2025年11月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1315) 「アクマップ川・リライベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

アクマップ川

ar-ku-oma-p?
もう一つの・仕掛け弓・そこにある・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠万世と明和の間あたりで新冠川に注ぐ東支流です。アクマップ川自体が複数の支流を持つ川で、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはもっとも南側の支流が「アクマウ」と描かれていました。

北海道実測切図』(1895 頃) では、現在の「アクマップ川」に相当する流れが「アㇰマㇷ゚」と描かれているように見えます。


『角川日本地名大辞典』(1987) の「明和 <新冠町>」の項には次のように記されていました。

地名は,アイヌ語のアクマップ(きれいな水の流れている川の小高い原っぱの意)から,明るく和やかな意をこめて,同25年開校の小学校名,および集落名としたことによる(新冠町史明和開基開校三十周年記念誌あくまっぷ)。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1501 より引用)
むむむ……。「アクマップ」をどう解釈したら「きれいな水の流れている川の小高い原っぱ」になるのか……? 実は「アクマップ川」の記事はリライトなんですが、「きれいな──」があまりに傑作なので、今回も引用することにしたのでした。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

こへて
     アクマ(プ)
右の方小川、相応にひろし。其名義は未だしれずと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.156 より引用)
残念なことに「未だしれず」ですが、頭註には次のように記されていました。

明 和
ア  我ら
ク  飲みに
オマ 入る
プ  所
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.156 より引用)
ふむふむなるほど、a-ku-oma-p で「我ら・飲む・そこに入る・ところ」か……と思ったのですが、良く考えてみると ku「飲む」という動詞を oma が受けていることになっています。これは文法的におかしい(あり得ない?)のではないかと……。

ということで、慌てて再検討してみたのですが、a- を抜いて考えてみると ku-oma-p で「仕掛け弓・そこにある・もの(川)」となりますね。となると a-ar- で「もう一つの」と考えるのが自然でしょう。ar-ku-oma-p であれば「もう一つの・仕掛け弓・そこにある・もの(川)」ということになります。

「仕掛け弓」は獲物が通りそうなところに糸を張っておいて、獲物が糸に振れると鏃に毒が塗られた矢が飛んで獲物に一直線……という仕組みです。余談ですが、矢羽根を見ると誰が仕掛けた矢なのかわかる仕組みになっているのだとか。

『新冠町郷土資料館調査報告書 3』(1991) には、「アクマップ」について次のような記述がありました。

  • 川越貢氏氏(故人)は、つり針という意味で、もとは魚がたくさんとれたという。
  • 溝尾一正氏は、この水が清らかであり、休み休み飲みに来たのではないかということから、アク・オマ・プ(水を飲み歩く所)の意味ではないかと推定している。
  • 狩野義美氏によれば、鹿などを捕えるためのワナなどを仕かけるという意味と聞いているという。
(新冠町郷土資料館・編『新冠町郷土資料館調査報告書 3(アイヌ民族文化調査報告 3)』新冠町教育委員会 p.10 より引用)
なんと! 「ワナを仕掛ける」という言い伝えがあったのですね。あくまで各論併記のうちの一つではありますが、これは注目に値するのでは……!

リライベツ川

{rer-an}-pet??
{われ沈む}・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年11月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1314) 「トキシベツ・旭別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

トキシベツ

{tu-tuk}-us-pet?
{出崎}・ついている・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新冠高江の西を「高江川」が流れていて、川沿いに「町道高江トキシベツ線」が通っています。町道高江トキシベツ線には「トキシベツ 1 号橋」から「── 6 号橋」まで 6 つの橋が存在するとのこと。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トキシヘツ」という川が描かれていて、『北海道実測切図』(1895 頃) では「トプケㇲペツ」と描かれていました。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Top kes pet   トㇷ゚ ケㇲ ペッ   笹ノ端川 松浦地圖「トキシヘツ」ニ作ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.249 より引用)
ふむふむ……と思ったのですが、「笹の端」とは一体……?

ということで戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」を見てみたところ、案の定、異なる解が記されていました。

また西岸に
     トキシベツ
西岸小川也。其本名はトトキウシベツの転じ也。トヽキは*参の事也。此処にトヽキ多く有るが故なりしとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.144 より引用)
「砂参」は、頭註によると「沙参」で「つりがねにんじん」を意味するとのこと。ということで『植物編』(1976) を見てみたのですが、「ツリガネニンジン」の項には次のように記されていました

§ 32. ツリガネニンジン Adenophora verticillata Fisch.
    エゾツリガネニンジン Adenophora Thunbergiana Kudo
( 1 ) mukekasi (mu-ke-ka-si) 「ムけカシ」[muk(→ §34, 注 1)ekasi(祖父,翁)] 根 《北海道各地》 → 補註(11).
知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.22 より引用)
( 1 ) があるからには ( 2 ) 以降もあるのですが、名寄では moskarpe、真岡や白浦(どちらも樺太)では moskaraperaypusi と呼んだとのこと。「トトキ」という記録は見当たりません。

もしや……と思って『北海道方言辞典』(1983) を見てみたところ、p.232 に「トドキ 名 ツリガネソウ(キキョウ科)」とありました。知里さんの『植物編』等々には「トトキ」という語が採録されておらず、一方『北海道方言辞典』で確認できるということは、「トトキ」はアイヌ語ではなく和語に類するものである可能性が高くなります。

ということで、totoki-us-pet で「ツリガネソウ・多くある・川」ではないか……という話ですが、「トトキ」ってどこかで聞いたことがあるんですよね。もしや、と思って『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見てみたところ……

tú-tuk と゚ート゚ㇰ 出崎。[<tu(山の走り根)etok(先)]
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.135 より引用)
あー、これだ! 「トキシベツ」こと「トトキウシベツ」も {tu-tuk}-us-pet で「{出崎}・ついている・川」だったのでしょう。「トキシベツ」も tu-tuktu- が略されたと捉えるべきかと思われます。

旭別(ぎょくべつ)

ki-oro-pet
茅・の中にある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年11月28日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1313) 「去童橋・ドブシナイ川・姉去橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

