2025年5月31日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1240) 「ルベシュペ川・キプチ川・奴多布」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルベシュペ川

ru-pes-pe?
路・それに沿って下る・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似郡様似町と幌泉郡えりも町の間を流れる「ニカンベツ川」の北支流です(様似町側)。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ルヘシベ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ルペㇱュペ」と描かれています。

『午手控』(1858) に次のような記録がありました。

○ニカンベツ 凡十丁計
 二股 左ルヘシベ
    右シュマウシ
    ルヘシヘ
 本川、中 ルヘシヘ右小川 二股
 右シイニカンヘツ
    左ヘタヌ
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.125 より引用)
「ルヘシベ」と「ルヘシヘ」があるあたり、どことなく混乱が見られるようにも思えますが、「東西蝦夷──」および『北海道実測切図』と照らし合わせると納得が行く……かもしれません。

現在の川名である「ルベシュペ」は ru-pes-pe で「路・それに沿って下る・もの(川)」で、峠道に沿った川の名前です。ルベシュペ川は大きく蛇行することなく北から南に流れる川で、川を遡って峠を越えると「幌満ダム」の東側に出るので、確かに峠道としては悪くない川であるように思えます。

ただ『午手控』には次のようにも記されていました。

 源二ツともにサルヽ源のよし也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.125 より引用)
これは現在の「ニカンベツ川」と「ポンニカンベツ川」のどちらを遡っても「猿留川」の流域に出ることを示しています。どちらも脊梁山脈を越える峠で、峠道としての効果(価値)は現在の「ルベシュペ川」よりも遥かに大きいように思えます。

『午手控』の「左ルヘシベ 右シュマウシ」が左右逆だったとすればスッキリ解決なのですが、「実測切図」も「左ルヘシベ」を追認した形で描かれているのが悩ましいところです。

キプチ川

kip-puchi??
山・入口
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年5月30日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(ラウンジショー編)

まもなくシアターラウンジ「ミコノス」でのラウンジショーが開演します(20:00 開演)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。ラウンジショーは新型コロナウイルス感染症の流行により休止されていましたが、現在は一部の便で復活しています(=開催の無い便もあります)。ラウンジショーの開催状況は https://www.taiheiyo-ferry.co.jp/recommendation/ でご確認ください。

二度目の東京ドーム(違)

この日のラウンジショーは……あれっ?

2025年5月29日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(船内うろうろ編)

レストラン「サントリーニ」で牛脂注入肉……いや、夕食をいただいたので、満を持して(?)船内をウロウロしてみましょう。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

船体の中央部には吹き抜け構造の階段があるのですが、車輌甲板直通のエレベーターの向かいに 5 デッキから 7 デッキの間限定の「展望エレベーター」があるのが特徴的でしょうか。

2025年5月28日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(夕食編)

太平洋フェリー「いしかり」は名古屋港を 19:00 に出港するのですが、レストランは既に 18:00 から営業を開始していました。
仙台行き車輌の乗船が始まったのも 18:00 で、部屋にたどり着いたのは 18:15 頃だったので、既に出遅れてしまっていますが、そろそろ出港……というタイミングでレストランに向かうことにしました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「いしかり」のレストランは 6 デッキ中央部の右舷側にあります。

2025年5月27日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(お部屋編のつづき)

ベッド側から入口のドアを眺めます。手前にあるのは冷蔵庫で、バス・トイレへのドアの先にはワードローブがあり、その横にエアコンのスイッチや部屋のマスタースイッチ(カードキー差込型)などがあります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ワードローブの下段にはタオルとサンダル、そしてナイトウェアが用意されています。ナイトウェアがあるのは特等すげーな……と思ったのですが、太平洋フェリーの客室案内を確かめてみると、なんと 1 等客室にもナイトウェアの用意があるとのこと。おみそれしました……(汗)。

2025年5月26日月曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(お部屋編)

車輌甲板(4 デッキ)からは「2 号エレベーター」で 5 デッキに上がってからは、インフォメーションで(部屋の)カードキーを受け取って(いたと思うのですが、流石に記憶が確かではなく……)部屋に向かいます。
今回の部屋は 6 デッキ右舷側の特等室(洋室)です。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

太平洋フェリーは、船内を「非日常を感じる空間」にすることに腐心しているようで、廊下の照明もちょっと洒落たものになっています。

2025年5月25日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1239) 「ニカンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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ニカンベツ川

ni-kan-pet?
木・上方(表面)にある・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
幌泉郡えりも町と様似郡様似町の境界を流れる川です。川を境界にするのは権利面で争いの種になるという問題もあるものの、ニカンベツ川は江戸時代からずっと様似と幌泉(えりも町)の境界だったみたいです。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ニカンペッ」という川が描かれていて、川のえりも町側に町界が描かれています(川は様似側に所属しているように見えます)。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ニカンヘツ」とあり、「ルヘシベ」や「シユマウシ」「ヘタヌ」といった支流が描かれています。

まずは表から

古くから名の知れた川なので、記録も多そうです。手元の記録をまとめてみました。

東蝦夷地名考 (1808)ニカンベツニカルベツなり
木を刈川と訳す
東行漫筆 (1809)ニカンヘツ-
大日本沿海輿地全図 (1821)ニカンベツ川-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ニカンベツニカウンベツの略語
木の実の生する川
初航蝦夷日誌 (1850)ニカンベツ-
竹四郎廻浦日記 (1856)ニカンヘツニカンは釣と云う
午手控 (1858)ニカンヘツ本名ニーカンヘツ
川尻に木多く寄る
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ニカンヘツ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ニカンベツ
〔二漢川〕
ニカウシベツ
くだものの有川
改正北海道全図 (1887)ニカンヘツ川-
永田地名解 (1891)ニ カン ペッ楡皮を取る川
昔は「ニカプウンペツ」と云った
北海道実測切図 (1895 頃)ニカンペッ-

一見、バリエーションが無数にあるようにも思えますが、実際は数種類に収斂しそうにも思えます(それでも十分多いですが)。

「木を刈る川」説

まず秦檍丸(秦檍麿)『東蝦夷地名考』の解ですが、ni-kar-pet で「木・刈る・川」と考えたようです。おそらく本来は ni-kar(-us)-pet あたりで「木・刈る(・いつもする)・川」だったのかもしれません。

この解は kar-kan- に化けたことが前提になりますが、あるいはかつて ni-kan-nay と呼ばれたことがあって、-nay がいつの間にか -pet に化けた……と想像することも、一応は可能でしょうか。

「木の実のある川」説

続いて上原熊次郎の解ですが、これは nikaop-un-pet で「木の実・ある・川」でしょうか。nikaop は、田村すず子さんの『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると ni-ka-o-p で「木・の上・につく・もの」と分解できるとのことで、ni-ka-o-p-un-pet となる代わりに意味が重複する -o-p を省いて nika-un-pet にした……ということになるのでしょうか。

