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2026年10月15日木曜日

北東北の謎スポット巡り (4) 「『キリ看』の繁栄と衰退」

県道 113 号「五戸六戸線」で十和田湖方面に向かっていた筈なのですが、いつの間にか県道 113 号は北北西に向きを変えてしまいました。県道 113 号は、どうやらかつての国道 4 号(の一部区間)を引き継いだように見えます。
左側の花がとてもいい感じですが、画像検索によると「ノアサガオ」ではないかとのこと。ただ国立科学博物館の「琉球の植物データベース」によると「ノアサガオ」は(国内では)「紀伊半島・伊豆諸島・四国・九州・小笠原諸島」に分布するらしいので、青森に自生していることは無さそうですが、見た目はかなりそっくりですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

五戸はには鉄道は通っていない(廃止されてしまった)ものの、国道 4 号が南北に縦断しています。かつてはもっと市街地に近いところを通っていたように見受けられますが、現在は市街地の西側を通っています。

2026年10月14日水曜日

北東北の謎スポット巡り (3) 「青森シャモロック」

五戸町石仏にやってきました。この「石仏」は「いしほとけ」と読むとのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

六戸町に向かう県道 113 号「五戸六戸線」が分岐しています。青看板には「おいらせ町」ともありますが、これは県道 113 号から分岐する県道 119 号「五戸下田停車場線」の案内のようですね。

2026年10月13日火曜日

北東北の謎スポット巡り (2) 「亀の甲羅のような」

三戸郡五戸町にやってきました。足したら八戸ですね(足すな)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

よく見たら水色の巨大なボトルのようなものが写っていたのですが、これは……


一体何なんでしょう。精米所とつながっているようにも見えますが……

いつの日か いつの日か

県道 15 号「橋向五戸線」はここから集落に入るからか、40 km/h 制限となりました。カーブもあるようですし、妥当な設定でしょうか。

2026年10月12日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (195) 函館(函館市)~蓴菜沼(亀田郡七飯町) (1878/8/17(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き普及版の「第三十五信」(初版では「第四十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

日本人の親切

イザベラは、七重から蓴菜沼に向かう峠道を北に向かっていました(現在の国道 5 号は「大沼トンネル」で小沼の西に出ますが、当時は「大沼トンネル」は未開通だったため)。

 道中の大半は、ひどく嫌な道路であった。道路の両側は深く波形に凸凹で、真ん中は土を盛り上げたもので、さらに小馬で何百という籠に土を入れて持って来て高さを増してある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.350 より引用)
「ひどく嫌な道路」というのは、原文では "most displeasing road" とある部分でしょうか。どうやらあまり状態の良くない道路だったようですね。イザベラはいずれこの道を通ることになるであろう馬車や荷馬車の心配をしながらも……

現状では、橋がたくさん壊れているから、この道路を通れるのは駄馬だけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.350 より引用)
馬は足が長いので、荷車がなければ多少の川なら越えられる……ということですね。

私は奥地へ酒を運んで行く馬の列を追い越した。北海道の人々はやたらと酒を飲み、貧しいアイヌ人も無茶苦茶に飲む。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.350 より引用)
「やたらと酒を飲む」「無茶苦茶に飲む」というのは……ちょっと気になりますね。

イザベラは、ここでちょっとしたミスをしてしまいます。馬から下りた際に馬の「鞍」が上下逆転してしまい、イザベラは鞍をもとに戻すことができなかったため、已む無く馬を引いて歩く羽目になってしまいます。

しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.350 より引用)
「鐙(あぶみ)」は乗馬の際に足を乗せる馬具とのこと。今風にいえばステップ兼フットレストと言ったところでしょうか。イザベラは通りすがりの二人組にピンチを救われたことになるのですが、当然のことながら、その心証はすこぶる良いものだったようです。

このように礼儀正しく心のやさしい人々に対し、誰でもきっと好感をもつにちがいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.350 より引用)
俗な表現で言えば「たすけあい」の精神ですが、気候や住環境が「ゆるくない」(楽ではない)場所では、より「たすけあい」の精神が具現化されることが多いような印象があります。お礼を述べたら「なんもなんも~」と笑って返してくれそうな感じ……?

森《噴火湾》にて

普及版の「第三十五信」は複数のロケーションで書かれたものの集合体となっています。ここからは「森《噴火湾》にて 月曜日」とあるので、1878/8/19(月) に森(森町)で記された内容……ということになりますね。日曜日はお休みだったということでしょうか。

 蓴菜沼(ジンサイノマ)でも、夕方暗くなると天国ではなくなる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.351 より引用)
原文では「蓴菜沼(じゅんさいぬま)」は "Ginsainoma" とありました。それはそうと「天国ではなくなる」とは穏やかでは無いのですが……

あまり蚊が多いので、蚊に追い立てられるように早くベッドについた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.351 より引用)
……あ。これは確かに悪夢ですね。「地獄」という表現でもいいかもしれません。

この旅行で伊藤はたいそう上機嫌であった。私と同じように彼もまた北海道の自由な空気が好きなのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.351 より引用)
あ~。これは共感しか無いですね。ひたすら広くて開放感に溢れていて、しかも本州以南と比べると冷涼で空気もカラっとしているというのは、それだけでご機嫌になれるというものです。イザベラは「彼はまたずっと礼儀正しく愛想よくなっている」とも記していますが、伊藤にとっては「久しぶりの北海道」だったと考えられるので、然もありなん……ですね。

ただ伊藤がご機嫌だった理由は「久しぶりの北海道」だけでは無かったようで……

そして政庁の証文をたいそう誇りにして、それを手に持ちながら大いばりで旅館や駅亭に入って行く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.351 より引用)
伊藤……。あんたって人は……。

イザベラは函館から蓴菜沼に向かう際に、伊藤も後に残して一人だけ「抜け駆け」して自分で宿の手配をしたことを(おそらく)ドヤ顔で語っていましたが、一方で……

私は彼が手筈を整えてくれたときが一番うまくゆくのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.351 より引用)
ツンデレですか……?(汗)

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2026年10月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1447) 「日高幌内川・シュルク沢川・マッカウス沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

日高幌内川(ひだかほろないがわ)

poro-nay
大きな・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字幌内、厚幌ダムの 3 km ほど手前(海側)で南東から厚真川に合流する支流です。同じような名前の川があったような気がしたのですが、浦河町を流れるのは「日高幌別(・)川」でした。なお厚真町は日高ではなく胆振ですが、これは見なかったことに……。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「カヒウフト」(=頗美宇川の河口)よりも手前(海側)に「ホロナイ」という川が描かれていました。このあたりの「東西蝦夷──」は間違いが多そうな感じですね。


『北海道実測切図』(1895 頃) にはほぼ現在と同じ位置に「ホロナイ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

扨またしばし川まゝ上り、此辺両岸ともに山岸也。
     ホロナイ
右の方小川。此辺に来るや川岸崩平多し。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.476 より引用)
「ホロナイ」が poro-nay で「大きな・川」なのは自明だからか、特に説明はありません。「小川」とありますが、「相応の川」でなければ「小川」という扱いなので、それほど不審では無いと判断します。

『北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 幌内沢 (ほろないざわ) 厚真川に出る直前チルク川に合する左支流の沢。アイヌ語で大事な川の意。鮭鱒が多く入ったからか。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.541 より引用)
poro を「魚が入る」故に「大切な川」とするのは更科さんの流儀ですね。比較的小さな poro や大きな pon を解釈する上での仮説の一つではありますが、広範に支持されているかと言われると疑問が残るでしょうか。

シュルク沢川

surku
トリカブトの根
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年10月10日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1446) 「ポップナイ沢・メナノ沢川・オコッコ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポップナイ沢

pop-nay?
水の湧き上がる音・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地理院地図によると、頗美宇(はびう)川の最上流部に「北海道ロイヤルゴルフ場」がある……ように描かれていますが、Google マップにはそれらしいスポットが無く、入口も閉鎖されているように見えます。

