2025年9月30日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (51) 「噂の『白神ライン』」

西津軽郡深浦町(旧・岩崎村)の松神地区にやってきました。左折すると JR 五能線の「松神駅」とのことですが、それらしい交叉点が見当たりません。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

Google マップで確かめたところ、100 m ほど先の交叉点を左折とのこと。この交叉点は、北に向かう場合はやや見通しが良くないので、ちょっと手前に標識を設置したのかもしれませんが……。

「深浦マグロ」

JR 五能線は、松神まつかみ地区のすぐ横を通っているにもかかわらず、松神駅は集落から 0.7 km ほど南に離れたところに設置されています。理由は不明ですが、地盤が軟弱だったからとか、何か理由があったんでしょうか……?

2025年9月29日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (50) 「大間越ロマンの里歩道橋」

西津軽郡深浦町(旧・岩崎村)の国道 101 号を北に向かいます。コテージのような建物と土砂採取場の事務所の対比が面白いかな……と。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

白神ライン 通行止あり

道路情報表示板には「㉘白神ライン 通行止あり」と表示されています。

2025年9月28日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1288) 「志文内川・クーベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

志文内川(しぶんない──)

supun-nay?
ウグイ・川
(? = 旧地図に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「クーベツ川」が「鳧舞けりまい川」に合流する地点に砂防ダムがあるのですが、ダムの 200 m ほど南(下流側)で「志文内川」が東から合流しています(川名は国土数値情報による)。

北海道実測切図』(1895 頃) では妙なことになっていて、現在の「志文内川」の位置には川名の記入がなく、クーペチ川(=クーベツ川)の支流(現在の「オイマテ沢川」に相当)として「シュプンナイ」が描かれています。


この、国土数値情報が「志文内川」とする川には「水車沢橋」が存在するとのこと。そして「水車の沢川」とする川には「志文内橋」があるそうで、これは一体どう考えたらいいのか……?

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でも同様で、現在の砂防ダムの位置に「ヘテウコヒ」(pet-e-u-ko-hopi-i)とあり、東支流「クーヘチ」の更に支流として「シユフンナイ」が描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「計理麻布誌」では、また微妙に異同のある記載となっていました。

こへて
     ヘテウコヒ
此処二股に成る也。此処よりして東の方は、西よりして少し小さきが故に、一字を下げて志るし置に
      メナシベツ
 是東の川と云儀也。魚類鱒と鯇との二種有とかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.505 より引用)
現在は「鳧舞川」に「クーベツ川」が合流していますが、松浦武四郎は現在の「クーベツ川」が「メナシベツ」であるとしていて……

 しばし是を上り行て
      クーベチ
 右のかた小川。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.505 より引用)
「メナシベツ」の支流に「クーベチ」が存在する……としています。

 またしばし上りて
      シユフンナイ
 右の方小川。是桃花魚多く入るよりして号しとかや。本川左りの方に至る。是よりして上の方無名の小川左右に多しと。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.505 より引用)
この書きっぷりからは、現在の「クーベツ川」に相当する川には少なくとも「右のかた小川」(=南支流)が二つ存在することになるのですが、地形図を見た限りではその実在は否定的に思えます。

この川が実際にはどこに存在していたのかは謎のままですが、supun-nay で「ウグイ・川」だったと見て良さそうですね。

クーベツ川

ku-peti
しかけ弓・その川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年9月27日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1287) 「札内橋・ヌキベツ川・ニガラチ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

札内橋(さつない──)

sattek-nay
やせている・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ニタラチ川」が「鳧舞けりまい川」に合流する地点の北で「鳧舞川」を渡る、町道札内線の橋の名前です。陸軍図には一帯の地名として「サツナイ」と描かれています。


北海道実測切図』(1895 頃) には、ニタラチ川ではなくその少し北の西支流として「サッナイ」が描かれていました。現在の「モモカリ川」の東隣を流れる川で、国土数値情報では「川名不明」となっています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「モムカワ」の隣に「サツナイ」と描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「計理麻布誌」には次のように記されていました。

凡七八丁も過て
     サツナイ
左りの方小川。其川口干上りて口無が故に号るとかや。本名サツテクナイの義也。此川川口無故に魚類何もなしと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.504 より引用)
sat-nay で「乾いた・川」ですが、正確には sattek-nay で「やせている・川」とのこと。意図するものはどちらも同じで、河口に水がない川と見られます。このあたりの支流は伏流する川が多かったようですね。

ヌキベツ川

nupki-pet
にごり水・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年9月26日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1286) 「ルベシベ川・熊臼・イバタキ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ルベシベ川

ru-pes-pe
路・それに沿って下る・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町三石歌笛の東で鳧舞けりまい川に合流する東支流です。このルベシベ川には「ポンルベシベ川」という北支流もあります。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ルペㇱュペ」と描かれています。支流に「ポンルペㇱュペ」があるのも同様ですが、面白いことに現在「ルベシベ川」の本流とされる側が「ポンルペㇱュペ」となっています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ルベシベ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「計理麻布誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     ルベシベ
右の方小川。其名義は此処よりウラカワの川端え山越道あるが故に号る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.501 より引用)
かつての「ルペㇱュペ」、現在の「ポンルベシベ川」を遡った先には道道 746 号「高見西舎線」があり、元浦川支流の「メナ川」流域に出ることができます。またかつての「ポンルペㇱュペ」、現在の「ルベシベ川」を遡ると、同じく元浦川支流の「ケバウ川」あるいは「ポンメナ川」流域に出ます。ru-pes-pe で「路・それに沿って下る・もの(川)」と見て良いかと思われます。

熊臼(くまうす)

kuma-us-i?
横山・ついている・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年9月25日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (49) 「青森県!青森県!青森県!青森県~!」

五能線のアンダーパスを通過して、右カーブに差し掛かったところで青森県に入りました! 日本海に沈みゆく夕陽が美しいですが、この時点で 14:40 だったので、夕陽を見るにはちょっと早すぎたかも……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

青森県は西津軽郡深浦町に入ったところで、いきなり道路工事にぶつかってしまいました。ここで一旦停止です。

2025年9月24日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (48) 「『ハタハタ館』と『あきた白神駅』」