「ラッコを釣った川」説

最も謎なのが『竹四郎廻浦日記』の解で……

     ニカンヘツ
此処まで浜道也。地名ニカンは釣と云事也。昔夷人の頭猟虎を釣しと云訳也とかや。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読『竹四郎廻浦日記 下』北海道出版企画センター p.490 より引用)
「昔ラッコを釣ったことがあるので」とのこと。果たして「ニカン」にそのような意味があったかどうかは不明ですが、『藻汐草』(1804) に「釣り針」を意味する「ナー」という語が記録されているとのこと。

「ニカン」を「釣り」、あるいは「ラッコ」と解釈できる余地がないか軽く当たってみましたが、手元の資料を見る限りではちょっと難しそうな感じでした。地名解と言うよりは故事の口承だったと見るべきかもしれません。

「川尻に木が寄る川」説

『午手控』では「ニカンヘツ」を「川尻に木が寄る川」だとしています。ni-kan-pet で「木・上方にある・川」と解したものでしょうか。kanka-un(上方・にある)と分解することもできそうです。

「果物のある川」説ほか

ところが東蝦夷日誌では、こんな風にコロっと話が変わっていました。

扨境目ニカンベツ〔二漢川〕(急流、冬分はしを架る)、北岸崖にして南岸平地。名義はニカウシベツと云、くだものの有川と云儀。菓は紫蒲やまぶ〔葡〕どう獼猴桃さるなしの類也。又ニーヤンベツにて、川尻迄樹木有が故とも云り(地名解)。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.*** より引用)
「果物のある川」説は上原熊次郎の解と同じですね。「ニーヤンベツ」は新たな説のようにも見えますが、ni-yan-pet で「漂木・陸に寄る・川」あたりでしょうか。

「樹皮のある川」説

永田地名解はちょっと変化球を出してきました。

Ni kan pet   ニ カン ペッ   楡皮ヲ取ル川 昔ハ「ニカプウンペツ」ト云ヒシ由
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.283 より引用)
nikap(-un)-pet で「樹皮(・ある)・川」と解釈すれば良いでしょうか。昔は「ニカプウンペツ」と呼んだ……という補足がありますが、ちょっと出来過ぎのような気も……(色眼鏡では)。

まとめ

ということで、諸説紛々に見えた各種の記録ですが、ざっくりこんな風にまとめられるでしょうか。
  • ni-kar-pet で「木を刈る川」説
  • 「ラッコを釣った川」説
  • nikaop-un-pet で「果物のある川」説
  • ni-kan-pet あるいは ni-yan-pet で「川尻に木が寄る川」説
  • nikap(-un)-pet で「樹皮のある川」説

「地名としての違和感」というアナログな指標で見てみると(ぉぃ)、「ラッコを釣った川」は選外として、「果物のある川」や「樹皮のある川」には若干の違和感を覚えます(どちらも後づけの解釈っぽい雰囲気を感じるのですね)。

「木を刈る説」は kar-kan- に転訛するメカニズムが若干謎なものの、比較的違和感の少ない説であるように思えます。ただ「川尻に木が寄る川」説のほうがより違和感が少ないんですよね。

めちゃくちゃアナログな詰め方で恐縮ですが、「ニカンベツ川」は ni-kan-pet で「木・上方(表面)にある・川」、つまり「川尻に木が寄る川」(漂木のある川)だったのでは無いでしょうか。

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2025年5月24日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1238) 「笛舞・上古丹川・近呼川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

笛舞(ふえまい)

puy-oma-p?
エゾノリュウキンカの根・そこにある・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町の西部、「アベヤキ川」の北西側の地名です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「笛舞」と描かれていて、これは当時「笛舞村」が存在していたことを示しています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ウエンコクン」の隣に「フイマフ」と描かれています。ところが改めて『北海道実測切図』を見てみると、「ウェンコタン」の隣に「プイオマㇷ゚」と描かれています。位置関係が微妙っぽい点に注意ですね。

メモ代わりに表にまとめてみました。西 → 東の順に並べると……

初航蝦夷日誌 (1850)ウヱンコタンホンウヱンコタンフユマフ
竹四郎廻浦日記 (1856)ウエンコタンホンウエンコタンフユマフ
午手控 (1858)--フユマフ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ウエンコ-フイマフ
東蝦夷日誌 (1863-1867)ホンウエンコタンホロウエンコタンフユマフ
永田地名解 (1891)ウェン コタン-プイ オマㇷ゚
北海道実測切図 (1895 頃)プイオマㇷ゚-ウェンコタン
陸軍図 (1925 頃)ウヱンコタン-ブイ

どうやら『北海道実測切図』以外は全て「ウェンコタン」のほうが西だとしているようです。実測切図の「プイオマㇷ゚」のあたりを現在「上古丹川」が流れているので、単純に記入ミスなのかもしれません。

永田地名解には次のように記されていました。

Pui omap   プイ オマㇷ゚   プイ草アル處 笛舞フエマヒ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.286 より引用)
また東蝦夷日誌にも次のように記されていました。

(一丁卅間)フユマフ(小澤)此澤に流泉花エンコサウ有り、故に號くと。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.231 より引用)
puy-oma-p で「エゾノリュウキンカの根・そこにある・ところ」と解したようですね。puy は他にも「穴」を意味したり、あるいは「こぶ山」を意味する場合もあるとのこと。『地名アイヌ語小辞典』(1956) によると斜里では「頭;岬」とあり、北見釧路では「漁をする際の(仮設の?)桟橋」をも意味するのだとか。

「エゾノリュウキンカの根」を意味する場合は puy-ta-us-nay で「エゾノリュウキンカの根・取る・いつもする・川」となる場合が多く、puy-oma-p の場合は「穴・ある・ところ」と解する場合が多いのがちょっと気になります。

道庁の「アイヌ語地名リスト」では永田地名解を出典に「エゾノリュウキンカのある所」としていますが、更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 笛舞(ふえまい)
 えりも町海岸の部落。アイヌ語のプィ・オマ・イで穴のあるところの意。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.88 より引用)
更科さんの解は「一般的な感覚の解釈」をそのまま適用したものが多いのですが(故に「歌露」のようなミスディレクションも)、今回もそんな感じでしょうか。ただ山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) でも……

プイは「えそのりゅうきんか草」で根を食べた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.339 より引用)
としつつ……、次のような文で締めていました。

プイにはまた「穴」という意もあった。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.339 より引用)
まるで保険をかけたような書きっぷりですね……。山田さんも puy-oma-p は「穴のあるところ」と解釈する場合が多いということを感じていて、それとなくヒントを残したようにも見えます(考えすぎかもしれませんが)。

上古丹川(うえこたん──)

wen-kotan
悪い・集落
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)

2025年5月23日金曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(車輌甲板編)

仙台行き車輌の乗船が進行中です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

待つこと数分、ついに乗船の瞬間が近づいてきました!

