2025年7月31日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (20) 「日向と月光」

日本海東北自動車道(山形区間)の終点(2017 年当時)である「酒田みなと IC」出口にやってきました。まずは左折して国道 7 号に向かうのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そう言えば、よく見るとどこにも「国道 7 号」の文字がありませんね。

2025年7月30日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (19) 「高速シケイン」

突如、何の案内も無く出現した「サイレント追越車線」ですが、酒田中央 IC の 500 m 手前で終了していました。ざっくり計算で 1 km から 1.5 km ほどの長さだった……ということになるでしょうか。
もちろんその間に、先行していた「毒」マークつきの大型車をオーバーテイクしていたことは言うまでもありません。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

暫定 2 車線構造におけるセオリーとしては、追越車線は IC の手前から IC の先まで設けることが多いのですが、酒田中央 IC の場合は IC の手前で追越車線が終了していました。

2025年7月29日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (18) 「1 レーンのみの本線料金所」

日本海東北自動車道の酒田 IC に併設された本線料金所が近づいてきました。懐かしの公団ゴシックで「本線料金所 一旦停止」と書かれています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「本線料金所」「速度落せ」の標識も見えてきました。本線料金所自体は正面にあるっぽいので、前後に急カーブがあるというわけでは無さそうです。

2025年7月28日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (17) 「人がいます」

この日、日本海東北自動車道では道路工事のために片側交互通行規制が行われていました。「待ち時間15分」という立て看板が見えますが、なんと待つこと 3 分ほどで車列が動き始めてしまいました。
いやまぁ、「待ち時間 *最大* 15 分」なので 15 分以内に動き出す確率は極めて高い筈ですが、前車が 2 台しかいない状況で 3 分待ちというのは嬉しい誤算で、そして「えっ、平日の日東道、車少なすぎ?」という疑惑が……(汗)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

確かに信号は青に変わっています。片側交互通行あるあるのフライングでも無さそうです。

2025年7月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1261) 「パンケナイ川・ピラオマナイ川・メナシュンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

パンケナイ川

panke-nay??
川下側・川
(?? = 旧地図で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
JRA 日高育成牧場の敷地の東側を「オバケ川」が流れていますが、その東隣を流れる川……だとされています(国土数値情報による)。地理院地図には川として描かれていませんが、「日高幌別さけますふ化場」から水路らしきものが日高幌別川に向かっているので、もしかしたらこれが「パンケナイ川」なのかもしれません。

panke-nay で「川下側・川」だと思われるのですが、『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川が描かれておらず、陸軍図でも同様なので、注意が必要です。

ピラオマナイ川

pira-oma-nay??
崖・そこに入る・川
(?? = 旧地図で未確認、独自説、類型あり)

2025年7月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1260) 「ルベシベ川・オロマップ川・アイツルナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルベシベ川

ru-pes-pe
路・それに沿って下がる・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦河西舎ケバウ川に合流する西支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ルヘシヘ」とあり、『北海道実測切図』(1895 頃) にも「ルペㇱュペ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      ルベシベ
 左りの方小川。此小川のすじより山こしするやムコベツえ出るによつて号る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.412 より引用)※ 原文ママ
現在はルベシベ川沿いを道道 1025 号「静内浦河線」が通っていて、乳呑川の源流部を横切って向別川支流のタンネベツ川沿いに出ることができます。松浦武四郎(のインフォーマント)の地理認識は正しかったと言えそうですね。

「ルベシベ」は道内各地にある地名・川名ですが、ru-pes-pe で「路・それに沿って下がる・もの(川)」と見て良いかと思われます。平たく表現すれば「峠道の川」ということになりますね。

オロマップ川

oro-oma-p??
その中・そこに入る・もの
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)

2025年7月25日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1259) 「東ライベツ川・日高幌別川・トメナ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

東ライベツ川

ray-pet???
死んだ・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
鵜苫川と日高幌別川の間で直接海に注ぐ川……ですが、おそらく日高幌別川の旧河道で、いわゆる「三日月湖」状態のようです。「川」というよりは「水たまり」に近いかもしれません。

北海道実測切図』(1895 頃) には河跡湖と思しき川?が描かれていますが、残念ながら川名の記入はありません。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ホロヘツ」(=日高幌別川)と「ウトマヘツ」(=鵜苫川)の間に「フシコヘツ」と描かれています。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Hushiko pet   フシコ ペッ   古川 「ポロペツ」ノ舊流ニシテ往昔ハ大川ナリシガ中古流レヲ變ジ今ハ小川トナリタリ蝦夷紀行ニ云フ山下ニ水溜リテ池ノ如ク流レテ海ニ入ル「ポロペツ」ノ舊流ナリト
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.272 より引用)
やはり「日高幌別川」の旧流と見て良さそうな感じですね。husko-pet で「旧・川」と見て良さそうです。

