2026年4月30日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (49) 「四つの砂箱」

苫前初山別村に入りました。カントリーサインには天文台が描かれています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の左側に「のせましょう ゆとりという名の 同乗者」と書かれた看板が見えます。この手の看板はいつの間にか撤去されていることが多いのですが、この看板は最新のストリートビューでも現存が確認できました。

2026年4月29日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (186) 函館(函館市) (1878/8/13(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十三信」(初版では「第三十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

無秩序なミサ

普及版の「第三十三信」は「風光」「風の都」「奇異な屋根の波」だけで終わっていますが、初版(完全版)の「第三十八信」はその後に「社会的退屈」「伝導拠点」「無秩序なミサ」「日々の説教」「仏教寺院」「仏教の説教」と題されたセンテンスが続いていました。

ということで、引き続き、普及版では完全にカットされた「無秩序なミサ」を見ていきます。イザベラは大野(渡島大野、現在は「新函館北斗駅」の所在地です)まで馬に乗って小旅行に出かけたのですが……

 大野には板張りの床の伝道教室があって、伝道師の小川がそこに住んでいます。しかし、1 年に亘ってキリスト教の講義をしましたが結果は出なかったのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
いきなりズバっと来ましたね。私企業であれば「一年間結果が出せなかった」という時点で配置転換の話とかも出そうな気もしますが……。もっとも地元民にそっぽを向かれた、あるいは徹底的に無視されていたということでは無かったようで……

 村は祭りの最中でしたが、教室の戸が 8 時に開くと、直ちに、秩序のない男や女、子どもたちでいっぱいになります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
なぁんだ、大盛況じゃないですか。ただ「秩序のない男や女」の行状は凄まじいものだったらしく……

300 人の人間のなかには酒に酔ったのもいて、下駄を鳴らし、叫び、窓の枠に鈴なりになって、長椅子によじ登り、大声で笑ったり、食べたり、ランプでタバコに火をつけたり、彼らの着物を脱ぎ捨てたり、1 時間と四半時もの間、大声を出し続けたりする、私がこれまで眼にしたなかで、最も見込みがない聴集です。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
「聴集」という語は「聴衆」の誤字でしょうか。客商売を始める場合は「まずはとにかく人を集める」ところからだと思うのですが、まさにそんな状態のようにも思えます。一年間の成果がこれだとしたら、なかなかキツいですが……。

 デニング氏は卓越した言語の才能の持ち主で、下級階層の日常会話の日本語を堪能に習得しただけでなく、彼らが話すときの調子まで自由に話せるのです。頑丈な体格で非常に力強い声の持ち主で、忍耐強く大騒ぎの声を抑えて耳を傾けさせます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
「デニング氏」は「英国教会殿堂協会」が函館に派遣した人物のようです。イザベラは「デニング氏」の日本語力を絶賛していますが、欧米人はジョン・バチェラーのアイヌ語力についても絶賛していたことがあるので、額面通りに受け取るのは禁物かもしれません。

イザベラはこの日の惨状を、自身を含めた「3 人の外国婦人」がやってきたことによる「例外的な事態」と考えたようですが、どうやらそうではなかったとのこと。

イザベラは「デニング氏」の奮闘ぶりを、以下のように絶賛していました。

デニング氏は彼の時間を割き、力の限り、彼の仕事に、これ以上はないという気力と活力と情熱を持って、心血を注いでいます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
それに続く次の文章は、随分と難解なものになってしまっています。

それが反対勢力と失望によって、凌駕されることも凍らせられることもなくて、もしそうでなければ、仏教の僧侶が人々に「新しい方法」に反対するようにたきつけたため、大野の聴集がとうの昔に彼の努力を終わらせるはずだったにちがいないのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135-136 より引用)
原文にも当たってみましたが、なるほど確かにこんな感じの文章です。時岡敬子さんの訳文はもう少し日本語として読みやすくなっているでしょうか。

まぁ、ざっくりニュアンスを書けば「デニング氏はこの上なく努力しているが仏教の僧侶が民衆を焚き付けて嫌がらせをしている」ということですね。なんとも独善的な考え方にも思えますが……。

もっともイザベラにしてみれば「仏教の僧侶が嫌がらせをしている」というのも「根拠のない話」では無かったようで、以下のように続けていました。

神道が優勢であるところでは、無関心が決まりとなっています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
イザベラは「これだから仏教は」という風に捉えたのかもしれませんが、当時は神道よりも仏教のほうがより一般民衆に近い存在だったような気もするので、「仏教(の僧侶)がキリスト教に敵愾心を抱いていた」と一般化して捉えるのも、ちょっと注意が必要なんじゃないかな、とも思えます。

イザベラと同行の「ご婦人たち」が大野(渡島大野)を出発したのは午後 9 時で、なんと函館に到着したのは午前 1 時だったとのこと(!)。馬上の旅とは言えタフなものだったようですが、疲労困憊だったイザベラの眼前には函館の夜景が広がっていました。

それは私が日本で見た最初の本当にこの上なく美しい夜で、宝石をちりばめたように露をおく草に鋭い木の影を落とし、銀色の海に広がる明るい月の光、山の頂上を横切る銀色の雲、花たちの眠る香りを乗せた涼しくて柔らかい空気でした。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
高畑さんの和訳は、ちょっと日本語としては奇妙に思えることもあるのですが、原文の構造をなるべく損なわないように訳してあるが故、とも言えそうな感じです。