航空写真で見ても、ゴルフコースにしては荒れた感じがあるので、既に営業を終了して久しいのでしょうか(ググると 2011 年に破産申し立てとの情報が見つかりました)。

「ポップナイ沢」は、頗美宇川の東支流で、かつてのゴルフコースの北を流れています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たらず、『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川が描かれているものの、川名の記入はありません。

ところが、意外なことに戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

 また並びて
      ポツプナイ
 同じく右の方小川。此処水が地中より涌出よし也、依て号るとかや。ホツフは涌立と云儀のよし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.473 より引用)
『地名アイヌ語小辞典』(1956) には pop は「擬声音,ポッポッと沸騰する音」や「水の湧き上る音」とあり、『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) には pop は自動詞で「煮立つ」を意味するとあります。松浦武四郎も「ホツフは涌立と云儀のよし」と書いているので、認識に相違はなさそうです。

pop-nay で「煮立つ・川」ということになるでしょうか。温泉のようにも思えますが、地形図には温泉マークは見当たりません。ただ pop を「水の湧き上る音」と考えれば pop-nay は「水の湧き上がる音・川」となり、必ずしも温泉である必然性は無くなるのかもしれません。

もしかしたら元は po-pinnay で「小さな・谷川」あたりで、それが転訛して「ポップナイ」となり、それらしいストーリーが後付で用意された……という可能性もあるかもしれません。

ただ『北海道地名誌』(1975) には次のように記されているので……

 ホップナイ沢 頗美宇川上流左小沢。普通石油沢といっている。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.541 より引用)
何かがあった……としても不思議はない名前ではありますね。ただ「石油会社が所有する土地」を流れていたというオチの可能性もゼロではないので……。

メナノ沢川

mena?
上流の細い枝川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年10月9日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1445) 「ヤチセ沢川・パンケ沢川・ペンケ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ヤチセ沢川

yachi(-un)-chis??
湿地(・にある)・丸い岩山
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字富里(かつてのトニカ)から道道 1065 号「夕張厚真線」を 3.2 km ほど北に向かったところで北西から頗美宇(はびう)川に合流する支流です。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヤツチセ」と「ヘンケヤツチセ」という川が描かれていました。


『北海道実測切図』(1895 頃) には「ヤッチセ」という川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

 また少し上に
      ヤツンチセ
 左りの方小川。是昔し土人等始て木の皮屋を立し処なりとかや。また並びて
      ヘンケヤツンチセ
 同じく左りの岸なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.473 より引用)
この「ヤツン」は、萱野さんの辞書にある「ヤㇻ」なのかもしれません。

ヤㇻ【yar】
 木の皮:狩小屋を建てる時,屋根とか囲いに使えるぐらいの広さや長さのあるものをいう.
(萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂 p.450 より引用)
この yar は chise の前にあるので、「r は,ch の前でも,それに引かれて t になる」(知里真志保『アイヌ語入門』(1956) p.172)で yat に変化したと考えられます。yat-chise で「木の皮・小屋」と見て良さそうですが、いくつか引っかかる点もあります。

まず、松浦武四郎は「ヤツンチセ」と「ヘンケヤツンチセ」があると記録しています。これはどちらも川の名前だと考えられますが、地図を見た限りでは「ヤチセ沢川」と同規模の川は見当たりません。

記録された川名?は「ヤツンチセ」と「ヘンケヤツンチセ」なので、「ヤツンチセ」のほうが規模の大きな川だったと推測できますが、それにしても「ヤツンチセ」と「ヘンケヤツンチセ」の規模が違いすぎるのが気になるところです。

「ヤッチセ」ではなく「ヤツンチセ」

もう一つの疑問が、松浦武四郎は(『東西蝦夷山川地理取調図』を除けば)軒並み「ヤツンチセ」と記録している点です。「木の皮の小屋」という解釈は「ヤッチセ」であれば成り立つものの、「ヤツンチセ」を「木の皮の小屋」と考えるのは難しそうにも思えます。

「木の皮の小屋」以外の解釈が成り立たないか……と少し考えてみたのですが、yachi(-un)-chis で「湿地(・にある)・丸い岩山」とは考えられないでしょうか。yachi は和語の「谷地」からの移入語彙である可能性もありそうですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) 以外でも『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) と『萱野茂のアイヌ語辞典』(2010) に存在を確認できます。

地形図を見てみると、「ヤチセ沢川」の河口付近には水田が広がっているので、かつては「ヤチ」だった可能性がありそうです。そして「ヤチセ沢川」の東には似た大きさの山が二つ並んでいるんですよね。

もっともこの場合、今度はなぜ「ハンケヤツンチセ」ではなく「ヤツンチセ」なのかという疑問が出てくるのですが、「ヤツンチセ」がいつしか山の名前ではなく川の名前に転じてしまった……とかでしょうか。

パンケ沢川

panke-us-or-ot-tu??
川下側・湾・の中・にある・岬(尾根)
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年10月8日木曜日

北東北の謎スポット巡り (1) 「八戸市内」

いつものことですが、突然新シリーズがスタートです。「八戸臨海鉄道」の踏切の先の交叉点を右折して青森県道 19 号「八戸百石線」に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

県道 19 号を北に向かいます。この県道は八戸の海側のメインストリートと言う位置づけなのか、片側 2 車線のよく整備された道です。

2026年10月7日水曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(下船編)

「下部車両甲板」こと「3 甲板」に戻ってきました。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「シルバークイーン」は 7:30 に八戸着の予定ですが、だいたい定刻っぽい感じでしょうか。外気温は 21 ℃と出ていますが、本州に戻ってきてしまったので、この先どうなりますやら……。

2026年10月6日火曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(シンドラー編)

船室内にはデスクがあり、INFORMATION などが置かれています。「シルバークィーン」のロゴも実にいい感じなのですが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

デスクの前の壁には「明朝入港時に、お部屋の鍵の回収のため係員がお伺いする場合がございます」と貼られていました。

2026年10月5日月曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(翌朝編)

「シルバークィーン」の部屋の話題をもう少しだけ続けます。この寝間着のデザインが好きすぎるので今回はトップで再登場です。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ツインベッドの間にはビジネスホテルでおなじみのコンソールスイッチが置かれています。これはアラームもついている筈ですが……

2026年10月4日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1444) 「紋別沢・頗美宇川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

紋別沢(もんべつ──?)

mo-pet
静かな・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型多数)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字宇隆と字東和の間の分水嶺の頂上付近に「紋別沢」という名前の三等三角点が存在します(標高 158.1 m)。

三角点の読みについては「点の記」を参照すれば良いのですが、この三角点は「成果不良点」のため「点の記」を確認することができません。そのため、読み方は大きく間違ってないと思いますが「?」をつけています。

『北海道実測切図』(1895 頃) には、現在の「東和川」の位置に「モーペッ」と描かれていました。小川ローザでしょうか(違います)。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

扨チケツヘより凡十丁も来りけるやいよいよ道わるくなり、過て
     フシコモウベツ
川巾五六間、あさし。此処昔しの川跡なりと。其川の口も末もなし。其名義古き遅流川のよし。また十丁も同じ木立原を行て
     アシリモウベツ
小川弐間計りの巾にて遅流。是モウヘツの新き川也と。其上に小さき水溜り有よし也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.467-468 より引用)
似て非なる「フシコモウベツ」と「アシリモウベツ」があったとのこと。両者の間は「十丁」とあるので、1 km ほど離れていた……ということになります。

『北海道実測切図』には「ウクル」と「モーペッ」の間に「ヒウノップ」という川を描いていて、しかもこの川は河口が無いように描かれているので、この川が松浦武四郎が記録した「フシコモウベツ」だった可能性があるかもしれません。

「モウベツ」の意味については「其名義古き遅流川のよし」とある通りで、mo-pet で「静かな・川」と見ていいかと思います。

頗美宇川(はびうかわ)

pa-pi-us??
頭(出崎)・引っ張る・いつもする
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年10月3日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1443) 「オバウス沢川・姨失山・ケイナイ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オバウス沢川

o-pa-us-nay?
河口・川下・つけている・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字宇隆の東で「ウクル川」に合流する支流です。川の北には「姨失」四等三角点があり(標高 157.7 m)、川の南東には「姨失山」一等三角点がありますが(標高 252.0 m)、現在はどちらも「成果不良点」のため「点の記」を確認することができません。