「東ライベツ川」という名称は『北海道実測切図』や陸軍図では確認できませんが、「東幌別」という地名があり、そこに存在する旧河川なので poro-petray-pet に改めたということかもしれません。

ray-pet は『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも立項されていました。

ray-pet らィペッ もと‘死んだ川’ の義。古川で水が流れるとも見えず停滞しているもの。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.106 より引用)
ray-pet で「死んだ・川」なのですが、これは「水の流れが死んだように遅い川」とも解釈できます。今回の場合は完璧なダブルミーニングと言えそうですね。

意味が明瞭で地形上の特徴とも一致するので「アイヌ語地名」と考えて良さそうですが、「陸軍図」以前の地図で「ライベツ」という地名・川名を確認できないので、不本意ですが「要精査」と言うことに……。

日高幌別川(ひだかほろべつ──)

poro-pet
大きな・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)

2025年7月24日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (16) 「待ち時間15分」

酒田市に入りました。カントリーサインは夕陽を背にした灯台が描かれているように見えますが、これは「旧酒田灯台」をモチーフにしたものでしょうか。
それはそうと、やはり衝撃的なのは「3 ㌔先交互通行 最大15分待ち」の文字ですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

庄内空港 IC を通過します。片側 2 車線道路で渋滞の気配も見当たりませんが……

2025年7月23日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (15) 「急カーブ・速度注意」

鶴岡 IC にやってきました。何故か IC の手前で 4 車線区間が終了して暫定 2 車線に戻ったのですが、車線を絞って浮いたスペースを流出車線にしているようです。なんか本末転倒のような気もしますが……。
看板はコテコテの公団ゴシックですが、よく見ると IC 名の部分だけヒラギノ角ゴっぽいですね。若干色合いが違うような気もしますが……?

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

仮に片側 2 車線にしてしまうと、出口との分岐が料金所ブースの直前になりそうなレイアウトです。コンパクトにしすぎかも……?

2025年7月22日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (14) 「弁当等の販売はしておりません」

山形自動車道の「庄内あさひ IC」を通り過ぎると、緩く左にカーブして「赤川」を渡ります。対向車線の案内板の裏側には「鳥海山」のイラストが。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

路肩に巨大な「走行注意」のパイロンが。敢えてパイロンにする必要性が今ひとつ思い浮かばないのですが、インパクトがあるから……でしょうか?

2025年7月21日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (181) 浪岡(青森市)~青森(青森市) (1878/8/11(日))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十二信」(初版では「第三十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

海に近づく

イザベラは羽州街道を北上して青森に向かっていました。

 日光を出てから数多くの峠を越えて来たが、その最後の峠は浪岡ナミオカにあった。鶴ガツガル坂というところであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.330 より引用)
この峠は大釈迦だいしゃかと鶴ヶ坂の間にあり、JR 奥羽本線は「新大釈迦トンネル」で越えています。イザベラは「鶴ヶ坂」を Tsugarusaka と誤っているのですが、TsugaruTsurugasaka というのは確かにちょっとややこしいかも……。

イザベラは鶴ヶ坂の印象を「故郷スコットランドに帰ったような気持ちにさせる」と綴っていました。今まであまり気にしたことが無かったのですが、スコットランドだったんですね……。

楽しい興奮

鶴ヶ坂から青森の中心地までは 18 km ほどあるので、普通に移動すれば半日近くかかる距離ですが、津軽海峡を目にしたイザベラは「私の長かった陸地旅行は終わった」と記しています。

ある旅行者が、北海道エゾへ向かう汽船は夜出発すると言った。私は喜び勇んで、四人の男を雇った。彼らは人力車を引きずったり、押したり、手で持ち上げたりして、ようやく私を青森へ運んでくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
黒石から北上する際に、イザベラは人力車の提供を断られたので、無理やり車夫を買収して強行突破した……という話がありましたが、ここまで来れば普通に人力車(の車夫)を雇うこともできたということでしょうか。

一面の灰色

「喜び勇んで」青森にやってきたイザベラは、街の印象を次のように記していました。

青森は灰色の家屋、灰色の屋根、屋根の上に灰色の石を置いた町である。灰色の砂浜に建てられ、灰色の湾が囲んでいる。青森県の都ではあるが、みじめな外観の町である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
……平常運転ですね。イザベラはこれまで何度も「みじめな町」という表現で街の印象を表現してきましたが、それは欧米人の視点によるものなのか、それとも日本人が見ても惨めな感じだったんでしょうか……?