日々の説教

続いて「日々の説教」と題されたセンテンスに入ります。函館の中心街では日曜日の夕方に「祈りのための会堂が開かれる」とのこと。

人々はとても静かで、忍耐強くじっとしていて、大野の「異教徒」とは全く違います。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
「異教徒」は原文では "pagans" となっていました。イザベラは「異教徒」についてはバッサリと舌鋒を振るうのに対し、同胞のキリスト教伝道者に対しては全体的に歯切れの悪い書きぶりに終始しているようにも見えます。

 ここでの伝道は、大変骨の折れる仕事のように思えます。その仕事は求められ成し遂げられなければなりませんが、しばしば、目新しさは過ぎ去り表面的興味は失せてしまっています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
これも、ざっくり言えば「新奇なものとしての旬が過ぎて苦戦している」ということですよね。いけしゃあしゃあとウソを並べないあたりは評価に値しますが……。

医療伝道は全く違う立場にあります。彼の仕事は彼を必要としていて、限りない面白い分岐を繰り返し日々成長しています。彼には、少なくとも人々の体を首尾よく助けることが出来るという満足があります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
「医療伝道」というのは、平たく言えば「病気を治してやるから改宗しろ」ということですよね。病という *弱味* につけ込むあたりが極めて悪質に思えるのですが、これは……効果があるのでしょうね。

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2026年4月28日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (48) 「マス内」

羽幌大橋」で羽幌川を渡ります。この川が羽幌川の「放水路」だということは承知していたのですが、工事が始まったのは 1975 年とのこと。この放水路は 1986 年に完成したのですが、なんと翌 1987 年に国鉄羽幌線が廃止されてしまいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国鉄羽幌線はこのあたりで「羽幌川放水路」を横断していたと思うのですが、ちょうど(北に向かって)左にカーブする場所だったので、どんな橋がかかっていたのか、ちょっと興味が湧いてきました。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
橋を渡って河岸段丘を駆け上がります。この写真ではその存在を認識できませんが、左側には「羽幌自動車学校」があるみたいです。

2026年4月27日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (47) 「ツルハの謎」

羽幌町に入ります。「国鉄羽幌線」や「特急はぼろ号」でおなじみの地名で、町域が北海道本体と焼尻島・天売島という離島の両方にまたがるのは道内唯一……の筈です。
もっとも「苫前郡羽幌町」なので、地名としては「苫前」のほうが知名度がありそうですが、それだけ「羽幌炭砿」の影響力?が強大だった……ということなんでしょうか。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の右側には「WELCOME サンセット王国 はぼろ」と書かれた巨大なオロロン鳥の像が立っています。この「オロロン鳥」の像ですが、ボウリングのピンに見えて仕方がないんですよね……。

2026年4月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1375) 「タウシナイ川・トウナイ川・モルベシベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

タウシナイ川

tay-us-nay?
林・ついている・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
トプシュナイ川」の北東隣を流れる川で、南東から沙流川に合流しています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「タイウㇱュナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タユンナイ」という川が描かれています。ただこの川は「ハンケトフシナイ」(=トプシュナイ川?)よりも海側に描かれているので、位置関係に若干の疑問が残ります。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また少し上りし処
     タユシナイ
同じく東岸に当る。椴原有るよりして号る也。此辺東岸山麓に成り、西岸平地多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.55 より引用)
このあたりは妙に「タユシナイ」あるいは「タユンナイ」という川が多い印象があります。偶然なのか、それとも認識に齟齬があって同じ川が別の場所に記録されてしまったのかは不明ですが……。

とりあえず「タウシナイ川」は tay-us-nay で「林・ついている・川」と見て良いかと思われます。

トウナイ川

tunnay?
谷川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年4月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1374) 「コタンケシュワシュナイ沢・長知内・トプシュナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

コタンケシュワシュナイ沢

kotan-kes-kus-nay??
集落・末端・横切る・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
(現在の)平取荷負の北東、長知内橋との間で南東から沙流川に合流する支流……だとされています(国土数値情報による)。地理院地図にはそれらしい川は描かれていません。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」にもそれらしい川の情報は見当たらないようですが、「コタンケシュワシュナイ沢」の東には「古丹山」という四等三角点があり、また西には「上古丹かみこたん」という四等三角点が存在します。

現在の平取町荷負のあたりはかつて「ホビボエ」と呼ばれたところで、最近まで「ポピポイ入口」というバス停がありました。沙流川と額平川の間の段丘上にコタンがあったと見て良さそうにも思えます。

「コタンケシュワシュナイ沢」ですが、kotan-kes は「集落・末端」と見ていいと思われます。問題は「ワシュ」ですが、「ワ」は「ク」の誤字である可能性があるんじゃないかと思います。

もちろん「ワ」が「ウ」の誤字である可能性もあるのですが、「コタンケシュワシュナイ沢」は kotan-kes-kus-nay で「集落・末端・横切る・川」と見ていいのではないかと……。

