2026年8月25日火曜日

北の大地で燃費走行 (108) 「997.3 km」

国道 40 号を南西に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

早速赤信号に引っかかってしまったのですが……。

2026年8月24日月曜日

北の大地で燃費走行 (107) 「文化遺産オンライン」

道央自動車道で旭川市に入りました! 毎度おなじみ土手の上のカントリーサインですが、残りの燃料がかなり少なくなっていたので「良くここまで来れたな……」というのが正直な感想です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

このあたりの道央道は暫定 2 車線ですが、上下線が完全にセパレートされた構造です。暫定 2 車線でも完成 4 車線相当の土地(カルバートも?)が必要になりそうですが、対向車線の車が路外逸脱したとしても複合事故に繋がる危険性が少なさそうなので、個人的には歓迎したい構造です。

2026年8月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1426) 「パンケポロカアンベ沢川・ペンケポロカアンベ沢川・シュプキウシュナイ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケポロカアンベ沢川

panke-{horka-an}-pet?
川下側・{我ら U ターンする}・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
島呂布沢川から鵡川を 5 km ほど遡ったあたりで東から合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケホロカアンペ」と描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では少々妙なことになっていて、「モトツ」と「ヘンケモトツ」よりも上流側に「ヘンケシユマルフ子」という支流があり、さらにその上流側に「ホロカンベ」と「ヘンケホロ?カンベ」という川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

過て
     シユマルフ子ナイ
右の方小川。大岩大石簇々として小川に有るが故に号る也。また少し上りて
     ホロカンベ
     ヘンケホロカンベ
二川とも右の方小川なりと。其名義は屈曲たるが故に号しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.597 より引用)
「島呂布沢川」の記事では見逃してしまったのですが、松浦武四郎は「シユマルフ子ナイ」という川を複数記録していたのですね。そしてそこから少し上った先に「ホロカンベ」がある……としています。「シユマルフ子ナイ」が「右の方」なのは現在の「島呂布沢川」とは相違があるものの、少なくとも順番だけは合っているようにも思えます。

「パンケポロカアンベ沢川」を遡ると南東に向かうことになります。鵡川は北から南に流れる川なので、「パンケポロカアンベ沢川」は本流から見ると *やや* U ターンしているように見えたかもしれません。panke-{horka-an}-pet で「川下側・{我ら U ターンする}・川」と考えて良さそうですね。

ペンケポロカアンベ沢川

penke-{horka-an}-pet?
川上側・{我ら U ターンする}・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年8月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1425) 「乳牛内・ニタカイ沢川・島呂布沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

乳牛内(ちうしない)

chis-us-nay??
中凹み・ついている・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「ニタカイ沢川」の川向かい、鵡川の西の山の頂上付近に「乳牛内」という名前の三等三角点が存在します(標高 472.3 m)。

「乳牛内」を「ちうしない」と読ませるのは傑作ですが、いかにもアイヌ語に由来しそうな名前です。『北海道実測切図』(1895 頃) を見てみると、案の定「チシュシナイ」という川が描かれていました。「乳牛内」三角点の南麓を流れる川のようですが、地理院地図や国土数値情報には見当たりません。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」にも記録が無さそうに思えます(見落としていたらすいません)。

「チシュシナイ」は chis-us-nay だと思われるのですが、chis には複数の解釈があります。例によって『地名アイヌ語小辞典』(1956) を引用しますと……

chis, -i ちㇱ ①立岩。②【ナヨロ】岩石の坊主山;丸い岩山。③中凹み。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.20 より引用)
「立岩」かもしれないし「中凹み」かもしれない……と言った感じです。改めて地形図を見てみると、「乳牛内」三角点の南東にも山が聳えていて、両者の間が ok-chis(うなじの中凹み)のようになっています。ということで、chis-us-nay は「中凹み・ついている・川」だった可能性があるかもしれないなぁ……と思わせます。

もっとも物は言いようで、三角点の南東にある山が「丸い岩山」で、その横を流れているから chis-us-nay だった可能性もあります。無理に特定の意味に固定しないほうが良いのかもしれませんね。

ニタカイ沢川

ninar-kay??
台地・折れる
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年8月21日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1424) 「チクニナイ川・パンケシケレベ沢川・ペンケシケレベ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

