2026年5月15日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1382) 「ポンモワァップ川・シュウター川・新田押」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポンモワァップ川

pon-mo-ut-ta-p??
小さな・小さな・あばら・そこにある・もの
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「幌去橋」から仁世宇川沿いを 1.8 km ほど遡ったところに「仁世宇園」というヤマメ料理が味わえる釣り堀があるのですが、「仁世宇園」のすぐ近くで「ポンモワァップ川」が西から仁世宇川に合流しています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ポンモウッタㇷ゚」と「ポロモウッタㇷ゚」という川が描かれていました。


小さなエイが流れ着いた?

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      ホンモウツタ
      ホロモウツタ
 同じく左の方小川二ツ有。モウツタとは小さき鱏の事を云よし也。昔し海嘯の時此処え来り死し有りしによつて号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.66 より引用)※ 原文ママ
頭註には「鱏」は「えい かすべ」とあります。uttap は「エイ」を意味し、海嘯つなみでここまでエイが流されてきた……というストーリーのようです。

新冠に「スタップ川」という川があるのですが、この川も huttap で「カスベ(エイ)」ではないか……と言われています。この「カスベ(エイ)」は「横臥した山」の喩えではないかとも考えられるのですが、「ポンモワァップ川」のあたりにそれらしい山があるかと言うと……微妙ですね。

仁世宇川と国道 237 号の間の山が平べったい丘のようになっているようにも思えますが、「ポンモワァップ川」とは少し離れているようにも思えます。

「ポンモワァップ」は「ポンモウッタㇷ゚」の誤記だと考えられます。「ポンモウッタㇷ゚」は pon-mo-uttap で「小さな・小さな・エイ」ということになるでしょうか。「小さな」が形を変えて続くのも奇妙な感じがありますが、隣に poro- があるので不問にして良さそうでしょうか。

ただ、日高町富川から「仁世宇園」までは国道 237 号で 40 km ほど離れているので、流石にここまで津波が来たというのは俄には信じがたいというのが正直なところです。「エイが流されてきたので」は話を盛り過ぎた……と考えたいです。

小さな・あばら(川)?

では「モウツタ」とは何か……ということになるのですが、mo は「小さな」あるいは「静かな」で、ut は「あばら」を意味します(「ウトナイ湖」が有名)。ta は「打つ」「断つ」「切る」あるいは「掘る」「汲む」と言った意味の他に「そこ」あるいは「そこにある」という意味もあるので、mo-ut-ta-p だと「小さな・あばら・そこにある・もの」と解釈できる……?

「あばら」は、地名(地形)においては「本川に直角に近い角度で合流する」ことを形容しているとも言われます。「ポンモワァップ川」は仁世宇川に直角に近い角度で合流しているので、「あばら」と呼ぶのに相応しいと言えるかもしれません。

ここで改めて問題にしたいのが、何故 mo- を冠しているのか……という点です。moutmoutta と言った語があれば話は早いのですが、手元の資料を見た限りではそれらしい語は見当たらないように思えます。

敢えて mo- を冠しているのは、si- を冠した地名が近くにあるから……と考えたくなります。そう思って地図を眺めてみたところ、6~7 km ほど北に「シュウター川」があることに気づきました。これが si-ut-ta で「大きな・あばら・そこにある」だったとすれば……?

気になる点があるとすれば ut-ta という用例を見かけた記憶が無いというところです。sut-ta で「根もと・に(ある)」という例は見つかったのですが……。

シュウター川

si-ut-ta??
大きな・あばら・そこにある
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年5月14日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (54) 「実は大都会?」

天塩町に入ります。カントリーサインは牛が潮干狩りをする?シュールなイラストで、そのちょい後ろ(圧縮されてまるで横にあるみたいに見えますが)には「てしお温泉夕映」と「鏡沼海浜公園」、そして「川口遺跡風景林」の宣伝?が見えます。
「鏡沼海浜公園」と「川口遺跡風景林」の存在は今知ったのですが(汗)、特に「川口遺跡風景林」はちょっと気になります。機会があったら立ち寄ってみたいです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

沿岸バスの「留萌十字街」行きワンステップバスがやってきました。長距離路線ということもあり、車内にラジオが流れている(こともある?)のだとか。

2026年5月13日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (53) 「たらこ色のアレ」

国道 232 号は「家具の秋山」の前で左に曲がるのですが、ここから 0.4 km ほどは「碁盤の目」の向き(方角)が変わります。どうやら国鉄羽幌線の進行方向に合わせたっぽいですね。
かなりどうでもいい話をすると、シャッターに政治家のポスターが貼られていたので、Photoshop で真っ白に見えるように加工を行いました。ポスターそのものを無かったことにするのは楽勝なんですが、真っ白にするのは意外と手間がかかるんですよね……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 232 号を北北東に向かいます。左に「セイコーマート遠別店」が見えますが、この看板も現在はかなり低い位置に移設?されています。

2026年5月12日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (52) 「消えたアンテナ」

歌越別橋」で「オタコシベツ川」を渡って遠別町に入ります。カントリーサインは橋を渡ってすぐのところにありますが、河川改修が行われたため、町村境と川の位置は厳密には一致していません。
このカントリーサインは稲とメロンをデザインしたものでしょうか。「日本最北の水田」が有名ですが、メロンも生産されている……?