長知内(おさちない)

o-sat-nay
河口・乾いている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年4月24日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1373) 「ンタンシケオマナイ川・オノマップ川・タイウンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ンタンシケオマナイ川

pitan-noske-oma-nay?
川原・真ん中・そこにある・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「額平橋」の北西で沙流川に合流する支流です。なんと「ン」で始まるという、しりとりの際に問題になりそうな川名ですね(川名は国土数値情報による)。

案の定と言うべきか、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タンシケヲマナイ」と描かれていました。


北海道実測切図』(1895 頃) には「ピタンノシケオマナイ」と描かれています(位置が少しおかしいようにも見えますが)。段々と正解?に近づいてきた感がありますね。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また五六丁上りて
     ヒタンノシケヲマナイ
西岸崩岸に有。其名義は川原の中に有小川と云儀。ヒは小石にして、ノシケは中に、ヲマは在る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.49 より引用)
お? と思わせる内容ですが、頭註には次のようにありました。

ピタラ→ピタン
河原
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.49 より引用)
ああ、やはり。pitar-noske-oma-nay で「川原・真ん中・そこにある・川」ですが、「r は,n の前に来れば,それに引かれて n になる」ので pitan-noske-oma-nay になる、ということですね(知里真志保アイヌ語入門』(1956) p.169)。

オノマップ川

an-not-sep??
もう一つの・岬・広くある
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年4月23日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (46) 「住居と風車のツーショット」

沿岸バス「特急はぼろ号」のラッピングバスが回送車とすれ違います。
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そろそろ苫前の市街地に入ったでしょうか。台地の上の街ですが、やや勾配がある以外はこれと言って変わったところはありません。

2026年4月22日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (45) 「上平バスターミナル」

海沿いの国道 232 号で稚内に向かいます。力昼を過ぎて上平に向かおうかというあたりですが、なんと 1 km 先の「片側交互通行」が予告されています。さすが北海道、スケールがでかい……!
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予告された工事区間にやってきました。「徐行」の看板の後ろに「92 km」と書かれたキロポストが見えます。えっ、もう留萌から 92 km の走ったの……? と勘違いしたのですが、これは天塩町(国道 40 号交点)からの距離とのこと。そういや国道 232 号は留萌が *終点* だったのをすっかり失念していました。

2026年4月21日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (44) 「何故こんなところに青看板」

「サカエノ沢川」を「境橋」で渡って苫前郡苫前町に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

WELCOME TO TOMAMAE と書かれた変わったデザインの看板?がお出迎えです。どことなくせたな町大成の「親子熊岩」を思わせるハートフルなデザインですが、苫前と言えば「三毛別羆事件」のあった場所なんですよね……。

2026年4月20日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (43) 「またのお越しをお待ちしております」

道の駅「おびら鰊番屋」を出発して、国道 232 号で稚内に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

これは旧デザインの 106 系標識でしょうか。「km」の文字が完全に消えているようですが……不思議なこともあるものですね。

2026年4月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1372) 「ピラチシュウスナイ沢・ウエンナイ沢・ニセイパオマナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ピラチシュウスナイ沢

pira-kes-us-nay??
崖・末端・ついている・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アッリオシヒナイ沢」の河口から額平川を 1 km と少し遡ったところで東から合流する支流です。流石にこのあたりになると『北海道実測切図』(1895 頃) も実際の地形との乖離が激しくなり、また川名も記入されていません。

川名の記入がないのは『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) も同様で、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」における額平川筋の聞き書きも「ユクルベシベ」(パンケユックルベシュベ沢か)で終了しています。

こんな状況にもかかわらずアイヌ語由来らしい川名が残っているというのは驚きですね。「ピラチシュウスナイ」を素直に読み解けば pira-chis-us-nay となるでしょうか。pira は「崖」ですが、ここで問題となるのは chis の解釈です。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されています。

chis ちㇱ《完》泣く。
chis, -i ちㇱ ①立岩。②【ナヨロ】岩石の坊主山;丸い岩山。③中凹み。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.20 より引用)
「崖がいつも泣く川」というのはちょっと詩的すぎるでしょうか。となると「崖・立岩・そこにある・川」あたりの可能性を考えたくなります。

ただ……おそらく「チシ」は「ケシ」の誤記なんじゃないかと思います。pira-kes-us-nay であれば「崖・末端・ついている・川」となり、実際の地形にもマッチしますし、地名(川名)としても一般的なものになります。「ケ」を「チ」と読み間違える、あるいは書き間違えるというのは良くある話だとも思われるので……。

ウエンナイ沢

wen-nay??
悪い・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)

2026年4月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1371) 「パンケユックルベシュベ沢・ペンケユックルベシュペ沢・アッリオシヒナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケユックルベシュベ沢

panke-yuk-ru-pes-pe?
川下側・鹿・路・それに沿って下る・もの
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「クチャコルシュナイ沢」を渡る「幌尻橋」から「糠平林道」(だと思う)を 1.6 km ほど北上したところに「二股橋」があり、橋のすぐ東で「パンケユックルベシュベ沢」が北から額平川に合流しています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ユリルベシベ」という川が描かれています。「ユリ」は「ユク」の誤字である可能性が高そうでしょうか。


北海道実測切図』(1895 頃) には「ハンケユㇰルペㇱュペ」が描かれていて、何故かその支流として「ヘンケユㇰルペㇱュペ」が描かれています。


「パンケ」は「川下側」で「ペンケ」は「川上側」を意味しますが、「ペンケ──」が「パンケ──」の支流である、あるいはその逆というケースはめったに無い(おそらく無い)ので、これは何かの間違いである可能性がありそうに思えます。