2025年5月22日木曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(乗船駐車場編)

名古屋フェリー埠頭の「乗船駐車場」(航送車待機場)にやってきました。入口に待機している係員の人がルームミラーに引っ掛けたステッカーで行き先を確認して、どの列に待機すれば良いか指示してくれるので、その通りに移動して最後列に並びます。

想定通り、ターミナル側の車列(向かって左側)の列に並びました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前車には「初心者に付き近づかないで!!」「ゆっくりでごめんなさい」というステッカーが貼られていました。ぴったり後ろに停車しちゃいましたが、これはフェリー(ターミナル)でのルールなので許してちょ~。

2025年5月21日水曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(ビュースポット編)

ルームミラーに「仙台」と書かれたステッカー(厚紙)を吊るしたので、後は航送車待機場に移動するだけですが……
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すばらな市バス

ちょいと周囲をチェックしてみましょう。輪行を終えた人たちが自転車を折りたたんでいますが、手荷物扱いで乗船するのですね?

2025年5月20日火曜日

太平洋フェリー「いしかり」特等室 乗船記(乗船手続き編)

太平洋フェリーが発着する「名古屋フェリー埠頭」にやってきました。いつも同じ感想で恐縮ですが、こういったフェリー会社の「昭和風なロゴ」って本当にいいですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

2017 年の時点では車検証を窓口に持ち込んで乗船手続きを行う、クラシックな手順を踏む必要がありました。最近仕組みが変わったと風の噂で耳にしたのですが……。

2025年5月19日月曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (7) 「インド人を左に」

伊勢湾岸道・名港中央 IC のランプウェイを進みます。「レゴランド P 左のレーンへ」の横断幕は左の字だけ赤くなっていますが、まだまだインパクトが足りないような感じも……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

インド人を左に

*右* 側に見えているのが「レゴランド」や「ポートメッセ」の駐車場のようです。

2025年5月18日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1237) 「アベヤキ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

アベヤキ川

ape-ya-ke??
炉・の近く・のところ
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町字大和(ノツナイ地区)と字笛舞(下笛舞地区)の間を流れる川です。ルチシ山の北西(アベヤキ川の北西)には「阿部焼」という名前の三等三角点(標高 619.8 m)も存在します。そのまんまの当て字ですね……。

北海道実測切図』(1895 頃) には「アベヤキ川」と描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「アヘヤキ」という名前の川が描かれていて、上流部には「ホンアヘヤキ」や「シノマンアヘヤキ」と呼ばれる川が描かれていました。

そこそこ名の知れた川なので、手元にある記録を表にまとめてみました。

東蝦夷地名考 (1808)アベヤキベツアベヤキは蝉の名
大日本沿海輿地全図 (1821)アヘヤニ川-
初航蝦夷日誌 (1850)アヱヤキ・アヘヤキ-
竹四郎廻浦日記 (1856)アベヤキ蝉を焼きし
辰手控 (1856)アヘヤキ蝉焼たと云こと
午手控 (1858)アヘヤキ判官様平き岩石にて魚をやきて喰せし処
東西蝦夷山川地理取調図
(1859)
アヘヤキ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)アベヤキアベは火、ヤキは蝉
永田地名解 (1891)アベ ヤキ赤蝉
北海道実測切図 (1895 頃)アベヤキ川-

殆どが「蝉を焼いた」あるいは「赤い蝉」とする中、「判官様(源義経)が魚を焼いて食った」とする解が異彩を放っていますね。

東蝦夷日誌には次のように記されていました。

アベヤキ(小川、夷家)名義、アベは火也、ヤキは蝉也。往昔大る火の如く光焔々たる蝉が出しが故號く。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.231-232 より引用)
ape-yaki で「火・セミ」だとするのですが、地名としては珍妙な感じが否めません。山田秀三さんは『北海道の地名』(1994) にて次のように記していました。

アペ・ヤキ(火・蝉)で赤い蝉の意。それがここにいたのだという。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.339 より引用)
既存の説を紹介するに留まっているのですが、どことなく投げやりな感じも……。

apa 系地名の可能性

もう少し具体的な、あるいは現実的な解釈が成り立たないだろうかと思って考えてみました。apa(戸口)に相当しそうな蛇行は見当たらないなぁ……と思ったのですが、よく見るとこんな地形がありました。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
川自体は蛇行を強いられているわけでは無いのですが、この尾根の存在感はなかなかのものです。これを apa(厳密には apa の手前の壁)と認識したとしても不思議はなさそうに思えます(個人の感想ですが(汗))。

-yaki とは……?

となると -yaki をどう考えるかなのですが、改めて『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見てみると……

yá-ke やケ ……の岸べ。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.144 より引用)
あら。こんな便利な語彙があったとは(ぉぃ)。yá-ke と分解されている通り、yake(ところ)なのですが、ya は「(沖に対する)陸」なので、内陸部の地名としては違和感が残ります。

ところが、これまた『小辞典』を見てみると……

ya や(やー)①「rep 沖」に対して)陸;陸岸;陸の方。②炉の中心から見て炉ぶちに近い方。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.144 より引用)
あああ、そうか……。apachise(住居)の入口で、chise の中には apeoy(炉、ape と略す場合もあり)があります。つまり apa の向こうには apeoy (ape) がある筈なのです(もちろんこれは比喩なので、実際に炉があるわけではありません)。

2025年5月17日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1236) 「ルチシ山・サツコツ・ノツナイ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルチシ山

rutke-us-i??
崩れる・いつもする・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町役場の近くにある「えりも港」には、幌泉川と南部家なんぶけ川が注いでいますが、南部家川を遡った先に「ルチシ山」という山が存在します(標高 754 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) にも「ルチシ山」と描かれていました。周りの山が「トヨニヌプリ」や「オキシカヌプリ」、「トㇷ゚シオロヌプリ」などなど、多くが「──ヌプリ」と描かれている中、一足先に「──山」となっている点が気になるところです。なお『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい山は描かれていません。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 ルチシ山 753.0㍍ 町中央オキシマップ山の西に連なる山でアイヌ語「ルチシ」は峠の意。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.582 より引用)
やはり ru-chis で「山・くぼみ」、即ち「」を意味すると見るしかなさそうな感じでしょうか。

本当に「峠」があったのか……?