『北海道実測切図』(1895 頃) には「オパウシナイ」という名前の川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

 また少し上り
      ヲハユシナイ
 左りの方小川。本名はヲハウシチエホツナイと云よし。是魚を取り腸を切、此処の小屋に干置し処、煤にて黒く成りしと云儀なるとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.467 より引用)
『地名アイヌ語小辞典』(1956) には「消炭」を意味する pas という語が立項されていますが、この「消炭」というのは「燃えかす」なのだそうです。魚なのか、それとも魚の腸なのかは不明ですが、小屋(の中)に干していたところ煤で黒くなった……というのは pas からの連想なのでしょうね。いかにも「取ってつけた感」のする地名解です。

素直に解釈すると o-pa-us-nay で「河口・川下・つけている・川」となりますが、「オバウス沢川」の下流部は比較的開けた地形で、川は谷の北西端(ウクル川の川下側)を通っています。このことを指して「河口が川下にある川」と呼んだのではないでしょうか。

姨失山(うばうし──)

o-pa-us-nay?
河口・川下・つけている・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年10月2日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1442) 「知決辺川・近悦府川・西仁達幌川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

知決辺川(ちけっぺがわ)

{chi-kep}-pe??
{かじられる}・もの
(?? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真川の北支流で、厚真の市街地(役場のあるあたり)の西を流れています。国土数値情報では何故か「近悦府川」の支流という扱いになっていますが、逆だとする資料もあるので、国土数値情報は間違いなのではと推測しています。

『北海道実測切図』(1895 頃) でも「厚真川」に合流するように描かれていました。


もっとも戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」でも妙なことになっていて、「アツマ」の西岸小川に「チカユフ」があると記録していて、その先に「ニタホロ」があり、更にその先に「チケツヘ」があるとしています。ややこしい……というか、現在の川名と比較検討すると「めちゃくちゃ」に思えるというのが正直なところです。

とりあえず「チケツヘ」のあたりを引用すると……

またシイナイを越て行こと十二三丁、惣て此辺平山にて其処を
     チケツヘ
と云小川有。其名義は山にて榀を剥処と云よし。チは沢山の事也。ケツは榀の事、剝はへと((はぐところ))云よし也。此の沢昔しより榀皮よく有る故号とかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.465 より引用)
「榀」は「シナノキ」のことで、樹皮から取れる繊維は「オヒョウ(ニレ)」の代用品とも言えるものです(ただ手触りの良さなどはオヒョウのほうが上)。「シナノキ」は nipes と呼ばれるのが一般的ですが、厳密にはこれは「シナノキの樹皮」を意味する語で、「シナノキ」そのものは nipes-ni と呼ばれるようです。

知里さんの『植物編』(1976) には nipes のほかに kuperkep や kukerkep などの語も採録されていますが、どちらかと言えば道東(メナシクル)の語彙だったように見受けられます。千歳や穂別では nipes が使われていたようにもあるので、「ケツは榀の事」というのは疑問です。ke で「削る」「掻く」を意味するので、chi-ke で「我ら・削る」と考えた可能性がありそうですが……。

「チケッペ」を素直に解釈すると {chi-kep}-pe で「{かじられる}・もの」となりそうな気がします。松浦武四郎の記録と『北海道実測切図』の間の乖離が酷いことになっていて、現在の「知決辺川」が松浦武四郎の記録した「チケツヘ」であるかどうかも疑わしく思えます。

「かじられるもの」という解釈からは、現在の「知決辺川」ではなく下流側の崖を指しているようにも思えます。松浦武四郎も「惣て此辺平山にて」と記していますが、この「平山」は一般的な「平らな山」ではなく pira(崖)を指していた可能性があるので、本来の「チケツヘ」は厚真川沿いの崖を指していたのではないか……と考えたくなります。

近悦府川(ちかえっぷがわ)

{chi-kaye}-p??
{破れる}・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、独自説、類型あり)

2026年10月1日木曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(お部屋編の続き)

特等室「104 号室」にはツインベッド、テーブルとチェア(2 脚)のセット、そして扇風機(ぉぃ)の他にデスクもあります。
このアングルだと、部屋の片隅にちょこんと置かれているようにも見えます……というか、実際にそのとおりですね。デスクの上にノート PC を広げるスペースは無さそうにも思えますが、テーブルがあるのでそっちを使えばいいという説も。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

デスクには INFORMATION(船内案内)と電磁サーバー(湯沸かし器)などが置かれています。よく見るとデスクの右側(窓側)のテレビの下に茶櫃があったので、おそらく茶碗とティーバッグが入っていたのだと思います(見落とし)。

2026年9月30日水曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(お部屋編)

特等室「104」にやってきました。特等室は全部で 5 部屋あり、いずれも左舷側に位置しています(右舷側はオートレストランと乗船員室)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

キーシリンダーに鍵を差し込んで解錠するタイプのドアです。このあたりは 20 年選手らしいですね。

2026年9月29日火曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(A 甲板編)

「シルバークィーン」の 6 甲板(航海船橋甲板、A 甲板)には 2 等室、特等室、オートレストランの他に……
右舷側にはフェリーでは定番の「ゲームルーム」もあります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ゲームルーム

ゲームルームの手前にはソファーと丸テーブルが置かれていました。すぐ横にオートレストランがあるので飲食スペースという訳でも無さそうですが……

2026年9月28日月曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(船内ウロウロ編)

少し船内をウロウロしてみることにしました。ところで、これって創英角ポップ体ですよね……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

5 甲板(船橋甲板、B 甲板)の右側の通路を船首方向に歩きます。船の年齢に言及するのもたぶん失礼な話ですが、「シルバークィーン」は 1998 年に就航した船なので、この時点で 20 年選手だったことになります。ただ、そこまでの古さは感じないですよね?

2026年9月27日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1441) 「ラフナイ川・振内・ウクル川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ラフナイ川

不明
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字上厚真の北で厚真川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たらず、戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」にもそれらしい川の記録は見当たりません。

『北海道実測切図』(1895 頃) には「ラウ子ナイ」と描かれています。素直に解釈すれば rawne-nay で「深い・川」なのですが……。


地名において「深い」を意味する語は rawne と ooho(oho とも)に大別されるのですが、ooho は「水かさが深い」で rawne は「深く切り立った谷」と言ったニュアンスだとされます。

実際には ooho が「深く切り立った谷」を意味するケースもあるように見受けられますが、rawne で「水かさが深い」を意味するケースはちょっと記憶にありません。

今回の「ラフナイ川」は厚真川の西の湿地帯を流れる川で、水源は安平町との境界の近くの丘陵地帯です。見事なまでに「深い」要素が皆無に思えるのですが、湿地帯を流れる川なので「底なし沼」のような状態で、足を踏み入れるとズブズブぬかるむが故に「深い」と呼んだ……といった可能性は(一応)あるでしょうか……?

