2026年2月7日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1344) 「ヤミノ沢・オバウシナイ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヤミノ沢

yam-e?
栗・そこに
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取本町の南、荷菜大橋の東で沙流川に合流する南支流です。短い川ですが、この川を遡った先に「遍景野無江(ぺんけのむえ)」という三等三角点も存在します(標高 191.6 m)。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ペンケヤムエ」という名前の川が描かれていました。どうやら「ペンケヤムエ」に「遍景野無江」という字を当てたものの、間違った読み方が「三角点の記」に記載されたっぽい感じでしょうか……。


『北海道実測切図』には「ペンケムエ」の西隣に「パンケヤㇺエ」も描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ニチンケフ」という川が描かれているのみで、「ペンケヤムエ」らしき名前の川は見当たりません。


ただ、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばしを過て
     ヤ メ
西岸小川。本名はヤムのよし也。此川すじ栗多きよりして号しとかや。今訛りてヤメと号るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.673 より引用)
yam は「冷たい」という意味ですが、道南では yam ではなく nam とされます。yam には「栗」という意味もあり、道南においてはこちらが一般的ですね。

問題は「ヤムエ」あるいは「ヤㇺエ」の「エ」ですが……永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Yam e   ヤㇺ エ   栗ヲ食フ 松浦地圖「ヤメ」トアルハ急語ナリ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.229 より引用)
いやー、確かに e は「食べる」ですが、地名で「栗を食う」は無いでしょう……。たとえば yam-e-us-i で「栗・そこに・多くある・ところ」のような地名があり、やがて -us-i が略されてしまった……といった可能性を考えたくなります。

ただ -us-i というのは想像でしかないので、現時点では yam-e は「栗・そこに」と見るしかなさそうでしょうか。あるいは、更に「もしかしたら」ですが、yam-o-i で「栗・多くある・ところ」が転訛に転訛を重ねて「ヤㇺエ」と聞こえるようになった……という可能性も、無いとは言い切れないかも……。

「ヤメ」あるいは「ヤㇺエ」が「ヤミ」に転訛し、そのまま「ヤミノ沢」という川名になって現在に残る……ということになりそうです。

オバウシナイ川

o-pa-us-nay??
河口・湯気・多くある・川
(?? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取本町にある「義経神社」の西、本町の市街地を流れる川です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲハウシナイ」という名前の川が描かれています。


北海道実測切図』(1895 頃) には「平取カントリークラブ」のあたりに「モハシ」という川が描かれていますが、これは現在の「オバウシナイ川」とは別の川のようです。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また此向
     ヲハウシナイ
西岸小川也。其名義は川筋に、童子どもが、慰に焼く火の烟が見ゆると云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.673 より引用)
また永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

O pa ush nai   オ パ ウㇱュ ナイ   ガス斯多キ川
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.229 より引用)
つい最近も言及した記憶があるのですが、pa には様々な意味があり、「湯気」や「伝染病の気」を意味する場合があります。o-pa-us-nay で「河口・湯気・多くある・川」と読めそうな感じですね。

平取にはかつて油田もありましたし、「ユ」(湯)の存在を匂わせる川名も存在します。従って湯気、あるいはガスが漂う川があっても不思議では無いのですが、いつもの悪い癖で疑いの目を向けてみたくなります。

湯気だけじゃない

くどいですが、pa には様々な意味があり、「かみて」を意味したり「頭」を意味する場合もあります。「オバウシナイ川」は平取本町の市街地を流れていますが、役場や各種学校から見ると東側を流れている……とも言えます。

コタンの「東側」を kotan-pa(村のかみて)と考えたならば、o-kotan-pa-us-nay だった可能性もあるかもしれませんし、sar-pa で「葭原・かみて」だったのが pa に略されたと考えることもできるかもしれません。あるいは義経神社の北にあるハヨピラの山を pa(頭)と呼んだ……と想像するのもアリかも?

ただ残念ながら、どれも想像の域を出ないもので、既存の記録を否定できるだけの蓋然性はありません。現時点では o-pa-us-nay で「河口・湯気・多くある・川」と考えるしか無さそうです。

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