青森の経済的な位置づけについては、イザベラは次のように記していました。

 青森は北海道エゾに対し牛や米の大きな移出貿易を行なっている。さらに北海道の漁業で働くため北日本から毎年のように莫大な人数の移動する出口である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
函館からは魚・皮革・外国商品が運ばれてきて、また昆布や漆器の取引がある……としています。

この漆器は青森塗あおもりぬりと呼ばれるが、実際にそこで作られるのではない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
「青森塗」でググると「津軽塗」が出てきましたが、弘前を中心とした一帯で生産される漆器とのこと。この漆器が函館から蝦夷地に運ばれる……ということでしょうか。また「この町の特産品は大豆と砂糖で作られる菓子である」と続いているのですが、これは何のことでしょう……?(ググると「豆しとぎ」と出たのですが)

青森は深くて防波の充分によい港があるが、桟橋など貿易上の設備がない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
あ、「桟橋がない」とは意外ですね。イザベラは「町について調べる時間がなかった」としていますが、それもその筈、函館に向かう船の出港が迫っていたので……

ただ三十分の間に三菱ミツビシ会社の事務所で切符を買っただけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
到着したその日に船が出るというのは恐ろしく幸運なことですが、流石にちょっと慌ただしすぎたかもしれませんね。傍観者としては、もう少し青森を旅するイザベラの姿も見てみたかったかも……。

それから「洋食」という文字がうす汚いテーブルかけに書いてある料理店で魚肉を一口急いで食べて、灰色の波止場に駆けて行った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331 より引用)
青森は条約港では無かったのですが、「洋食」を提供する店があったんですね。まぁ「肉」とは言っても「魚肉」ですが……。

そこで私は日本人の三等船客が混雑している大きな平底船サンパンに乗せられた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.331-332 より引用)
めちゃくちゃハイスピードな展開ですね……。ちなみに夕方に青森を出港して、これから 14 時間ほどかけて函館に向かうことになります。

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2025年7月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1258) 「海辺川・冬似・鵜苫・ワッカクナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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海辺川(うんべ──)

ota-humpe
砂・クジラ
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似町西部、かつて日高本線・西様似駅があったあたりを流れる川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ウンペッ」という名前の川が描かれています。

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

「ウン・ペ」は何々のもの(川) ととれるが意味不明。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.579 より引用)
まぁ、確かにそうなんですが……。ただ戊午日誌 (1859-1863) 「志也摩尼誌」には次のように記されていました。

 扨是より其沢まヽ両岸さして高山もなき処を上り行、それよりして雑木立の山を一ツこへて
      ホンウンベ
 川すじへ出たり。此ウンベは会所元より拾五丁西にして相応の川也。ウンベの其枝川也。名義は本名ヲタフンベと云しを、今詰めてウンヘと云也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.396 より引用)
ふむふむ。この時の松浦武四郎は様似町岡田(の南方?)から西に山越えをしていたので、「海辺川」ではなく支流の「ポンウンベ川」の流域に出た関係で、「ホンウンベ」の記録が先に出てきた……ということのようです。

松浦武四郎が記録した「ヲタフンベ」という地名には次のような説話があったとのこと。

 其儀土人の云伝えに、大古合戦の有りし時、磯にて鯨を作り、其陰にかくれ居て合戦をなしたりと。依て砂鯨と云義のよし也。ヲタは砂也、フンベは鯨也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.396 より引用)
まぁ、この手の説話は必ずしも全てが事実とは限らない……と思うのですが、波風の関係で砂が溜まる場所があり、それがクジラのように見えた……と言ったところでしょうか。ota-humpe で「砂・クジラ」と見て良いかと思います。

冬似(ぶゆに)

puyna-i??
石・ところ
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年7月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1257) 「エンルム岬・キリシタナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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エンルム岬

enrum
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似川河口の南西に聳える岬です。「襟裳岬」と比べると知名度が劣るのがちょっと気の毒な感じもしますが……。

この「エンルム岬」ですが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には……あれ? 岬の位置には「ウトルサンナイ」とあるような……? 『北海道実測切図』(1895 頃) には「エンルㇺ」とあるので、謎ですね……。

『初航蝦夷日誌』(1850) の「蝦夷地行程記」には次のように記されていました。

一、従キリイカシナイ     ソヲヒラ        三丁廿七間
一、従ソヲヒラ        ウトルサンナイ     五丁十間
一、従ウトルサンナイ     シヤマニ会所ニ     五丁
松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.328 より引用)
この「キリイカシナイ」は現在の「キリシタナイ川」のことだと考えられます。となると「ウトルサンナイ」は「キリシタナイ川」から 940 m ほど離れているということになりそうですね。