ただ、この「ルチシ山」は上歌別川とアベヤキ川の間を南西に伸びていて、果たして「峠」と呼ぶべき地形が存在するか……と言われると、若干もやもやした感じもします。

ちょっと(かなり?)大胆な想像ですが、もしかしたら rutke-us-i で「崩れる・いつもする・ところ」だった……という可能性は無いでしょうか。がけ崩れの多い山だったのではないかな、という想像です。

rutke と似た語で si-rutu で「自分を・押し進める」即ち「すべり動く」という語もあるので、あるいは rutu-us-i だった可能性も無くは無い……かもしれませんが(すごく弱気)。

サツコツ

sat-kot
乾いた・谷
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年5月16日金曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (6) 「ナポレオンズっぽい」

伊勢湾岸自動車道に入りました(ちょうど「みえ朝日」IC を通過するところです)。快適な 3 車線道路が続きます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

現在の「伊勢湾岸道」は「新東名」と「新名神」を接続する超重要路線ですが、かつては閑古鳥が鳴いていた時代もあったんですよね……(遠い目)。それはさておおき、ところどころ急カーブがあるのが伊勢湾岸道の特色でしょうか。

2025年5月15日木曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (5) 「夏の終わりのカオス状態」

御在所 SA が近づいてきました。案内板は角の丸い新しいタイプのもの(2000 年代かな?)ですが、フォントは公団ゴシックです。公団ゴシックの最終世代っぽい感じですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

SA 入口直前の案内は昔ながらの行灯タイプのものです。古き良き高速道路……ですね。

2025年5月14日水曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (4) 「ステルス道路案内!?」

東名阪が「暫定 3 車線」になって、程なく四日市市に入りました。カントリーサインは船が描かれていますが、なぜ船なんでしょう……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「渋滞時 追突注意」と書かれた看板が立っています。珍しいカラーリングですが、それよりもこの看板、公団ゴシックでは……!

2025年5月13日火曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (3) 「鈴鹿本線料金所跡」

亀山 JCT. を通過しました。この先、鈴鹿 IC から 3 km ほど渋滞とのことですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

予告通り、渋滞が発生していました。左側に小さく「鈴鹿市」のカントリーサインが見えています。

2025年5月12日月曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (2) 「世界の亀山 IC」

世界の亀山 IC にやってきました。「新名神」の立て看板がなかなかチャーミングですが……あれっ?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

これ、どう見ても「大阪」「伊勢」ですよね。亀山 IC から名阪国道に入れたんだ……。

2025年5月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1235) 「幌泉」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幌泉(ほろいずみ)

poro-entom?
大きな・突き出ている海岸の断崖
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町役場のすぐ北を流れる川の名前で、えりも町の郡名(幌泉郡)でもあります。『北海道実測切図』(1895 頃) では既に村名(当時は幌泉郡幌泉村だった)として描かれるのみですが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ホロイツミ会所」と「ホロエンルン」という地名が描かれています。

「ホロイヅミ」=「ホロヱンルモ」?

「幌泉」は古くから知られた地名なので、記録も豊富です。手元の資料からピックアップして表にまとめてみました。

東蝦夷地名考 (1808)ホロイヅミホロヱンルモなり 大尖出の地
東行漫筆 (1809)ホロイツミ会所ホロヱンルム 鼠の事なり
大日本沿海輿地全図 (1821)ホロイツミ-
蝦夷地名考幷里程記 (1824)ポロイヅミポンヱンルム 小サき砂﨑
初航蝦夷日誌 (1850)ホロイヅミ-
竹四郎廻浦日記 (1856)ホロイツミホロエンルン 大岬
辰手控 (1856)ホロイツミホロエンルン
午手控 (1858)ホロイツミ-
蝦夷地名奈留邊志 (1859)ホロイヅミホロヱンルン 大崎
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ホロイツミ會所(隣に)ホロエンルン
戊午日誌 (1859-1863)ホロイツミホロエンルン
東蝦夷日誌 (1863-1867)縨泉ホロイヅミポロエンルン
蝦夷地道名国名郡名之儀
申上候書付 (1869)
縨泉郡ホロイツミホンエンルン
改正北海道全図 (1887)幌泉-
永田地名解 (1891)ポロ エンルㇺ幌泉(郡名)ノ原名
北海道実測切図 (1895 頃)幌泉-
アイヌ地名考 (1925)HOROIZUMIPoro-eremu-not「大きなネズミの岬」
Poro-itumi「大きな戦場」
陸軍図 (1925 頃)幌泉村-
北海道地名誌 (1975)幌泉「ポロ・エンルㇺ」大岬

ざっとこんな感じでしょうか。見事に「ホロイツミ」あるいは「ホロイヅミ」で統一されていて、異論を挟む余地はなさそうに見えます(永田地名解は例外ですが)。

「ホロイヅミ」は「ホロエンルム」が変化した……とする記録が大半を占めますが、「ル」が「ヅ」に変化した……という点がちょっと引っかかります。ただこの点については、金田一京助が『北奥地名考』(1932) において次のように記していました。

丁度北海道のエンルムが、襟裳岬になったり、絵鞆エドモになったり、幌泉ホロイヅミイヅミになったりしたやうに、ルがドになり、エがイになったり、〔m〕がモになったりする転訛は、無理のない程度の変化であるといへよう。
(金田一京助『北奥地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.247 より引用)
なるほど、「ル」が「ヅ」に変化したとしても、それほど奇妙なことでは無い……ということですね?

「ホロエンルム」は poro-enrum で「大きな・岬」と読めます。enrum を逐語的に解釈すると en-rum で「つき出ている・頭」とのこと。「恵庭」は e-en-iwa で「頭の尖った山」だとされますが、この en と同じですね。

ホロ? ホン?

そして、前掲の表をよく見ると奇妙なことに気付かされます。地名(場所名・村名)は軒並み「ホロ──」ですが、原義については「ホン──」あるいは「ポン──」とするものが僅かながら存在するのです。

まず上原熊次郎が『蝦夷地名考幷里程記』において次のように記していました。

夷語ポ子ンルムなり。ポンヱンルムの略語にて、則、小サき砂碕といふ事。扨、ポンとは小き事。ヱンルムとは砂碕の事にて、此所細き砂碕なるゆへ、地名になすと云ふ。
(上原熊次郎『蝦夷地名考幷里程記』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.57 より引用)
イヅミ」は「ヱンルム」だとするのですが、陸軍図を見ると確かにそれっぽい地形があります。現在は「えりも港」の一部に取り込まれているので、良くわからなくなっていますが……。

また『竹四郎廻浦日記』以来「エンルム」と記録してきた松浦武四郎も、「蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付」では何故か「エンルン」と記しています。