チクニナイ川

chi-kus-nay?
我ら・通行する・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別安住で東から鵡川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「チク」という川が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「チクニナイ」という川が描かれていて、川の北には「チクニ山」とも描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

     チ ク
右の方小川有。其名義は毒矢を置しと云事なるよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.594 より引用)
これは……。確かに ku は「弓」を意味します。また chi-ama-ku で「我ら・置く・弓」となり、これは「仕掛け弓」を意味します。「仕掛け弓」は獲物が「さわり糸」に触れると矢が飛んで獲物を射止めるという優れ物です。

「仕掛け弓」の鏃にはトリカブト等の毒が塗られているので「毒矢」というのは理解できるのですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chikuni   チクニ   枯木
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.213 より引用)
これは……(本日ニ度目)。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

chí-ni ちニ(ち一ニ) 枯木。[枯れている・木]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.18 より引用)
「枯れ木」であれば chi-ni であり、chi-ku-ni とはならないような気がします。chi が「枯れている」であり ni が「木」であるのは間違いないので、ku は見なかったことにしたんでしょうか……?

「チク」であれば chi-ku で「我ら・飲む」と考えるほうが自然です。また、地名だと chi-kus で「我ら・横切る」も頻出します。kus の解釈も複数ありそうな感じで、単に「横切る」場合もあれば「通行する」場合もありそうです。

「我ら・通行する・川」?

現在の「チクニナイ川」をよく見てみると、この川を遡って分水嶺を越えると平取町の「シュウター川」(仁世宇川西支流)に出ることができるため、もしかしたら chi-kus は「我ら・通行する」と解釈できるのかもしれません。

松浦武四郎が記録した「毒矢を置く」説は、chi-ama-ku-ama が落ちたということでしょうか。ただその場合、「実測切図」が何故「チクナイ」としたのか……という点で若干の疑問が残ります。

chi-ku-un-naychi-ku-us-nay で「我ら・弓・そこにある・川」と考えることも理屈の上では可能かもしれませんが、一般的には ku-oma-nay で「仕掛け弓・そこにある・川」となりそうな気もします。

既存の解を全否定することになってしまいますが、chi-kus-nay で「我ら・通行する・川」だったと考えたくなってきました。

パンケシケレベ沢川

panke-chi-kere-pet??
川下側・自ら・削る・川
(?? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、独自説、類型あり)

2026年8月20日木曜日

北の大地で燃費走行 (106) 「比布インター!?」

比布町に入りました。カントリーサインはスキーヤーのピクトグラムといちごのイラストです。比布町の「ぴっぷスキー場」は一見、道内に良くある「町民スキー場」のようにも思えますが、実は結構本格的なスキー場なんですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

比布町には「ぴっぷスキー場」の最寄り IC でもある「比布北 IC」と、道央自動車道と接続する「比布 JCT」が存在します。一応町内ではありますが、町の北はずれを通っているので、町民の人には使いづらいかも……?

2026年8月19日水曜日

北の大地で燃費走行 (105) 「『マイタケ橋』と『シメジ橋』」

安足間大橋」で石狩川を渡って愛別町に入ります。町を上げての「きのこ」推しのようで、当然のようにカントリーサインも「きのこ」です。
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「愛山こ線橋」で JR 石北本線と国道 39 号を一気にオーバークロスします。かつては石北本線に「愛山駅」がありましたが、2024 年 3 月に廃止されてしまいました。

2026年8月18日火曜日

北の大地で燃費走行 (104) 「燃料残量警告灯」

旭川紋別自動車道の「なかこしトンネル」(長さ 3,284 m)を抜けて、「トイマルクシュベツ橋」でトイマルクシュベツ川を渡ります。
昨日の記事では Photoshop の「反射の削除」がいい! みたいなことを書いたような気がするのですが、ダメな時は全然ダメ……というか、どちらかと言えばバッチリうまく行くほうが珍しいような気もします。故に決まった時はガッツポーズものなのですが……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

層雲峡(と北見帯広)への入口となる「上川層雲峡 IC」まではあと 11 km とのこと。上川層雲峡 IC は管理事務所?が隣接していて、自由に利用できるトイレもあります。