現在の「パンケユックルベシュベ沢」は、『北海道実測切図』が「ヘンケユㇰルペㇱュペ」と描いた川に相当し、「実測切図」が「ハンケユㇰルペㇱュペ」とした川が「パンケユッルペシュベ沢(幸太郎沢)」となっています。また国土数値情報では「パンケユッルペシュベ沢(幸太郎沢)」とその支流の「二ノ沢」が「パンケユクルシュナイ川」となっていて、まさに百花繚乱です(なんか違う)。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

上るや
     ユクルベシベ
左りの方小川。是には鹿がニイカツフ(サルのイワナイ)の方え越行道有る故に号るとかや。本川是より右のかたなりと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.37 より引用)
鹿が新冠のほうに越える道があるとのこと。実際には「パンケユッルペシュベ沢(幸太郎沢)」を遡ると「岩知志ダム」に合流する「岩内川」の流域に出てしまいますし、「パンケユックルベシュベ沢」を遡ったとしても「千呂露川」の流域に出てしまいます。いずれも沙流川の支流なので、新冠川筋に出ることはありません。

インフォーマントの情報が間違っていたことになりますが、「本川是より右のかたなり」という点は正確で、「本川」(=額平川)を遡ると新冠川の流域に出るので、間違いと言うよりは解釈違いの可能性もあるかもしれません。

位置も名前も異同の多い「パンケユックルベシュベ沢」ですが、意味するところは panke-yuk-ru-pes-pe で「川下側・鹿・路・それに沿って下る・もの」と見て間違いなさそうな感じですね。

ペンケユックルベシュペ沢

penke-yuk-ru-pes-pe?
川上側・鹿・路・それに沿って下る・もの
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年4月17日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1370) 「パンケチエブ沢・ピリカナイ沢・苦茶古留志山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケチエブ沢(パンケチエプノ沢川)

panke-chi-e-pis-un??
川下側の・自ら・頭(水源)・浜の方・に向かう
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ペンケメウシュナイ沢」の河口の 0.2 km ほど上流側で南から額平川に合流する支流です。更に 2 km ほど上流側(=東側)には「ペンケチェプ沢」もあります。

北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケチエㇷ゚」と描かれています。


『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     ハンケチユツフ
     ヘンケチユツフ
右の方小川のよし也。是昔判官様舟を此処にて作り玉ひし跡なりと、よつて号。チユツフは舟の事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.36-37 より引用)※ 原文ママ
「チユツフは舟の事也」とありますが、「舟」は一般的には chip なので、panke-chip で「川下側の・舟」となりますね。「舟を作った」のであれば panke-chip-e-kar-us-i あたりになるでしょうか。「川上側の・舟・そこで・作る・いつもする・ところ」となりそうです。

「判官様」は「源義経」のことですが、もともとは「オキクルミ」や「サマイクル」の名前で伝承されていた話だと考えられます。それはそうと、「オキクルミ」や「サマイクル」もわざわざこんな山の中で丸木舟を作る必要があったのか、やはり疑問ですよね。

南から北へ

ヒントを求めて地図を眺めてみたのですが、「パンケチエブ沢」と「ペンケチェプ沢」は南から北に向かって流れています。このあたりの額平川の支流としては異例です。

雨竜幌加内町の朱鞠内湖の支流に「エビシオマップ川」という川があるのですが、この川は e-pis-oma-p で「頭(水源)・浜の方・そこにある・もの」ではないかと思われます。エビシオマップ川は西から東に向かって流れているので、水源に向かって遡ると、最終的には「浜のほう」(=羽幌)に出てしまう……ということを形容した川名だと考えられます。

「パンケチエブ沢」と「ペンケチェプ沢」も似た特徴を有しています。改めて『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見てみると……

e-pis-un エぴスン(エぴシュン)【ホロベツ】①《完》浜の方へ行く(来る)。②《副》浜の方へ。[頭が・浜の方・に向っている]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.26 より引用)
問題は「チ」ですが、これは chi- で「我ら」あるいは「自ら」と見るべきでしょうか。{e-pis-un} を完動詞と考えればあり得ない形ではあるのですが、本来の語源?に分解して panke-chi-e-pis-un と考えれば「川下側の・自ら・頭(水源)・浜の方・に向かう」と読めそうな気もします。

本来は panke-chi-e-pis-un-nay あたりだったのかもしれませんが、地名においては -un は脱落することが多い印象があります。略して panke-chi-e-pis と呼んでいるうちに本来の意味が忘れられ panke-chip に化けてしまった……あたりではないでしょうか。

ピリカナイ沢

pirka-nay??
良い・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)

2026年4月16日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (42) 「どこにでもいるな!®」

国道 232 号を北上します。「蛇ノ目沢川」を渡った先に「第 2 秀浦」バス停があるのですが、小ぶりながらもガッチリした構造の待合室が見えます。
沿岸バスの沿線は、冬場に大荒れの気候になることが多く、バス停の丸板がちょくちょく飛ばされることがあるとのこと。流石に待合室が飛ぶことは無いだろう……と思ったのですが、「沿岸バス 待合室 吹っ飛ぶ」でググると……出てきますね(汗)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