去童橋(さるわらべばし)

sar-pa-ray(-pet)?
葭原・かみ(上)・死んだように流れの遅い(・川)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 209 号「滑若新冠停車場線」が「チョリバライ川」を横断する橋です。2018 年度 全国橋梁マップによると同名の橋が「町道朝日集乳所線」にも存在するとのこと(同じく「チョリバライ川」を渡っています)。

「去童」は 1868(明治初)年から 1923(大正 12)年まで存在した村名で、既に失われた地名だと思っていたのですが、橋の名前として生き残っていたみたいですね。ただかつての「去童村」は、『北海道実測切図』(1895 頃) では「去童橋」よりも上流側に描かれています。


ただ陸軍図では現在の「去童橋」のあたりに「去童村」と描かれているので、「実測切図」はやや正確ではない位置に村名を描いてしまったのかもしれません。


更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 去童(さるわらんべ)
 新冠町の旧字名。アイヌ語のサㇽ・ワ・ル・ウン・ペ(湿地のわきに道のある川)と思われる。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.81 より引用)
ただ永田地名解 (1891) は次のように記していました。

Sori pa rai    ソリ パ ライ   草履ヲ見付シ處 ○去童村ソリパライ
So para-i    ソー パ ライ   瀑廣キ處「ソリパライ」ノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.249 より引用)
これは……更科さん……やっちゃいましたね……。

ということで改めて「ソリパライ」の位置を確認したいのですが、『北海道実測切図』では現在の「去童橋」に近い位置に「ポロソリパライ」が描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) ではやや上流側に描かれているようにも見えますが……

また「ソリハライ」の支流として「ソウシソリハライ」が描かれているのも要注意ですね。「ソウシ──」は so-us- である可能性が高そうなので、永田地名解の「瀑廣キ處」という解は怪しくなります(「滝のついている滝が広いところ」はおかしいかと)。

戊午日誌 (1859-1863) 「毘保久誌」には次のように記されていました。

またしばしを過て
     ソリハライ
左りの方相応の川すじ也。其名義は不解なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.146 より引用)
うーむ、これは困りましたね……。

この「ソリハライ」は現在の「チョリバライ川」のことだと考えられるのですが、実は「チョリバライ川」はずっと前に記事にしたことがありました。その際は sar-pa-ray(-pet?) ではないかと考えたのですが、改めて検討すると……悪くない解に思えます(ぉぃ)。

ということで今回も sar-pa-ray(-pet) で「葭原・かみ(上)・死んだように流れの遅い(・川)」かなぁ、ということでお茶を濁して次の記事へ(ぉぃ)。

あ、チョリバライ川を遡った先に「取拂山」という二等三角点があるのですが(標高 389.9 m)、これは「とりはらいやま」と読むとのこと。おそらく「チョリバライ川」が元ネタなんでしょうね。

ドブシナイ川

top-us-nay
竹・多くある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年11月27日木曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (8) 「寝台室」

廊下には赤いテープで矢印が描かれていて、開放中のドアには「操舵室 → 車両甲板」とありますが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ドアのところで順路通りに右を向くと、そこには……

2025年11月26日水曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (7) 「飾り毛布(!)」

引き続き「青函鉄道連絡船記念館」です。右舷の窓側には真紅の椅子が並んでいました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

椅子にはオットマンのようなものもついていて、サイズもゆったりしています。これは「グリーン船室」のシートだったのでしょうか。

2025年11月25日火曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (6) 「小湊桟橋」

メモリアルシップ八甲田丸の「青函鉄道連絡船記念館」の話題を続けます。「連絡船改札口」の札は当時のものでしょうか。ナンバープレートの漢字に通じるものがある、視認性が良く味のある良い書体ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

青森駅周辺のルート変更

青森周辺の地形図が並びます。左から「大正 2 年」「昭和 23 年」「昭和 48 年」で、下には当時の写真も並んでいます。

2025年11月24日月曜日

北海道のアイヌ語地名 (1312) 「幌井内・オロエナイ・レサッピ・真沼津川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

幌井内(ほろいない)

poro-pinnay?
大きな・細く深い谷川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
シュンベツ川静内川支流)と新冠川の間の分水嶺の頂上付近に「幌井内」という名前の三等三角点(標高 890.8 m)が存在します。「点の記」によると、所在は「新冠郡滑若ナミワカ村字ホロイナイとのこと。

「幌井内」三角点の南に「ポロピナイ沢」という川が存在します。この川は 『北海道実測切図』(1895 頃) では「ポロピナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には何故かそれらしい川が見当たりません(代わりに「ハシナウシナイ」という川が描かれています)。永田地名解 (1891) にもそれらしい川名は見当たりません。

地形を見た限りでは、poro-pinnay で「大きな・細く深い谷川」のように思えます。pinnay は、『地名アイヌ語小辞典』(1956) によると pir(傷)nay(沢)に由来するのではとのこと(rn に化けたのは原則通りの音韻変化です)。

何故か「ハシナウシナイ」という川名は失われたようにも見えますが、「ハシナ」を has-inaw で「柴・木幣」だった可能性がありそうです。知里さんの『アイヌ語入門』(1956) には次のように記されていました。

 has〔ハㇱ〕は「枝条」。inaw〔イなゥ〕は「木でつくった幣」。それらが合成した has-inaw は〔ハしナゥ〕と発音され,枝条のついた特別の形式の木幣をさす。
(知里真志保『アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために』北海道出版企画センター p.76 より引用)
ふむふむ、has-inaw はスタンダードな形式とはちょっと異なる、特殊なイナゥだったんですね……。

オロエナイ

oro-wen-nay???
その中・悪い・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2025年11月23日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (4))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見てみることにしました。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

怠りない警察

「漁業」の話題はここまでで、ここからは「怠りない警察」と題された章が続きます。

 北の開港場である函館は人口三万七〇〇〇の繁栄する都市で、どの方向の風からも守られたすばらしい港があり、当然のことながら中心地となっている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22-23 より引用)
「天然の良港」という便利な表現がありますが、函館はまさしくその一つですね。1878(明治 11)年の時点では函館が「北海道の玄関」であり、札幌は「開拓の最前線」だったということが良くわかります。