2026年8月17日月曜日

北の大地で燃費走行 (103) 「かみこしトンネル」

長さ 4,098 m の「北大雪トンネル」を抜けて上川郡上川町に入りました。ここから先は上川総合振興局エリアです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「長い下り坂 速度注意」とあります。勾配そのものは 3.0 % らしいので全然大したこと無いですが、速度が出すぎることへの注意喚起でしょうか。

2026年8月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1423) 「パンケルサノ沢川・トサノ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケルサノ沢川

panke-tokse-i?
川下側・凸起している・もの
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別富内の西、穂別平丘の北で鵡川に合流する北支流です。国土数値情報では何故か「パンケサノ沢川」とされています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケトサ」という名前の川が描かれています。ただ現在の地形図と比較してみると、この「パンケトサ」は現在の「梅の沢川」の位置を流れているようにも見えます。もっともその場合、対岸に描かれた「ペンケニナツミㇷ゚」の位置がおかしいことになりますが……。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     ト サ
左りの方相応の川也。其名義は鹿の腹の下の方を犬が盗みて置し由也。よつて号るとかや。トサとは鹿の腰の骨の事なりと云へり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.591 より引用)※ 原文ママ
これは……。ちょっと地名解としてはあり得ないような感じもするのですが、何らかのヒントが隠れている可能性もあるので無下にはできません。「トサとは鹿の腰の骨の事」とありますが、果たしてどう解釈したものか……。

謎の「トサ」とは

動物編』(1976) にはそれらしい語が見当たらなかったのですが、意外なことに「人間編」に次のような記述がありました。

§ 753.むなげ(胸毛)
は? と思わせる項目名ですが……。

( 5 ) 鹿の胸の白い毛の部分 toossa〔to-ó-sa 卜おサ〕《ホロベツ
  注.──軽いものの譬に用いる《ユ研 II,pp. 715,720》。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 II「分類アイヌ語辞典 人間編」』平凡社 p.405 より引用)
参考文献の「ユ研 II」は金田一京助『ユーカラの研究二』(1931) とのこと。「鹿の腰の骨」と「鹿の胸の白い毛」では相当な開きがありますが、辿り着けた限りではこれが一番近そうな感じです。でも、「犬が鹿の腰の骨を盗んで隠した」川というのは、流石にいくらなんでも……ですよね。

「パンケルサノ沢川」と「トサノ川」

現在「パンケルサノ沢川」とされる川は『北海道実測切図』では「パンケトサ」と描かれていますが、よく見ると上流側に「ペンケトサ」という川も描かれています。この川はむかわ町穂別富内の北東を流れていて、現在は「トサノ川」と呼ばれています。

従って、(これは本来は「禁じ手」ですが)二つの川に共通点を見出すことができれば、それが名前の由来となった可能性が高くなります。ということで、まずは(例によって)地形に共通点を見出したいところです。

実測切図に「パンケトサ」と描かれた「梅の沢川」と、「ペンケトサ」と描かれた「トサノ川」のどちらも河口の周辺が平地になっていて、また川の左右が段丘になっている……ようにも見えます。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には tos-ka で「低い崖;小坂;どて」を意味するとあります。「梅の沢川」と「トサノ川」は「土手」とは言い難いものの、「低い崖」とは言えるかもしれない……ような気もします。

また tokse-i で「凸起している・もの」、即ち「瘤のような小山」を意味するともあります。実際の地形に即しているかと言われると若干微妙なところもありますが、「トサ」という地名との近さを考えると、これが本命かなぁとも思わせます。

もっとも、どちらの試案も「川の名前としては適切ではない」(=小さな山を指した地名)という問題を抱えていますが、これは -us あたりが省略されたとすれば、一応はクリアできるかと思われます。

トサノ川

penke-tokse-i?
川上側・凸起している・もの
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年8月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1422) 「尋内・幌去川・オソスケナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

尋内(たんねない)

tanne-nay
長い・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別平丘は巨大な扇状地のような地形なのですが(故に「平丘」でしょうか)、扇状地の東側に山があり、その頂上付近に「尋内」という名前の三等三角点が存在します(標高 315.7 m)。

三角点なので、まずは「点の記」で読み方を確認して……と思ったのですが、なんと「尋内」で「たんねない」と読むとのこと(!)。どこからどう考えても tanne-nay で「長い・川」ですよねこれ……(汗)。