前方に「ここは白神山地二ツ森入口」という案内が見えてきました。白神山地は青森県と秋田県に跨って存在しますが、ここが「二ツ森」エリアの入口とのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右側には、なんと「サル出没注意!!」と書かれた看板が(!)。あー、そう言えばサル、出ますよね……(下北半島で見かけた記憶が)。

2025年9月23日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (1))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

「普及版」でカットされた内容は、高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』でフォローしてきたのですが、なんと「蝦夷に関する覚書」の本文が見当たりません。「対照表」にはちゃんと「蝦夷に関する覚書」という項目があるのに……。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見てみることにしました。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

地形的特徴

「蝦夷に関するノート」は、ほぼ全てが地誌的な記述で占められています(故に「普及版」ではカットされたのかも)。「地形的特徴」(時岡さんの訳では「自然の特徴」、原文では Physical Characteristics と題された項)から始まります。

 蝦夷は、日本本土とは津軽海峡に、またサハリンとは宗谷海峡に隔てられ、東経一三九度三〇分から一四六度、北緯四一度二〇分から四五度二〇分へと不規則な三角形に広がっており、最北点は英国ランズエンド岬よりかなり南にある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.18 より引用)
「英国ランズエンド岬」は日本語版 Wikipedia にも立項されていました(ランズ・エンド(岬))。グレートブリテン島のほぼ南西端に位置する岬で、北緯 50 度 04 分とのこと。イギリスって思った以上に北にあるんですよね。

「サハリン」という表記も気になるところですが、原文には Saghalien とあるので、間違いなく「サハリン」ですね。1875(明治 8)年に「樺太・千島交換条約」が発効しているので、イザベラが「サハリン」としたのは妥当に思われます。

イザベラは「蝦夷」について「気候は並外れて厳しく、降雪量が多くて、北部の冬はシベリア型である」と記していますが、誰から聞いたのかわかりませんが、概ね妥当な認識ですね。

面積は三万五七三九平方マイル[約九万二九〇〇平方キロ]で、アイルランドよりかなり大きいのに、推定人口は一二万三〇〇〇しかない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.18 より引用)
面積が「平方キロ」でも併記されているのは助かります。推定人口は「12 万 3 千人」とありますが、現在の北海道の人口は 505.8 万人とのこと。

この島は山脈の集まりで、平地はよく草が生え、水に恵まれている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.18 より引用)
日本は大抵の島が「山脈の集まり」で、例外は「南鳥島」くらいしか思い出せませんが、「珊瑚礁の島」や「中洲の島」では無いということを明記している……ということでしょう。「水に恵まれている」というのも重要なことで、アメリカ中西部のような乾燥した気候では無いということを示しています。

土地の多くを人の踏み込めない密林や沼が覆っている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.18 より引用)
これもまったくその通りですね(笑)。北海道と言えば寒くて荒涼とした大地……という印象がありますが、概して植生は豊かに感じられます。まぁシベリアの大地にも「タイガ」が広がっているので、寒いからと言って「枯れ果てた場所」では無い……ということですよね(野付半島の「トドワラ」のような場所は、まぁ例外なのかと)。

イザベラは「活火山がいくつかある」とも記していて、「見た目は静かだからといって安心できない」としています。気象庁の Web ページの「北海道駒ヶ岳 有史以降の火山活動」によると、1856 年にマグマ噴火が記録されていて、「有珠山 有史以降の火山活動」では 1853 年にマグマ噴火が記録されています。「十勝岳 有史以降の火山活動」によると 1857 年に噴火が記録されているとのこと。

川については「無数の短くて流れの速い川」があるとして、時折「激しい増水を起こす」としています。川は 3~5 km ごとにあり、「旅人をその岸で何日間も足止めさせる」としていますが、これはまぁ本州でも同じですよね。

最大のものは石狩川で、鮭で有名である。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.18-19 より引用)
石狩川の鮭、明治の頃から既に有名だったんですね。

 海岸に安全な港は少なく、台風の進路には当たらないものの、ひどい強風が吹き、途切れのない波がある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19 より引用)
当時の「蝦夷地の港」と言えばまずは函館でしょうか(函館については後に詳細な記述があります)。あとは小樽室蘭ですが、どっちも採炭とともに発展したような印象があります。「台風の進路には当たらない」というのも重要な指摘ですね。

植生と農地について

蝦夷地(北海道)における農耕については、次のように記していました。

耕地は主に海の近くにあるが、例外的に札幌の付近には広大な平野がある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19 より引用)
北海道最大の平野である「石狩平野」の一角に「札幌」という都市が建設されて今に至る訳ですが、札幌の地理的なアドバンテージについては先人が指摘した通りだったと言えそうですね。北海道は二つの巨大な島が陸繋島(DASH 島みたいな)のようにつながった形をしている……とも言えるかもしれません。

内陸は森林に覆われており、価値ある木材の供給源はありあまるほどで、木材として有用な樹木は三六種を数える。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19 より引用)
イザベラはこれまでもこういった地誌的な内容を詳らかに記していますが、穿った見方をすれば「(大英帝国が)食い物にできる資源」について記している……とも言えそうです。

イザベラは「蝦夷地の森林」について「高さ約 2.4 m に達する丈夫でしぶとい笹が密に生えている」とした上に「そこかしこにさまざまな蔓植物が繁茂して絡まり合っているので、通行できない」と記しています。笹については場所を選ぶような気もしますが(笹が自生しない場所も少なからずある筈)、蔓植物が繁茂して「通行できない」というのはその通りかもしれませんね(思わず苦笑い)。

土壌はふつう豊かで、暖かな夏はたいていの穀物や根菜の生長に好ましい。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19 より引用)
北海道は、個人的には泥炭層の湿地帯が広がっている印象があるのですが、イザベラは農地としての可能性を見出していたようです。気候については「稲には適していない」としつつ「小麦はいたるところで実っている」としていて、また「イギリスの果樹は日本のどの地方よりもよく育つ」としています(具体的な種類も知りたかったところですが)。

噴火湾[内浦湾]では門別におけるものほど立派に育っている作物をわたしはどこでも見なかった。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19 より引用)
唐突に「門別」という地名が出てきましたが(日高町門別か?)、原文では Mombets on Volcano Bay とあります。「噴火湾では」という注釈を考慮すると、これは「紋別」の可能性もあるかも……?