その後、札幌の開発が進むとともに「北海道の中心地」となり、旭川が「開拓の最前線」になった時代もあったような気がします。ただ、おそらくは地理的な「難点」が足を引っ張り、旭川は「第二の札幌」になりそこねたのではなかろうか……と思ったりもします(個人の感想です)。

イザベラは函館について、以下のように手放しで絶賛しています。

砂礫層の丘陵斜面にあり、日照がよく、また天然の排水もすばらしく、横浜や東京の蒸し暑さで消耗した体力を補充するには最適である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
函館平野には石狩川のような大河はありませんが、平野自体が巨大な扇状地のようなものなので、水(湧き水)にはそれほど苦労しない……ということなんでしょうか。道南の玄関口が松前から函館に移ったのも、地形面でのアドバンテージを考えると当然の結果だったのでしょうね。

一一月に九インチ[約二二センチ]の雪で地表が覆われることがときおりあるものの、島の北部ほど過剰な降雪はない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
いつものことですが、こういった情報はどこで仕入れているのでしょうね。島(北海道)の北部では「過剰な降雪」があるのは確かです。

雪はいつまでも消えないわけではなく、冬でも晴天の日が多い。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
これは「根雪は存在しない」と解釈していいんでしょうか。根雪がない代わりに雪解け水のぬかるみができるため、イザベラはこれを「雪より始末が悪い」としていますが……。

イザベラは「年間の平均気温は低い」とし、また「寒暖の差は江戸よりずっと大きい」と記した上で、次のように続けていました。

最低が華氏二度[摂氏マイナス約一六・七度]、最高が八八度[摂氏約三一度]である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
時岡さんの訳は、摂氏でのフォローがあるのが助かりますね……。

九年間の平均降雨量は五一・九インチ[約一二九八ミリ]で、平均降雨日数は九八日である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
これは「気象台」が統計を取っていたということでしょうか。こういった記録は長期的な視野からはかけがえのない財産になるので、しっかりと続けて記録を取り続けてほしいものです。

 函館は外国貿易港としては年々落ち込みつつある。事実、海外貿易はゼロにまで減少しつつある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
ちょっと意外な気もするのですが、まぁ横浜や神戸と比べると、函館は二の次になるということなんでしょうか。イザベラは続けて「外国人居住者は清国人をのぞいて 127 人しかいない」としていますが、清国人の位置づけが単なる「外国人枠」では無いのが興味深いですね。

イザベラは「活気のなさは新潟とほぼ同じくらい」としながらも、次のように続けていました。

しかし日本国内向けの港としてはますます繁盛している。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
イザベラは函館の現状を「外国貿易港としては落ち込みつつある」としましたが、その理由を「日本の蒸気船が大きく増加したため、わざわざ外国船が函館を目指す必要が無くなった」と見ていたようです。国際貿易港としての地位こそ低下したものの、北海道の玄関口としての重要性は益々増していたと見るべきでしょう。

外国製品はいまや日本の商人により日本の船で輸入されており、また主な移・輸出品目──干魚、海藻、皮革──は現地の船で清国および本州に直接送られている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23 より引用)
貿易相手国としての「清国」の重要性が良くわかる一節ですね。

貨物船のほかに、三菱会社[郵便汽船三菱会社]のすばらしい蒸気客船が函館─
横浜間を一〇日に一度、新潟までは月に一度航行しているし、外国の艤装をつけた現地の船やジャンクが順風のたびに数多く出入港している。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.23-24 より引用)
……あ。これまでも何度か「三菱会社」が出てきましたが(原文では Mitsu Bishi office)、これは「郵便汽船三菱会社」、現在の「日本郵船」のことだったんですね!

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2025年11月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1311) 「辺溪別大橋・ポロカウンナイ川・サッシビチャリ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

辺溪別大橋(ぺんけべつ──)

penke-pet
川上側・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 111 号「静内中札内線」の橋で、静内川の北支流である「ペンケベツ沢川」が高見ダム(静内川)のダム湖である「高見湖」に注ぐあたりに存在します。「般別大橋」の次に立項すれば良かったのですが、そうしなかった理由は単なるうっかりミスです(ぉぃ)。

北海道実測切図』(1895 頃) には、現在の「ペンケベツ沢川」の位置に「ペンケペッ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

扨しばし上りて、此辺は川すじと云は少しも通られざるよしなるが、山の上を伝ひ行て
     ヘンケベツ
左りの方相応の川也。是上の川と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.616 より引用)
ということで、どこからどう見ても penke-pet で「川上側・川」なのですが、改めて考えてみるとよくわからないネーミングですね。「ペンケなんとかベツ」であれば、似たような「なんとかベツ」が複数並んでいる……と理解できるのですが、「ペンケベツ」には「なんとか」に相当する部分が欠けている(あるいは失われている)んですよね。

パンベツ川」と「ペンケベツ川」は、「シュンベツ川」や「コイボクシュシビチャリ川」などの大物を除外すれば、それなりに大きな支流ではあります。相応しい川名が思いつかないけれど、それなりに大きな川なので「川上側の川(=支流)」と呼んだ……ということでしょうか……。

ポロカウンナイ川

horka-ahun-nay??
逆方向に・入り込む・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年11月21日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1310) 「クトエウシュナイ沢川・ペンケナ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

クトエウシュナイ沢川

top-tuye-us-nay
竹・切る・いつもする・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
高見ダム(静内川)のダム湖「高見湖」に南から注ぐ支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には何故か「トップト゚エウㇱュナイ」と描かれているように見えます。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「トツトエウシ」という川が描かれています。戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