「ラウ子ナイ」ではなかったとしたら

あるいは「ラウ子ナイ」ではなく「ラフナイ」が正解だったとしたら……。rap-ne-i で「両翼・のような・もの」とか、あるいは rap-nay で「両翼・川」という可能性も考えられるか……とも思ったのですが、それらしい地形が見当たらないようにも思えます。敢えて言うなら上流部の「三ケ月沼」ですが……。

現地の地形からそれらしい地名を探るという反則技を試してみるならば、恐ろしく流れの遅い川?だったと考えられそうなので、ray-ne-i で「死んだ・ような・もの(川)」という可能性はないかなぁ……と思ったりもします。

現在確認できる記録としては『北海道実測切図』の「ラウ子ナイ」のみですが、現地の地形を考えると rawne-nay とは考えづらいというのが正直なところです。そのため現時点では「不明」とすべきかと思います。

振内(ふりない)

hure-nay
赤い・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型多数)

2026年9月26日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1440) 「当麻内川・野安部川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

当麻内川(とうまないがわ)

to-oma-nay?
沼・そこに入る・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「軽舞川」の北支流で、厚真町字富野や字豊沢のあたりを流れています。国土数値情報では何故かカタカナで「トウマナイ川」と表記されています。

『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川が描かれているものの、残念ながら川名が見当たりません。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」にもそれらしい川名が見当たりません。

ただ陸軍図には、現在の字豊沢のあたりに「當麻内」と描かれていました。ということで『角川日本地名大辞典』(1987) の「豊沢」の項を見てみると……

もとは厚真村の一部,ウクル・カルマイ・当麻内・カルマイ原野・軽舞・ノヤスベ・野安部(のやすべ)・トーマナイ・トウマナイなど。かつて当麻内と称した地域。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1003 より引用)
「当麻内」が「豊沢」に化けたと見て良さそうな感じですね。「昭和32年~現在の行政地名」とあるので、1957(昭和 32)年に「豊沢」に変更されてしまったということでしょうか。

当麻内はアイヌ語のトーオマナイに由来するといい,「沼がそこにある沢」の意。
(『角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)』角川書店 p.1003 より引用)
to-oma-nay で「沼・そこにある・川」と見て良さそうですね。知里さんの流儀では「沼・そこに入る・川」とも言えるかもしれません。

現在も(下流側の)字富野に「龍神沼」がありますが、陸軍図を見ると「當麻内」の南(「軽舞」との間)に巨大な湿地が広がっていました。本来の「当麻内川」はこの湿地から流れ出る川の名前で、字豊沢のあたりを流れる川は支流(傍流)扱いだった可能性もありそうですね。

野安部川(のやすべがわ?)

noya-us-pet
ヨモギ・多くある・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年9月25日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1439) 「周文・軽舞」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

周文(しゅうぶん)

supun
ウグイ
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真町字上厚真(かつて北海道鉄道金山線の「上厚真(かみあづま)駅」のあったところです)には厚真川を横断する道道 287 号「厚真浜厚真停車場線」の「上厚真(かみあつま)大橋」があり、厚真川の東には町立上厚真小学校があります。

小学校の裏山に「周文」という名前の三等三角点が存在するのですが(標高 21.0 m)、フェリーターミナルのある苫小牧東港「周文埠頭」のほうが有名かもしれませんね。

上厚真小学校から周文埠頭までは 6 km ほど離れています(もっと離れている印象があったのですが、意外と近い?)。『北海道実測切図』(1895 頃) にはちょうど中間地点あたり(「厚真川台」四等三角点のあるあたり)に「ペンケシュプン」と「パンケシュプン」という川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

また同じく蘆荻岸を上ること凡十七八丁も上りて
     シユブン
小川也。巾二三間、遅流にしてふかし。此上もまた谷地に成水わろしと。依て桃花魚より外には何も不レ入る故に此名有るなり。シユフンは桃花魚の事也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.458 より引用)
「凡十七八丁」は約 2 km 弱なので、松浦武四郎が記録した「シュブン」が「パンケシュブン」だったか「ペンケシュブン」だったかは……ちょっとなんとも言えません(どちらも誤差の範囲に見える)。

ただ「シュブン」が supun で「ウグイ」だったと言うのは、とりあえず肯定的に見ていいのではないかと思われます。

軽舞(かるまい)

oika-ru-oma-i??
越える・道・そこにある・ところ
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年9月24日木曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(B 甲板編)

5 甲板(またの名を船橋甲板、B 甲板)にやってきました。無骨なデザインの廊下を船首方向に歩いていくと……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

前方に「客室 →」と書かれた張り紙が見えてきました(ピクセル等倍の残念画質)。

2026年9月23日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (194) 函館(函館市)~蓴菜沼(亀田郡七飯町) (1878/8/17(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き普及版の「第三十五信」(初版では「第四十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

「先頭馬」(続)

イザベラはリチャード・ユースデン領事が手配した「駄馬」について、「美しい馬」だが「怠け者」と記していました。

伊藤は荷物とともに後についてくるようにして、私は一人だけの騎馬旅行を楽しんだ。自分で好きな速度で進めるわけであったが、ゆっくりした並足と、前に言った重い足の早駆けとの間しか選べなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.348 より引用)
あ、伊藤が合流している……? いつの間に……?

 私は鹿の皮を積んだ馬の列に会ったり、酒や商品を積んだ馬の列に追いついたりしたが、どちらの場合も、交際好きな私の馬のために苦労した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.349 より引用)
馬が「交際好き」というのも微笑ましい話ですが、原文では my sociably inclined animal となっていました。確かに「交際好き」っぽいですね(笑)。

「二つの村」とは

イザベラは「一人だけの騎馬旅行」の間も、ちゃっかりと「社会見学」を行っていたようで……

二つの村で私が見て面白いと思ったものは、小さな商店にあった黄燐マッチ、木綿の雨傘、編上げ靴、刷毛、柱時計、石板、鉛筆、枠に入った版画、石油(ケロシン)ランプ、赤色や緑色の毛布であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.349 より引用)
「二つの村」というのはどこだろう……と思ったのですが、どうやら函館と七重村(現在の七飯町)の間のように思われるので、(亀田村)桔梗と大中山村でしょうか……?

そして突然伊藤が出てきたのが謎だったのですが、これはどうやら時系列の問題だったっぽいです。イザベラは、8/17(土) のゴール地点となった「蓴菜沼」について記した後、8/17(土) の行程について語りだした……ということだったように思われます。もしかしたら伊藤は徒歩での移動だったために、結果としてイザベラの一人旅(のよう)になった……ということかも?

七重村、あるいはその近辺のどこかの村でイザベラが見かけて「面白い」と思ったものについてですが……

毛布だけは、まぎれもなく英国製品の再生毛織であったが、他は全部が外国製品の模造で、多少はうまくつくられていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.349 より引用)
あははは(笑)。当時の日本には「知的財産」という考え方が存在しなかったのかもしれませんね。

なお「石油(ケロシン)ランプ」については注記があり、「木造家屋で灯油を使用するのは、大火の新しい原因となっている」と記しています。「1879 年のクリスマスの前日に大火があり 1 万 1 千人が焼け出された」ともありますが、函館市の Web ページ「函館の大火史(説明)」によると 1879/12/6 に大火があったとのこと。

12/6 は「クリスマスの前日」では無いですが、日本で太陽暦が導入されたのは 1873 年なので太陰暦と太陽暦のズレという話でも無さそうです。原文には just before Christmas 1879 とあるだけなので、「クリスマスの直前」としたほうが良かったかもしれませんね。

「七重」と「七飯」

イザベラは、どうやら現在の国道 5 号に相当するルートを北上したように思われますが……

 山道を一五マイル登って行くと、七飯という整然とした洋風の村がりっぱな農作物に囲まれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.349 より引用)
重箱の隅をほじくり返すと(やめなさい)、1879 年に「七(・)重村」と「飯(・)田村」が合併した際に「七(・)飯(・)村」が誕生しています。イザベラが当地を旅したのは合併の一年前なので、ここは「七飯(・)」ではなく「七重(・)」とするのが正解です。

我ながら粗探しだよなぁ……と思いつつ時岡敬子さんの訳を確認してみたところ……

一五マイル[二四キロ]山道を上ると、すばらしい農作物のまんなかにこぎれいな洋風の村、七重があります。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.51 より引用)
うわっ、ちゃんと「七重(・)」になってる! すげえ! これは御本人がしっかり調べたうえで訳出されているのか、それとも編集者が優秀なのかはわからないですが、プロの仕事ですね……!

なおイザベラは for fifteen miles としていますが、函館駅から七飯(・)町役場までは「函館新道」を通ったとしても 16.2 km しか無いみたいです。イザベラにしては珍しいうっかりミスか、あるいはそもそも地図が間違っていたのか……?