開墾された土地は腐葉土で肥えており、アメリカにおけるような作物を生産するのに適していて、二〇年間施肥がいらず、イギリスのように定期的で充分な降雨があるので、灌漑は必要ない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19 より引用)
これも農地としての可能性を見出した記述ですね。「二〇年間施肥がいらず」というのは誰から聞いたのでしょう……? 「灌漑は必要ない」というのも重要な指摘です。

鉱物資源について

イザベラは「鉱物資源」についても次のように記していました。

 蝦夷の主な鉱物資源は炭田にあるが、政府は外国資本の導入を警戒しており、通商停止が解除されるまでは、この資源が大規模に使用されることはありそうになく、また鉱山開発に充てられた資金の大半は、途中の官僚が「搾取」してしまうためむだに費やされている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19 より引用)
官僚の「中抜き」は今に始まったものでは無かったのですね……。北海道には石狩炭田釧路炭田など、後に筑豊炭田と並んで「日本を牽引する」存在となった炭田がいくつか存在するのですが、当時はその可能性を推し量る時期だったと言えそうです。

イザベラもその可能性を高く評価していたようで、「もしかすると世界的に重要なものとなるやもしれない」と記しています。

地質調査の有能な主任であるライマン氏は蝦夷炭田の石炭埋蔵量を一五〇〇億トンと見積もっている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.19-20 より引用)
この「ライマン氏」はベンジャミン・スミス・ライマンのことでしょう。「1,500 億 t」という数字がどれほど膨大なものか、全く想像がつかないのですが……

言い換えれば、蝦夷は英国の現在の年間生産量を今後一〇〇〇年間(!)生産し続けるかもしれないということなのである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
むむ、これは確かに凄い数字ですね。ただ実際にはそこまで極端な埋蔵量でも無かったようで、釧路総合振興局の「釧路の石炭のページ」によると石狩炭田で 64 億 t、釧路炭田で 20 億 t とのこと。まぁ、当時は夢を見ていたということなのかもしれません。

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2025年9月22日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (47) 「役場の跡地を無償譲与!」

山本郡八峰町はっぽうちょうに入りました。「只今の気温」は例によってお休み中のようです。
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道の駅「みねはま」は一旦措くとして、下の「ポンポコ 101」とは一体……?

2025年9月21日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1285) 「オチミナイ川・久遠川・庄内川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オチミナイ川

e-chimi-nay?
頭(水源)・かき分ける・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町三石本桐(かつて日高本線・本桐駅のあったあたり)の東に「本桐橋」がありますが、橋の北東あたりで鳧舞けりまい川に注ぐ東支流です。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オチミナイ」と描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれているものの川名の記入はありません。


「オチミナイ」を素直に読み解くと o-chimi-nay で「河口・左右にかき分ける・川」となるでしょうか。地名における chimi は、巨大な熊手で丘を引っ掻いたような場所で良く見かける印象があるのですが、「オチミナイ川」についても水源のあたりがやたらと細かい谷に「分かれている」印象があります(黒松内町の白炭とか)。

やや恣意的な解釈かもしれませんが、「オチミナイ」ではなく e-chimi-nay で「頭(水源)・かき分ける・川」だったのではないでしょうか。あるいは o-chimi-nayo- の前の何かが略されていて、「(何かが・)そこで・かき分ける・川」だったかもしれません。

久遠川(くどう──)

kut-nay?
帯状に岩層の見える崖・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年9月20日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1284) 「エカニウス川・オニウス川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

エカニウス川

i-kari-us-i
それ・回る・いつもする・ところ
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦河荻伏と浜荻伏の間で海に注ぐ川です(国土数値情報による)。『北海道実測切図』(1895 頃) には「イカリウシ」と描かれていて、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では(現在の名前に近い)「エカニウシ」と描かれています。


海岸部の地名なので記録だけは豊富にあるようです。気付いた範囲で表にしてみました。

大日本沿海輿地全図 (1821)イカヌシ?
初航蝦夷日誌 (1850)ヱカニウシ
竹四郎廻浦日記 (1856)ヱカヌウシ
午手控 (1858)イカニウシ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)エカニウシ
戊午日誌 (1859-1863)イカ(リ)ウシ
東蝦夷日誌 (1863-1867)エカニウシ
永田地名解 (1891)イカリ ウㇱ
北海道実測切図 (1895 頃)イカリウシ
北海道地形図 (1896)イカリウシ
国土数値情報エカニウス川

いい感じに票(違う)が割れましたね。『午手控』には地名解も記されているのですが……

イカニウシ 昔此処鹿(狩)りに附、一人の老夷女、致しおりし鹿往返に目を附け番有し所、猟蝦夷人共射放したる矢誤り老女に当り即死に附、イカニウシと名付し由
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.173 より引用)
うーん。もしかしたらそんな出来事が実際にあったのかもしれませんが、「イカニウシ」をどう解釈するとそうなるのか、ちょっと理解に苦しみます。「射る」を意味する tukan という語はありますが……。

永田地名解には次のように記されていました。

Ikari ushi   イカリ ウㇱ   山越ヤマコエ 直譯迂リ路スル處元浦川出水ノトキ川ヲ渉ル能ハズ山越シテ往來セシニヨリ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.270 より引用)
「荒天時に遠回りをした」という話のようですが、この手の話もちょくちょく目にしますね。最近だと様似の「キリシタナイ川」あたりでしょうか。

永田地名解以前は「イ──」ではなく「エ──」(あるいは「ヱ──」)という記録が目立つものの、「イ──」という記録もちょくちょく存在するようにも見えます。「イカリウㇱ」を素直に解釈すれば i-kari-us-i で「それ・回る・いつもする・ところ」となるでしょうか。

日頃は海沿いを歩いたものの、海が荒れた時や川が増水したときは山越えルートに迂回した……ということのように思えます。

オニウス川

o-ni-us-i?
河口・標木・ある・ところ
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年9月19日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1283) 「ウネトプ川・シロチノミ川・プッカシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ウネトプ川

opnetop???
ネマガリダケ
(??? = 旧地図で未確認、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ショロカンベツ川」と「ソエマツ川」の間で西から「元浦川」に合流する支流です(川名は国土数値情報による)。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ポロヌㇷ゚キナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりません(位置的には「レタリトイナイ」が近いですが、これは現在の「ポロナイ川」だと見られます)。

この川名も例によって国土数値情報がやらかしたのか……と思ったのですが、ネタ元と思しき川名を見つけられませんでした。強いて言うならば「ラ」という地名に近いかもしれませんが、もはや言いがかりに近いレベルですよね。

笹原!?

