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青森駅周辺のルート変更
青森周辺の地形図が並びます。左から「大正 2 年」「昭和 23 年」「昭和 48 年」で、下には当時の写真も並んでいます。青森駅周辺の線路は過去に 2 回も大きく移設が行われていて、陸軍図でその痕跡を辿ることができます。ちょうど図幅の更新時期が異なるからか、西側が 2 代目の経路で東側が初代の経路になっていますね。現在の「青い森鉄道」の線路はかつての筒井村役場の南側を通っています。
この地図の選択も、おそらくルート変更を念頭に置いたもので、初代ルートが 1891(明治 24)年から 1926(大正 15)年まで、軽微な変更を行った 2 代目ルートが 1926(大正 15)年から 1968(昭和 43)年まで、そして 1968(昭和 43)年以降は大きく南に回り込んだ現在のルートが使用されています。
連絡船桟橋と待合所
パネルの向こうには椅子らしきものが見えますが……椅子の前に「連絡船桟橋と待合所」と題された展示を。「青森・連絡船待合所内の食堂」と題された写真には、めちゃくちゃ洋風の店内が映し出されています。「大正 14 年」とのことなので、イザベラ・バードが「魚肉を一口急いで食べ」た料理店とは別かもしれませんが……。
小湊桟橋
隣には「小湊桟橋」と題された、なんともマニアックなパネルがありました。「小湊桟橋」は青森駅から電車で 30 分ほどの距離にある東津軽郡
ただ、小湊-函館航路で使用された船舶は「米軍から貸与された
そもそもが戦車揚陸艦のため速力も無く、1908(明治 41)年に就航した初代青函連絡船「比羅夫丸」が青森-函館間を 4 時間で結んでいたのに対し、戦車揚陸艦は小湊-函館間の航行に 8 時間を要したとのこと。これは小湊から青森までの所要時間で相殺できる差では無かったということもあってか、小湊航路は 1948(昭和 23)年 2 月に僅か 1 年 7 ヶ月で運航休止となってしまいました。
ところで、このパネルの地図ですが、小湊桟橋の南東に「小湊操車場」が描かれていて、その南側に「小湊」という駅が描かれています。ところが実際の「小湊駅」は桟橋の
また、「小湊操車場」から「小湊桟橋」に向かう線路が描かれていますが、地理院地図で 1974(昭和 49)年頃の空中写真を見てみると、小湊桟橋に向かう線路は、東側の「小湊操車場」から出ているだけではなく、西側の「小湊駅」からも出ているようにも見えます。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ただ、「小湊駅」から「小湊桟橋」に向かうルートは若干不自然にカーブしているようにも見えます。陸軍図には小湊桟橋に向かう線路は描かれていませんが、何故か線路跡のような道路が描かれているようにも見えます。謎の「小湊港貨物支線」
ここで気になったのが Wikipedia の「小湊駅」の記事に「1889(明治22)年:延伸工事資材輸送のため、小湊港貨物支線の貨物駅として暫定開業」とある点です。ここからは推測ですが、まず資材輸送用の線路が小湊港と小湊駅の間に敷設され、その後東北本線が開通し、港と駅の間の線路が「小湊港貨物支線」になったと思われます。その後 1943(昭和 18)年になり「小湊航路」構想が浮上した際に、かつての「小湊港貨物支線」を再活用するのではなく、東側に「小湊操車場」を新設して、そこからグルっと回る形で港(小湊桟橋)に向かう線路を新たに設けようとした……のではないかな、と。
そもそも陸軍図を見る限り、既にかつての「小湊港貨物支線」は描かれていません(川の東側に「線路跡」と思しき道が描かれていますが)。仮設の貨物支線の橋が残っていたとも思えないので、港に向かう線路を作り直す必要があった……ということなのでしょうね。
そして 1943(昭和 18)年(以降)に「小湊桟橋」への引込線を「建設」した際に、かつての「小湊港貨物支線」の跡を復活させて「デルタ線」として再活用しようとしたようにも見えます。
展示パネルの地図には「小湊操車場」からの線路だけが描かれていて、「デルタ線」を形成していたと思しき(本来の)「小湊駅」からの線路が描かれていないのですが、これは……「小湊駅」の位置を誤認していたからなんでしょうか。
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