なお、この「第 2 秀浦」のバス停の待合室ですが、2018 年 5 月のストリートビューを見てみたところ……


なんということでしょう~™。リフォームで解決する以前の問題だったようです……(泣)。

瑞祥地名と見せかけて

道の駅「おびら鰊番屋」の 1 km 手前にやってきました。まるで高速道路のサービスエリアのようにしっかりと案内が繰り返されています。

2026年4月15日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (41) 「スピードダウン」

「眞砂橋」で「大椴おおとどっこ川」を渡って、引き続き国道 232 号を北に向かいます。道道 958 号「大椴線」が分岐しているのですが、「大椴線」というシンプルなネーミングは珍しいですよね。
この道道 958 号は全長 8.5 km ほどの路線なのですが、起点が「留萌小平町字大椴」で終点も「留萌町小平町字大椴」とのこと。道道の路線名は起点・経由地・終点あたりが並ぶ場合が多いのですが、流石に「道道大椴大椴線」にはならなかった……ということでしょうか。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

横風注意

国道 232 号の「おにぎり」の下には「横風注意」の警告標識がありました。稚内まで 168 km とのことで、確実に少しずつ近づきつつありますね(当たり前の話ですが)。

2026年4月14日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (40) 「小平トンネル」

国道 232 号の「高砂橋」で「小平蕊川」を渡ります。対向車線に「はぼろ温泉」と書かれたバスが見えますが……送迎、でしょうか? Google マップで調べた限りでは、ここから「はぼろ温泉サンセットプラザ」までは 40 km ほどあるのですが……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前方にトンネルが見えてきました。

2026年4月13日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (39) 「おびら町」

小平臼谷にやってきました。カントリーサインが道路の右側に立っていますが、道が右にカーブしているので悪くないチョイスかも……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

106 系標識には「稚内」「羽幌」「小平市街」までの距離が表示されています。稚内まで 180 km を切ったので、あと 3 時間ほどで到着できるということに……?

2026年4月12日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1369) 「ペンケメウシュナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ペンケメウシュナイ沢

penke-mekka-us-nay??
川上側の・背筋・ついている・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ペンケハユシニナイ川」の 2 km ほど東で北から額平川に合流する(短い)支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンケメウㇱュナイ」と描かれていました。よく見ると、現在の「ペンケメウシュナイ沢」の位置ではなく、もう少し西側に存在していたようです。現在の「ペンケメウシュナイ沢」の位置には「ポロピナイ」と描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「メウシナイ」とだけあります。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

しばし過て
     メウシナイ
左りの方小川、メウシは冷き事也。此処いつにても日陰にして有りと。よつて此処え来るにいつも鬚髪も皆凍るよし也、依て号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.36 より引用)
penke-me-us-nay で「川上側の・寒気・ある・川」ではないかとのこと。「寒い」というのは感覚的なものなので、地名としてはどうなの……? と思ったりもするのですが……。額平川筋の「左留日誌」に頓珍漢な解釈が少なくないのも気になるところです。

背すじ、鼻すじ、ぼんのくぼ

改めて地形図を眺めてみたのですが、やはり「寒気のある川」はどう考えてもおかしいように思えます(感覚を地名解に持ち込むなと言われると返す言葉が無いのですが)。

困った時の『地名アイヌ語小辞典』(1956) というのもいかがなものか……という話もありますが、次のような項目がありました。

mek-ka, -si めㇰカ ①物の背すじ;背線。etu~〔エと゚メㇰカ〕鼻すじ。emus-~〔エむㇱメㇰカ〕刀のみね。nupuri-~〔ヌぷりメㇰカ〕山の尾根。②【K(シラウラ)】沢と沢との間に細くのびている山。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.59 より引用)
多くの辞書には mekka とあるのですが、『地名アイヌ語小辞典』は mek-ka ではないか……としています。他に mek-ka かもしれないとしたのが『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) で、次のように記されていました。

mekka メッカ【位名】[mek-ka (?) ・の上]……の上側(山の尾根のように左右よりも高い所がある長さを持っているような場合にその上を言うらしい)。
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.384 より引用)
知里さんによると mekka は「物の背すじ」を意味するとのことですが、『アイヌ語方言辞典』(1964) によると(帯広では)「背すじ」を mecíp と呼ぶとのこと。

面白いことに、『アイヌ語沙流方言辞典』にも mecip が立項されているのですが……

mecip メチㇷ゚【名】[概](所は mecipi(hi)メチピ(ヒ))[me-cip(?)舟](?)ぼんのくぼ(「首筋の 2 本の筋間のくぼんだ所」=okrici ukowturke オㇰリチ ウコウトゥㇽケ)。(S)〔知分類 p.222 mechip((タライカ))すね。
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.383 より引用)
こちらは「背筋」ではなく「ぼんのくぼ」に限定されるとのこと。ところがまだ続きがあり……