「ウネトプ」は正体不明……と思ったのですが、なんと永田地名解 (1891) に次のような記載がありました。

Une top   ウネ トㇷ゚   笹原 直譯一樣ノ笹
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.275 より引用)
うーむ……。top は「竹」ですが「ウネ」が正体不明です。もしかして「うね」だったりして……。

なお、この「ウネ トㇷ゚」は「オパ ウㇱュ ナイ」と「ライ ペッ」の間に立項されていました。「オパ ウㇱュ ナイ」は現在の「ルスナイ川」で、「ライ ペッ」は「ライベツ川」なので、順番通りだとすればこれも浦河姉茶のあたりの地名(川名?)だった可能性が出てきます。

改めて『東西蝦夷山川地理取調図』を眺めてみたところ、「ライヘツ」の近くに「ヲニトウ」と描かれていることに気づきました。

ネマガリダケ?

この「ヲニトウ」については、戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」に次のように記されていました。

 また少し上りて同じ方に
      ヲニトウ
 小川也。其名義はヲニトツフにして、此辺大笹多くあるよりして号しもの也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.464 より引用)
あー。もしかして……と思ったのですが、やはり「ウネ」あるいは「ヲニ」は onne だった可能性がありそうですね。onne-top で「大きな・竹」かと考えてみたのですが、知里さんの『植物編』(1976) によると opnetop で「ネマガリダケ」を意味するとのこと。

§ 383. ネマガリダケ
       Sasa paniculata Makino et Shibata var. paniculata Nakai
(1) opnetop(óp-ne-top)「おㇷ゚ネトㇷ゚」[<op(矢柄)ne(になる)top(竹)]莖《A 沙流鵡川有珠
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.222 より引用)
op は「槍」とされることが多いですが、知里さんは次のような注を付記していました。

   注 1.──op わ今普通に槍と譯されているけれどももとわ槍に限らず柄の意である。語原わ o-p[ついている・もの]で,kité-op わ「銛先のついているもの」の義で銛の柄のことであり,marék-op わ「鮭銛のついているもの」の義でいわゆるマレップの柄のことである。本條の場合 op わ ay-o-p「矢のついているもの」の op で矢柄(矢がら)をゆう。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 植物編」』平凡社 p.222 より引用)※ 原文ママ
ということで、「ウネトプ川」は opnetop で「ネマガリダケ」だった可能性がありそうです。それにしても「国土数値情報」は他所の地名・川名をありもしないところに勝手に当てはめてくれるので……もう勘弁してほしいです。

シロチノミ川

sir-o-chi-nomi?
山・そこで・我ら・祈る
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)

2025年9月18日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (46) 「ある意味貴重な写真」

かつての国道 7 号(現在は市道?)を直進して国道 101 号に入りました。なんか急に道が広くなったんですが……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

左側にはガソスタがあり、右側にはパチンコ屋があります。あきらかに郊外型の店舗ばかりで、旧街道らしい趣は全くありません。

2025年9月17日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (45) 「バスケの街」

八竜 IC から 1 km ほど北に進んで能代市に入りました。カントリーサインは……バスケットボールなんですね。「能代工業高等学校」のバスケ部は全国的に有名ですが、なんと能代市の Web サイトにも「バスケの街」というページが。ちなみにこのページ、「バスケ」が 38 回出てくるのに対して「ボール」は僅か 3 回しか出てきません。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

能代市に入ると程なく追越車線が終了するのですが……

2025年9月16日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (44) 「生きてるって言ってみろ」

秋田自動車道の「琴丘森岳本線料金所」の ETC ゲートを通過します。ここも 2017 年時点では ETC レーンは左側に設置されていました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

本線料金所を通過したので「無料区間」に入ったかのように錯覚しそうになりますが、次の「八竜 IC」までは引き続き有料区間です。

2025年9月15日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (183) 函館(函館市) (1878/8/12(月))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十二信」(初版では「第三十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

熱狂的歓迎

イザベラと伊藤を乗せて青森を夕方に出港した船は、夜間の荒れた海を往くこと 14 時間ほどで、ついに函館に到着しました。

 日が上ってからも強風はまた出てきた。十四時間で六〇マイル進んだ後に、船は函館港の岬に到達した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
60 マイルは約 96 km ほどですが、Google マップで青森 FT から函館 FT(津軽海峡フェリー)の距離を確認したところ 111 km とのこと。なお現在の津軽海峡フェリーは青森・函館間を 3 時間 40 分で結んでいるので、イザベラの船は 4 倍ほど時間がかかったことになります。

風が吹き、雨は土砂降りで、アーガイルシア(スコットランド西部の州)の悪天候の日に似ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
「アーガイルシア」は "Argyllshire" で、グラスゴーの西のあたりとのこと。山岳地帯がそのまま海に沈降したような地形のようです。

風と雷雨、そして「北海の荒れすさぶ音」が、北の島に上陸しようとする私を猛烈に歓迎してくれたわけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
イザベラは、ついに「奥地紀行」のゴールである「蝦夷地」への上陸に成功したのですが、さすがに感無量だったのかもしれませんね。横浜あたりから函館まで船で移動すればもっと楽勝だったのですが、まぁ、それだと「ほんとうの日本」を見ることができなかったので。