北海道実測切図』(1895 頃) には、山の東側に「シータン子ナイ」と「モタン子ナイ」が描かれていました(現在の道道 131 号「平取穂別線」のあたり)。「シータン子ナイ」は現在の「幌去川」の支流(名称不明)に相当しそうに思えます。


なお「シータン子ナイ」と「モタン子ナイ」は「パンケオㇱョキナイ」に合流後、道道 610 号「占冠穂別線」の「富内橋」の近くで鵡川に合流することになるのですが、これらの川名が軒並み失われているのは不思議な感じもしますね。

幌去川(ほろさりがわ)

poro-sar?
大きな・葭原
(? = 旧地図等で未確認、既存説、類型あり)

2026年8月14日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1421) 「ニサナイ・フカウシ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ニサナイ

e-san-nay??
頭(水源)・出崎・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別から道道 74 号「穂別鵡川線」の「穂別橋」を渡り、道道 131 号「平取穂別線」で 1.5 km ほど東に向かったあたりの地名です(「ニサナイ会館」という施設と、同名のバス停があるみたいです)。

https://kenzkenz.jp/oh3/?ss=1東西には「イサナイ」という名前の川が描かれていました。

北海道実測切図』(1895 頃) では現在と同じく「ニサナイ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

五六丁にて
     イサナイ
右のかた小川也。是ウエンナイの上の沢也。蘆荻原也。凡五丁計上には山有。其名義大木のうとうの木有りしと云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.587 より引用)
『北海道実測切図』には「ウエンナイ」は見当たらないのですが、位置的には「実測切図」では「ペンケマコップ」と描かれた川だった可能性がありそうです。

しかし、これは一体……? 「うとう」と言えば「善知鳥」ですが、これは海鳥ですし……。幸いなことに頭註にヒントがあったのですが……

[午十六手控]
大なるうと木
うどの大木か?
水木
utu kanni
isapatani
[知里辞典]
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.587 より引用)
isapatani は『植物編』(1976) によると i-sapa-ta-ni で「鮭の打頭棒」を意味するとのこと。分解すると「それの・頭・打つ・木(棒)」となるみたいです。

松浦武四郎が記録した「イサナイ」は、前述の通り『北海道実測切図』では「ニサナイ」に化けてしまっています。厄介なことに「イサナイ」でも「ニサナイ」でも解釈が難しいのですが、仮に……「エサナイ」だったとしたらどうでしょう。

地名アイヌ語小辞典』(1956) の san の項には、次のように記されています(これまでも何度も引用しているので「知ってるよ」という方はすいません)。

san, -i さン 《名》①坂。②出崎。③棚;棚のような平山。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.116 より引用)
地名では「坂」よりも「出崎」や「棚(棚のような平山)」として理解されることが多いような印象があるのですが、今回は果たして……。「マコップ沢川」の項でも記した記憶があるのですが、マコップ沢川が流れる丘陵は「棚のような平山」と呼べそうに思えます。

実測切図で「ニサナイ」と描かれた川は、「ペンケマコップ」(=マコップ沢川)の東隣を流れています。これは「棚のような平山」の東ということになるのですが、「ニサナイ」と思しき川自体の東は「出岬」と呼べそうな地形なんですね。

ということで、現地の地形を考慮すると e-san-nay で「頭(水源)・出崎・川」だったんじゃないかと思えてきます。文法的には奇妙な形ですが、おそらく san-nay の間に -us あたりが存在していた可能性もあるんじゃないかなぁ、と……。

フカウシ沢川

utka-us-i
川の波だつ浅瀬・ついている・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年8月13日木曜日

北の大地で燃費走行 (102) 「できた時から旧白滝」

「白滝トンネル」を抜けて旭川に向かって走行を続けます。雲行きが怪しいですが、残りの燃料だけで本当に旭川まで辿り着けるのか、暗雲垂れ込めると言った感じですね……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そう言えば……という話ですが、「白滝トンネル」は「下白滝」と「旧白滝」の間にあるので、既に旧・白滝村(ややこしい)エリアに入っていたことになりますね。そしていつの間にか 70 km/h 制限になっていました。