ここは政庁が新風土馴化その他の農事試験をしているところの一つである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.349 より引用)
「新風土馴化」というのも面白い表現ですが、時岡敬子さんは「環境順応」と訳していました。原文では making acclimatisation でしょうか。

楽しい「騎馬旅行」

イザベラは七重(現在の七飯)の村を通り過ぎ、藤城から峠下のあたりにやってきたようです。

ここを過ぎると、だいぶ山中となり、険しい丘の頂上からは、紺色の海に島のように浮かぶ函館岬のすばらしい眺めが望まれる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.349 より引用)
「函館岬」は「函館山」のことだと思われますが、原文には Hakodaté Head とあるのがそれでしょうか。

さらに高い丘の頂上から北を望むと、密林に囲まれた三つの美しい湖の上に、火山の裸で赤い山頂が聳えている。これらは赤色に染められた断崖であり、裸岩の露出である。緑一面の本土にいたとき私が見たいと憧れていたものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.349 より引用)
これは駒ヶ岳のことですね。現在の国道 5 号は「大沼トンネル」で「小沼」の南に出て、小沼の西を通って「蓴菜沼」に出ていますが、イザベラが旅した時には「大沼トンネル」は未開通で、幹線道路は「大沼トンネル」の手前から北(北北西)に向かっていました。「曲坂」四等三角点の北の峠からは蓴菜沼・小沼・大沼と駒ヶ岳が良く見えた筈です。

香りの漂う草木がしっとり露に濡れている沈黙の中を湖水の辺まで下りて行くのは、心地よいものであった。そこにあるのは、あの単調でしかも騒々しい灰色の村ではなくて、美しい環境に囲まれた一軒だけの変わった造りの家である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.350 より引用)
イザベラは伊藤を置いてけぼりにして一人で馬上の旅を楽しんでいたので、いつも以上に上機嫌だったと想像されるのですが、イザベラが目にした景色もそれに応えていたかのように美しいものだったようですね。

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2026年9月22日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (193) 蓴菜沼(亀田郡七飯町) (1878/8/17(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き普及版の「第三十五信」(初版では「第四十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

「蓴菜沼(じゅんさいぬま)」は「大沼公園」のある大沼・小沼の西に位置する小さな沼ですが、沼の東側を現在の国道 5 号に相当する幹線道路が通っているため、道路交通の要衝となっていたのかもしれません。

なお現在の国道 5 号は「大沼トンネル」で小沼の西側に出て、そこから蓴菜沼に向かっていますが、かつてはトンネルの手前からそのまま北上して、標高 300 m ほどの峠を越えて直接蓴菜沼に出ていたようです。

この旧道は未舗装路ですが、廃道ということでは無さそうな感じです。蓴菜沼側の入口をストリートビューで眺めてみたところ……


あ。

役所の証文

イザベラの「奥地紀行」は事実上「英国政府公認」だったと思しき節があり、有形無形の支援を受けていたことを明記しています。函館でも英国領事のリチャード・ユースデンの働きかけで「知事から証文を貰うことができた」と記しています。

これは一種の公文書あるいは証明書で、どこでも馬や人夫を一里六銭の公定値段で手に入れる権利を保証するものであり、役人の巡回出張に使用するため維持してある家で優先的に宿泊する権利があり、どこでも役人から援助を受けることができるというものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.347 より引用)
これは……とても使えるブツをゲットしたようですね。「役人の巡回出張に使用するため維持してある家」というのが気になりましたが、これは「駅逓」とは別のものなんでしょうか……? まさか「グリーンピア大沼」だったりして

リチャード・ユースデンがイザベラのために行った「働きかけ」は相当なものだったようで……

さらに政庁は、噴火湾の対岸に電報を打って、私が必要とする限り政庁の人力車を使用させること、そして私に便宜をはかるために汽船を待たしておくように頼んでくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.347 より引用)
……。イザベラが平取に向かう直前には「小シーボルト」が探検に出かけていますが、これも実はイザベラの旅行の前の「地ならし」だった可能性があります。しかもイザベラは呑気なことに「小シーボルトの探検は失敗する!」と断言していたりもするのですが。

そして英国領事によるこの働きかけです。これは「便宜を図る」という以上のものがあったのでは……とすら思えてきました。要は「大英帝国の名誉にかけて『奥地紀行』は成功させなければならない」くらいの気合が入っていたような気もしますし、イザベラはそのことを知っていながら『日本奥地紀行』では敢えて記さなかったのか、それとも全く能天気に最後までそのことに気づかなかったのか……?

この書類があれば、旅券がなくてもすむだろうし、私の旅行はとても容易になるであろう。これを手に入れてくれたことに対し、領事に深く感謝する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.347 より引用)
これは確かにその通りですよね。まぁイザベラはここまでの旅で意味もなく旅券を検(あらた)められることもあったので、まあ偶には良い思いもさせてあげないと……とも思いますが。

「先頭馬」

イザベラは「蓴菜沼」の宿屋についての情報を記していました。この辺は「地球の歩き方」みたいですね。「米と茶を輸入しなければならぬ」とありますが、まだ函館の周辺での米作には成功していなかったのか、それとも絶対量が不足していたのか……?

 ここでは米と茶を輸入しなければならぬので、宿屋は一旦二十銭の均一料金である。それには、食べても食べなくとも三食が含まれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.347 より引用)
また、人や荷物を運搬する馬について、ちょっと面白いことを記していました。

蹄は非常に浅く、先端が細くなって上に曲がったり、その他の奇妙な形をしているが、凸凹道をらくらくと進み、「先頭馬」と呼ばれる先導の馬の後について一時間に四マイル以上の速度で競走するように急ぐ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.348 より引用)
どこかで聞いたことがあるような話ですが、「動物のお医者さん」の「犬ぞりレース」でしょうか。

もし先頭馬がいないと、先頭に立って乗ろうとしても別の馬が前にいない限り馬は決して動こうとしない。そのようなときには、馬は乗る人の意志にお構いなしに先頭馬の動きについて行くのだから、まったくお手あげとなる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.348 より引用)
これはまあ、そういう訓練をしたから……なんでしょうけど、本州などではどうだったのでしょう。それほど北海道に特化した話でも無さそうな気もするのですが……。

馬子というものはなく、先頭馬に乗った者が自分の好きな速度で進めばよい。先頭馬が手に入れば、他に人がいなくても進むことができる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.348 より引用)
あ、なるほど。これは便利かもしれないですね。なおイザベラは「馬は安くて豊富にいる」とした上で「ひどく虐待されている」とも記しています。

今まで背中に傷のない馬を見たことがないが、それは荷物を積んだ馬を駆け足で進ませるので、お粗末な荷鞍が背骨をごしごし擦るからできるのである。たいていの馬は貧弱な様子をしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.348 より引用)
うーん。北の大地は人に対しても楽ではない環境ですが、馬にとってもなかなか厳しい環境だったのですね。

 私が馬を手に入れるのは少し難しかったので、領事は開拓使の駄馬を一頭送ってよこした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.348 より引用)
「少し難しかった」としていますが、そう言えば通訳兼アシスタントの伊藤はどうしたのでしょう。イザベラは蓴菜沼まで「伊藤も他の誰もお伴させずに」と記していますが、最終的には(当然ながら)伊藤を帯同して平取に向かっています。つまりどこかで合流している筈なのですが……。

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2026年9月21日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (192) 蓴菜沼(亀田郡七飯町) (1878/8/17(土))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは普及版の「第三十五信」(初版では「第四十信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

美しい夕日

「第三十五信」は「北海道 蓴菜沼(小沼)にて 八月十七日」とありますが、他に森(森町)・勇払(苫小牧市?)・富川(日高町)で記した部分もあります。「奥地紀行」そのものの内容が大半なので、「普及版」でカットされた部分はごく僅かにとどまっています。

 私はふたたび荒野に入った。私はさびしい湖の上にほとんど突き出して造られた家の二階から外に身体を出して坐っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.345 より引用)
どうやらこの「さびしい湖」が「蓴菜(じゅんさい)沼」のことでしょうか。原文では「蓴菜沼」は Ginsainoma と記されていますが、『北海道実測切図』(1895 頃) にも「蓴菜沼」Junsai-numa とあり、当時からそう呼ばれていたことが確認できます。