イザベラは函館の印象を、こんな風に記していました。

ジブラルタルのような岩だらけの岬、冷血のように見える灰色の町、険しい山腹に散在する松の木、実に多くの灰色の小舟、碇泊中のいくつかの汽船や外国船、たくさんの平底船が荒れる海上を軽く走る姿などが、雨や波しぶきの合間からちらりと見ることのできたすべてであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
「ジブラルタル」というのは言いえて妙かもしれませんね。湾自体の大きさは似たようなものですが、ジブラルタル海峡は津軽海峡よりも狭く、南側に「陸奥湾」に相当するような大きな湾はありません。前述の通り、「津軽海峡フェリー」は青森・函館間を 3 時間 40 分で結んでいますが、ジブラルタル海峡を航行するフェリーは 1 時間程度で海峡を渡ってしまうとのこと。

函館については「冷血のように見える灰色の町」としつつも、「平穏な北国らしい光景が私を嬉しくさせてくれた」とも記していました。イザベラはイングランド北部のヨークシャー生まれですが、ヨークシャーは緯度だけで言えばサハリン北部やカムチャツカ南部と似たようなものだったりするので、函館の「北緯 41 度」というのは全然のかもしれませんが……。

風の中の上陸

イザベラと伊藤を乗せた船は、夜間の荒天の中を函館に向かったのですが、何故そこまでして航海を強行したのかは謎です。函館側でもまさかこの天気の中で船が出るとは考えなかったらしく、イザベラは「誰も私を迎えに来てくれなかった」と記しています(汗)。

それで私は五十人の日本人と一緒に、甲板のある平底船サンパンの頭部に固まって乗った。嵐のような風であったので、上陸するまで半マイル進むのに一時間半もかかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
ん、イザベラは「誰も私を迎えに来てくれなかった」と記していますが、もしかして、船が着岸する準備すらされてなかったということなんでしょうか。

イザベラの「奥地紀行」は表題にも記した通り、1878(明治 11)年の出来事です。鉄道(JR 奥羽本線など)が未開通なのは理解していたつもりでしたが、日本で「電話」が(限定的に)実用化されたのが 1877(明治 10)年の出来事だったらしいのは失念していました。要は、当時は「電話」が事実上「存在しなかった」ということです。

閑話休題それはさておき。函館に「上陸」したイザベラですが、すぐに市内に繰り出すわけにはいかなかったようで……

それから私は風の吹いている波止場で雨の中を待っていた。そしてようやく、遅くまで寝ていた税関の役人が起こされた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
これ、やはり受け入れ準備ゼロだったっぽいですよね……(汗)。当時は電話が使用できず、また無線通信も実験段階だったので、「狼煙を上げる」以外の通信方法が無かったのかもしれませんが。

似たような認識の齟齬はイザベラの側にもあったようで、領事館でレセプションが予定されていたことを知らなかったため、教会に向かってしまったとのこと。

私は領事館で歓待されることになっていたのだが、それを知らなかったので、ここの教会伝道館に来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333-334 より引用)
イザベラは夏の大雨の中を青森まで移動し、そのまま大荒れの海を函館に向かったこともあり、自身を「文化的な住宅に入れるような服装ではなかった」と記していました。その一方で、ここまでの旅で得た達成感はかなりのものがあったようで、惨めな身なりであることを忘れさせたようです。

しかし私は、あらゆる困難を克服したという勝利感を当然味わってもよい気がする。私が東京を出発するときには考えたことのないほどの多くのことをなしとげたのだから。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.334 より引用)

旅路の終わり

イザベラにとって、「北国」に「戻ってきた」ことは随分と大きな影響を与えたらしく、次のように綴っていました。

 北の海の轟く音はなんと音楽的に聞こえることか!吹きすさぶ風が唸り吼える音はなんと私の心を励ましてくれることだろう!烈しく雨が吹きつけてくるのさえ、わが家にいるような気がする。震えるような寒さが私を奮い立たせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.334 より引用)
「震えるような寒さが私を奮い立たせる」というのは印象的な一節ですね。

またイザベラは、横浜や新潟では(あと日光でも?)「文化的な生活」を謳歌したものの、旅の途中では「宇宙人」を見るかのような好奇の視線に曝され続けていました。「条約港」として開港していた函館では、イザベラは久しぶりに「文化的な生活」を取り戻すことができたようで……

ドアに鍵をかけられる部屋にいることがどんなに嬉しいことか、担架式ベッドではなく、ほんもののベッドに横になり、良い便りをのせた二十三通の手紙が来ているのを発見し、英国人の家の屋根の下の暖かく静かなところでそれらを読むことができるのは、どんなに嬉しいものか、とてもあなたには想像できないでしょう!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.334 より引用)
『日本奥地紀行』は(イングランドに住む)イザベラの妹に当てた書簡という形を取っていますが、この記述を見る限り、実際に手紙のやり取りが行われていたようですね。

ライト兄弟が飛行機を飛ばしたのは 1903(明治 36)年なので、当時は日本を訪れるには船に乗るしかなかったことになります。日本とイングランドの間の郵便は船で運ぶしか無かったということになるのですが、当時すでにそういったサービスがあった……ということになるんでしょうか。

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2025年9月14日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1282) 「ルードラシナイ川・チヤラセ川・ポロナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ルードラシナイ川

ru-turasi-nay??
路・それに沿ってのぼる・川
(?? = 旧地図で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「神威橋」の北で「元浦川」に合流する西支流です(川名は国土数値情報による)。『北海道実測切図』(1895 頃) にも川として描かれていますが、川名は「ポンアサマセㇷ゚」と描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ホンアサセ」とあるのですが、何故現在は全く違う名前になってしまったのか……。


戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ホンアサマセ
     ホロアサマセ
二川ともに左りの方小川也。此辺山の間に入るとかや。其名義は川口は至て狭くして、其奥広ろきよりして号るとかや。奥に岩山有るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.479 より引用)
頭註によると「asama 奥 sep 広し」とのこと。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には asam で立項されていました。

asam, -a アさㇺ 底;(湾・入江・沼・洞窟などの)奥。[<a-sam か?; a(坐る)sam(側);──壺など坐っている側が底になるので,そこから来たか]
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.9 より引用)
あまり記憶に無いなぁ……と思ったのですが、そう言えば塘路湖の近くに「モヤサム」という地名がありましたね。