なお「歌越別橋」には旧橋もあるのですが、現在は通行禁止のようです。


【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

いかにも「ひと雨降りました」という感じの路面の上には「自動速度取締路線」の看板が。いわゆる「固定式オービス」の存在を事前に警告するものです。

2026年5月11日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (51) 「☆ロマン街道」

初山別村は(通称?)金駒内の登坂車線を北に向かいます。1 km ほどの距離で 50 m ほど駆け上がることになるので、5 % 程度の上り勾配ということになりそうですね。
この登坂車線は 2015 年 8 月の時点で「建設中」だったので、実際に走るのはこの時が初めてだったでしょうか。苫前郡内の国道 232 号はアップダウンが多いので、もっと登坂車線が増えると嬉しいかもしれません。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

登坂車線は左カーブの先で終了です。

2026年5月10日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1381) 「仁世宇」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

仁世宇(にせう)

不明
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「幌去橋」のすぐ近くで沙流川に合流する「仁世宇川」という北支流があり、この川を遡ったところが平取町仁世宇です。「仁世宇園」のヤマメ料理は絶品なんですよね……!

北海道実測切図』(1895 頃) には「ニセウ川」と描かれています。『北海道実測切図』では「──川」と描かれる川は珍しいのですが、「ニセウ川」はそんな珍しい川の一つ、ということになりますね。


ニセウ? ムセウ?

ところが、不思議なことに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「セウ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」にも次のように記されていました。

また少し上り
     ム セ ウ
左りの方相応の川也。其名義は本名ムヱセウにして、此川鱒多きが故に、ホロサルより皆取りに来て、其処にて皆煮て先喰ふよりして号しとかや。此川すじ両岸高山有て椴山也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.65-66 より引用)
どうやらこの川の名前は「ムセウ」で、しかも本来は「ムヱセウ」だったとのこと。

「ムセウ」じゃない「ニセウ」だ!

「ムセウ」がどこかのタイミングで「ニセウ」に化けたと見られるのですが、やはりと言うべきか、永田地名解 (1891) には……

Niseu   ニセウ   檞實ドングリ 此邊檞實最モ多シ故ニ名ク土人拾收シテ食料ニ充ツ○松浦高橋二氏ノ地圖「ムセウ」ニ作ル土人モ亦「ムセウ」ト云フモノアリ並ニ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.233 より引用)
「『ムセウ』じゃない『ニセウ』だ!」と書かれていました。似たような流れをこれまで幾度も見てきましたが、永田方正が既存の説をバッサリ切り捨てて「新解釈」を打ち出してきた場合、後にそれは無かったことにされる……というケースが少なからずありました。

「珍妙な地名解」とは

ただ「仁世宇」の場合、永田地名解の「新解釈」がそのまま定着して現在に至ります。何故そうなったのかは、松浦武四郎が記録した内容が珍妙にして意味不明なものだったから……と考えたくなります。

沙流川とその支流の情報は戊午日誌「左留日誌」に記されているのですが、これまで見てきた中ではこんな珍妙な解がありました。

川名戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」地名解
アシバキ川アシバケ聾者がここに来て死んだから
パンケチエブ沢ハンケチユツフ源義経がここで舟を作ったから
オノマップ川アノセ河口部が畳を敷いたようだから
トウナイ川トナイ金持ちのお爺さんが疱瘡で子を亡くして泣いていたから
シュッタ川シユツタ老婆が此処に来て死んだから

これらの解は「地名説話」とも言うべきもので、概して荒唐無稽なものが多いのですが、更に 2~3 通りに大別できそうな気がします。ざっくり箇条書きにすると
  • 駄洒落(似た語彙からストーリーを「創造」する)
  • 故事(実際にそういった「事件」があった)
  • その他(不明)
と言ったところでしょうか。直近の 5 例では「アシバケ」(=アシバキ川)と「ハンケチユツフ」(=パンケチエブ沢)がおそらく「駄洒落」パターンでしょう。「アノセ」(=オノマップ川)も「駄洒落」の可能性が高そうに思えます。

「トナイ」(=トウナイ川)と「シユツタ」(=シュッタ川)は、単なる「駄洒落」と考えるには強引すぎるようにも思えるので、ベースとなる出来事(事件)が別に存在していた可能性を考えたくなります。

いずれにしても、これらの「珍妙な解」(=地名説話)は「地名解」とするには少々難があると思っています。特に「駄洒落」系の解は言葉遊びに過ぎず、「元ネタ」が存在することになるので、その「元ネタ」までたどり着くことで初めて「地名解」と言える……と考えたいところです。

