2025年8月11日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (182) 青森(青森市)~函館(函館市) (1878/8/11(日)~12(月))

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十二信」(初版では「第三十七信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

あいにくの警官

青森に到着したイザベラは、「洋食」を出すという料理店で「魚肉」を一口食べて、そのまま函館行きの船の波止場に急いだ……と記していました。ん、これって「遅刻する食パン少女」の原型だったのでは……(たぶん違う)。

イザベラは蒸気船に乗船したものの、海は荒れ模様で、しかも通り雨がやってきました。イザベラが出航を待っていると、警官がやってきて旅券の呈示を求められてしまいました。最悪なタイミングでの警官の登場にはイザベラも閉口したようで……

一瞬私は、彼らも旅券も海中に落ちてくれればよいのにと思った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
この節の題「あいにくの警官」は、原文では Inopportune Policemen で、「時期を失した──」や「不適当な──」と言ったニュアンスで捉えれば当たらずとも遠からずでしょうか。時岡敬子さんも高梨謙吉さんと同様に「あいにく」と訳出していました。

嵐の航海

イザベラは、乗船した汽船についての情報も詳らかに記していました。

汽船は約七〇トンの小さな古い外輪船であった。宿泊設備はなく、甲板に船室が一つあるだけだった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
ちなみに青函連絡船「八甲田丸」の総トン数は 8,313.75 トンだったとのこと。「むつ湾フェリー」の「かもしか」が 611 総トンで、「シィライン」で 2008 年まで使われていた「ほくと」が 90 総トン、羽幌沿海フェリーの高速船「さんらいなぁ2」が 122 総トンとのこと。イザベラの乗った船は、シィラインの「ほくと」や羽幌沿海フェリーの「さんらいなぁ2」に近かった……と考えないといけませんね。

船はヨットのように清潔で整頓してあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
あー、船の規模感を考えると「ヨットのように」というのは理解できるかも。そして「清潔で整頓してあった」というのは、イザベラらしからぬ「お褒めの言葉」ですが……

そしてヨットと同じように、悪天候にはまったく不適当であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
まぁ、そういうことですよね(汗)。青森と函館を結ぶ「旅客船」の「定期航路」がいつ頃からあったのかは不勉強で良く知らないのですが、1878(明治 11)年時点では、かなり小ぶりだったとは言え「旅客船」の「定期航路」が存在していた……ということになりそうですね。

船長も、機関士、船員も、すべて日本人で、英語は少しも話されなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
英語については「そりゃまぁそうだろうなぁ」と思わせますが、青森・函館航路がプロフェッショナルに運航されていたことがわかります。そう言えばイザベラは「ミツビシ」会社で切符を買ったと言ってましたが、三菱系の会社だったのでしょうか……?

私の服は全部濡れており、夜間は日中よりも寒かったが、船長は親切にも数枚の毛布を床に敷いて私をくるんでくれたので、苦しいことはなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
なんと……、なかなか良くできた船長さんじゃないですか。

船は夕方に出帆した。爽快な北風が吹いていたが、急に南東の風に変わり、十一時までには強風となった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
イザベラ(と伊藤)が乗船したのは「夜行便」という認識だったのですが、少なくとも出航は「夕方」だったのですね。急に風向きが変わったというのは不吉な感じがするのですが……。

波が高くなり、船は難航を続け、何度か波をかぶった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
「船は難航を続け」という一文が気になったのですが、どうやら原文では the steamer laboured and shipped several heavy seas, とあるあたりでしょうか。

船長は三十分毎に下りて来て、晴雨計を調べ、少しお茶を啜り、私に角砂糖を一つ出し、顔や手ぶりで悪い天候のことを語った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
船長は英語を全く話さないにもかかわらず、わざわざ定期的に説明に来るあたり、生真面目なプロフェッショナルだったのでしょうか……?

私たちは午前四時まで波にひどく揉まれたが、大雨が降ってくると、強風も一時的に治まった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
イザベラを乗せた船は、青森から函館まで 14 時間ほどで航行したらしいので、「午前 4 時」と言えば全行程の 75 % ほどの時点ということになりますね。ところでこの船について、イザベラは不思議なことを記していました。

この船は夜の航行の設備はしていないし、悪天候になりそうなときはいつも港内に退避する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332 より引用)
え……? 夜間航行の設備が無いにもかかわらず、荒れた海の中を北に向かったとはどういうこと……と思ったのですが、原文では The boat is not fit for a night passage とあるので、時岡敬子さんの「夜間航行には適さず」とした訳のほうがしっくり来るでしょうか。

更に謎なのが続く一文ですが……

このたびは一月以来津軽海峡を襲った最大の強風だといわれたから、船長は船について心配していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.332-333 より引用)
そこまで海況がヤバいと知りながら、何故出航した……?(しかも夜間に)

「おいおいそれはどうなのよ」というイザベラの暴露が続きますが、一方で船長に対しては次のようにも評価していました。

しかし不安に思いつつも、彼はあたかも英国人の船長であるかのように、多大の冷静さを見せていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
さすがは船長と言うべきなのか、肝が据わった人物だったようですね。まぁ、イザベラ(と伊藤)は米代川でも目の前で屋形船が制御不能になる様を目撃していたりするので、ある意味ではイザベラ好みの人物だったのかもしれません(何故)。

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