2026年8月12日水曜日

北の大地で燃費走行 (101) 「第1種第2級 設計速度 100 km/h」

国道 333 号と丸瀬布 IC の間を結ぶ道道 1163 号「丸瀬布インター線」に入りました。見るからに期待の持てる路線名ですが、起点が国道 333 号交点で終点は丸瀬布 IC、総延長は 0.4 km とのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

丸瀬布 IC の立地はコストと利便性の最適値を追求したように思えます。料金所は存在しないものの、管理車輌の転回場などを設ける必要性はある筈なので、その辺を考慮して無理のない立地になっているような感じです。

2026年8月11日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (191) 函館(函館市) (1878/8/16(金))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き普及版の「第三十四信」(初版では「第三十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

盆祭り

ユースデン(イギリス領事)夫妻と刑務所の見学に出かけたイザベラは、その日の夜に「the Bon festival」に繰り出しました。

 これは日本の大きなお祭りの一つ「提灯の祝祭」で、これは中国から 8 世紀に導入されたものですが、もともとの目的はまかった霊に仏教の煉獄[地獄]からの解放を手に入れさせることだったのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.144 より引用)
思わず「へぇ~」と口走りたくなる内容ですね。今の時期が「お盆」だということは大抵の人が知っているかと思いますが、「お盆の目的」については認識していない人が多いのではないでしょうか。

既に「お盆」が単なる「夏祭り」に変容しつつあることはイザベラも認識していたようで、次のように記していました。

お墓に食べ物を供えることは、まだやっています。しかし、祭りの主な形は、国民の祭日で、酒が豊富に振舞われ、何千という提灯が灯され、一般に大祭に似ています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.144 より引用)

祝日の大群衆

イザベラとユースデン夫妻(だと思われる)は夜の 9 時頃に「盆祭り」に繰り出したとのこと。遅い時間にもかかわらず、通りには夜店が立ち並びとても明るく照らされていたとのこと。

きらびやかな着物を着て、風変わりに髪を結った子どもたちは、すべての小店に立ち止まり買い物をします。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.145 より引用)
「きらびやかな着物」というのは浴衣のことでしょうか。「風変わりに髪を結った」というのは若干謎ですが、いわゆる「日本髪」のことでしょうか……?

太鼓の音、鐘、ドラ、弦楽器が騒々しい不協和音を鳴らしています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.145 より引用)
イザベラは日本の「音楽」に対して殊のほか批判的で、日光の「金谷家」でもご主人のことを「神社での不協和音(雅楽)演奏の指揮者である」と記していました。まぁ西洋音楽に慣れ親しんだイザベラにとってはそのように感じられた(そのようにしか感じられなかった)というのは理解できなくもないのですが……。

「盆祭り」は祖先の御霊に安息を与えるためのものなので、墓地とそこに続く参道?が舞台となっているのですが、そこに無数の提灯が吊るされているのを目にしたイザベラは「すべてが美しく、すばらしい」と記しています。

神道の鏡のある小さな仏教寺院には、きらびやかに纏った僧が、数え切れないほどの提灯の柔らかい光の真ん中に照らされた祭壇の前に膝をおっています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.145 より引用)
「神道の鏡のある仏教寺院」とは……? 原文でも In a small Buddhist temple with a Shintô mirror とありますが、これは何のことでしょう?

 墓地の入り口には、15 本の木製の柱があり、それぞれに一体の神様の名前が刻まれています。それぞれの標柱に車[マニ車]が付いています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.145 より引用)
マニ車」は「摩尼車」とも表記され、本来はチベット仏教の仏具です。それが何故函館に……という疑問が湧いてきます。Wikipedia には「マニ車」とは性質を異にする「輪蔵」についての言及もあるのですが……

その車を 1 回廻すとその神様にお祈りをしたのと同じ効果があります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.145 より引用)
この説明を見る限り、これは明らかに「マニ車」ですよね。残念なことに、イザベラはこれ以上「マニ車」に深入りすること無く、その後は「盆祭り」についての詳細を記していました。「盆祭り」は、イザベラの目には概ね「美しい光景」として写ったようです。

日本奥地紀行「普及版」の第三十四信では、イザベラが「小シーベルト」の旅行が「失敗に終わる」と予言したあと、「日本の医者」「函館病院」「刑務所」「刑務所の快適さ」「菊の栽培」そして「盆祭り」「祝日の大群衆」がまるまるカットされています。ただ締めの一節だけは「普及版」でもちゃんと残されていました。

 明日私は長い間計画してきた旅行に出発したいと思う。私は経験をつんだ旅行家の自信をもって、一人で計画してきた。私はこの旅行を非常に楽しみにしている。原住民を訪れることは、きっと新奇で興味ある経験に満ちたものとなるであろうから。これから長い間、さようなら。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.344 より引用)
大変長らくお待たせしました。ようやく(ついに)、イザベラの「蝦夷紀行」がスタートする……ということですね!