ただ、次のようにも記されているので……

越而すぐニ
     ウトルサンナイ
砂浜をしばし行。此上ニ寺有るなり
     帰嚮山等樹院原沢寺
東都東叡山末寺。天台宗。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.328 より引用)
「ウトルサンナイ」は、蝦夷三官寺の一つとして知られる「等澍院」のすぐ近くを流れていたということになります。陸軍図では一目瞭然ですが、「等(樹)院」と「エンルム岬」の間は少し離れているので、少なくとも「ウトルサンナイ」と「エンルム岬」は別物と断定して良さそうですね。

東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。

シヤマニ樣似會所(通行や、會所、藏々、備米くら、馬や、勤番所、大工小屋、雇小屋、鍛冶や、觀音堂、いなり、船玉社、また遠見番所、臺場あり) 地名エンルンなるを、シヤマニベツに住する土人を遣ふ處故に如レ此改りし也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.212 より引用)
「エンルム岬」は目立つランドマークなので記録も豊富にあるだろう……と想像していたのですが、岬のすぐ近くにあった会所の名前が「シヤマニ場所」だったために「エンルム」の名で記録されることが極端に少なかった……ということのようです。

永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Eurum   エンルㇺ   岬 樣似場所ノ原名ニシテ場所ヲ此處ニ置キ様似場所ト改稱セリト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.281 より引用)※ 原文ママ
「エンルㇺ」を「岬」としていますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見ると……

en-rum, -i えンルㇺ 岬。[つき出ている・頭]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.26 より引用)
ということで、enrumen-rum で「つき出ている・頭」に分解できるのでは……とのこと。ただ実際には enrum で「」と認識されていた……と見て良さそうです。つまり「エンルム岬」だと「岬岬」ということになりますね。

キリシタナイ川

kipiri-ka-us-nay??
あの水際の崖・のかみ・ついている・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年7月18日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1256) 「エサマンベツ・ヌキベツ沢・タキナイ・シンノスケシュンベツ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

エサマンベツ

e-sam-an-pet??
頭(岬)・の傍・にある・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
四等三角点「江様別えさまべつ」の北あたりの地名(通称?)です。以前の記事でも触れましたが、「様似川」は『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「エシヤマニ」で、『北海道実測切図』(1895 頃) では「エサマンペツ」と描かれています。

また戊午日誌 (1859-1863) 「志也摩尼誌」には「シヤマニベツブト」(=様似川河口)、「シユムシヤマニ」(=西・様似川)、「メナシシヤマニ」(=東・様似川)と言った表記も散見されます。つまり「様似川」は「シヤマニ」であり、あるいは「エシヤマニ」や「エサマンペツ」とも呼ばれていた……と考えられます(何故か「マ」が落ちた形の「エサンベツ」表記もあり)。

陸軍図には、メナシエサンベツ川河口・ソーエサマンベツ川河口付近に「ヱサマンベツ」とあり、そこから様似川を遡った先に「ポンヱサマンベツ」と描かれています。

地名としての「ヱサマンベツ」は川名の「エサマンペツ」に由来すると見て良いかと思われます。「様似」の解を踏襲して e-sam-an-pet で「頭(岬)・の傍・にある・川」と考えたいところです。

ヌキベツ沢

nupki-pet?
濁り水・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年7月17日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (13) 「違和感のある公団ゴシック」

「田麦俣トンネル」を抜けて鶴岡 JCT. に向かいます。「動物注意」の標識はヤギをデザインしたものでしょうか……?
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「只今の気温」がお休みなのはいつも通りですね。

2025年7月16日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (12) 「ジャスコよりは近い櫛引 PA」

左手に「そば」の看板が見えてきました。民宿「田麦荘」さんが「ななかまど亭」という蕎麦屋さんを兼ねているみたいです。
民宿「田麦荘」さん(とそば処「ナナカマド亭」さん)は、2023/10/29 を以て惜しまれつつ閉館してしまった……らしいのですが、なんと翌 2024 年 2 月に復活したとのこと(!)。もしかしたら蕎麦屋さんとしての営業だけかもしれませんが、閉館を惜しむ声が多く寄せられていたみたいなので、素直に喜ぶべきなのでしょうね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

まさかの「交互通行」

「田麦荘」さんの「宿」の看板の前には、なんとも小ぶりな「山形道」の看板が。

2025年7月15日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (11) 「棚からハザード」

「月山道路」の「田麦川橋」を渡ります。このあたりは勾配を緩やかにするために、旧道よりも大回りしている区間です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路脇には黄色い「速度落とせ」の看板が。最近は「落としてください」と言った丁寧な姿勢の看板も増えてきていますが……。

2025年7月14日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (10) 「You went away」

「月山道路」の「月山第二トンネル」を抜けると……
「勝訴」ではなく「減速」と書かれた幕を掲げた誘導員の人の姿が。道内だと走行中の車輌に減速を促すために、工事現場のかなり手前に誘導員の人が立っていることが多いのですが、どうやらここでも同じことが行われているみたいです。

あ、題名の「You went away」は Earth, Wind & Fire の曲名です。Philip Bailey のファルセットボイスが印象的な佳曲なので、是非一度聴いていただければ。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ピタリング?