多くの男たちが近くの山腹から、槍で倒したばかりの熊の死骸を引き摺り下ろしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.345 より引用)
槍で倒した……とありますが、道南はかなり前から「和人地」だったので、これはアイヌではなく和人のことでしょうね。

森の茂った山々の上に、駒ガ岳(コモノタキ)火山の鋭くぎざぎざの、ほとんど裸の山頂が夕日に赤く映えている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.345 より引用)
「駒ガ(・)岳」には「コモノタキ」とルビが振られていますが、原文では Komono-taki となっていました。

イザベラは「美しい夕日」というサブタイトルをつけていますが、妙に上機嫌だったのには理由があって……

この夕方の少なからぬ魅力は、私が函館から一八マイルの旅を、伊藤も他の誰もお伴させずに、馬に乗ってやって来て、まったく私一人でいることである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.345-346 より引用)
うわっ、通訳を帯同せずに旅をするとは大胆なことをしますね……。どうやってコミュニケーションを図ったのかが気になるところですが……

私は馬の荷物を下ろし、日本語の名詞をなんとかうまく用いて丁寧に頼んだので、良い部屋と夕食を確保することができた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
ふむ、イザベラはさすがにある程度の日本語の語彙を身につけていたということでしょうか。欧米人は往々にして自分たちの語学力を高く見積もりがちなのは注意したいところですが……

イザベラの夕食は「米飯と卵と黒豆」で、イザベラの馬には「擂りつぶした大豆」が与えられたとのこと。イザベラによるとこの馬は「開拓使のもの」で「蹉跌をつけて堂々としている」ので相応の待遇を受ける資格があるとのこと。

イザベラが上機嫌なのは(通訳兼アシスタントの)伊藤を帯同せずに旅をしているだけではなく……

好天気と、カラリとした空気、北海道ののびのびとした雰囲気のために元気が出てきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
わかります。めちゃくちゃ良くわかります。じめじめした空気から逃れられるだけで満足感がグッと上がりますが、イザベラは梅雨時から真夏にかけての東北を騎乗、あるいは歩きで移動してきたので、北海道の空気はとてつもなく心地よかったに違いありません。

「辺境の地」

当時の平均的な「日本人」が北海道に対して抱いていたイメージについて、イザベラは次のように記しています。

北海道は日本の本土の人々にとって、荒涼たる土地、未知の国、人跡稀なる地方と考えられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
これはまぁその通りですよね。「荒涼たる土地」と「人跡稀なる地方」は今でも普通に存在していますし……。

その関係は、英国人がチッペラリ(アイルランド南部の州)を、スコットランド人がバラ(スコットランド西北の島)を、ニューヨークの人が「はるか南部のテキサス」を考える場合と同じである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
「チッペラリ」は Tipperary とのこと。Wikipedia には「ティペラリー県」の記事がありますが、人口は 16 万人弱だそうですから、日本における都道府県よりは「郡」に近いかもしれませんね(実際に County ですし)。

謎の断り書き

『日本奥地紀行』の第三十五信には文頭に注があり、次のように記されていました。

*原注──この日記体の手紙は、数カ所を削除したが、書いたままのものを掲げたいと思う。読者は、原住民族と、人のほとんど訪れていない地方に対する興味心とから、細部にわたって細かくいろいろと記述してあるものを読み通していただけるものと信ずる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.345 より引用)
何を今更……と思ったのですが、どうやらここからの記述についての断り書きのような気がしてきました。

人々があらゆる荒唐無稽な話をここのことだと言っても、ばれる心配はあまりない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
あー、なんかわかる気がします。ちょっとニュアンスは異なりますが、今は中国がそういうポジションにあるような気もします(ありもしないことを言っても「中国だったらありそう」と信じる人がいますよね)。

その中で小馬の悪事とアイヌ人の話は、主な話題となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
これは何のことか良くわからなかったのですが……

人間と犬との奇怪な行為の話もある(アイヌ人が犬を先祖とするという伝説は、アイヌという語が、イヌ=犬と、アイノコ=混血児と似ているからだ、とチェンバレンは推定している)。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
「アイヌは犬の子孫だ」という話は差別的に語られることもありますが、実際にそういう伝説がアイヌの間で語り継がれている(と聞いている)ので、チェンバレン(「アイヌ語地名の命名法」の Basil Hall Chamberlain のことですよね)の推定は的外れな感じもします。

熊、狼、鮭、彩飾に関する冒険談もある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
この辺は「そういうユーカラもある」ということなんでしょうか。

誰でも北海道に来た者は、何か奇妙なことに出会う。一回か二回は、馬と一緒に倒れたり、馬から落ちたりする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346 より引用)
これは……??? 人が馬から落ちるのはごくごく普通にあることだと思うのですが、アイヌは馬とも気持ちを通わせることができて落馬させるように仕向けることができる……みたいな話なんでしょうか?

この奥地について知られていること

イザベラは「この奥地について知られていること」を次のように記していました。

蔓草が縺れ合っている森林におおわれていること、また斧を使わなければ通れないような笹藪が一面に生えていて、その上に同じく通行不能の沼沢地があり、そこを源として数百の川が流れ、魚が豊富に住んでいることだけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.346-347 より引用)
これは全くそのとおりで、今でも(少なくなったとは言え)似たような場所がありますよね。イザベラはまた「赤く輝く火山が各地で見られる」と記していますが、まぁ平取に行く経路上だけでも駒ヶ岳と有珠山があるので、そういう印象を抱いたとしても不思議はないかもしれません(北海道が本州などと比べて格段に火山が多い、ということは無いかと)。

またイザベラは次のようにも記していました。

森林はアイヌ人の猟場で、彼らはその性質を除いてあらゆる点でまったくの野蛮人である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.347 より引用)
原文でも savages とあるので「野蛮人」というのは誤訳では無いのですが、「その性質を除いて」と留保していて「彼らは温和で人に危害を加えない」と記しています。「野蛮人」という言葉のチョイスがちょっと微妙な感じで、どちらかと言えば「自給自足」のようなニュアンスを伝えたかったのかな、と思ったりもします。

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2026年9月20日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1438) 「厚真」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

厚真(あつま)

at-tomam
もう一方の・湿地
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
厚真は苫小牧と鵡川の間の町で、市街地はやや内陸側に存在します。苫小牧東港フェリーターミナルの所在地で、JR 日高本線には「浜厚真駅」が存在しますが、どちらも海沿いなので町の中心部からは少し離れています。

「アツマは集まる」「モモンガが泳ぐ」

昔からある海沿いの地名なので記録も豊富にあります。秦檍麿の『東蝦夷地名考』(1808) には次のように記されていました。

 一 アツマベツ
  アツマは集る語なり。
(秦檍麿『東蝦夷地名考』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.22 より引用)
……。いきなり画期的な解から始まってしまいましたが、上原熊次郎の『蝦夷地名考幷里程記』(1824) には……

アヅマ               小休所 川舟渡
  夷語アツマなり。則、もゝがの游くといふ事。扨、アツとはもゝがと申獣の事。マーとは游く、又は焼る等と申事にて、昔時もゝが此川を游き渡りしを夷人見しより地名になすと云ふ。
(上原熊次郎『蝦夷地名考幷里程記』草風館『アイヌ語地名資料集成』p.52 より引用)
「モモンガが泳ぐ」なのだとか。実は『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも次のようにあるんですよね。

at, -i/-u あッ ①オヒョーニレの樹皮。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.9 より引用)
まぁ、地名に出てくる at は「アツシ」(アットゥシ)の原材料となる「オヒョウ(ニレ)」の樹皮を指すことが多いのですが、『小辞典』をよーく見ると……

②ひも。③モモンガー。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.9 より引用)
実は最後の最後に「モモンガー」とあります。日本には「ニホンモモンガ」という固有種がいるようですが、これは青森以南に生息していて、北海道に生息するモモンガは「タイリクモモンガ」の亜種の「エゾモモンガ」とのこと。