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2026年8月10日月曜日

北の大地で燃費走行 (100) 「シェルと出光」

国道 333 号で遠軽丸瀬布の市街地にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

市街地ということで 40 km/h 制限となります。旭川紋別自動車道の制限速度は 70 km/h くらいだったと思いますが(うろ覚え)、30 km/h の差は大きいですよね。

2026年8月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1420) 「野多峰橋・ヌタポマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

野多峰橋(のたっぷはし)

nutap
川の湾曲内の土地
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
穂別ダムの東を「町道穂別夕張線」が通っていて、「野多峰橋」で穂別ダムをショートカットしています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が確認できず、『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川が描かれているものの川名の記入はありません。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には「ヌタホマナイ」という川の存在が記されていますが、これは穂別ダムの北、道東道のむかわ穂別 IC の西で穂別川に合流する「ヌタポマナイ川」のことで、「野多峰橋」とは直線距離で 3 km ほど離れています。

まずは『地名アイヌ語小辞典』(1956) で nutap の意味を確かめてみましょう。

nutap, -i ヌたㇷ゚ ①川の彎曲内の土地。 ②【ナヨロ】山下の川ぞいの平地。③【サマニ】川ぞいの岩崖の上の平地。kim-un-~山奥の峰の上の岩原。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.70 より引用)
いくつかの解釈が成り立つようですが、やはり一般的には①が多いように感じられます。穂別ダムができる前の地形を確認しようと陸軍図を眺めてみたところ……。


おおお、現在の「穂別大橋」の下に巨大な nutap があったのですね。nutap はあくまで「川の湾曲内の土地」なので、川名として記録されることはありません。そのため戊午日誌にも出てこなかったものだと思われます。

「野多峰橋」のあたりが「ノタップ」と呼ばれたという直接的な証拠はありませんが、状況証拠はバッチリと言った感じでしょうか。

ヌタポマナイ川

nutap-oma-nay
川の湾曲内の土地・そこにある・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年8月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1419) 「マツカシマップ川・ホロカサヌシュベ沢川・オマナイ橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

マツカシマップ川

mak-us-i??
奥に行く・いつもする・もの
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 274 号の「佐主橋」の北西で「サヌシュベ川」に北から合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には川として描かれているものの、川名の記入はありません。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「マカウシ」と描かれているように見えます。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」にも次のように記されていました。

  尚此また川すじの事を聞に、少し上りて
       マカウシ
  右の方小川。此川すじ款冬薹ふきのとう多く有るよりして号しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.583 より引用)
どうやら makayo-us-i で「ふきのとう・多くある・もの(川)」と見て良さそうな感じでしょうか。

ただ、この川は穂別川の西隣を流れていて、これは穂別川から見ると「奥にある」あるいは「後ろにある」と言えそうな場所です。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には makan で「奥に行く」を意味する完動詞と、mak-un で「奥にある」あるいは「奥に行く」を意味する完動詞が立項されていますが、mak-us あるいは makan-us で「奥にある・そうである」と解釈できたりするでしょうか。

地名においては「幕別」のように mak-un が使われるケースが圧倒的に多いのですが、これは川が二手に分かれていて、山手側の分流(本流から分かれて本流に戻る流れ)をそう呼ぶことが多いとのこと。今回の「マツカシマップ川」は良くある mak-un とは異なるように思えます。

手元の資料には mak-us という用例が見当たらないのですが、i-osmak-ussermak-us と言った例はあったので、mak-us あるいは makan-us という言い方も、もしかしたらあったんじゃないかな……と考え始めています。