路面には丸いアレが置かれていています。走行中の車輌がこの丸いアレを踏むことでドライバーに違和感を与えて注意喚起するためだと思われるのですが、そもそもこれは何と言うのでしょう……?

2025年7月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1255) 「メナシエサンベツ川・トウキナ沢・ソーエサマンベツ川」

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メナシエサンベツ川

menas-{samani}
東・{様似川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「さまに湖」から様似川を遡ると、四等三角点「江様別えさまべつ」の手前で二手に分かれます。左手(北側)が様似川の本流で、右手(南側)が「メナシエサンベツ川」です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、現在の「メナシエサンベツ川」河口に「ヘテウコヒ」と描かれています。「ペテウコピ」は pet-e-u-ko-hopi-i で「川・そこで・互い・に・捨て去る・ところ」と解釈され、「二股」と和訳されることが多い地名です。

現在は左手の「様似川」が本流とされていますが、松浦武四郎は右手の「メナシエサンベツ川」を本流と見做して次のように記していました。

其処屈曲たる川まヽ十七八丁も過て
     ヘテウコビ
二股に成る也。是二股なれども、少し東のかたが大きくなりて在る故に、其を本川とし、西のかたを支流に取、よつて一字を下げて志るし置に
      シユムシヤマニ
 左りの方大川。其名義は西のシヤマニと云儀なるなり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.393-394 より引用)※ 原文ママ
現在の「様似川」本流を「シユムシヤマニ」即ち「西様似川」として、現在の「メナシエサンベツ川」は……

扨此二股の処より右のかた山に添て上る川を
     メナシシヤマニ
と云、其名義東のシヤマニと云義。然し是シヤマニの本川なるべし。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.394-395 より引用)
menas-{samani} で「東・{様似川}」としています。現在の川名は「──エサンベツ川」ですが、「様似」は「エサマンペツ」だったと見られるので、「シヤマニ」=「エサマンペツ」=「エサンベツ」と考えて良さそうです。

menas は「東」で sum は「西」とされますが、これは真方位や磁方位と一致しないことに注意が必要です。北海道における menas は、概ね「海沿いを千島に向かう際の方角」と見做せるもので、様似では概ね「南東」と考えられます(故に広尾のあたりでは「北」となります)。

現在の「様似川」と「メナシエサンベツ川」はほぼ南北に分かれていますが、南側の「メナシエサンベツ川」が menas-(東)と呼ばれるのも、上記の考え方によるもの……ということになりますね。

トウキナ沢

ru-turasi-menas-{samani}???
路・それに沿って上がる・東・{様似川}
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2025年7月12日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1254) 「二七山・キミチベツ沢・オトマップ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

二七山(にしちやま)

nina-us-nay?
焚木を切る・いつもする・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似ダムのダム湖である「さまに湖」の東に「二七山」という三等三角点が存在します(標高 423.9 m)。また、同名の「二七山」という三等三角点がもう一つ存在するのですが(汗)、こちらは「にひちやま」とのこと(標高 394.9 m)。

陸軍図を見ると、三角点よりも下流側、イサカナイ川が様似川に合流するあたりに「二七」と描かれていることに気づきます。様似町史には次のように記されていました。

 現在田代のタンネツ゚(通称タンネト)の神社の南方に接続した地域の中に、ニナナウシュナイ(薪の多くある沢)といった沢がある。
(様似町史編さん委員会『様似町史』p.48 より引用)
昔のアイヌは薪にするのに良さそうな木を見つけると、根元の皮を剥いで立枯れにして、枯れて乾燥した木を持ち帰って薪にしたとのこと。

このニナ(薪)をもじって二七村が生まれ、のちに田代と改められた。
(様似町史編さん委員会『様似町史』p.49 より引用)
地名アイヌ語小辞典』(1956) によると nina は「焚木を切る」という意味の完動詞とのこと。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) は「エシヤマニ」(=様似川)の西支流として「ニナンナイ」と描かれています。

北海道実測切図』(1895 頃) にも「エサマンペツ」(=様似川)の西支流として「ニナナイ」という川が描かれていました。

『様似町史』の言うとおり「ニナウシュナイ」なのであれば少々理解に苦しむのですが、nina-us-nay であれば「焚木を切る・いつもする・川」と解釈できそうです。松浦武四郎が記録した「ニナンナイ」は {nina-an}-nay で「{われら焚木を切る}・川」かもしれません。