「ポンアサマセㇷ゚」自体は「奥が広い」という感じは無いのですが、北隣の「ポロアサマセㇷ゚」と合わせると、確かに「川口狭くしてその奥広き」と言えそうな地形です。極めて珍しい形の地名ですが、asama-sep で「その奥・広い」と見て良さそうでしょうか。pon-{asama-sep} で「小さな・アサマセㇷ゚」ということになります。

「北海道実測切図」が「ポロアサマセㇷ゚」と描いた川(国土数値情報では「チヤラセ川」)を遡った先に「朝間節布あさませっぷ」という二等三角点(標高 637.5 m)が存在します。

ただ国土数値情報によると、この川は「ルードラシナイ川」とのこと。ru-turasi-nay で「路・それに沿ってのぼる・川」だと思われます。「ルーラシナイ川」と濁音になっているのが特徴的ですが、元は「ド」(do)ではなく「ト゚」(tu)だった可能性がありそうです。

北海道実測切図』には、浦河姉茶の南東に「ルート゚ラシナイ」という川が描かれています。国土数値情報の川名は、何故か姉茶のあたりの川名を遠く離れた上流側の支流に「当てはめた」ようにも見えます。正直、全く関係のない川名を勝手に当てはめるのは勘弁してほしいのですが……。

チヤラセ川

charse-nay??
すべり落ちている・川
(?? = 旧地図で未確認、独自説、類型あり)

2025年9月13日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1281) 「カムイ川・オソウシナイ川・ルシウンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

カムイ川

kamuychikap??
フクロウ
(?? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ナイ川」から直線距離で 2 km ほど北で「元浦川」に合流する西支流です。川沿いに四等三角点「滝ノ上」があります(標高 143.0 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「コイポㇰウㇱュオソーウㇱュ」という川が描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「コエホクヲシヨシナイ」とあります。


戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     コヱホクヲシヨシナイ
左りの方小川。其少し上に高山有。此川上滝有るが故に号る也。此沢五六丁入りてホンナイ一ツ有。(其)また源ムクマヘツと云。左りの滝有る沢と云る儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.479 より引用)
koypok-o-so-us-nay で「西の方・河口・滝・ついている・川」と見て良さそうですね。『北海道実測切図』の「コイポㇰウㇱュオソーウㇱュ」は koypok-us-o-so-us-nay だったようにも思えますが、おそらく koypok-kus-o-so-us-nay で「西・を通る・河口・滝・ついている・川」だと思われます。

ところが、何故か現在の川名は「カムイ川」です。北隣の「ルシウンナイ川」の近くに「神威橋」がありますが、不思議なことに、古い記録では「カムイ──」という川名や地名が確認できません。

戊午日誌「宇羅加和誌」を確認すると、妙なことになっていました。浦河姉茶のあたりを流れる「ライベツ川」の記録に続いて、次のように記されていました。

扨此ライヘツは魚類鮭・いとう・桃花魚・鯇・雑喉等有るよし也。またしばし上りて
     ハナタカムイニセシナイ
     ヘナタカムイニセシナイ
等二川とも右の方の小川也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.465 より引用)
戊午日誌「宇羅加和誌」が記した通りだとすると、「ハナタカムイニセシナイ」と「ヘナタカムイニセシナイ」は、現在の「ライベツ川」と「ルスナイ川」の間に、「元浦川」の南東支流として存在していたことになります。

ただ「元浦川」の南東には旧河道である「ライベツ」が流れていた筈なので、実在が疑わしく思えてきます。『北海道実測切図』を見ても、それらしい川が存在した余地は無さそうに思えるので、インフォーマントとのやり取りに何らかの齟齬があった可能性がありそうです。


川の位置については疑義が存在するものの、川名については次のように記されていました。

川口凡三四丁隔たりけるが、其辺一面の樹木立原にして、其処にふくろうの巣多く有るよりして号し也。其名義はハナタ、ヘナタは上下の義也。カムイニセシとは鴞をして土人カムイチカフと云て、神の鳥と伝ふ。ニセシとは巣の事、是セトシの詰りしか。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.465 より引用)
「セトシ」が転訛して「ニセシ」になったというのは要精査ですが、「カムイチカフ」が「フクロウ」であるということは知里さんの『動物編』(1976) でも確認できます(p.195)。

「カムイ川」という川名は kamuychikap で「フクロウ」に由来すると見て良いかと思われますが、以下の問題が残ります。

  • 戊午日誌の「コヱホクヲシヨシナイ」という記録は、他の川との前後関係にも矛盾は無く、正確だったように思われる
  • 戊午日誌の「ハナタカムイニセシナイ」「ヘナタカムイニセシナイ」という記録は、少なくとも位置については誤謬がありそうに思われる
  • ところが、何故か現在は「──カムイニセシナイ」に由来する可能性のある「カムイ川」という川名になっている

何故こんな妙なことになったのかは、ちょっと良くわかりません。

「カムイ川」と「──カムイニセシナイ」は無関係かもしれませんが、現在の「カムイ川」の北隣を「ルシウンナイ川」が流れていて、「ライベツ川」の上流側に「ルスナイ川」が現存することを考慮すると、なんらかの相関がありそうにも思えます。たまたま似た名前の川が複数存在していたために、川名を取り違えたという可能性もあるかもしれません。

オソウシナイ川

koyka-ta-o-so-us-nay
東の方・そこにある・河口・滝・ついている・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年9月12日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1280) 「メナ川・ポンメナ川・ナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

メナ川

mena??
上流の細い枝川
(?? = 旧地図で未確認、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦河町メナ(通称かも)の北、道道 746 号「高見西舎線」の「元浦橋」のあたりで元浦川に合流する西支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ラウクシメナ」「サツメナ」「メ子エトク」などの川が描かれていますが、いずれも東支流として描かれています。

北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「メナ川」の位置に「ルセカパ」と描かれています。このあたりに「──メナ」と呼ばれる川が存在していたとは言えそうですが、現在の「メナ川」が該当するかどうかは微妙でしょうか。


戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

また少し上りて
     レセイガハ
左りの方小川。此名義は此川にては決して浜の事を話しいたさゞる処なる故に号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.477 より引用)
山では海の産物を言挙げしないというルール?があったらしく、例えば「塩」の代わりに「灰」と言ったり「酒」のことを「水」と言ったりしたとのこと。これは「ルセカパ」あるいは「レセイガハ」とどう繋がるのかは良くわかりません。……あ、ruska で「怒る」という意味なので、ruska-pa で「怒る・かみのはずれ」とでも考えたのでしょうか。

現在は何故か「メナ川」という名前ですが、松浦武四郎は「右のかた」(=東岸)に「ラウクシメナ」という川があると記録していました。

しばし過て
     ラウクシメナ
右のかた小川。ラウクシとは沼谷地の草の根多く明が切てふかき処を云。メナは屈曲甚しき処を号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.475 より引用)
「メナは屈曲甚しき処」とありますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されていました。

mena メな ① 上流の細い枝川。② 【シズナイ】たまり水。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.59 より引用)
うーん、どの特徴も一致しないような感じが……。敢えて言うなら「上流の細い枝川」でしょうか。道南の尻別川には「目名川」という支流がありますが、この川について、山田秀三さんの旧著『北海道の川の名』(1971) には次のように記されていました。

 メナは、道南に散在している小川の名。意味はもう分らなくなっている。永田氏は、支川、細川、溜水のように、各種の訳をつけていて、処々に、「土人云う支川の意」、「メナはアネ(註 細い)と同義なりとアブタ・アイヌ云う」等の説明書きをしている。
 知里博士は、mem-nai(湧泉の池・川)の略された形ではないかと、よく話しておられた。とにかく今まで見た範囲では、どれも小流である。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.185 より引用)
いい感じにまとまっているので、丸ごと引用してみました。今回の「メナ川」はそもそもの出どころからして不明で、「サツメナ」は「細い枝川」ですが「メ子エトク」(実測切図では「メニト゚ク」)は「泉池(から湧いた川)」のようにも見えます。

「メナ川」はとりあえず mena で「上流の細い枝川」としてお茶を濁すしか無さそうですね……。

ポンメナ川

pon-mena??
小さな・上流の細い枝川
(?? = 旧地図で未確認、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年9月11日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (43) 「琴丘森岳本線料金所」

「五城目八郎潟 IC」にやってきました。ちょうど八郎潟町と五城目町の境界を越えたあたりです。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

暫定 2 車線区間のため 4 車線化の準備工事が既に為されていますが、追越車線の設定はありません。

2025年9月10日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (42) 「『井川』と言えば『さくら』」

秋田自動車道の「昭和男鹿半島 IC」を通過して北に向かいます。そう言えば昭和男鹿半島 IC の前後は暫定 2 車線のままでしたが、2 km 先に追越車線があるとのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

潟上市飯田川地区

潟上かたがみ飯田川地区」にやってきました。かつての南秋田郡飯田川町いいたがわまちです。

2025年9月9日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (41) 「準直結 Y 型」

秋田自動車道の「秋田北 IC」が近づいてきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

もうすぐ秋田北 IC ……ということで、追越車線が復活です。

2025年9月8日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (40) 「菅 江 真 澄」

「森のオアシス」こと「太平山 PA」にやってきました。トイレだけのシンプルな PA です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ただ「森のオアシス」を自称することはあり、周辺はとても緑豊かです。巨大な屏風状の看板が立っていますが……

2025年9月7日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1279) 「ツケナイ川・リクンヌシ山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ツケナイ川

tuki-oma-nay?
その小山・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ベッチャリ川の北支流で、リクンヌシ山の南を流れています。浦河町ベッチャリ(おそらく通称)の道道 746 号「高見西舎線」に「ツケナイ橋」が存在しますが、ツケナイ橋が渡っている川はベッチャリ川の筈です。

北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川が描かれているようにも見えますが、川名は見当たりません。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トキヲマナイ」という名前の川が描かれていました。

「トーオマナイ」?

改めて『北海道実測切図』を眺めてみると、リクンヌシ山の南ではなく東に「トーオマナイ」という川が描かれていることに気づきました(現在の「ナイ左川」)。

「ツケナイ」と「トーオマナイ」は別物のように思えますが、「トキヲマナイ」が「トーオマナイ」にリニューアル(?)し、最終的に現在の「ツケナイ川」というネーミングに変化した……という可能性も出てきます。

二つ目の「トキヲマナイ」

……などと思いつつ、再度『東西蝦夷山川地理取調図』を眺めてみたところ、「ナエイ」(=ナイ川)の支流にも「トキヲマナイ」と描かれていました。まるでポケットの中のビスケットのように「トキヲマナイ」が増殖を始めてしまったようです。

今更ですが、表にまとめてみましょうか。

水系東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
北海道実測切図
(1895 頃)
陸軍図 (1925 頃)国土数値情報
ベッチャリ川支流トキヲマナイ-ツケナイ澤ツケナイ川
ナイ川支流トキヲマナイトーオマナイ-ナイ左川

「なんだか良くわからない」ということが可視化されましたね(ぉぃ)。

「トキヲマヘツ」と「トキヲマナイ」

戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。何しろ「トキヲマナイ」が複数存在するので、記述も二通り存在します。まずは現在の「ツケナイ川」に相当すると考えられる「トキヲマナイ」のほうから。

またしばし山間に上り行て
      トキヲマヘツ
 左り方小川。其名義不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.475 より引用)
しれっと川名が「トキヲマ」になっていますが、意味は良くわからないとのこと。

一方で現在の「ナイ左川」に相当すると考えられる「トキヲマナイ」ですが……

 また並びて
      トキヲマナイ
 此処左りの方小川。其名義は陶器有る沢と云儀。其訳は昔し金丁ども此処に多く住ひし時に、爰にて焼ものを多くなしたり。其破れ欠が多く此沢に有るが故に号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.477 より引用)
金丁かねほりども」は当地で砂金を採取していた和人のことだと思われます。「ここにて焼ものを多くなしたり」とありますが、tuki-oma-nay で「酒杯・そこにある・川」と解したということでしょうか。

「その小山に入る川」?