参考・─北海道のホロベツに……その意味わ殆ど忘れられ、わずかに土地の古老が「背すじ」のことでわないかと云うのみである((民研資料 II, p.56))〕
(田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館 p.383 より引用)
ホロベツ」「わ」と来れば……これは知里さんの文章でしょうね。

mek という謎の語

さて、田村さんは mekkamek-ka であるかもしれないとし、mecipme-cip かもしれないと考えたようですが、肝心の? mek あるいは me は (?) としています。そこで私もちょっと考えてみたのですが、mecipme も実は mek だった可能性があるんじゃないかと。

mek-ka は「物の背すじ」で etu-{mek-ka} が「鼻すじ」、そして「背すじ」あるいは「ぼんのくぼ」とされる me-cipmek-cip かもしれないとなると、mek は「骨」や「芯」と言ったニュアンスを有していた可能性があるんじゃないか……と思えてきました。

改めて辞書類を見てみると、「骨」を意味する語は pone が一般的のようです。『アイヌ語方言辞典』でも樺太で poni とある以外は poné で、なんと『藻汐草』(1804) にも「ポネ」とあります。明らかに「骨」とそっくりなので、和語からの移入語彙である可能性がありそうです。

mek に「骨」という意味があった……とは断言はできませんが、「メウシナイ」が {mek-ka}-us-nay-ka が落ちた……という話にすれば「筋が通る」と言えなくもないかもしれません。

mekka-us-nay であれば「背筋・ついている・川」ということになりますが、どちらかと言えば知里さんが『小辞典』で【K(シラウラ)】とした「沢と沢の間に細くのびている山」というニュアンスのほうがより合致しそうに思えます。

そして mek-us-nay で「小骨・ついている・川」だったんじゃないかなぁ……というのが現段階での(根拠を欠いた)「想像」です。すぐ近くに「カジキの上顎のついた川」があるというのも「小骨」説の伏線になっていたりするんですよね。

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2026年4月11日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1368) 「シドニ川・ストウニ川・ウエンハエシナイ沢川・ペンケハユシニナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シドニ川

situ-un-i?
大きな尾根・そこに入る・もの
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
オソウシノ沢川」の河口の東(上流側)で額平川に南東から合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シユト゚ニ」と描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たりません。このあたりではそこそこ長い支流なんですが……。


永田地名解 (1891) にもそれらしい川の記録が見当たらないのですが、額平川筋の記録はちょくちょく抜けがあるっぽいので、それほど不思議はありません。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また少し上り
     シヨトニ
同じく方小川、其名義不解なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.36 より引用)
うむむ……。「シヨトニ」あるいは「シユト゚ニ」ですが、situ-un-i で「大きな尾根・そこに入る・もの」だったんじゃないでしょうか。

「シドニ川」を遡った先に「寿都似山」(すとうにやま)という山があり、この山は西にとても長い尾根が伸びています。その頂上付近には「寿都似山」三等三角点(標高 1,010.8 m)があり、「点の記」には「スツニヤマ」とルビが振ってあります。

「スツニ」を素直に解釈すると sut-un-i で「麓・そこに入る・もの」とも読めるのですが、現地の地形を考慮すると sut よりも situ のほうが適切じゃないかなーと思います。

ストウニ川

situ-un-i?
大きな尾根・そこに入る・もの
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年4月10日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1367) 「パンケイワナイ川・ムベツ沢川・オソウシノ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケイワナイ川

panke-iwa-nay
川下側の・岩山・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町豊糠で北西から額平川に合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケイワナイ」と描かれていますが……


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「イワナイ」とだけ描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また少し上り
     イワナイ
左りの方高山の間岩崖有る処のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.36 より引用)
iwa は「岩山」あるいは「山」を意味するとされます。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

iwa イわ 岩山;山。──この語は今はただ山の意に用いるが,もとは祖先の祭場のある神聖な山をさしたらしい。語原は kamuy-iwak-i(神・住む・所)の省略形か。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.38 より引用)
実体を伴う(=概念ではない)「山」を意味する語としては nupuri もありますが、nupuri が山全般に使われるのに対し、iwa は「岩山」や「神聖な山」に限定される傾向がある……ということでしょうか。

岩山を流れる川なので iwa-nay で「岩山・川」とのこと。「岩内」あるいは「イワナイ」という地名・川名は後志の「岩内町」以外にも道内にいくつか存在しますが、iwa-nay だとする説と iwaw-nay(硫黄・川)とする説があるように思われます。

六つの川?

パンケイワナイ川の北西の山向こうに「岩知志」という地名があるのですが、この「岩知志」は iwan-chis で「六つの・中凹み」(あるいは「六つの・岩山」)という説があったと記憶しています。

今回の「パンケイワナイ川」も「川下側の・六つの・川」だったら面白いなぁ……などと想像してみたのですが、「パンケイワナイ川」と「ペンケイワナイ川」の間に谷川が四つあるように見えなくもない……ような気も。

まぁ「六つの──」があるならば「五つの──」や「七つの──」もある筈で、「六つの──」ばかりが続くのは奇妙です。やはり言葉遊びの域を出ないような感じでしょうか。

不思議なことに『北海道実測切図』には現在の「シキシャナイ岳」が「イワナイヌプリ」と描かれていて、現在の「イワチシ川」が「イワナイ」と描かれていました。額平川と沙流川の分水嶺の南北に「イワナイ」が存在したということになるのですが……。

ムベツ沢川

mem-puti-nay??
泉池・口・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年4月9日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (38) 「例の看板」

国道 232 号(と国道 239 号の重複区間)に入りました。北都交通のバスが走っていますが……あ。札幌と稚内を結ぶ都市間高速バス「わっかない号」は宗谷バスと北都交通の共同運行だったんですね(今知った)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 232 号はこの先で JR 留萠本線(当時)を渡るのですが、やはりと言うべきか、車線が減少するとのこと。

2026年4月8日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (37) 「赤くて黄色いアレ」

「深川留萌自動車道」の終点(当時)だった「留萌大和田 IC」からは国道 233 号(現道)で留萌市内に向かいます。
久しぶりに大幅なレタッチが必要ない写真になりましたが、なんか周辺減光っぽいのは何故なんでしょう……(Photoshop の HDR トーンを使うと周辺減光が極端に目立つことがありますが)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そっくりさん?