キミチベツ沢

yam-o-pe?
栗の実・多くある・もの(川)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年7月11日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1253) 「サルマップ川・シャモマナイ川・イサカナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

サルマップ川

sar-oma-p
ヨシ原・そこにある・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 233 号「新富様似停車場線」沿いを南に流れ、様似中学校(2014 年に現在地に移転)の南で様似川に合流する東支流です。現在の流路は湿地帯の改良のために人工的に建設されたもので、本来は 2.5 km ほど北で様似川に注いでいたと思われます。

北海道実測切図』(1895 頃) には「サラオマㇷ゚」という名前の川が描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「サルマフ」と描かれています。

『竹四郎廻浦日記』(1856) には「サルフツ」とあり、『東蝦夷日誌』(1863-1867) には「サルマウ(右小川)」とあります。戊午日誌「志也摩尼誌」には次のように記されていました。

是よりまた川の左右ともに平野多く、屈曲たる処をこなた彼方えと越て上るに
     サルマフ
右のかた相応の川也。本名はシヤリヲマフなるよし。其義は蘆荻有るといへる義なり。惣て此川すじの両岸谷地なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.392 より引用)
「本名はシヤリオマフ」とありますが、sar-oma-p で「ヨシ原・そこにある・もの(川)」と見て良さそうですね。陸軍図には既に排水路として建設された「サルマップ川」が描かれていますが、まだ流域は湿地帯だったことが窺えます。

シャモマナイ川

sam-oma-nay?
日本人・そこにいる・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年7月10日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (9) 「You don't know」

国道 112 号「月山道路」の「月山第一トンネル」を抜けて……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

鶴岡市に入りました。

2025年7月9日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (8) 「月山道路」

山形自動車道の月山 IC(終点)にやってきました。R の比較的小さいカーブが続くことを警告する標識が立っています(終点あるあるですね)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

こうやって見ると、確かに結構な急カーブです。「ここは 9 月山」という標識がユニークですね。

2025年7月8日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (7) 「つきやまさわ!?」

山形自動車道で「月山 IC」に向かっています。追越車線が終了して暫定 2 車線に戻ってしまいました。
このあたりは「西川町横岫よこぐき」と言うそうで、「岫」という字が目新しく感じられるのですが、北関東から東北にかけてちょくちょく使われる字みたいです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「水ヶ瀞ダム」の上流側で寒河江川を横断します。ここからしばらく国道から離れて、寒河江川の南側を通ることになります。

2025年7月7日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (6) 「コースオフ注意」

山形自動車道の「西川本線料金所」を通過します。料金所は西川 IC の先にあるので、次の「月山 IC」までの料金が徴収された……のだと思いますが、そう思えば安いものですよね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

料金所を抜けた先もしばらく追越車線が残りますが……

2025年7月6日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1252) 「オコタヌシ川・サリナイ川・アブサリ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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オコタヌシ川

o-kotan-us-i
河口・村落・ある・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似川の西支流で、様似小学校の近くを流れていると思われます。

様似小学校の南に川があるのですが、この川は「名称不明」とされています(但し「オコタヌシ 2 号橋」が存在するとのこと)。かつての日高本線の築堤が川の流路に影響を及ぼした可能性もあるかもしれません。

OpenStreetMap では小学校の敷地内を「オコタヌシ川」が伏流していることになっています。ただ Google マップでは小学校の北の道路沿いに水路のようなものが見えるので、実際には伏流ではなくこの水路を介して様似川に注いでいる可能性もありそうです。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オコタヌシ」という名前の川が描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲコタヌシ」とありますが、何故か様似川の東側に描かれています。様似川の東側は湿原だったと考えられるので、これは「東西蝦夷──」が東西を間違えるという良くあるパターンの可能性があります。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Okotanushi   オコタヌシ   村落
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.284 より引用)
永田地名解は川を遡った順で地名が並ぶことが多いのですが、「オコタヌシ」は「様似川筋」の項の最後にオマケのような形で記されていました。o-kotan-us-i で「河口・村落・ある・もの(川)」と見て良いかと思われます。

サリナイ川

sari-nay???
あのヨシ原・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2025年7月5日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1251) 「様似」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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様似(さまに)

e-sam-an-pet??
頭(岬)・の傍・にある・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似郡様似町の中心地で、かつて日高本線の終点だった「様似駅」のあったところです。江戸時代には蝦夷三官寺の一つだった「等澍院」のあったところで、古くから開けていた場所でした。