一方で、永田地名解 (1891) には次のような記述がありました(現在の「ナイ左川」のように思われますが、詳細は不明です)。

Tuk oma nai   ト゚ク オマ ナイ   凸處ニアル澤
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.274 より引用)※ 原文ママ
tuk-oma-nay で「小山・そこに入る・川」と読めます。tuk の所属形は tuki とのことなので、tuki-oma-nay で「その小山・そこに入る・川」だったかもしれません。間の -oma が略されて tuki-nay となり、それが「ツケナイ川」になった……と見ることも可能でしょう。

浦河町ベッチャリの北に「ツケナイ」という名前の四等三角点(標高 176.1 m)が存在しますが、この山を tuki と呼んだのであれば納得の行くネーミングですね。峠を挟んで北向かいにも同名の「トキヲマナイ」があったというのは謎ですが、二つの「トキヲマナイ」を行き来するルートがあったのでしょうか。

ただ、このあたりの松浦武四郎の記録は聞き書き(実際に踏破していない)らしいので、インフォーマントの勘違い、あるいはミスコミュニケーションがあった可能性もあるかもしれません。

リクンヌシ山

yuk-un-nisey??
シカ・そこに入る・断崖
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)

2025年9月6日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1278) 「ヒトツ・ベッチャリ・ベッチャリトラシベツ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ヒトツ

sittoki?
その曲がり角
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦河ルスナイ(通称?)の北、元浦川が南東側に大きく張り出したカーブの内側の地名(これも通称?)です。陸軍図には「ヒトツ」と描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「シトチ」となっています。

それでは……ということで『北海道実測切図』(1895 頃) を見てみたところ、「ピトチ」という川が描かれていました。見事に両者を折衷した名前ですね……。

戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

七八丁も上るや
     シ ト (キ)
左りの方小川也。其名義は餅を喰しと云事也。訳は此川の奥に金銀山が有りて、昔しは余程繁昌なしたる由なるが、其節には此処に餅をつきあぶりし爺有りしと。依て号るとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.473 より引用)
(キ)」とありますが、これは編者注とのこと(「シトチ」は「シトキ」ではないか、とのことですね)。各種のアイヌ語辞書にも sitoki という語が採録されていますが、いずれも「首飾りについている円盤状の金属」を意味するとのこと。「餅」を意味する語は sitoki ではなく sito なので、「チ」あるいは「キ」が何を意味するのかは不明です。

一方で永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Shittoki   シットキ   岬 直譯臂
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.273 より引用)
sittok は「ひじ」ですが、地名では「(川や路の)曲がり角」を意味するとのこと。所属形は -i/-u らしいので、sittoki で「その曲がり角」だったのかもしれません。sittoksittoki の違いは、英語の a bendthe bend の違いだ……と考えれば当たらずとも遠からずかなぁ、などと想像しています。

ただ、ここでちょっと気になるのが「実測切図」の「ピトチ」です。「ヒ」が「シ」に化けるのは江戸っ子ですが、「シ」が「ヒ」に化けるのは「七月」が「ヒチガツ」に化けるようなものでしょうか。「シ」が「ヒ」に化けるのは江戸っ子に限った話では無いという説も見かけました。

永田地名解には、「ライ ペッ」(=「ライベツ川」)と「ポロ ナイ」(=「ホロトナイ川」のネタ元か?)の間に次のような川が記されていました。

Pittuk ush nai   ピット゚ㇰ ウㇱュ ナイ   防風草シヤクアル澤
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.276 より引用)
面白いことに、この川は『東西蝦夷山川地理取調図』にも『北海道実測切図』にも見当たりません。位置的には浦河町姉茶と富里の間、元浦川の南東側だと思われるので、現在の「ヒトツ」とは若干位置が異なるものの、「ピトチ」に発音が近くて現在は行方不明……ということで、念のため参考までに……。

pittok は「ハナウド」とのこと。pittok-us-nay であれば「ハナウド・多くある・川」となりますね。

ベッチャリ

pet-charo
川・その口
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)

2025年9月5日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1277) 「アネサリ川・ルスナイ・ポロイワ山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

アネサリ川

ane-sar
細い・葭原
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ケバウ川(元浦川支流)の支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ア子サラ」と描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「ケハウシ」とは合流せずに、直接「ウラカワ ヘツ」(=元浦川)に合流する川として「ア子イサラ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

上りて
     ア子サラ
西岸、其名義は細長く尖りし蘆荻と云儀なり。本名ア子イシヤリの儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.466 より引用)
ane-sar で「細い・葭原」ということですね。実はこの川が「姉茶あねちゃ」の由来だったようで、「姉茶」は当初は「姉茶理あねちゃり村」だったとのこと。

「アネサラ」が元は「アネイシヤリ」だったというのは……ちょっと納得の行く解釈が見いだせませんでした(すいません)。

ルスナイ

rus-un-nay?
獣皮・ある・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2025年9月4日木曜日

月山と鳥海山と西津軽 (39) 「森のオアシス」

秋田自動車道で北に向かいます。市内の平野部には高速道路を通す余地が無かったのか、大半の区間が「山の中」という印象です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ブロックが埋め込まれた昔ながらのセンターラインですが……

2025年9月3日水曜日

月山と鳥海山と西津軽 (38) 「熊出没注意」

秋田空港 IC の本線料金所までは暫定 2 車線でしたが、本線料金所から先は 4 車線のようです(80 km/h 制限)。
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……と思って安心していたら、あっさり(工事のために)50 km/h 制限に。路肩が完全に塞がれてしまっています。

2025年9月2日火曜日

月山と鳥海山と西津軽 (37) 「秋田空港本線料金所」

秋田市に入りました。見事にブレまくっていますが……(汗)
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暫定 2 車線区間なので、制限速度は相変わらず 70 km/h のままです。線形は悪くないので、あと 10 km/h くらいは上げて欲しいところですが。

2025年9月1日月曜日

月山と鳥海山と西津軽 (36) 「この先有料道路」

日本海東北自動車道の「松亀 IC」こと松ヶ崎亀田 IC の北に伸びる追越車線を走行中です。
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何台か追い越すことはできたものの、車列の先頭に辿り着けるかどうかは微妙な感じですね……。