名の訳聞書き」には次のように記されていたので……

ヒラウトル
 両方ピラ
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.433 より引用)
やはり、素直に pira-utur で「崖・間」と見るべきではないでしょうか。

改めて『北海道実測切図』を見てみると、「ヒライト」と「ポンピタラ」という地名が描かれていました。「ヒライト」は pira-etu で「崖・鼻(岬)」となるでしょうか。これは「平鵜」の近代的な解釈とも言えそうな感じですが、『大日本沿海輿地全図』(1821) にも「ヒラウトロ」とあるので、やはり、素直に(以下略

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