また少し上りて
     トフトエウシナイ
右の方小川也。其名義はくまざき多く有るよりして号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.616 より引用)※ 原文ママ
「くまざき」は「くまざさ」の誤字だと思われるのですが、それはさておき。なるほど、top-tuye-us-nay で「竹・切る・いつもする・川」と読めそうですね。現在の「クトエウシュナイ沢川」は、「トㇷ゚」を「ク」に誤読してしまった……ということでしょうか。珍しい誤読かもしれませんが、あり得ない話でも無さそうな気もします。

ペンケナ川

penke-hokay-nutap-nay?
川上側の・曲がり角・川の湾曲内の土地・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)

2025年11月20日木曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (5) 「青函鉄道連絡船記念館」

「青函ワールド」に続いて「青函鉄道連絡船記念館」にやってきました。3 階「遊歩甲板」の船首側です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

津軽海峡渡航のあけぼの

「津軽海峡渡航のあけぼの」と題されたコーナーには、津軽海峡往来の歴史と、それらに関連する歴史上の出来事がリストアップされています。

2025年11月19日水曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (4) 「筆耕のお仕事?」

メモリアルシップ八甲田丸、まずは 3 階の「遊歩甲板」にやってきました。最初の展示は「青函ワールド」ですが、この展示はお台場の「船の科学館」で係留・展示されていた「羊蹄丸」から引き継いだものとのこと。
展示は ① 写真、② ジオラマ、③ ミニシアターの 3 つに分かれているようです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

① 写真

まずは「① 写真」です。団体の見学客の写真かなーなどと呑気に眺めていたのですが、「旅客の避難誘導訓練」や「遭難信号」などと題された、かなりガチなものでした(汗)。

2025年11月18日火曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (3) 「船の中にはりんご売り」

海上博物館「メモリアルシップ八甲田丸」の船内に入ります。(1) で敷地にたどり着き、(2) で船の入口の前までやってきて、(3) にして早くも船内に入ることになります。スピード感ありますね!(どこが
元の写真はディストーション(歪み)が酷く、正直気持ち悪かったので手を入れました(汗)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「八甲田丸」の船内に入りました。これは……りんご売り、ですよね。きっと誰かがふざけてりんご売りの真似をしているだけなのでしょうか。

2025年11月17日月曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (2) 「JNR マーク」

海上博物館「メモリアルシップ八甲田丸」の前にやってきました。「えっ、こんなところに駐車していいの?」と若干不安になるようなロケーションですが……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「八甲田丸」の船首方向を眺めます。大きな船ですが、太平洋フェリー「きそ」が全長 199.9 m で総トン数 15,795 t なのに対して「八甲田丸」は全長 132.00 m で総トン数 8,313.75 t とのこと(「きそ」の 3/5 くらい?)。津軽海峡フェリーの「ブルーハピネス」が全長 144.13 m で総トン数 8,851 t らしいので、かなり似たサイズと言えそうですね。

2025年11月16日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1309) 「野地勢雲内・般別大橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

野地勢雲内(やちせうんない)

yat-chise-un-nay
樹皮・家・ある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
高見ダム(静内川)のダム湖である「高見湖」の南に「野地勢雲内」という名前の三等三角点(標高 802.4 m)が存在します。『北海道実測切図』(1895 頃) では、三角点の北東に相当するあたりに「ヤッチセウㇱュナイ」と描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヤツチセウシナイ」と、その隣に「ヘンケヤツチセ」が描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

また峨々たる高山の間しばし過て
     ヤツチセナイ
右のかた小川也。昔名義は木皮を以て木小屋を作りし事を云よし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.615 より引用)
どうやら yat-chise-un-nay と見て良さそうな感じですね。yat という語は辞書類には見当たりませんが、これは yar が音韻変化したからでしょう。『アイヌ語入門』(1956) p.172 にある「r は,ch の前でも,それに引かれて t になる」という法則です。

ということで yar ですが、萱野さんの辞書には次のようにあります。木の種類は明記されていませんが、特定の種類に限定されるようです。

ヤㇻ【yar】
 木の皮:狩小屋を建てる時,屋根とか囲いに使えるぐらいの広さや長さのあるものをいう.どんな木の皮でもヤㇻというものではない.
萱野茂萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂 p.450 より引用)
一方で、田村さんの辞書には「白樺の皮」と明記されていました。ただ「皮製の入れ物」とあるので、随分と対象が限られたような扱いです。

yar ヤㇻ 2 【名】白樺(「かんび」)の皮製の丸い入れ物。
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.840 より引用)
yat-chise-un-nay がどんな木の樹皮で作られた小屋を指していたのかは明確ではありませんが、「樹皮・家・ある・川」と見て良いかと思われます。

般別大橋(ぱんべつ──)

pan-pet
川下側の・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年11月15日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1308) 「目梨別橋・ペンケオニケムシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

目梨別橋(めなしべつ──?)

menas-pet
東・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
静内川(新ひだか町)にある「高見ダム」の下流側には水力発電所があり、道道 111 号「静内中札内線」から水力発電所に向かう道路は「目梨別橋」で静内川を渡っています。

「目梨別橋」は「静内川」を渡る橋ですが、『北海道実測切図』(1895 頃) では「静内川」が「メナシュペッ」となっています。これは支流の「シュンベツ川」と対になる概念で、当時は「シュンベツ川」との合流点より上流側は「メナシベツ川」だったようです。


戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」にも次のように記されていました。

     メナシベツ
此川東川と云儀也、西川より少し川巾ひろけれども、其地形は同じ事にして、両岸同じく高山にして其山根は大岩峨々として聳え、異草も多く有哉に見え、また両岸少しヅヽの小石原有るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.608 より引用)
menas-pet で「東・川」ということですね。いつしか「メナシベツ川」の名前が失われて「静内川」に変わったようですが、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」によると、1977(昭和 52)年の 1/50000 地形図「農屋」では「メナシベツ川」で、1993(平成 5)年の「農屋」で「静内川」に変わっていました。思ったよりも最近の出来事だったんですね。

「目梨別橋」は、失われた「メナシベツ川」の名前を発掘したネーミング……かと思ったのですが、「高見ダム」の建設が開始された時点の川名は「メナシベツ川」だったので、単に川名を借用しただけだったのかもしれません。ところが何故か「メナシベツ川」の名前が失われ、「目梨別橋」(目梨大橋とも)だけが残ってしまった……ということのようです。

ペンケオニケムシ川

penke-o-niti-us-pe?
川上側の・河口・串・ついている・もの(川)
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2025年11月14日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1307) 「上アブカサンベ沢川」

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上アブカサンベ沢川

apka-san-pe?
牡鹿・出てくる・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町道春別農屋線の「小似軽橋」から 6 km ほどシュンベツ川静内川支流)を遡ったあたりで東から合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンケアㇷ゚カサンペ」と描かれている川で、南に「パンケアㇷ゚カサンペ」も存在していたことがわかります(現在の「クリノ沢」とその支流)。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヘンケアカシヤンヘ」と描かれていました。

半魚人ならぬ半魚鹿?

戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。静内川支流の「シュンベツ川」の情報なので、例によって一字下げです。

 また上りて
      ハンケアフカシヤンベ
      ヘンケアフカシヤンベ
 二川とも右の方に有て相応の川也。また上下とも左右に小川も有れども、其名はしれず。魚類鱒・アメマスの二種有。名義は往昔此処にて鹿を取りし処、其(頭)魚形にして恐ろしきものなりしかば、土人等是を持帰らずして此処に捨置しと云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.606 より引用)
頭註には「アプカ 牡鹿」とあり、続いて「シヤンペ 頭」とあるのですが、sampe は「心臓」なので「シヤンペ 頭」というのは謎です。何か見落としているような気もしますが……。

飲み水の出る川?

永田地名解 (1891) はちょっと変化球を出してきました。

Panke wakka san pe  パンケ ワㇰカ サン ペ  飮水出ル下川
Penke wakka san pe  ペンケ ワㇰカ サン ペ  飮水出ル上川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.257 より引用)
一見「なるほどー」と思ってしまう解ですが、改めて考えてみると wakka(水、飲水)を san(出る、山から浜へ出る)で受けるというのも微かな違和感が……(いや、本当に微かなんですけどね)。

牡鹿の出るところ?

永田方正は、何らかの根拠によって(あるいは自身の「理解」によって)「アフカ」を「ワㇰカ」に「訂正した」と思われるのですが、実はお隣の新冠町にも「アㇷ゚カサンペ」と呼ばれた川があり、こちらは

Apkosanpe=Apku-o-san pe  アㇷ゚コサンペ   牡鹿ノ下ル處 松浦地圖「アフユサレヘ」ニ誤ル
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.248 より引用)
としていました。更に面白いことに、この解は知里さんの『アイヌ語入門』(1956) において、音韻変化の実例として紹介されていました。

   apka-o-san-pe(雄鹿〔が〕・そこへ・出てくる・所) →Apkosampe[あㇷ゚コサンペ](地名解 248)
(知里真志保『アイヌ語入門 復刻─とくに地名研究者のために』北海道出版企画センター p.160-161 より引用)
この記述からは、知里さんも「アㇷ゚コサンペ」については apka-o-san-pe で「牡鹿・そこに・出てくる・ところ」で良い……と考えていたように見受けられます。

「牡鹿」か「歩く」か

この川名を悩ましいものにしているのが、apkaapkas という語の存在です。どちらも『地名アイヌ語小辞典』(1956) の本文には項目がありませんが、「用例の索引と補遺」には次のようにあります。

apka 雄のシカ。
apkas 《完》歩く。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.147 より引用)
索引もアルファベット順なので、当然のことながら両者は隣り合わせです。「アブカサンベ」は apka-san-pe で「牡鹿・出てくる・ところ」と見るのが一般的かもしれませんが、{apkas-an}-pe で「{われら歩く}・ところ」とも考えられたりしないかな、と。

更に apkas-kamuy で「冬が来ても穴に入らずに山野をうろついているクマ」という用例もあるとのこと。ただしこの用例は足寄美幌で採取されたものなので、静内でも通用したかどうかは微妙なところです。

「入口」だったりして?

そして、これは「またかよ」と言われそうな話ですが、apa と絡めて考えられたりしないかなぁ、と。apka でも apkas でもなく apa-kasu だったらどうかな、と。

apa は「戸口」や「入口」を意味する語で、chise(家)においては外から中の様子が丸見えにならないように設けられたクランク状の動線……と言ったところでしょうか。要は「外から中を覗えない」というのがポイントで、地名においては(主に山などが邪魔をして)中の様子が覗えない川がそう呼ばれる……んじゃないかと考えています(思いっきり独自研究ですが……)。

今回の「上アブカサンベ沢川」の河口付近を見てみると、南北に衝立のような山があり、河口が屈曲しているようにも見えます。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
かつて「パンケアㇷ゚カサンペ」と呼ばれた現在の「クリノ沢」は……河口から上流側を覗うことは難しそうですが、衝立のような(戸口のような)山があるかと言われると、正直なところ微妙ですね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
あ。こういう時にこそ類例をチェックすべきでしたね。ということで新冠川支流の「アブカシャンペ川」を見てみたところ……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
うー。確かに河口近くで谷が S 字を描いていて、上流部が覗えないようになっていますが、まぁ似たような地形の川は他にもあるので、これまた何とも言えない感じですね。

kasu は「渡渉する」という意味なので、apa-kasu-us-pe であれば「入口・渡渉する・いつもする・もの(川)」ということになるでしょうか。「アパカシュシペ」だったものが、原義が失われて多少の転訛が生じた結果「アㇷ゚カサンペ」になったと考えるのは……流石に無理がありましたね(ぉぃ)。

まとめ?(まとまってない)

もっとも apka-san-pe で「牡鹿・出てくる・ところ」という解にも疑問点はあります。最大の謎は何故 apka(雄鹿)なのかというところで、雌鹿や子鹿も通るんじゃないか……というところですね。

事実上「鹿」を意味するとも言える yuk(本来の意味は「獲物」だったとも言われる)という便利な語もあるのに、あえて apka を選んだ意図が良くわからないのです。