留萌大和田 IC は現道のすぐ傍に位置していて、ランプウェイも国道(現道)と直結しています。

2026年4月7日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (36) 「ブイブイ言わせた(語彙力)」

幌糠トンネルを抜けて北東に向かいます。前方に見える橋は「御料大橋」で、留萌川をオーバークロスしています。
と言っても留萌川の対岸(東岸)に渡るわけでは無く、西岸から渡って西岸に戻る橋です。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

終点(当時)の「留萌大和田 IC」まで、あと 7 km とのこと。なんだ、どこも全然近いなぁ……という印象ですが、そもそも「深川留萌自動車道」自体が 49.0 km しか無かったんですね。

2026年4月6日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (35) 「西ちばべり橋」

「北竜ひまわり IC」からの加速車線が合流する手前で留萌市に入ります。
ペースカーが見えていますが、加速車線が終わったところで一旦停止して前に行かせてくれました。暫定 2 車線ということもあり、気を使ってくれたのでしょうね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「北竜ひまわり IC」の前後にあった追越車線は姿を消し……

2026年4月5日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1366) 「ペンケヌプチミプ橋・シケレベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ペンケヌプチミプ橋

penke-not-chimi-p??
川上側の・鼻(岬)・左右にかき分ける・もの
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 638 号「宿志別振内停車場線」は「豊糠橋」で平取ダムのダム湖(額平川)を渡っていますが、「豊糠橋」の南で「ペンケヌプチミプ橋」が小さな川(名称不明)を渡っています。

「ラフベンニ」とは?

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) ではそれらしい川名を確認できないようですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンケヌッチミ」という川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

扨二股より左の方ヌカ平通り本川まゝを上り来れば、しばしを過て
     ハンケヌツチミフ
     ヘンケヌツチミフ
右の方小川、其名義は前に云ラベン(ペ)有る処と云よし也。ヌツチミフとはラフベン(ペ)の事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.35 より引用)
……? 「ラフベンニ」あるいは「ラフベンペ」とは一体……?

少し調べてみたのですが、これ、どうやら「ラペンペ」が正解みたいですね。『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) にはそれらしい語が見当たらないようですが、『萱野茂のアイヌ語辞典』(2010) には……

ラペンペ【rapempe】
 カヤ.
萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂 p.461 より引用)
おお~。流石ですね!

知里さんの『植物編』(1976) にも「カヤ ススキ」の項に次のように記されていました。

( 3 ) rapempe (ra-pém-pe) 「ラ〓ンペ」[rap(翼)en(鋭い)pe(もの)] 稈《長萬部,幌別,穗別》《A 沙流鵡川・千歳・有珠
  注. ── rabinbi ヨシ(鳥居龍藏『千島アイヌ』)
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.226 より引用)※ 「〓」は変体仮名
あとは「ヌツチミフ」が「カヤ ススキ」を意味する……という話であれば万事解決なのですが、残念ながらそれらしい記述を見つけられていません。『植物編』によると (1) 美幌足寄・十勝・石狩で nupkaus、(2) 屈斜路では mukkaus とのこと。

「ペンケ」があるなら「パンケ」もある筈

ちょっと手詰まり感が出てきたので、アプローチを変えてみましょう。「ペンケヌプチミプ橋」が渡っている名称不明の川は、『北海道実測切図』によるとかつて「ヘンケヌツチミフ」と呼ばれていたとのこと。「ペンケ──」があるなら「パンケ──」もある筈なのですが、『北海道実測切図』を見てみると……


うーむ、これは……。松浦武四郎は「ハンケヌツチミフ」と「ヘンケヌツチミフ」を「二股より左の方ヌカ平通り本川まゝを上り来れば」と記しているので、「ハンケヌツチミフ」は「シクシュペッ」(=宿主別川)よりも北にある筈なんですが、「実測切図」は「シクシュペッ」の南に「パンケヌッチミ」を描いています。少なくとも川の位置については「実測切図」は疑わしい……ということになりますね。

「野を左右にかき分けるもの」?

では、「ヌツチミフ」あるいは「ヌプチミプ」を素直に解釈するとどうなるか……ですが、「ヌプチミプ」であれば nup-chimi-p で「野・左右にかき分ける・もの」となりそうでしょうか。

chimi というのは偶に出てくる語ですが、いつも解釈に苦しむ語です。知里さんは「左右にかき分ける」としていますが、ジョン・バチェラーによると「手探り」ではないかとのこと。

個人的には、巨人が大地を手で引っ掻いたような地形……という印象があります(サンプルが少ないので、この解釈には今ひとつ自信が持てなかったりもするのですが)。

「鼻(岬)」を左右にかき分けた?