伝承された解は makayo-us-i ですが、本来は mak-us-i あたりで「奥に行く・いつもする・もの」だったのではないでしょうか。

ホロカサヌシュベ沢川

horka-{san-us-i}
U ターンする・{サヌシュベ川}
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年8月7日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1418) 「ソソシ沢川・サヌシュベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ソソシ沢川

so-so-us-i?
滝・滝・ついている・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町穂別稲里、国道 274 号の「佐主橋」から道道 74 号「穂別鵡川線」を 1.6 km ほど南に進んだところで西から穂別川に合流する支流です。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ソーサヌシュペ」と描かれている川が現在の「ソソシ沢川」のことでしょうか。北隣の国道 274 号沿いを「サヌシュペ」が流れているので、その派生形……ということでしょうか?


ところが戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

 また少し上り
      シヨシヨセ
 左りの方小川。其名義は川口に滝有るによつて号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.582 より引用)※ 原文ママ
戊午日誌の記録と『北海道実測切図』の川名の乖離が気になりますが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Sō sanush pe   ソー サヌシュ ペ   瀑下ル川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.212 より引用)
どうやら「実測切図」は永田地名解に汚染されたの影響を受けたようですね。現在の「ソソシ沢川」という川名は、松浦武四郎が記録した「シヨシヨセ」に由来すると考えたいところです。

松浦武四郎は「シヨシヨセ」を「川口に滝がある」としましたが、これは so-so-us-i で「滝・滝・ついている・もの(川)」と見るべきでしょうか。滝の多い川だった、ということになろうかと思われます。

それはそうと、永田方正が「ソーサヌシュペ」としたのは……何故なんでしょう……?

サヌシュベ川

san-us-pe?
出崎・ついている・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年8月6日木曜日

北の大地で燃費走行 (99) 「金・銀・銅」

道道 305 号「紋別丸瀬布線」の「金八トンネル」を抜けて遠軽町にやってきました。紋別の「カニの爪」には負けるかもしれないものの、「瞰望岩」というのもなかなか鉄板ですよね。
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トンネルの前後には除雪車輌の回転スペース(だと思う)があるんですが、回転しているのは除雪車輌だけでは無さそうな感じです。名羽トンネルのあたりもこんな感じでしたよね……。

2026年8月5日水曜日

北の大地で燃費走行 (98) 「フジヤマ、ゲイシャ!」

道道 305 号「紋別丸瀬布線」を南下して「金八トンネル」に向かっています。鴻之舞金山跡を通り過ぎ、随分と山の中に来た……と思っていたのですが……
なんとこの先で道道 137 号「遠軽雄武線」と合流するとのこと。

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不思議なことに青看板の先には交叉点は無く、「上鴻之舞金竜川」(凄い名前だ……)を横断する「第 2 号橋」が見えてきましたが……

2026年8月4日火曜日

北の大地で燃費走行 (97) 「鴻之舞!」

「上藻別駅逓」の前を通過して道道 305 号「紋別丸瀬布線」の「金八トンネル」に向かいます。道路情報表示板は特に何も表示していませんが、便りがないのは良い知らせ……ということですよね(単に運用期間外だったりして)。
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カーブを抜けた先には「住友金属鉱山株式会社 鴻之舞採石所」がありました(!)。鴻之舞と言えばかつて金山があったことで有名ですが、今も「住友金属鉱山」が所有していたんですね。

2026年8月3日月曜日

北の大地で燃費走行 (96) 「→駅逓」

紋別市上藻別にやってきましたが……えっ?
この看板?は、仕事を選ばないことでは定評がある(?)あのキャラですが……

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大変残念なことに、左側をフレーム内に収めることはできませんでした。

2026年8月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1417) 「キウス・シュッタノ沢川・斗内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

キウス

chiw-as-i?
波・立っている・ところ
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
穂別川の流域、茂別の北のあたりの地名です。この「キウス」も茂別と同じく通称……でしょうか?