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2025年11月13日木曜日

メモリアルシップ八甲田丸 (1) 「青森ベイブリッジ」

ホテルをチェックアウトして、立体駐車場に停めていた自車まで戻ってきました。よく考えると「愛車」と表現すればいいような気もするのですが、なんか照れくさいんですよね(何を今更)。
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燃料は 3/5 程度残っています。航続可能距離(推定)は 550 km と出ているので、まだしばらくは無給油で行けそうですね。しかもこの日のゴールは函館なので、残りの燃料はほぼ翌日(Day 4)に持ち越すことになりそうです。

2025年11月12日水曜日

Bojan のホテル探訪~「リッチモンドホテル青森」編(朝食編)

Day 3 の朝を迎えました。この日は比較的旅程に余裕があるので、朝はのんびりできる……筈だったのですが、朝からスマホにけたたましいアラート音が。なんだなんだ……と思ってテレビをつけてみると……
うわ、何、この画面……。太い明朝体が趣味悪すぎ……。

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そもそも「日本の上空」と言ったところで、宇宙空間は人工衛星や国際宇宙ステーション、スペースデブリなど色んなものが飛び交っているわけで、そんな中を「飛翔体」が一つ飛び込んできたところで「やぁ、良く来たね」というレベルの話でしかありません。

それを今にも V-2 ロケットが落ちてくるかのように騒ぎ立てて「頑丈な建物や地下に避難して下さい」と煽る国と公共放送は(民放も?)……最低ですよね。

2025年11月11日火曜日

Bojan のホテル探訪~「リッチモンドホテル青森」編(バス・トイレ編)

「お部屋編」の次は「バス・トイレ編」です。ご覧の通り、良くあるユニットバスですが……
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バスタブがゆったりサイズなのは嬉しいですね。最近は足腰の弱い人向けの配慮なのか、やたらと内側に段差の多いバスタブが増えたような気がしますが、このバスタブは凸凹の無いタイプです。

2025年11月10日月曜日

Bojan のホテル探訪~「リッチモンドホテル青森」編(お部屋編)

「みそカレー牛乳ラーメン」を完食した後は、国道 7 号を東に向かい……
この日のお宿、リッチモンドホテル青森にやってきました。実はホテルの 200 m ほど手前、青森県庁の隣に「青い森公園」があり、国道 7 号はここが終点だったみたいです。

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柳町通り

リッチモンドホテル青森は、国道 4 号(!)と柳町通りが交叉する十字路の角にあります。柳町通りはかなり幅のある道路ですが、昔からそうだったのか、それとも戦中戦後の混乱期にどさくさ紛れに拡幅したのかは……どうなんでしょう?

2025年11月9日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1306) 「走馬橋・小似軽橋・ソロアンナイ」

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走馬橋(そうまはし)

so-mak-oma-nay
滝・後ろ・そこにある・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
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新ひだか町道春別農屋のや線の橋で、シュンベツ川静内川支流)にある「春別発電所」の手前でシュンベツ川の支流を渡っています。この支流の名前は不明ですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ソーマクオマナイ」と明記されています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ソウマコマナイ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」にも次のように記されていました。「シュンベツ川」は「静内川」の支流なので、例によって一字下げです。

 また上りて
      ソウマコマナイ
 左りの方小川。此沢滝の上に在ると云儀。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.603-604 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Sō makoma nai   ソー マコマ ナイ   瀧後川 小瀧アリ此處ヨリ山ノ手ニアル川ヲ云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.258 より引用)
so-mak-oma-nay で「滝・後ろ・そこにある・川」と見て良さそうな感じですね。不思議なのが、これだけ記録があるにもかかわらず、現在この川の名前が「名称不明」になっているところです。

というか、そもそも「走馬橋」というネーミング自体が「ソーマコマナイ」にインスパイアされたものだと思われるのですが、それなのに何故川の名前が不明のままなのか……?

小似軽橋(おにかるはし)

o-nikar-us-i
河口・はしご・ついている・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年11月8日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1305) 「茅縫山・板浦木」

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茅縫山(ちぬいやま?)

chi-nuye-pira
我ら・彫刻する・崖
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町静内農屋のやの北、オブスケ川を遡った先にある山の頂上付近に「茅縫山」という名前の三等三角点が存在します(標高 553.5 m)。読み方は不明ですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「チヌイヌプリ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「チヌイノホリ」と描かれていて、その横には「チヌイヒラ」とあります。戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

また西岸に
     チヌエヒラ
此処西岸、此ピラに文字が有りしが今は消えたり。依て号るといへり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.597-598 より引用)
この部分の頭註には次のように記されているのですが……

chi  失せる
    枯れる
nuy 模様
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.598 より引用)
chi が「失せる」だとありますが、手元の辞書類を軽く眺めた限りでは「煮える」「焼ける」「熟した」「枯れる」とあるものの「失せる」「消える」と言った用法は見当たりません。nuy については「炎」とされますが、nuye で「彫刻する」「刺青をする」とあります(「刺青」は「シヌイェ」sinuye のほうが広く知られているかも)。

「チヌエピラ」の意味が今ひとつ見えてこないですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Chinui pira    チ ヌイ ピラ    ?
Chinui nupri    チ ヌイ ヌプリ   ?
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.259 より引用)
あー、うー……。さてどうしたものか……という話ですが、実は同じ地名が室蘭にも存在したとのこと。知里真志保山田秀三共著の『室蘭市のアイヌ語地名』(1960) には次のように記されていました。

チヌエピラ。原名「チヌイェピラ」(Cinúyepira)。語原「チ・ヌイェ・ピラ」(<ci-nuyé-pirá)。チ「我ら」、ヌイェ「彫る」「描く」、ピラ「崖」。「彫刻してある崖」の義で、この崖に彫刻したような文様がついているのに名づけたものである。
(知里真志保・山田秀三『(復刻版)室蘭・登別のアイヌ語地名「室蘭市のアイヌ語地名」』知里真志保を語る会 p.23 より引用)
chi-nuye-pira で「我ら・彫刻する・崖」とのこと。nuye には「書く」という意味もあるので、松浦武四郎は「文字が有りしが今は消えたり」と解釈した(あるいはインフォーマントからそう聞いた)のでしょうね。