とりあえず「ヌプチミプ」または「ヌツチミフ」をどう解釈するかがポイントだと思うのですが、nup-chimi-p で「野・左右にかき分ける・もの」よりは not-chimi-p で「鼻(岬)・左右にかき分ける・もの」だったんじゃないかなぁ……と思えてきました。この川は見事に「江無須志山」を「切り開いている」ように見えるんですよね。

残る問題は松浦武四郎が記録した「ハンケヌツチミフ」がどこを流れていたか……ですが、本当は「ペンケヌプチミプ橋」が渡る川が「ハンケヌツチミフ」で、「ヘンケヌツチミフ」は北隣を流れる名称不明の川(「実測切図」が「ア子マㇷ゚」とした川)だった……とかでしょうか。

シケレベ川

sikerpe?
キハダの実
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年4月4日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1365) 「パンケトボチベツ沢・シュンベツノ沢川・ルトランシュンベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケトボチベツ沢

panke-tu-oma-pet?
川下側の・峰(岬)・そこにある・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ペンケルナイ沢の東で宿主別川に合流する北支流です。更に 1 km ほど東(宿主別川の上流側)で「ペンケトボチベツ沢」が同じく北から合流しています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ハンケトヲマヘツ」と「ヘンケトヲマヘツ」という川が描かれていますが、不思議なことに『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川名が見当たりません。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 また少し上りて
      ハンケトマヲ(トコチ?)ベツ
      ヘンケトマヲベツ
 二河とも左りの方小川也。其名義は此処鹿多く有るが故に、夜の内より相互に精を出して取ることを云しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.34 より引用)
さて……どうしたものでしょうか。なんとなく表にまとめてみるとこんな感じです。

午手控 (1858)バンゲトコチベツ-
戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」ハンケトマヲベツヘンケトマヲベツ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)ハンケトヲマヘツヘンケトヲマヘツ
北海道実測切図 (1895 頃)--
地理院地図パンケトボチベツ沢ペンケトボチベツ沢

松浦武四郎が記録した「夜のうちから鹿を獲る」というのは意味不明なので一旦忘れるとして、「トマヲベツ」あるいは「トヲマヘツ」から意味を考えてみたいところです。

「トマヲベツ」であれば toma-o-pet で「エゾエンゴサクの根・多くある・川」か、あるいは「エゾエンゴサクの根・そこで(・欠落)・川」あたりの可能性が考えられますが、正直に言うとこれは無いかなぁと思っています。

「トヲマヘツ」であれば to-oma-pet で「沼・ある・川」という可能性がまず想起されますが、沼があったようには見えません。となると tu-oma-pet で「峰(岬)・そこにある・川」でしょうか。どちらの川も河口の西側に岬状の山があるように見えるので、そこから命名したような気もします。panke-tu-oma-pet であれば「川下側の・峰(岬)・そこにある・川」となりそうですね。

あるいは……これは想像の域を出ないものですが、tuyma-pet で「遠い・川」だった可能性もあったかも……?

シュンベツノ沢川

sum-pet
西(北西)・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年4月3日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1364) 「江無須志山・シカルスナイ沢・パンケルナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

江無須志山(えむすしやま)

emus-us-i?
刀・ついている・もの(山)
(? = 旧地図等に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取ダムと額平川の東、宿主別川の北に聳える山で、同名の三等三角点も存在します(標高 463.2 m)。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) や『北海道実測切図』(1895 頃) 、更には『陸軍図』にはそれらしい山名が確認できませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      ヱムシユシ
 左の方山也。其名義はむかし爺が熊に捕れし処、ヌツケヘツ、ニヨイの土人等其敵打に山え上りて、此処にて其熊を取、太刀にて切こまざきて置し也。依て其太刀を今其処え納め木幣を建て神に祭り置より号しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.33 より引用)
ちゃんと地名解が記されているのは助かりますが、なんか地名説話っぽいですよね……。ただ、実際にこのような逸話があったかどうかはさておき、「ヱムシユシ」は emus-us-i で「刀・ついている・もの(山)」と考えたくなります。

地名に emus という語が使われるのは極めて異例に思えますが、地形図を見ると……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
山から南に向かって「刀」が伸びているように見えるんですよね。おそらく、こんな外見上の特徴から「敵討ちでクマを討伐」みたいな「物語」が生まれたんじゃないかなぁ……と想像しています。

シカルスナイ沢

e-sikari-us-nay?
頭(水源)・まわる・いつもする・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年4月2日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (34) 「見上げてごらん」

北竜町に入りました。時刻は 14:30 を少し過ぎたあたりです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

実はこのカントリーサインは 2015 年に撮影したものです。この日(2017 年 8 月)にも撮影したものはこちら。

2026年4月1日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (33) 「京阪っぽい」

秩父別町に入りました。上下線が分離された一本道というのも割と珍しいような……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

対向車線との間に広い中央分離帯があるので、安全性も比較的高そうでいい感じです。暫定 2 車線ですが、カルバートなどは完成 4 車線相当のサイズが必要になりそうな気もするので、普通の暫定 2 車線と比べると多少のコストアップになりそうな気もしますが……。