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲトイマケウシ」と「キフシ」、そして「ヘンケキフシ」という地名(川名かも)が描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「オトイマキナウシ」と「ペンケキウシ」という川がそれぞれ描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

 凡三丁計も上りて
      ヲトイマケウシ
 左りの方小川。其名義は川端まゝ来りまた上え行、しばしにて川え落ると云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.576-577 より引用)
??? 何でしょうこれは……? 松浦武四郎はどうやらここで引き返したようですが、この先も聞き書きが続いています。

 また少し上りて
      キブシ
 左りの方小川。是ヲトイマケウシの川端え来りし処の並びなりと。其名義チウシのよし、汐早く有ると云儀なり。チは汐也、ウシは早く有ると云儀。また少し上りて
      ヘンケチウシ
 同じ方なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.577 より引用)
松浦武四郎は「ヲイトマケウシ」「キブシ」「ヘンケチウシ」という川があると記録していますが、「キブシ」は「チウシ」(の転訛)であると明記している一方で、「ヲイトマケウシ」については特に関連性を記していません。

「キブシ」の項に「チは汐也、ウシは早く有ると云儀」とありますが、これは chiw-as-i のことでしょうか。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

chiw-as-i チわシ 川尻の瀬;川口の波立っている所。[水脈・立っている・所]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.22 より引用)
「キウシ」は ki-us-i で「茅・多くある・ところ」と解釈することも可能ですが、インフォーマントが chiw-as-i で「波・立っている・ところ」だと言っている以上、まずはその解釈を尊重すべきでしょうか。

となると気になるのが「ヲトイマケウシ」が「キブシ」あるいは「チウシ」と関係があるのか否かです。「トイマ」は tuyma で「遠い」だと思われますが、何故 o- を冠しているのかが謎です。

ただ『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると otuymasirun で「遠くから」を意味するらしく、これは o-tuyma-sir-un で「その尻が・遠い・所・にある」と分解できるとのこと。

だとすれば o-tuyma-chiw-as-i は「尻が・遠い・波・立っている・ところ」と解釈できるのかもしれませんが、地名(川)においては「尻=河口」であることが多いので、「尻が遠い」というのは謎な感じもします。

e-tuyma で「頭が・遠い」であれば、「椴森」四等三角点の南のあたりまで遡ることができる川(谷)があるので、この川をそう呼んだ……という可能性も出てきますね。

シュッタノ沢川

sut-ta??
麓・切る
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年8月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1416) 「パンケオピラルカ沢川・茂別・ペンケベツ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケオピラルカ沢川

panke-o-pitar-ka?
川下側・河口・川原・かみ
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
穂別川の西支流で、穂別の市街地の北側、道道 933 号「北進平取線」沿いを流れています。道道平取北進線の「オビラルカトンネル」の 2 km ほど北には「帯裸加」二等三角点があり(標高 407.3 m)、これも「おびらるか」と読むとのこと……(汗)。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ハンケヲヒラルカ」と描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) にも「パンケオピラルカ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「武加和日誌」には次のように記されていました。

 また此方に
      バンケヲヒラルカ
 南岸相応の川也。是当川第一の支流。其名義は川口に平が有と云儀なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.572 より引用)
え……? panke-o-pira までは理解できるとして、後ろの「ルカ」をどう解釈すれば良いのでしょう。永田地名解 (1891) は、まるでこの問いに答えるかのような解を記していたのですが……

Panke o pira ruka   パンケ ヲ ピラ ルカ   下ノ川尻ノ崖路ノ上
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.212 より引用)
うーん……。pira-ru-ka で「崖・路・かみ」だと言うのですが、なんぜ ru が含まれているの? と疑問に思ってしまいます(日高町の「平賀」のように pira-ka でいいじゃないか……と)。

この「パンケオピラルカ」ですが、pira-ru ではなく pitar(川原)なんじゃないかなぁと思ってしまいます。panke-o-pitar-ka で「川下側・河口・川原・かみ」なのではないかなぁ……と。

もっとも陸軍図を見ると、「パンケオピラルカ沢川」の河口から鵡川を少し遡ったところに川原らしきものが描かれているものの、「ペンケオピラルカ沢川」の河口周辺にはそれらしき川原が見当たらないように思えるのも事実です。pira-ru でも pitar でも無い正解が別にありそうな気も……?

一応言い訳というか、いや言い訳でしか無いのですが、「パンケオピラルカ沢川」と「ペンケオピラルカ沢川」は、どちらも最下流部に僅かな平地があります。これが pitar なのであればビンゴっぽい感じなんですが……。

茂別(もべつ)

mo-pet
小さな・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)