(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ルランベツ
ru-e-ran-pet
路・そこで・降りる・川
路・そこで・降りる・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似町幌満の西、「日高耶馬渓」と呼ばれるあたりの地名です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には海沿いに「ルウランヘツ」と描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) には川の名前として「ルエランペ」と描かれています。『初航蝦夷日誌』(1850) には「ルランベツ 小川有」と記されています。川の名前と見て良さそうな感じですが、『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。
上りて直に下り
ルランヘツ
地名ルランヘツは上に沼有と云事也。如何やらん。
(松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.491 より引用)
上に沼……? とてもそのような地形には見えないのですが、松浦武四郎もやはり疑問を抱いたのか「如何やらん」としています。ただ『様似町史』によると「ホロマンベツに昔からふたつのトウ(沼)があったといわれている」とのこと(=ルランベツ川ではなく幌満川の話です)。陸軍図を見た限りではそれらしい沼の存在は確認できませんが、「町史」には「付言」として「アイヌたちは、トウをハッタリ(淵)にも用いることがある」とあります。「二つのトウ」が実在するか否かはともかく、この「廻浦日記」の記録は「ホロマンベツ」と「ルランヘツ」を取り違えた可能性があるかもしれません。
「路がそこで降りる川」か
『午手控』(1858) には次のように記されていました。ルランヘツ
道より下る
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.433 より引用)
かなり穏当な解になりましたね。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。Rueran be ルエラン ベ 阪 寛政年間諸子ノ日誌ニ念佛坂ト唱ヘ絶險ノ地ナリトアルハ是レナリ「寛政年間」は 1789 年から 1801 年までなので、この「諸子」というのは誰のことなのでしょう。秦檍麿の『東蝦夷地名考』(1808) よりも少し遡ったあたりになるのですが……。
永田地名解は例によってざっくりした書き方でしたが、『北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。
ルランベツ アポイ岳の裾に発して海に注ぐ小川で,路の降っている川の意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.580 より引用)
これは知里さんテイストのある解ですね。ここまでの記録を総合すると ru-e-ran-pet で「路・そこで・降りる・川」のように思われます。一般的にはru-e-ran-i で「路・そこで・降りる・ところ」となる場合が多いですが、-pet となっているのがユニークなところでしょうか。地形を見る限りでは山越えをする道は無さそうですが、そうではなくて、冬島と幌満の間の「様似山道」が川(谷)に向かって降りる故に「路がそこで降りる川」と呼ばれた……と考えたいところです。
オソスケウス川
o-so-u-ka-us-i?
河口・滝・互い・の上・多くある・もの(川)
河口・滝・互い・の上・多くある・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似町山中とコトニの間、「日高耶馬渓」の西側で海に注ぐ川です。『北海道実測切図』(1895 頃) では何故か「コト゚子イ」という名前で描かれています。現在は北西に「コトニ川」があるのですが……あ、よく見ると「コト゚子イ」の西隣に「オシキウシ」という川が描かれていますね。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「
ヲソフケシ、ヲソフケウシ
『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。越而凡弐丁斗ニ而
ヲソフケシ
此処より左右ニ追分有る也。右の方海岸大難所。左り之方爪先上り野道なり。馬に而行ニよろし。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.334 より引用)
『午手控』(1858) の「シャマニ海岸地名の訳聞書き」には次のように記されていたのですが……ヲソフケウシ
不知
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.433 より引用)
残念です。東蝦夷日誌 (1863-1867) にも「ヲソフケウシ(小澤)」とあるものの、その意味については触れられていません。オシキウシ?
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。O-skiki ush オシキ ウシ 茅場 川尻ニ茅多キ處うーん。これもどこまで信じていいのやら……。
河口に滝が重畳する川?
現在の「オソスケウス川」はかつての「コト゚子イ」の位置にあり、本来の「ヲソフケウシ」あるいは「オシキウシ」は現在の「コトニ川」の位置にあったと考えられます。よって現在の「コトニ川」から「オソスケウス」の意味を推測することになるのですが、「オソスケウス」であれば o-soske-us-i で「河口・地肌が顕れている・いつもする・もの(川)」と見て間違い無さそうに思えます。
ただ松浦武四郎は「ヲソフケシ」あるいは「ヲソフケウシ」と記録しているので、これを o-soske-us-i と捉えて良いのか、少し悩ましいところです。
永田地名解は一旦見なかったことにして(ぉ)「ヲソフケウシ」を解釈してみるならば、o-so-u-ka-us-i で「河口・滝・互い・の上・多くある・もの(川)」と読めたりしないでしょうか。河口部に滝のような落差が重なっている、あるいは「水中のかくれ岩」が重なっていたのではないかな……という想像です。
コトニ
kotne-i
凹んでいる・ところ
凹んでいる・ところ
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
現在の「オソスケウス川」の北のあたりの地名で、同名の川が西側を流れています。この二つの川はどこかのタイミングで取り違えられてしまったようで、『北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「オソスケウス川」の位置に「コト゚子イ」と描かれています。コト、あるいはコトニという美女
『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。コ ト ニなんかこのあたりの廻浦日記は珍妙な解が続く印象があるのですが、『午手控』(1858) にもほぼ同じ内容が記されていました。しかも東蝦夷日誌 (1863-1867) にも……
地名コトニ、昔此処に土人小屋有、其先祖コトニといへる女の子至て美女なりしとかや、其女此処にて死せしより号る也。
(從レ是野道) 山の平道通り(十四町廿四間) コトニ(小川、小休所) 此所より會所元よく見ゆ。此邊黒水晶の矢根石 を出す。コトニ譯 て、昔しコトといふ胡女爰 にて死せしが、其墓 印より木芽萠出 しをもて號 と。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.220 より引用)
あらら、ここまで堂々と書かれていましたか。低いところ
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。Kotune-i コト゚ネイ 低處 此處矢根石多ク出ヅkotne-i で「凹んでいる・ところ」ではないかとのこと。これは現在の「コトニ」集落(「東冬島」バス停の近く)あたりではなく、況してや「コトニ川」のあたりでもなく、現在の「オソスケウス川」のあたりを指している筈です。
面白いことに、ジェイ・アール北海道バス・日勝線の「ことに」バス停は「コトニ」付近ではなく「オソスケウス川」の河口付近にあるんですが、このあたりは確かに「凹んでいるところ」と呼ぶのに相応しい地形のように思えます。
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