「モモンガちゃう? 知らんけど」

戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

其名義元は名なき川なりしが、和語もゝかと申獣、是夷言にてアツといへり。其獣爰を游ぎ渡りしより号とかや。マは夷語渡ると云事也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.455 より引用)
ここでも「ももんが」説のようです。なお『地名アイヌ語小辞典』には ma は「①《完》 泳ぐ。②《不完》 炙る」とあります。at-ma で「ももんが・泳ぐ」ということになる……のでしょうか。

ただ、ちょっと気になる記述が続いていました。

今此名義を同所乙名どもも尋ねたれども不レ解しと。サル場所なるヒラカ村の惣乙名バフラ其由を申伝えたり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.455 より引用)
ほー……。要するに松浦武四郎は「『モモンガ』らしいで。知らんけど」と聞かされていた……ということでしょうか。

また、松浦武四郎は「エゾモモンガ」のことを知らなかったようで……

もゝか(モヽカ(原注))如何なる獣か、是恐らくは東奥の方言なるべきが、当節蝦夷地に一疋も見当らざる獣なり。余案ずるに、羚羊のこと(カモシカ(原注))か、むかし蝦夷地にも羚羊が有りしと申由を云伝ふ也。また案ずるに猪の類か。江戸にて猪肉をもゝんじと云けるも、少しは因み有る哉と覚ふ。何れ土人も和語と申伝ふは、津軽南部の言語なるべしと思ふ。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.455 より引用)

「おひょう(ニレ)のあるところ」

この「モモンガちゃう? 知らんけど」という風潮に一石を投じたのが永田方正で……

Atomap,=at oma-p   アトマㇷ゚   楡アル處 「アッ」ハ「アットシ」ヲ織ル樹ノ名「オマ」ハ有ル、「プ」ハ處ノ義「プ」ノ發音殆ント無聲ナリ故ニ和人ハ「アヅマ」ト訛ルナリ
舊説「アツマ」ハ鼯鼠(ムサヽビ)ガ川ヲ游ギシ處ノ義又「アッ」ハ木鼠ノ義ナドアルハ誤リナリ今厚眞(アツマ)村ト稱ス
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.208 より引用)
永田地名解 (1891) が饒舌になったときは珍説奇説を展開することが多い印象があるのでちょっと身構えてしまいますが、これは穏当な感じがします。

『北海道駅名の起源』(1973) にも次のようにありました。

  浜厚真(はまあつま)
所在地 (胆振国)勇払郡厚真町
開 駅 大正 2 年10月 1 日(苫小牧軽便鉄道)
起 源 もと「厚真(あつま)」といったが、この地が海岸にあるため、大正14年11月15日「浜」をつけた。「厚真」はアイヌ語の「アトマプ」すなわち「アツ・オマ・プ」(オヒョウのある所)から出たものである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.88-89 より引用)
永田地名解を追認した感じですね。

「湿地に葦の繁茂するところ」

更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されていました。

語源のアヅマは町勢要覧によればアツトマで「湿地に葦の繁茂するところの意」だという。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.74 より引用)
また新しい解釈が飛び出しましたが……

またえ(、)ぞ(、)も(、)も(、)ん(、)が(、)(むささび)をアツマというので、この動物が厚真川を泳いだから名づけられたともいうが、いずれもうたがわしい。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.74 より引用)
更科さんは「湿地に葦の繁茂するところ」と「エゾモモンガが泳いだ」のどちらも「疑わしい」として、「おひょうの木のあるところ」が語源らしい……としていました。

「もう一方の湿地」

確かに「エゾモモンガが泳いだ」は無いだろう……と思うのですが、一方で「おひょう(の樹皮)のあるところ」というのも「話がうますぎやしないか」と疑いたくなります。他人のことをとやかく言えた義理ではないのですが、「アツマ」という地名に対して「ありそうな解釈」をひねり出してきただけなんじゃないかと……。

語頭の at は「おひょう(ニレ)の樹皮」「ひも」「モモンガ」だけではなく、ar(もう一方の)が音韻変化した可能性もあります。「r は,t の前では,それに引かれて t になる」という法則があるのですが、ar が at に化けるには toma か choma あたりが後ろに来る必要がでてきます。……あ。

toma(エゾエンゴサクの球根)ではなく tomam(湿地)だとすれば……! 「もう一方の湿地」があるならば「湿地」もあるはずですが、かつては勇払川から安平川にかけて巨大な湿地が広がっていました。

ということで「アツマ」は at-tomam で「もう一方の・湿地」だったのでは……と考えてみたのですが、ふと『地名アイヌ語小辞典』を眺めていたところ……

[イブリ国ユウフツ郡アズマムラ(厚真村)の原名の Atma は従来 At-oma-p「オヒョーニレ・ある・所」から出たとされているが,本当は At-tomam「川向うの・やち」の訛であるらしい。]
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.148 より引用)
は……!? 既に知里さんが同じ結論に達していたとは……。まぁショッキングではありますが、完全に同じ結論に辿り着いたというのは光栄ではありますね。

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2026年9月19日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1437) 「ポロクラ川・ポンタラ川・鬼武士」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポロクラ川

poro-kuma??
大きな・横山
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
むかわ町二宮(かつての仁立内)の北、入鹿別川とニタチナイ川の間を流れる川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には一応川として描かれていますが、川名の記入がありません。


困ったことに、陸軍図でも川名が確認できませんでした(これは良くある話ですが)。なお川沿いには「幌倉」という三角点がありますが、こちらは「ほろくら」と読ませるとのこと。

裏付けとなる情報は無いものの、アイヌ語に由来する可能性がありそうな感じがします。赤平にも「幌倉川」という川があり、永田地名解 (1891) は poro-kura で「仕掛け弓を置く大川」としていますが、山田秀三さんはこれを ku-rar で「弓を・置く」としたのか……と想定していました(環境に優しいコピペ)。

むかわ町の「幌倉」あるいは「ポロクラ川」も ku(仕掛け弓)に関連する地名・川名である可能性がありますが、占冠村の「クラウンナイ川」と同様に別の可能性も考えたくなります。

「ポロクラ川」の上流部はいくつにも枝分かれしていて、まるで熊手のようにも見えるのですが、枝分かれした支流は「美別台」四等三角点(標高 99.1 m)が存在する山にぶつかっています。この山が(例によって)細長い「横山」のように見えるのですね。

面白いことに「ポロクラ川」は「美別台」三角点のある「横山」を突き破っているようにも見えます(旧・穂別町の「カイクマ川」ほど極端では無いですが……)。「ポロクラ」は poro-kuma で「大きな・横山」だったのでは無いでしょうか(-us-i あたりが略されたのかな、と)。

ポンタラ川

pon-kuma??
小さな・横山
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)

2026年9月18日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1436) 「入鹿別川・ニタチナイ川・オロベニタチナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

入鹿別川(いりしかべつがわ)

iruska-pet?
腹を立てる・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
勇払郡むかわ町と勇払郡厚真町の境界付近を流れる川です(川自体はむかわ町側にあるように見えます)。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「イルシカヘツ」と描かれています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「ユルシカペッ」と描かれているように見えますが……。


戊午日誌 (1859-1863) 「安都摩日誌」には次のように記されていました。

扨此処のうしろ浜の方に
     ユルシカベツ
川巾五六間、此川口第二番の川にして、浜まゝ是は東に入る。其名義は怒る義なり。ユルシカは立腹の様なる訳也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.458 より引用)
川の名前の由来は「激おこ」だとあります。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Irushka pet   イルシュカ ペッ   怒(イカリ)川 沙原ノ長川ニテ行人怒ルヲ以テ名クト云
(永田方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.208 より引用)
「沙原の長川にて」とありますが、『北海道実測切図』によると鉄道(現在の JR 日高本線)の南、海に出る直前で流れる向きを変えて、海ではなく厚真川に合流するように描かれています。砂浜の海岸では良くある現象ですが、砂浜の間を 5 km ほど流れるというのは、確かに「沙原の長川」と呼ぶに相応しいものです。