原名ホンエンルンの轉したる小岬の義に御坐候。エリモ岬をヲンネエンルンと言て大岬に取り、此處をホンエンルン迚小岬に取り候。今轉してホルイツミと申候。訳スル時ハ小岬ニ相成申候。
(松浦武四郎「蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付」草風館『アイヌ語地名資料集成』p.123 より引用)
これはどうやら襟裳岬が onne-enrum と呼ばれていることから、それと対になる存在だ……と考えたように見えます。

えりも町役場の北西、現在の「西えりも」のあたりの砂岬は、襟裳岬と比べるとどう見ても poro-(大きい)とは言えないので、pon-enrum で「小さな・岬」としたのは妥当な解釈であるように思えますが、pon-poro- に変化したというのは……あり得ることなのでしょうか。

enrum と entom

ここで思い出したいのが「エンドモ」(えりも町)の存在です。詳細は当該記事を確認願いたいのですが、enrum とは別に「突き出ている海岸の断崖」を意味する(とされる)entom という語があったのではないか、と考えられます。

「えりも町役場の近くにそれらしい崖は無いのでは?」と思われるかもしれませんが、実は現在「スマイルタウン灯台公園」や「セブンイレブンえりも本町店」、ジェイ・アール北海道バス・日勝線の「えりも駅」のあるあたりが、かつて高台になっていました。


1978(昭和 53)年頃の航空写真でも、かつての高台の残骸?が確認できます。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「幌泉」という地名は、「襟裳岬」を意味するヲン子エンルンとは無関係で、poro-entom で「大きな・突き出ている海岸の断崖」だったのでは無いでしょうか。

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2025年5月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1234) 「コロップ・新消内川・シラヌマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

コロップ

kor-o-p?
蕗の葉・多くある・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
歌別川(えりも町)の北に半円状のステージのような地形があり、そのあたりの地名です。北側を「コロップ川」が流れています。

北海道実測切図』(1895 頃) には川の名前として「コロフル」と描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には海岸部の地名として「リフル」と描かれています。

『初航蝦夷日誌』(1850) には次のように記されていました。

砂浜少し行而
     ユルフル
小川有。番屋弐軒有。此処夷人小屋も三軒斗有。此川は山上ユルフルと云より流れ落る也。今は海岸の字となれり。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.344 より引用)
どうやらもともとは上流部の地名で、今は海岸部の地名になった……とのこと。

「コ」と「ユ」の字形が似ているということもあり、表記揺れが激しいようです。ちょっと表にまとめておきましょうか。

大日本沿海輿地全図 (1821)コルフル-
初航蝦夷日誌 (1850)ユルフル「ユルユル」もあるが誤字か
竹四郎廻浦日記 (1856)(コ)ルフル-
戊午日誌 (1859-1863)コリフリ-
東蝦夷日誌 (1863-1867)ユルフル坂の事也
永田地名解 (1891)コロ フル蕗丘
北海道実測切図 (1895 頃)コロフル-
地理院地図コロップ-

手元の資料をちらっと確認した限りではこんな感じなのですが、思ったほどではなかったですね。どうやら松浦武四郎が「コ」を「ユ」に誤記した可能性が高そうな感じでしょうか。

永田地名解には次のように記されていました。

Koro huru   コロ フル   蕗丘 春日土ヲ掘ル僅ニ五分許ニシテ蕗臺ヲ探リ得ベシ故ニ此名アリト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.286 より引用)
一見、ちょっと引っかかる感もあったのですが、kor で「蕗の葉」を意味するので kor-o-hur で「蕗の葉・多くある・丘」と読めそうですね。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 コロップ川 歌別地区の海に入る小川で,アイヌ語「コル・ウン・フル」(蕗のある丘)が転じたものという。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.583 より引用)
ふーむ。-o ではなく -un ではないか、ということですね。確かに -un でも良さそうな感じがしますが、kor-un-hur だと「コルンフル」となりそうな感じも……。まぁ誤差の範囲だと思うのですが。

川の名前としても不自然ですが(丘の名前なので)、kor-o-pet で「蕗の葉・多くある・川」か、あるいは kor-o-p で「蕗の葉・多くある・もの(川)」だったと考えれば良いのかもしれません。

新消内川(しんしけない──)

sunke-us-nay??
ウソをつく・いつもする・川
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)

2025年5月9日金曜日

夏の東北・北海道の旅 2017 (1) 「亀山にカメ」

国道 25 号(いわゆる「非名阪」)が国道 1 号に合流する「東海道 関宿西」交叉点にやってきました。この交叉点、実は T 字路ではなく十字路なんですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

よく見ると「この先幅員狭し 大型車はご遠慮下さい」とあります。これはもちろん天下の国道 1 号の話ではなく、そのすぐ先を並走する「旧東海道」の話です。関宿に限らず、かつての宿場筋は大型車が通行するには狭すぎるんですよね。

2025年5月8日木曜日

非名阪をゆく (6) 「加太越え鉄道遺産群」

国道 25 号(いわゆる「非名阪」)で加太から関(いずれも亀山市内)に向かっています。ここはバイパスとして整備された区間みたいで、すぐ目の前の交叉点で旧大和街道と合流しています。
しばらく気づかなかったのですが、よく見ると関西本線の築堤も見えているんですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

かつての「大和街道」に戻ってきました。案の定と言うべきか、センターラインが消失しました(汗)。

2025年5月7日水曜日

非名阪をゆく (5) 「でんしゃに」

国道 25 号(いわゆる「非名阪」)で加太かぶと川を渡って亀山に向かいます。右側に「亀山市立加太小学校」が見えてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

関西本線の線路が見えてきました。非電化・単線なので架線柱などは無く、また通信線?などを支える電柱もありません。

2025年5月6日火曜日

北海道のアイヌ語地名 (1233) 「坂岸・歌別・オキシマップ山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

坂岸(さかぎし)

chakaka-us-i??
あくの泡を開く・いつもする・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
えりも町歌露の北西に位置する地名です。和名のようにも思えますが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「サカキウシ」と描かれていました。ただ不思議なことに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たらないようにも思えます。

戊午日誌 (1859-1863) 「南岬志」には次のように記されていました。

また少し行て
     ホンチヤカキシ
     ホロチヤカキシ
今訛りてサカキシといへり。其名義はむかしヱトロフ島・クナシリ島の土人御目見に出ける時、此処え必ず船を着け休みて、船中の荷料等を炊き(飾る)用意して、是より日和まちなして、直によき時はエトモまでも遣り候よし也。依て号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.198 より引用)
また、ネタ元と思しき『午手控』(1858) には少し異なった表現で記されていました。

サカキシ ヱトロフ、クナシリの土人御目見の節、此処にて物を煮て持行しによって号く。惣て奥の土人此処え船を容れしによって也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.126 より引用)
また東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。

