2025年10月13日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (蝦夷に関するノート (2))

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。初版の「第三十七信」(普及版では「第三十二信」)の次には「蝦夷に関する覚書ノート」があったのですが、普及版ではバッサリとカットされています。

ただ幸いなことに、イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』(講談社)には「蝦夷に関するノート」も含まれていました。ということで、「蝦夷に関するノート」については時岡敬子さんの訳をベースに見てみることにしました。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

開拓使

イザベラは「地形的特徴」で自然地理的な内容を一通り記述した後、「開拓使」(原文では The Colonisation Department)という項以降で「蝦夷地の現状」を詳らかに記していました。

イザベラは、まず The Colonisation Department という名称について次のように記していました。

 蝦夷の公式名称は北海道で、さまざまな現実的もしくは想像上の事情により、植民省コロニゼーション・デイパートメントという政府の独立した省が管轄しているが、日本語でこの省は「開拓使カイタクシ」といい、「開拓省デイヴエロプメント・デイパートメント」と訳すべきである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
このあたりのネーミングセンスは日本らしいと言うべきか……。「開拓使」が英語では「植民省」だったというのも、改めて考えてみると意味深長に思えますね。まぁ実態は似たりよったりかもしれませんが。

この省は蝦夷の開拓に莫大な費用をかけてきており、成果のない高額な実験に消えてしまった資金もあれば、生産的な改良に実を結んでいるものもある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
これも昔からそうですよね。もっともわかり易い例が「稲作の試み」でしょうか。試行錯誤の結果、稲作の北限は遠別のあたりまで達したことになりますが、そこに辿り着くまでは無数の試行錯誤があった筈です。

イザベラによると「蝦夷は──日本の他の地方とは非常に異なっているので、通常の税金が免除され、産物特殊課税の対象となっており」とありますが、これは江戸時代からそうでしたよね(コメを産しないので「石高」は見做しだった筈)。

人口が少ないのに年間約七万二〇〇〇ポンドという高額の税収をもたらしている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
うーむ。明治政府(開拓使)は北海道に多額の投資を行った……と思っていたのですが、ちゃんと取るものは取っていたのですね……。

新しい中心地

「開拓使」に続いては「新しい中心地」という項で札幌の現状について述べていました。

 石狩川河畔にある都市札幌はこの省が建設した。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
「札幌」ですが、原文では Satsuporo となっていました。古い仮名遣いでは「さつほろ」となりそうですが、ちゃんと「ぽ」になっているのが目を引きます。

ここにおける主要かつ最有望な事業がマサチューセッツ農科大学をモデルにした農学校で、校長は日本人であるが、教授陣は優秀なアメリカ人教授を四名揃えている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
お、これは「札幌農学校」のことですよね。さすがイザベラ、お目が高い……。

本科は四年制で、生徒数は六〇名に限定されている。堅実な英語教育が行われ、通常の道路、鉄道、下水、灌漑の各工事に必要な測量と土木工学は特に重視されており、また蝦夷での農営に不可欠な農学と園芸学は徹底した教育が行われている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
北海道が農業において大きく成功したのは誰もが知るところですが、その可能性を最初に認識したのは誰だったのでしょう。石炭を代表とする「鉱業」を発展させるためには自給自足が必要だ(故に農業に注力する)というスタンスだったのかもしれませんが、気がつけば今や日本人の胃袋を満たす最重要産地です。

札幌と、函館に近い七重ななえの両方にモデル農場があり、また異国の樹木、野菜、花を育てる苗床がある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20 より引用)
札幌に農場があったのはまぁ当然として、七重にもあったんですか。ググると「七重官園」と出てきたのですが、時岡さんが Nanai を「七飯」ではなく「七」としたのはお見事ですね。

開拓使は羊と豚を導入しつつあり、純血種を輸入して馬と牛の品種改良に努めようとしている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.20-21 より引用)
あー、言われてみればこれもその通りですね。道内でジンギスカンが味わえるのも開拓使のおかげ……。

札幌には大きな製材所、絹織物工場、皮なめし工場、醸造所があり、大型の製粉所が札幌と七重の両方にある。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
農学校」がなぜ七重にも施設を有していたのか謎ですが、どうやら先ず「七重官園」を設置し、その後新都市「札幌」を建設した際に「札幌農学校」を開校した……ということみたいです。「札幌農学校」の開校は 1876(明治 9)年だそうですから、イザベラが蝦夷地を旅した僅か二年前だったことになります。

 開拓使が蝦夷を開発するために試みてきたことをひとつひとつ挙げてみてもおもしろくはなさそうである。その計画の多くは完全に水泡に帰してしまった。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
うーん、これはちょっと残念ですね。むしろ水泡に帰した計画のほうが面白いのに……(ぉぃ)。

計画の資金は、俸給を受け取り「不正所得」をせしめながら、たばこを喫んでおしゃべりをすることくらいしかしない無用の役人にまちがいなく消費されている。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
あははは(笑)。さすがイザベラ姐さん、良くわかってらっしゃる(笑)。

イザベラはまた「道路が大いに必要である」と記しています(原文では Roads are much needed.)。

函館から札幌に至る広い道路は常々大金が投じられていながら、恒常的にお粗末な状態にあり、利用するのは主に荷馬の長い列で、深く交差したわだちは九月になっても残っていた。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
この「道路」は現在のどのルートを指しているのでしょうか。現在の国道 230 号に相当する「本願寺道路」が開通したのが 1871(明治 4)年で、現在の国道 36 号に相当すると考えられる「札幌本道」が開通したのが 1873(明治 6)年とのこと。

またこの幹線道路の二五マイル[約四〇キロ] 分に当たる渡船に用いられている蒸気船は、時速五マイルが限度で、言い得て妙な現地のことばを借りれば、ボイラーがつねに「具合が悪い」。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
どうやらこの「渡船」は「森蘭航路」のことみたいですね。となるとイザベラが惨状を記したのは「札幌本道」のことですね……。

 政府は蝦夷開発という観点で計画を二件立てているとされる。ひとつは人口過剰と考えられる地域から住民を入植させる土地を用意すること、もうひとつは蝦夷に人口を移すことにより、ロシアが抱いていると思われる侵略的な目論見に対して、いわば堡塁ほうるいを築くことである。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21 より引用)
あー……。これ、全く同じロジックを後に現在の「中国東北部」で目にしたような気がします。

ロシアという大国は、イギリスにおいてと同じく、日本においてもあまり信用されていない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.21-22 より引用)
あはははは(笑)。イギリスというか、西欧においては「ロシア」という大国は、我々が思っている以上に「目の上のたんこぶ」であり、トラウマの元だということをこの数年で再確認したところですね。Russophobia という単語が辞書に載っているくらいですし。

蝦夷地(北海道)への「入植」については、「きわめて多数の士族に土地が下付された」とし、次のように続けていました。

種子と果樹はとても安い価格で入植者に販売され、本州では見られない農耕上の便宜が数多く提供されている。とはいえ、そもそも入植を嫌う気風のせいか、あるいは生産物に課される税を怖れてか、依然として北海道は人気を集めてはおらず、六〇〇万人を養える地域にもかかわらず、おもに海岸沿いにたった一二万三〇〇〇人というまばらな住民しかいない。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.22 より引用)
「入植」は、有名な「晩成社」のように「北の大地に夢を描いて」というパターンもあったと思いますが、「戊辰戦争で没落したので」というパターンも少なくなかったように思われます。

要はある種のペナルティとして甘んじて受け入れていたということなので、イザベラが「北海道は人気を集めてはおらず」というのも当然の帰結だったとも言えそうですね。

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