もっとも「旅行者が激おこだから」というのは「珍妙な地名解」と言えなくも無いのですが、更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には更にブラッシュアップした(?)ストーリーが展開されていました。

 入鹿別(いるしかべつ)
 厚真町と鵡川町の界になっている川の名で、この川口は昔ときどき波のはこぶ砂のためにふさがり、水があふれるとその力でやぶれて流れ出るという川であったが、昔ある時急に水が砂をやぶって流れ出して、通行人をおぼれさせてしまったため、村の長老達が川の神に対して抗議したところ、腹をたてた川の神はここから海に流れ出ることをやめて、海沿いに浜厚真の方に流れて行って、海にそそぐようになったので、イルシカ(立腹)したペッ(川)と名付けたという。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.75 より引用)
句点が出てきたところで切ろうと思ったのですが、ついに最後まで読点しか出てこなかったので已む無く丸ごと引用します(汗)。

入鹿別川はときどき砂で河口が塞がることがあって、水が溜まった時点で砂を破って海に注ぐ川だったとのこと(ありそうな話ですね)。ある時溢れた水で通行人が溺れてしまったことがあり、それに対して「川の神」に抗議したところ、入鹿別川の神様が逆ギレして流路を 90 度近く変えてしまった……というストーリーなんですが、

個人的にはこの「説話」はものすごくしっくり来るものです(少なくとも「通行人が激おこ」よりは)。『地名アイヌ語小辞典』(1956) には ruska で「怒る」を意味するとありますが、『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると iruska で「腹を立てる」とあり、これは i-ruska で「ものごと・を腹立たしく思う」と分解できるとのこと。

iruska-pet で「腹を立てる・川」と見て良さそうですね。ポイントとしては「他人が川に腹を立てる」のでなく「川自らが腹を立てる」というところでしょうか。

ニタチナイ川

nitat-nay
湿地・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年9月17日木曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(車輌甲板編)

「シルバークィーン」の車輌甲板に向かいます。何の変哲もない写真ですが、いい感じに明かりが灯っていて、なんかとてもいい写真に思えてきました(語彙力)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「シルバークィーン」の車輌甲板へはスターンランプから入ります。

2026年9月16日水曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(デジタルサイネージ編)

乗船手続きを終えたので、航送車待機場に *車で* 戻ります。
「シルバーフェリー」は、夜は 21:15 発と 23:59 発の 2 便があるので、うっかり待機場を間違えないようにデジタルサイネージ(と言うとなんか格好いい)が設置されています。まぁ 21:15 発の便は既に出ちゃっているので、もう間違えることは無いのですが……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ところで、このデジタルサイネージですが……

2026年9月15日火曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(乗船手続き編)

乗船手続きのために、苫小牧西港フェリーターミナル 1F の「川崎近海汽船」の窓口に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「シルバーフェリー」の愛称で航路を展開している「川崎近海汽船」ですが、なかなか……いや、かなり味のある書体ですね。名のある方の揮毫なんでしょうか?

2026年9月14日月曜日

川崎近海汽船「シルバークィーン」特等室 乗船記(苫小牧 FT 編)

車検証を片手に意気揚々と乗船手続きにやってきたものの、なんと乗船手続きの開始は 30 分後の 21:45 とのこと。……仕方がないのでいったん車に戻ることにしました。
車は航送車待機場に停めてあるので、ボーディングブリッジを歩いて戻るのですが……なんか、真っ暗ですね。ただよく見ると左側に「照明は、自動点灯です」と書いてあります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8~9 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

歩き出したら何か答が出るだろう……なんて、俺もあてにはしてなかったのですが(ぉぃ)、ちゃんと明るくなりました。

2026年9月13日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1435) 「トマム・ホロカトマム川・杜満射岳」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

トマム

tomam?
泥炭地
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
占冠村東部の地名で、道東自動車道に「トマム IC」があるほか、JR 石勝線にも「トマム駅」が存在するのですが、実はこの「トマム駅」、開業当初は「石勝高原駅」だったんですよね(1981/10/1 から 1987/1/31 まで)。なお「石勝高原駅」から「トマム駅」に改称した際に、お隣の「トマム信号場」が弾き出されるような形で「ホロカ信号場」に改称していたそうです。

『北海道実測切図』(1895 頃) には、鵡川の占冠村中央から上流部(占冠駅からトマム駅の間に相当)に「トマム」と描かれています。謎なのが現在の「ホロカ信号場」のあたりに「Tomamur(?)u」と描かれいてるように見えるところで、7 文字目が本当に「r」なのか確証が持てないところも、更に謎を深めています。

トマムは湿地、沼沢地

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

アイヌ語トマム(tomam)は湿地,沼沢地の意。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.374 より引用)
tomam で「湿地」あるいは「泥炭地」と見て良いでしょう……と思ったのですが、ちょっと嫌な予感がしてきました。順番が逆になってしまいましたが、『北海道の地名』には「トマム」について次のように記載があります。

トマム
 明治の地図には,今の占冠村中央市街の処でソーウシペッとトマム川が分かれているように書いた。つまりトマムを鵡川源流の名としたのであったが,トマムは占冠市街から本流を7,8キロ上った辺の地名だったようである。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.374 より引用)

湿地はどこにあったか

「占冠市街から本流を7,8キロ上った辺」としていますが、次のように続きがありました。

その辺では南からポン(小さい)トマム,北からホロカ(後戻りする)・トマムという小流が鵡川本流に注いでいて,そこがトマムという土地だったらしい。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.374 より引用)
「ポントマム」や「ホロカトマム」が流れているのは、占冠村中央から 20 km ほど遡ったあたりなので、とても「7, 8キロ」では済まないほど離れています。果たしてこのあたりに本当に湿地があったのか……という疑問を抱いてしまいますが、『占冠村史』には「事実開拓時代には湿地もあつた」(※ 原文ママ)と記されています。

ただ『北海道実測切図』や『陸軍図』を見ると、現在の占冠駅のあたりを「トマム川」が流れていたことになっています。もちろん 2~30 km ほど遡れば「ポントマム」や「ホロカトマム」があるのですが、そこまで離れたところにある「泥炭地」が占冠村中央を流れる川の名前の元となった……というのが、ちょっと信じられないのです。

「尾根の間に入る鵡川」

更に言えば、「トマム川」という川名は「シム川」と同じく「──ム川」なのですね。まぁ普通に考えれば「トマム・ム川」となるのですが、それ以外の可能性もゼロではないかな……と。

「トマム川」は「双珠別川」と対になるネーミングとして存在していました(『北海道実測切図』などによる)。従って「トマム川」という名前は、現在の占冠村中央のあたりでの「特徴」からそう呼ばれるようになった……と考えたくなります。

「トマム」が tomam ではないという(大胆な)仮定をするならば、tu-oma-{mu-ka-p} で「尾根・そこに入る・{鵡川}」というのはどうでしょうか。

『北海道実測切図』では、現在の「占冠 PA」(千歳方面)のあたりで「トマム」の支流として「ムカワ」(=シム川)が描かれるという妙なことになっていますが、この「ムカワ」(=シム川)の北の尾根はかなり長いものです。

また「パンケシュル」の東の山も、そこそこ長い「尾根」と呼べるかもしれません。従って tu-oma-{mu-ka-p} よりも tu-utur-oma-{mu-ka-p} で「尾根・間・そこに入る・{鵡川}」と見たほうが、より実際の地形に相応しいネーミングとなるかもしれません。

「トゥトゥロマムカㇷ゚」の -utur が抜け落ちたなら「トマムカㇷ゚」となり、更に -ka-p が落ちたとすれば「トマム」になる……と言えばなるんですよね。ご都合主義が極まっているかもしれませんが、大河川・鵡川の最上流部の名前としては、どこにあったか良くわからない「泥炭地」よりもこれくらいのネーミングのほうが妥当に思えてきます。

ホロカトマム川

horka-{tomam}
U ターンする・{トマム(川)}
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)