(并て)サカキン、(并て)ホロチヤカキシ、往古御目見おめみえ土人此處に上り、日和ひよりを立行處故此名有と。チヤカキシは御目見の時の船のかざり物也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.244 より引用)
「チヤカキシ」あるいは「サカキウシ」に次のような意味があったのかどうか、というところが鍵になりそうですね。
  • 舟をつけて休む
  • 荷物を飾る、炊く?
  • 天候の回復を待つ
  • 物を煮る
  • 舟の飾り物

手元の辞書類をあたってみたのですが、探せば出てくるものですね(汗)。『アイヌ語千歳方言辞典』(1995) に次のような記述がありました。

チャカカ cakaka【動 2】(浮んできたあく)をすくって、鍋の中に再びたらたらとたらし、あくの泡をつぶして消す;チャカ caka は「開く」ことであるので、泡を開いて消すことを指しているのかもしれない。
(中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館 p.260-261 より引用)
どうやら chakaka-us-i で「あくの泡を開く・いつもする・ところ」と読めそうな感じです。つまり「いつも鍋をするところ」であり、また「いつも開くところ」とも解釈できます。きっと「荷を開く」と考えたのでしょう。

松浦武四郎が記録したのは「地名説話」っぽい(既存の地名から荒唐無稽な物語を拵えたもの)のですが、「元となった地名」がどんなものだったか……を考えてみたいところです。

ということで少し考えてみたのですが、sak-chi-kus-i で「夏・我ら・通行する・ところ」とかはどうでしょうか。あるいは sak-chise-us-i で「夏・家・ある・ところ」あたりのほうがより自然かもしれません。

あと、これは根本的なツッコミになる可能性もあるのですが、和語の「榊」がアイヌ語に移入して sakaki-us-i になった……という可能性も検討するべきでしょうね。チラ見した限りではそういった記録は見当たらなかったのですが、何しろチラ見なので……(ぉぃ

歌別(うたべつ)

ota-pet
砂・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年5月5日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (180) 黒石(黒石市)~浪岡(青森市) (1878/8/11(日))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第三十二信」(初版では「第三十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

つらい一日の旅

普及版「第三十二信」の冒頭には「北海道 函館にて 一八七八年八月一二日」と記されています。これは読んで字のごとくで、8/12(月) の数日前(普通に考えると前日?)に渡道したことを示しています。

イザベラが日帰り温泉旅行に出かけたのが 8/6(火) 以降のどこかだと考えられるので、8/8(木) から 8/10(土) の間あたりで青森に向かったことになると思われるのですが……どこかでヒントを見落としていなければ良いのですが。

あと「つらい一日の旅」というセンテンス名ですが、原文では A Hard Day's Journey となっていました。まるでビートルズみたいですね。

 黒石から青森までの旅は、たった二二マイル半だが、道路が悪かったために、ものすごい旅であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
第三十二信の後に「新潟から青森までの路程表」があり、それによると黒石からは「大釈迦だいしゃか」と「新城」を経由して青森に向かったとのこと。黒石から北に位置する浪岡に向かい、そこからは JR 奥羽本線とほぼ同じルートを辿ったようです。

22 マイル半は約 38.5 km なので、普通の道であれば半日で移動できる距離です。途中で宿泊の描写は無いので、朝イチに黒石を出発して一気に青森に向かったということでしょうか。

「道路が悪かった」のは降雨の後だったことが原因のようで、荷物を運ぶ駄馬が通行したことで「道は泥沼と化していた」とのこと。イザベラは人力車での移動を希望したものの、駅逓係(原文では Transport Office)に「道が悪いので無理です」と断られたようですが……。

しかし私は気分がすぐれず、それ以上は馬に乗って行けなかったから、たいそう安い金額で二人の男を買収し、海岸まで連れて行ってくれるように頼んだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
この辺のイザベラのモンスターカスタマータフネゴシエーターぶりは最早おなじみでお約束になりつつありますね。

両方の人力車に代わるがわる乗って、かなりうまく進むことができた。それでも山に来ると必ず歩いて登り、下りも多くは歩いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
かなり歩かされたようですが、それでも馬で移動するよりは身体への負担がマシだった……ということなのでしょうね。

橋の流されたところでは必ず車から降りて、車夫が車を持ち上げて割れ目を越せるようにした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
「割れ目」とは何だろう……と思ったのですが、原文では the gap となっていました。時岡敬子さんはどう訳したのか確かめたのですが、訳文には the gap に相当する単語は見当たらないようでした。the gap は「橋」(原文では a little bridge)が流された場所なので、「小さな川」と見るべきなのでしょう。

落馬

駅逓係が人力車を出すのを拒否したのは「車輪が泥の中に埋まってしまうから」だったと思われるのですが、実際にイザベラの人力車は何度も「泥にはまった」ように描写されています。

ただイザベラは乗馬に耐えられないと判断して(無理やり)人力車に乗っていたので、高梨謙吉さんが「落馬」としたのは誤訳のようにも思えます。原文では An Overturn で、時岡敬子さんはこれを「転覆」と訳されていました。

充分用心していたが、泥溝の中にひっくりかえり、車が私の上になった。しかし幸運にも私の空気枕が車輪と私の間に挟まっていたので、私の着物を泥水で汚しただけで助かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.329 より引用)
相変わらずの強運ぶりですね……。しかも着物は就寝時にも着用するものだったとのことで、普通に考えれば風邪をひきそうなものですが、イザベラによると「風邪もひかずにすんだ」とのこと。真夏だったのも幸いしたのでしょうか。

大きく険しい山

街道の状態が良くなかったのは、塩魚を運ぶ駄馬が多く通っていたから……との描写がありましたが、奥羽本線の青森-弘前間が開通したのは 1894(明治 27)年で、これはイザベラの奥地紀行から 16 年後ということになります。

 本州を縦断する山脈は南部ナンブ地方で陥没するが、青森湾でふたたび大きくて険しい山となって聳える。しかし黒石と青森との間は、低い山々に分かれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
ほほう……と思って地理院地図を眺めてみたのですが、かつての岩手県二戸郡安代町(現在の八幡平市)の真ん中を分水嶺が通っていて、国道 282 号の「貝梨かいなし峠」のあたりは標高 436.5 m しかありません。

イザベラが言う「大きくて険しい山」は「八甲田山」とそれに連なる山々のことでしょうか。黒石と青森の間は「大釈迦」の北で分水嶺を越えていますが、国道 7 号は標高 100 m ほどのところを通過しています。確かに「低い山々」と言えるのかも……。