板浦木(読み不明)

etu-horak-i?
岬・崩れている・ところ
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年11月7日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1304) 「真訓別橋・チエツポシナイ川・オブスケ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

真訓別橋(まくんべつ──)

makun-pet?
後ろにある・川
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町(旧・静内町)の町道豊畑本線が「パンケペラリ川」を渡る橋の名前とのこと(全国Q地図で確認)。

北海道実測切図』(1895 頃) では少々妙なことになっていて、「ペンケペラリ」(=パンケペラリ川)から見て静内川の向こう側(対岸)に「マクンペツ」という川が描かれていました。少し北には漢字で「幕別」と描かれていて、かつてここに「幕別村」が存在したことを伺わせます。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でも不思議なことになっていて、「マクンベツ」に相当しそうな川が見当たりません。ところが戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。「バンケベラリ」(=ペラリ川)の向かいに……

此向に
     マクンベツフト
西岸相応の川也。マクンヘツとは枝川に成りし処を云。フトとは川口也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.584 より引用)
「西岸」「相応の川」とあります。「西岸」というのは『北海道実測切図』と同様なので無問題として、「相応の川」が「東西蝦夷──」に描かれていないというのは何故……?

「マクンヘツとは枝川に成りし処」とありますが、山田秀三さんによると

道内各地にマクンペッがあったが, その多くは本流から分かれた小分流で, 少し行ってまた本流と合している川筋の名である。それを「山側に入っている川」という意でマクンペッと呼んでいた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.162 より引用)
とのこと。改めて「東西蝦夷──」を眺めてみると、「ノヤシヤリ」(=農屋か)と書かれた「島」があるように見えます。

松浦武四郎が「相応の川」と記したのは、現在「炭山川」と呼ばれる川と「静内川の分流」である「マクンヘツ」が事前に合流していて、これを「マクンヘツ」と解釈したが故かもしれません。makun-pet は「後ろにある・川」で、含意は山田秀三さんが記した通り「山側にある分流」と見て良いかと思われます。

問題は「真訓別橋」がかつての「マクンヘツ」の対岸に存在することですが、これについては「???」としか……(汗)。

チエツポシナイ川

cheppo-us-i
小魚・多くある・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年11月6日木曜日

やっぱり夏こそラーメン (14) 「みそカレー牛乳!?」

「札幌館」にやってきました。国道 7 号「青森西バイパス」沿い、青森西郵便局の近くです。
青森なのに札幌とはこれいかに!? という話ですが、「サッポロラーメン専門」とのこと。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

駐車場に車を停めてお店に向かいます。……あれ?

2025年11月5日水曜日

やっぱり夏こそラーメン (13) 「光の国から」

「あの歌」を思い出した方もいらっしゃるかもしれませんが、それは正解かもしれませんし、全く見当違いかもしれません(どっちだ)。

国道 7 号で青森市街に向かいます(既に青森市内ですが……って、昨日の記事でも書いていたような気がする)。「十和田」までの距離が表示されていますが、これは青森から国道 4 号を直進した場合の距離……だと思われます。
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青森県道 247 号「鶴ケ坂千刈線」と接続する交叉点が近づいてきました。

2025年11月4日火曜日

やっぱり夏こそラーメン (12) 「謎の『たらポッキ』」

国道 7 号で青森に向かいます。いや、既に青森市内ですが……(旧・浪岡町)。
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大釈迦駅の近くを国道 101 号が通っています。国道 101 号は大釈迦が起点なので、JR 奥羽本線の西側に国道 7 号バイパスが開通した時点で起点がバイパス交点に移って良さそうにも思えるのですが、律儀にも旧・国道 7 号(かつての羽州街道)の一部を引き受ける形になっています。

2025年11月3日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (3))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見てみることにしました。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

漁業

「地形的特徴」「開拓使」「新しい中心地」の次は「漁業」と題された内容が続きます。

 蝦夷の漁場はすばらしく、太平洋をはさんだ対岸オレゴン州のそれに匹敵するが、漁獲高の一〇─二五パーセントという過度に重い税金がかかる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22 より引用)
「過度に重い税金がかかる」……。税金を搾り取っては溶かしてしまう困った国だなぁという印象ですが、昔からそうだったということでしょうか。

鮭が特産物で、いか、海藻、なまこも重要な移出品目である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22 より引用)
まさかイギリスでも「なまこ」が食べられているのかと思ったのですが、流石にそれは無さそうですね。「なまこ」を英語では Sea cucumber(海のキュウリ)というのだそうですが、原文では……

Salmon is the specialty, but cuttle-fish, seaweed, and bêche de mer are also important articles of export.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
どうやら bêche de mer が「なまこ」のようですね。ラテン語、あるいはフランス語っぽい語ですが、https://en.wikipedia.org/wiki/B%C3%AAche-de-mer にも Sea cucumber (food) へのリンクが張られています。

南の海岸には漁場が数多くあるが、最重要なものは北の石狩と新主都札幌付近のものである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22 より引用)
「北の石狩」(Ishikari in the north)という表現はちょっと面白いですね。「石狩」は、本来は「石狩川」を指すのでしょうが、現在の個人的な印象では石狩川流域でも中流域から下流域を指すイメージがあります(「石狩振興局」や「石狩市」の影響が大きいのでしょう)。北海道の地方名であることは自明ですし、石狩エリアは「道北」とは言えないので、「北の石狩」という表現を使うことはほぼ無さそうな気がするのですね。

イザベラがどのような含意で in the north としたのかは良くわかりませんが、函館から見て、あるいはイザベラの旅程(函館→室蘭平取)から見て「北」ということを指し示しているのかもしれません。

イザベラは「ここでの鮭漁は日本での見物みもののひとつ」と綴っていて、「引き網には 70 人の人手を要するものもある」としています。必ずしも日本に限った話では無いのかもしれませんが、日本の漁業って持続可能性に乏しいような気がするのですが……。かつてハタハタの禁漁に踏み切ったことのある秋田の漁民の賢明さを見倣ってほしいものです。