ということで、古くからの記録が山ほどある筈なので、表にまとめてみましょうか。

東蝦夷地名考 (1808)シヤマニシヤマは横、ニは木
シャマニといへる女夷ありし
東行漫筆 (1809)シャマニシヤマニと云女ノ子開きたる所
大日本沿海
輿地全図 (1821)
シヤマニ-
蝦夷地名考幷
里程記 (1824)
シヤマニ故事不相分
初航蝦夷日誌 (1850)ヱシヤマニ-
竹四郎廻浦日記 (1856)シヤマ(ニ)ベツ-
午手控 (1858)シヤマニ獺の故事
蝦夷地名
奈留邊志 (1859)
シヤマニヱシヤマニ(獺)
東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
エシヤマニ-
戊午日誌 (1859-1863)エシヤマニかわうそ
シヤン(高山)マニ(有る所)
女の游ぎたる
東蝦夷日誌 (1863-1867)シヤマニ高山有るところ
女が此所より彼方に游ぎし
蝦夷地道名国名郡名
之儀申上候書付 (1869)
様似郡シヤンマニ。高山在る、獺
アイヌ語地名の
命名法 (1887)
Shamani
永田地名解 (1891)エサマン ペッ獺川
アイヌ地名考 (1925)SAMANISan-mau-ni「腐った木、または
波で海岸に洗い上げられた木の地」
Shan-an-i「岩棚の地」
北海道駅名の起源 (1954)エサマン・ペッ獺・川
様似町史 (1962)トムサンペツ山脇を下る川
北海道の川の名 (1971)E-samam-pet頭(水源)・横になっている・川
北海道駅名の起源 (1973)エサマン・ペッかわうそのいる川
北海道地名誌 (1975)エサマンかわうそ
アイヌ語地名解 (1982)エサマン・ペッかわうそが多かったので
北海道の地名 (1994)saman-i横になっている・もの(川)

手元にある資料等から抜き出してみました(抜けがありそうな気もしますが……)。いくつかのパターンに分けられそうな感じですね。
  • samam-ni で「横になっている・木
  • esaman-i で「カワウソ・の所(川)
  • アイヌ女性の名前
  • 高山のある所
  • その他

シャマニ人名説

ここまで挙げた中で気になるものをいくつかピックアップしてみましょうか。

一シヤマニ
  シヤマは横と譯す。ニは木也。名義不詳。一曰、シャマニといへる女夷ありしより地名と成たりと。
(秦檍麿『東蝦夷地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.27 より引用)
「シャマニ人名説」が紹介されていますが、面白いことに「カワウソ説」が見当たりません。「シャマニ人名説」は他に「東行漫筆」でも言及があるほか、『戊午日誌』や『東蝦夷日誌』も「人物由来説」を取り上げていて、当時はそれなりにメジャーな説だったように思わせます。

「カワウソの川」説

永田地名解以降は一転して「カワウソの川」説がメジャーになりますが、その初出は『戊午日誌』(とそのネタ元の『午手控』)でしょうか。

夷言かわうそをさしてエシヤマニと称す。今其を詰てシヤマニと言けるが、蝦夷東部シヤマニの地、むかし其川口え大なる獺流れ寄りしによつて、其言を以て地名とする由伝ふ。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.387 より引用)
これが本命?の「かわうそ」説で、「高山」説が続きます。

又一説には、シヤンマニなるよし。シヤンとは高山、名山抔を云、マニとはヲマニと云し事にて、高山の有る所と訳す。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.387 より引用)
最後は「シャマニ人名説」の変形である可能性を感じさせる「泳ぐ女」説です。

又は女の游ぎたるとも訳すと云事有。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.387 より引用)

「横になっている川」説

その後、永田地名解が「カワウソの川」説を採用した結果、一気にメジャーになった……と考えられるのですが、山田秀三さんはどことなく納得がいかなかったのか、いくつかの試案を出していました。氏の旧著『北海道の川の名』には次のように記されていました。

 Esamam-pet の音はエ・サマム・ペッ「E-samam-pet 頭(水源)・横になっている・川」と聞えるし、またその方が自然の河川名形である。実際この川の上流は東の方に曲っていて、そんな姿である。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.151 より引用)
確かに様似川を遡ると、途中で東に向きが変わっているように見えます。お隣の門別川ポロサヌシベツ川ポンサヌシベツ川も似たような特徴を有しているようにも見えますが、川の規模が違う……と考えれば良さそうにも思えます。

ただ、山田さん自身も似たような違和感があったのか、『北海道の地名』では若干トーンが変わっていました。

 音だけでいえば,サマニ「saman-i 横になっている・もの(川)」と聞こえる。この川の川尻が海に向かって横に流れている姿を呼んだのかとも考えた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.341 より引用)
説得力のある解ですが、一つ難があるとすれば「エシヤマニ」の「エ」の音が残る余地が無いというところでしょうか。『北海道の川の名』の試案は「エ」の音を残して考えたものですが、少々説明的にすぎる印象があります。