謎の「胡麻」

続いて、本日一番の謎がやってきました。

蚊取線香をつくる原料の胡麻ごま(除虫菊?)が他の草花をおしのけて一面に生えている丘もある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
この「ごま」は翻訳者泣かせのようで、時岡敬子さんは「ごまの一種[? たぶのき?]」としていました。また「エゴマ」と「パチョリ」を混同したのではないか、との見解も目にしました。どちらもシソの一種で、パチョリは虫よけに効果があるとの説もあるみたいです。

原文では The Sesamum ignosco となっているのですが、Sesamum ignosco でググってもイザベラの文章しか出てきません。ラテン語 ignosco は「許す」という意味のようですが、「許されたゴマ」というのも何が何なのやら……。

ちょっと収拾がつかなくなってきたので、整理してみましょう。イザベラは "The Sesamum ignosco, of which the incense-sticks are made" と記していますが、the incense-sticks は「お香の棒」とのこと。素直に読み解けば「線香」となりますね。

高梨謙吉さんは、これを何故か「蚊取線香」と訳して、そこから「除虫菊?」という考え方をひねり出したように見えます。ただ「除虫菊」の渡来は 1886(明治 19)年とのことなので、これは明らかに間違いと見ていいでしょう。

「エゴマ」を防虫効果のある「パチョリ」と見間違えたという考え方はどうでしょう。パチョリは東南アジア原産で熱帯・亜熱帯に生息するため、弘前のあたりで見かけることは無いと考えられますが、エゴマは福島県でも多く栽培されているとのことなので、可能性はあるかもしれません。

時岡敬子さんは「タブノキ」ではないかとしましたが、これは「タブノキ」が線香の原料となることからの推測でしょうか。東北地方にも自然分布しているとのことで、これも青森県にあったとしても不思議はありません。

ただ「タブノキ」は「常緑高木」なので、「他の草花をおしのけて一面に生えている」という表現には違和感があります。もっとも原文では

The Sesamum ignosco, of which the incense-sticks are made, covers some hills to the exclusion of all else.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
とあるだけで、どこにも「他の『草花』」とは明記されていないようにも思えるのですが、そもそも論として「ゴマ」と「常緑高木」を間違える時点で無理がありそうにも思えます。

これらの推論から結論を捻り出すには……ですが、まず「除虫菊」説は時系列的にあり得ないので却下でいいでしょう。「タブノキ」説も「常緑高木」と「一年草」を間違えるというのはあり得ない……としたいです。

となると「エゴマ」を「パチョリ」と見間違えた説が俄然浮上するのですが、「エゴマ」が弘前近郊に自生していたかどうかは確証が持てません。「エゴマ」も「パチョリ」もシソ科なので、更に間口を広げて(?)「シソ」を「パチョリ」と見間違えた……と考えてみたいのですが……。

副収入?

イザベラは(例によって)「農業を営む部落の様子はますますひどくなってきた」と記しつつも、「特に貧困であるという様子はなかった」と続けていました。次のように理由を推測していたのですが……

北海道エゾから魚を運んできたり米を運んで行くための馬や馬子マゴの代金として多額の金を得ているにちがいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
ビッグビジネスの予感™ というヤツでしょうか……?

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2025年5月4日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (179) 黒石(黒石市) (1878/8/7(水))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十一信」(初版では「第三十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

厳粛な疑問

普及版の「第三十一信」は「大衆浴場は日本の特色の一つである」で締められていましたが、初版の「第三十六信」には更に続きがありました。

 たくさんの厳粛な疑問がこの異教徒の土地では湧き上がってきます。こうした疑問は、国許では起きないか、あるいは、起きたとしても遥かにか弱い力をもってしか湧き上がってこないのだが、私が独りで馬に跨っているときそれらは絶えず、浮かび上がってきます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.130 より引用)
随分と思わせぶりな文章ですが、原文もそんな感じですし、時岡敬子さんの訳でも大差無さそうな感じです。

「ただひとりの父なる神」は、何百万というご自分の異教徒の民の子の救済を、けちで欲深く、ぐずで利己的な──人間と金銭の双方に関して利己的で欲深さをもつ──教会の遅鈍さに頼るようにさせたのだろうか。われらの主なる救い主キリストは、永遠の滅亡──人間の知覚を超える一つの恐怖を──「少なくムチ打たれる」訳注 1 という寛大なお言葉によって意味していたのだろうか。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.130 より引用)
要はこんな感じで宗教(キリスト教)に対する自問自答が綴られています。チラ見した限りでは、仏教における「悪人正機」の是非に通じるものがありそうにも感じられます(本当にチラ見しただけの浅い理解ですが)。

原文ではこういった自問自答がずっと続くのですが、明らかに「奥地紀行」からはオフトピックなので、「普及版」ではバッサリとカットされています。まぁ、当然と言えば当然ですね……。

だれでもこれらの人々の間で生活して、彼らの素朴な徳と素朴な悪徳や、農民の着る蓑の下で脈打つ心がいかに優しいかを学んだならば、このような、あるいは、多くの似たような疑問が湧き上がってくるにちがいない。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.130 より引用)
確か、昔の VOW か何かで「しんじないとじごく」というキーワードがあったような気がするのですが、キリスト教では「イエス・キリストを信じない者は地獄に落ちる」という考え方がある……とも耳にします(詳しいことは良く知りませんが)。

イザベラがこれまで目にしてきた日本の農民は、ほぼ例外なくキリスト教では無い筈なので、イザベラにしてみれば彼らは「地獄に落ちる対象」と言うことになってしまうのですが、果たしてそれが「正しいこと」なのか、あるいは「あるべき姿」なのか……という疑問が湧いてくる、ということなのでしょうね。

少ないムチ打ち、揺らぐ希望

この後「少ないムチ打ち」と「揺らぐ希望」と題したセンテンスが続くのですが、イザベラは次の文でセンテンスを締めていました。

これらの言葉は主題からそれているかもしれませんが、しかし、このような疑問が毎日、毎時間、いやおうなしに沸き起こってくるのです原注 1
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.131 より引用)
こういったイザベラの懊悩は、見方によっては「宣教の必要性に対する疑義」とも捉えられかねないものです。そのため「原注 1」において「宣教の仕事に反対している、あるいは宣教の必要性を疑って書かれたと思われるといけない」として、キリスト教を信じる者の宣教の義務について「拘束力を持つ」としています。

ぶっちゃけて言ってしまうと、こういった「宣教の義務」は「マルチ商法」との親和性が高いような気もするので、正直どうなのかな……と思わないでもありません。

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2025年5月3日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (178) 黒石(黒石市) (1878/8/6(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十一信」(初版では「第三十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

公衆の風呂

黒石に滞在中のイザベラは、なんと通訳・伊藤を伴うことなく人力車で外出してしまいました。イザベラは「上中野かみなかの」というところにやってきたように読めるのですが……

