2025年8月10日日曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

北海道のアイヌ語地名 (1267) 「メナシュマン川・シンノシケシュマン川・利居山」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

メナシュマン川

menas-{sum-un(-pet)}?
東・{シマン川}
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
シマン川は河口(日高幌別川への合流点)から 4.5 km ほど遡ったところで二手に分かれていて、西側が本流(シマン川)で東支流が「メナシュマン川」です。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) は日高幌別川本流(ホロヘツ)とシマン川(シユンヘツ)の東西を取り違えるという大ミスをやらかしているため、位置が誤っているものの、「ヘテウコヒ」で「シイシユンヘツ」(シマン川本流)と「メナシユンヘツ」(メナシュマン川)に分かれるように描かれています。

北海道実測切図』(1895 頃) では、「シュマン」は「シュㇺシュマン」と「メナシュマン」に分かれるように描かれています。ほぼ現在通りですが、「シマン川本流」が「シュㇺシュマン」となっているのが興味深いでしょうか。これは sum(-un)-{sum-un(-pet)} で「西(・に入る)・{シマン川}」で、つまり「西に入る・西に入る川」ということに……(汗)。

ただ、戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」には次のように記されていました。

  またしばしを過て
       シイシユマン
  是本のシユンヘツと云儀なり。其源シルトルといへる山より落る。其山シユマンとメナシシユマンの間に在る山也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.420 より引用)
sum-{sum-un} ではなくて si-{sum-um} で「主たる・{シマン川}」ではないかとのこと。位置的には「西・西川」でも良さそうな気もしますが、なるほどそう解釈したか……。

閑話休題それはさておき。戊午日誌「保呂辺津誌」は「メナシュマン川」について次のように記していました。

 またしばし上りて
      二 股
 有、此処より左右に分る。然るに是よりはまたの支流なるが故に、二字を下げ志るし置に、東の方に当るを
       メナシシユマン
  是東のシユンベツと云儀なり。其処右のかた小川に成る也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.418-419 より引用)
「メナシシユマン」は「東のシユンベツと云儀なり」とあります。menas-{sum-un(-pet)} で「東・{シマン川}」、つまり「東に入る・西に入る川」ということになりそうですね。「コイポクシュメナシュンベツ川」に続き井上陽水テイスト全開ということに……。

シンノシケシュマン川

sinnoski-{sum-un(-pet)}
真ん中の・{シマン川}
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
(東支流)「メナシュマン川」の合流点から(本流)「シマン川」を 2.6 km ほど遡ったところで東から合流する支流です。シンノシケシュマン川はシマン川とメナシュマン川の間を流れている……ということになります。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には(位置が大きく間違っているものの)それらしい川が描かれていますが、川名の記入はありません。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シンノシケシュマン」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「保呂辺津誌」等にはこの川の記録は見当たらないように思えますが、更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

 シンノシケシュマン川
 シュマン川の左支流、真中のシュマン川の意。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.86 より引用)
sinnoski-{sum-un(-pet)} で「真ん中の・{シマン川}」と見て間違い無さそうですね。

利居山(りおるやま)

ri-ur?
高い・丘
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
シマン川の西にある山の頂上付近に「利居山りおるやま」という二等三角点(標高 681.4 m)が存在します。『北海道実測切図』(1895 頃) や陸軍図にはそれらしい地名(山名・川名)の存在を確認できません。

「二等三角点の記」(1913(大正 2)年)には、所在地が「大字西舎村字リーオル」と記されていますが、ri-ur で「高い・丘」である可能性があるかもしれません。

なお「点の記」は厳密には地図ではありませんが、それに類する情報ということで、「旧地図等に記載あり」としました。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

新着記事