別の言い方をすれば、「エンルム岬」という格好のランドマークがあるにもかかわらず、わざわざ「水源が横を向いている川」と呼ぶインセンティブが見当たらないように思えるのですね。

様似川はそこそこ長い川ですが、水源が日高山脈に接している訳ではないので、峠道として重要だったかと言われるとややびみょうな感じもするのです。

「岬の傍にある川」説

もし e-saman-i だとすれば「頭・横になっている・もの」と読めますが、これは「様似川」よりも「エンルム岬」を形容するにピッタリです。


本来は岬を意味する地名だった「エシャマニ」が近くを流れる川の名前に転じた……と想像することも(一応は)可能でしょうか。ただこの推論も無理やりこじつけた感が凄まじいんですよね。

地名なんて本来は記号に過ぎない……と暴言を吐くとお叱りを受けそうですが、仮に「様似川」を意味する「符号」を考えるとするならば、e-sam-an-pet で「頭・の傍・にある・川」というのはどうでしょう。

e(頭)は「エンルム岬」のことで、平たく言えば「エンルム岬の傍にある川」ではないかと考えてみたのですが……。

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2025年7月4日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1250) 「ポンヒラウ川・ビライト川・カネカリウシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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ポンヒラウ川

pon-pira-utur???
小さな・平宇
(??? = アイヌ語地名と考えられるかどうか疑わしい)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似町を流れる「門別川」の東支流で、北隣に「ポンモンベツ川」が流れています。「ポンヒラウ」というネーミングからは「平宇(平鵜)」との関係が想像されますが、松浦武四郎は「海岸部の地名」として「ヒラウトル」を記録しているので、本来の「平宇」は海岸部の地名だった可能性があります。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ポンヒラウ川」の位置に「ウエンペシウト゚ル」と描かれているように見えます。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ウエンヘツシルトル」と描かれています。

「ウエンヘツシルトル」を素直に解釈すると wen-pet-sir-utur となり、「悪い・川・山・間」と解釈できそうですが、pet-sir(川・山)という繋がり方は異様に不自然です。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には pesor で「水中に突き出た出崎」という語が記載されていますが、ポンヒラウ川は内陸部の川なので、pesor とは呼べないように思われます。となると pes で「水際の崖」でしょうか。

「実測切図」に描かれた「ウエンペシウト゚ル」であれば wen-pet-utur となり「悪い・水際の崖・間」と解釈できそうなのですが、松浦武四郎が残した「ウエンヘツシルトル」という記録との整合性という意味では若干の問題が残りそうに思えます。

「ポンヒラウ」はアイヌ語地名か?

そもそも「ウエンペシウト゚ル」と「ポンヒラウ」では大きな違いがあるのですが、どちらも元を辿れば「崖」に辿り着きそう……という共通点があります。

pes が「岩崖」で pira は「土崩れ崖」という説もあるのですが、どちらも「崖」系の地名だということで、一度は村名にもなった「ヒラウ(平鵜)」が優勢になり、本来は海沿いの地名だった「ヒラウ」ではないということで「ポン」を冠した……あたりかもしれません。

「実測切図」に描かれた「ウエンペシウト゚ル」は紛うことのない「アイヌ語地名」だと思われるのですが、現在の「ポンヒラウ川」という川名はアイヌ語の語彙で形成されているものの、「アイヌ語地名」の流儀から逸脱した部分が大きいようにも思えます。

どうもアイヌ語の語彙をつなぎ合わせただけの地名である可能性もありそうですが、そもそも「アイヌ語地名とは何か」という話になりそうですね……。

ビライト川

pira-etu?
崖・鼻(岬)
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年7月3日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (5) 「その間僅か 0.9 km」

寒河江 SA から本線に戻り、西村山郡大江町にやってきました。
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ところが 1 分も経たない間に寒河江市に戻ってしまいました。

2025年7月2日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (4) 「フルスペックな『寒河江 SA』」

最上川を渡って 0.8 km ほど走ったところで寒河江市に入りました。カントリーサインは「さくらんぼ」のようです。
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謎の「ETC 出口」看板

このあたりの山形自動車道は「暫定 2 車線」でしたが、寒河江 IC の手前からは「完成 4 車線」です(まぁそのうち「暫定 2 車線」に戻るんでしょうけど)。前方を走っていたタンクローリーはささっと追い越しましたが、すぐさま「つくば」ナンバーの LEXUS にあっさりとぶち抜かれてしまいました。

2025年7月1日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (3) 「庭先に多摩湖は無かった」

山形 JCT. で「東北中央自動車道」を抜けて、前日に引き続き「山形自動車道」に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ダブルトランペット型

山形 JCT. はトランペット型 IC を連結したような形をしています。ありそうで無い……と思っていたのですが、郡山 JCT.(東北道と磐越道)が全く同型でした。