 上中野かみナカノは非常に美しい。秋になって、星の形の葉をつけた無数の紅葉が深紅の色をつけ、暗い杉の森を背景として美しく映えるとき、森の中の大きな滝は雪の降るように白く輝きながら下の暗い滝壺に飛び散り、遠く旅をしてやって来る価値が充分にあるにちがいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.326 より引用)
ただ地図を眺めてみると、黒石のあたりには「上中野」という場所が見当たりません。国道 102 号で黒石川沿いを東に向かうと、国道 394 号との分岐点のあたりに「南中野」という場所があるのですが……。ということで原文を確かめてみたところ、なんと Upper Nakano とありました。Kami-Nakano ではなかったのですね。
   
要はどこにも「上中野」とは書かれておらず、Upper Nakano を「上中野」としたのは高梨謙吉さんの創作?だったことになるのですが、とても不思議なことに時岡敬子さんの訳でも「上中野かみなかのは非常に美しく」となっています。不思議なこともあるものですね……。

川のところまで苔の生えたりっぱな石段がある。美しい橋があり、二つのすばらしい石の鳥居がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.327 より引用)
黒石市大字南中野には「中野神社」があるので、これはその描写でしょうか。


きれいな石灯籠があって、それから壮大な石段の急な坂を登って山腹を登る。それは杉の並木で小さな神社に至る。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.327 より引用)
現在の「中野神社」も山腹にあるので、イザベラが詣でたのは「中野神社」だったと見て良さそうな感じですね。

ここからほど遠くないところに神聖な木があり、それには愛情や報復のしるしがつけてある。ここはすべてが魅力的である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.327 より引用)
「愛情や報復のしるし」というのは、イザベラが「初版」の第三十五信において「愛と復讐」というセクションで詳述した内容ですね。

イザベラが、どうやら「中野神社」を詣でたらしい……というところまでは読み解けたのですが、イザベラは続いて「下中野しもナカノ」に向かったとのこと。現在の「南中野」もちょっと不思議な地名で、「中野川」と「南中野」がある割には「中野」や「北中野」が見当たらないのです(まるで「南キシマナイ沢」のようですね)。

 下中野しもナカノは、私がやっと歩いて行けたところだが、たいへん熱い温泉があるという点だけ興味がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.327 より引用)
温泉、確かに気になりますよね。地図を見てみると、中野神社の少し西に「温湯ぬるゆ」という所があり、そこに温泉があるとのこと。

ここはリューマチや眼病の患者にとって価値がある。主として茶屋や宿屋だけで、かなり賑やかに見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.327 より引用)
リウマチは現在でも耳にしますが、イザベラはここまで何度も「眼病」と記しているのがちょっと気になってきました。これは具体的にどのような症状を指していたのでしょうか。かつて庶民を苦しめた病気の中には、脚気のように「ビタミン欠乏」が原因であると突き止められ、現在では事実上根治したものもありますし、また結核のように特効薬が発明されたものもあります。イザベラの言う「眼病」も、あるいは脚気と似たような感じで、何らかの栄養素の欠乏によるものだったのでしょうか……?

浴場は四つあるが、形式的に分かれているだけで、入口は二つだけで、直接に入湯者に向かって開いている。端の二つの浴場では、女や子どもが大きな浴槽に入っていた。中央の浴場では、男女が共に入浴していたが、両側に分かれていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.327-328 より引用)
どうやらこの温泉は「混浴」の部分があったようですね(混浴ではあるものの、ある程度は「運用」で隔てられていたということかも)。

私は車夫の行くままに浴場に行ったが、一度中に入ると、出るときは反対側からで、そのときは後ろから人々に押された。しかし人湯者は親切にも、私のような不本意な侵入を気にとめなかった。車夫は、そんなことをして失礼だとは少しもわきまえずに、私を連れて入ったのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.328 より引用)
イザベラが温泉に入ることになったのは、本人がそれを望んだから……だと思いますが、車夫もちゃっかりお相伴に与っていたのですね。入浴が車夫のリクエストだったりしたらビビりますが……。

浴場においても、他の場所と同じく、固苦しい礼儀作法が行なわれていることに気づいた。お互いに手桶や手拭いを渡すときは深く頭を下げていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.328 より引用)
イザベラの覗き趣味観察眼の鋭さが光りますね。日本では、公共の場において必要以上に堅苦しい礼儀作法が要求されるケースがちょくちょくあるように思われるのですが、あれはどういった歴史的経緯で醸成されたものなんでしょうか。

俗に「江戸しぐさ」と呼ばれるものは、大半が後世の創作であるようにも思えるのですが、そういった「ニセの伝統」が持て囃されるのは一体何故なのか、気になるところです。

日本では、大衆の浴場は世論が形づくられるところだ、といわれる。ちょうど英国のクラブやパブ(酒場)の場合と同じである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.328 より引用)
ふむふむ。大衆浴場では見ず知らずの人同士が湯船に浸かる時間を共有するので、後腐れのない一期一会の会話から生まれるものもある……と言ったところなんでしょうか。

また、女性がいるために治安上危険な結果に陥らずにすむ、ともいわれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.328 より引用)
これはちょっと不思議な感じもするのですが、女性はその場の仲裁役となり得る……と言った意味なんでしょうか。現代ではむしろ、女性がその場にいること自体が(女性の)治安上危険と言えそうですが……。

しかし政府は最善をつくして混浴をやめさせようとしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.328 より引用)
「混浴は野蛮である」という認識なんでしょうね。まぁ大きく間違ってはいないのですが、「脱亜入欧」に必死だった政府の姿勢が伝わりますね。

大衆浴場は日本の特色の一つである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.328 より引用)
そう言えば「テルマエ・ロマエ」という漫画がありましたが、ヨーロッパには「大衆浴場」という文化は無い……んでしたっけ?

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2025年5月2日金曜日

非名阪をゆく (4) 「ここは国道なのか(諸説あります)」

国道 25 号(いわゆる「非名阪」)を東に向かいます。このあたりはかつての「大和街道」がそのまま転用されているっぽい感じですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

センターラインは無く、ところどころ道幅が狭いところもありますが、やはり橋の部分が狭くなっているようですね。ただ少し手前で見かけた凝った意匠のコンクリート橋と比べると、随分と現代的な(面白みのない)デザインになっています。

2025年5月1日木曜日

非名阪をゆく (3) 「発破予告」

国道 25 号(いわゆる「非名阪」)で世界の亀山市にやってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

急に道幅が狭くなり、「この先路面凸凹あり 走行注意願います」との看板が。三桁国道や都府県道だと、都府県境を越えたとたんに道路の整備状況がガラっと変わることがありますが、ここは単なる市境なので、急に道幅が狭くなったのは、橋があるから……なんでしょうね。