こうやって穫れた魚は国内だけではなく「清国にも輸出される」とのこと。今も昔も重要な「お得意様」だったんですね。

この島の先住民であるアイヌは漁業に広く雇用され、また漁のシーズンには南部地方や羽後地方からおびただしい数の出稼ぎが蝦夷に集まる。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22 より引用)
「南部地方」と「羽後地方」が原文ではどうなっているのかが気になったのですが、an immense number of emigrants from the provinces of Nambu and Ugo resort to Yezo for fishing season. となっていました。特に変わったところは無かったですね。

「この島の先住民であるアイヌは漁業に広く雇用され」とありますが、これは……まぁ、その通りですね。冷涼な気候のため農産物の栽培は容易ではなく、それに代わって「手っ取り早く金になる」のが漁業だった……ということでしょう。

かつては「場所請負制」によって事実上の強制労働も行われていましたが、さすがのイザベラもその歴史には触れていません。

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2025年11月2日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1303) 「ヌッカ・碧蘂・ペラリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヌッカ

nupka
野原
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
静内駅前」と「農屋」の間を結んでいた道南バス「御園線」のバス停名です。この「御園線」は残念ながら 2024 年 9 月末で廃止されてしまいましたが、その後 2024/10/15 から「定時定路線乗合ワゴンの実証実験」を継続中とのこと(当初は 2025 年 3 月末までとされていましたが、現時点では 1 年間の延長が決まっているみたいです)。

この乗合ワゴンは旧・道南バス御園線のバス停で乗降する運用とのことで、要は現在も「ヌッカ」バス停(のようなもの)が存在する……ということになりますね。

北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川名・地名が見当たりませんが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヌフカ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

また西岸
     ヌ ブ カ
西岸平野也。其上に樹木有。其名義は芒等の有る野をさして云也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上』北海道出版企画センター p.578 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Nupka   ヌㇷ゚カ   野
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.259 より引用)
地名アイヌ語小辞典』(1956) にも nupka は「原野;野原」とあるので、「ヌッカ」は nupka で「野原」と見て良さそうですね。「ヌッカ」は「遠佛村」の一部となり早々と消え失せた地名かと思われたのですが、バス停の名前としてひっそりと生き延びていたということになりますね。

碧蘂(るべしべ)

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年11月1日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1302) 「日高目名川・遠仏橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

日高目名川(ひだかめな──)

mena?
流れが屈曲した川
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
静内川の北西、新冠町との境界となっている山沿いを流れる川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には何故か「ビバウ川」と描かれているように見えます。


ただ、よく見ると現在の「田原排水川」に相当する位置に「メナ」という川が描かれていました。何故か川名が取り違えられてしまったように見えます。


戊午日誌 (1859-1863) 「志毘茶利志」には次のように記されていました。

     メナフト
西岸相応の川也。是メナ川の川口也。扨メナとは川すじの屈曲蜿転したる処のことを云よしなるが、又その処の川と云儀也。此川水よろしきによつて鮭・鱒多く入る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.571 より引用)※ 原文ママ
mena は毎回解釈に苦慮するのですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されています。

mena メな ① 上流の細い枝川。② 【シズナイ】たまり水。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.59 より引用)
「日高目名川」は静内なので「たまり水」という解釈も気になるところですが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Mena put   メナ プッ   溜水ノ口 目名村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.260 より引用)
見事なまでの整合性ですね。ただ、あまりに整合性が取れているので、『小辞典』は永田地名解の解釈を追認した……というのが真相かもしれません。

一方で、松浦武四郎は「メナ」を「川すじの屈曲宛転したる処」であると明言しています。実際に陸軍図を見てもそんな感じなので、今回は mena で「流れが屈曲した川」と考えたいところです。

謎の「ビバウ川」

あと、現在の「日高目名川」が「実測切図」では「ビバウ川」になっているのですが、陸軍図では流域に「上下方」「中下方」「下下方」と言った地名が描かれていて、川名も「ケバウ川」になっているように見えます。


「上下方」「中下方」「下下方」という地名はどれも珍妙で傑作ですが、『角川日本地名大辞典』(1987) には次のように記されていました。

 なかけぼうむら 中下方村 <静内町>
日高地方中部,太平洋沿岸の静内川河口部西岸。地名はケバウ川(古川)の下流域をケバウと称し,そのうちの中流域に位置することによる。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1027 より引用)
川名?の「ケバウ」に「下方」という字を当てて「けぼう」と読ませたとのこと。永田地名解には次のように記されていました。

Pipau   ピ パウ   沼貝 下方村ト稱スルハ訛リナリ
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.260 より引用)
あー、これは……。毎度おなじみ、永田方正が「『ケバウ』じゃない『ピパウ』だ!」とぶち上げたものの、例によって「そうは言っても『ケバウ』だったよね」ということでいつの間にか元通り……。

ただ今回はちょっと様相が異なるところもあって、戊午日誌「志毘茶利志」にも次のように記されていました。

また西岸に
     ベバウ
本名はヒバウシのよし、左り岸也。其川岸赤楊・柳多し。其名義はかわがい多きよりして号る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.570 より引用)
なんと! 「また永田地名解がやりおったで」案件かと思ったのですが、今回は違ったようです。

ただ「ピパウ」あるいは「ビバウ」がしれっと「ゲバウ」に変わっていたことを考えると、やはり「そうは言っても『ゲバウ』だったよね」という意見が地元では大勢を占めていたのでは……と考えたくなります。

「ケバウ」が「ピパウ」じゃないとすると、浦河町にも複数存在する「ケバウ川」と同じだった可能性が出てきます。kep-aw で「ふち・隣」ではないか、つまり「山裾を流れる川」ではないかと考えてみたのですが、静内の「日高目名川」、かつての「ケバウ川」も見事なまでに山裾を(横に)流れているんですよね。

遠仏橋(とうふつ──)

to-putu
沼・その口
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)