「鱒を煮て食う」とは

本題に戻りますが、「仁世宇」について、松浦武四郎は「『ムセウ』は『ムヱセウ』で『ここで鱒を煮て食う』から」と記しています。「ムセウ」あるいは「ムエセウ」をどう解釈すると「鱒を煮て食う」になるのかですが、suwe あるいは suke で「煮る」を意味するとのこと。

つまり「ムセウ」あるいは「ムエセウ」は、mu-suwe あるいは mu-e-suwe だったと見られますが、ここで問題となるのが mu の解釈です。地名においては mu は「塞がる」あるいは「塞がっている」と解釈することが多く、「鱒を煮て食う」とは関係が無さそうです。

ただ ma であれば「泳ぐ」のほかに「炙る」や「焼く」と言った意味があります。また e は「そこで」や「頭」のほかに「食べる」という意味もあります。つまり ma-e-suwe は「焼く・食う・煮る」となる……ということになるでしょうか。

しかしながら、ma-e-suwe で「焼く・食う・煮る」という地名が果たして実在したかどうかは、かなり疑わしいと言わざるを得ません。では、何故そのような「珍妙な」伝承が存在し得たのか……という話になるのですが、
  • 駄洒落
  • 故事
  • その他(不明)
の 3 分類で考えた場合、「故事」であればもう少し文法的にマトモな言い回しになりそうに思えます(例えば「鱒をいつも煮たところ」となって然るべきです)。

つまり ma-e-suwe は「駄洒落」だったのではないか……というのが現時点での想像です。そして「一般的なアイヌ語地名」と比べると明らかに奇妙な形なので、永田方正は『北海道蝦夷語地名解』(1891) を編むにあたり *切り捨てた* ということなのでしょう。

「ムセウ」は本当に「ニセウ」だったのか

仮に「ムセウ」で「鱒を煮て食う」という解が「駄洒落」だったとしたならば、その「元ネタ」を探すべき……ということになります。永田方正は「『ムセウ』ではなく『ニセウ』だ」として、nisew は「どんぐり」だ……と記したのですが、
  • 松浦(武四郎)と高橋(景保?)の地図は、どちらも「ムセウ」
  • 「ムセウ」と言う地元民もいる
どこからどう見ても「ムセウ」なのに「いやいや『ニセウ』だよ」と強弁しているような……?

ここまで見てきた感じでは、松浦武四郎の記録は「駄洒落」だったのではと思えるのですが、一方で永田方正の「修正」も根拠がかなり疑わしいように思えます(極端な話、永田方正が理解できるアイヌ語の語彙を適当に引っ張ってきただけにも思えます)。

永田方正は「『ニセウ』(どんぐり)が『ムセウ』(焼く・食う・煮る)に化けた」と主張していることになるのですが、永田地名解の補足には「この辺で一番どんぐりが多く、地元民はそれを拾って食べている」とあります。

そんな「由緒正しい」地名が果たして *化ける* ものでしょうか。むしろ「ムセウ」に近い *それらしい語* を探し出してきて、それっぽい「ストーリー」を「創作」したように思えてしまうんですよね。

「仁世宇」どんぐり説は論理的におかしい点が多すぎる……というのが現時点での結論です。沙流方言では「どんぐり」は「ムセウ」と言うのだ……というのであれば万事解決なんですけどね。

極端な試案

仮に「ニセウ」ではなく「ムセウ」だったとした場合、mo-{sar} で「支流の・{沙流川}」だったりして……(それは確かに極端だね)。

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2026年5月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1380) 「池売川・茂岩山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

池売川(いけうりがわ)

e-kewre-i??
頭(水源)・を削る・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
振内町は主に沙流川の北岸に市街地が広がっていて、中学校などがある南岸へは道道 797 号「貫気別振内線」の「池売橋いけうりはし」を渡ることになります。

国道 237 号は振内の東の「振内橋」で沙流川を横断しているのですが、不思議なことに「振内橋」のすぐ西で「池売川」が南から沙流川に合流しています。陸軍図を見るとフレナイ(=振内)からの幹線道路は沙流川の北側を東に抜けていたので、現在の「振内橋」が架けられたのは「池売橋」よりも後だったのかもしれません。

「ケウレ」は「削る」

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「イケウシリ」と描かれています。


ただ戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

行まゝ十七八丁にて
     イケウレリ
右の方小川。其名義は船を作りに行て削ると云儀のよし也。ケウレは削ると云り。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.65 より引用)
どうやら「イケウリ」の「シ」は「レ」の誤字だったっぽいですね。「シ」を「レ」と誤記・誤読することが多いので、それが裏目に出たようにも思えます。

「イケウレリ」に「池売」という字が当てられたことで「レ」の音が落ちて「いけうり」になったと思われますが、振内中学校の南に「池売」という名前の四等三角点(標高 203.9 m)があり、1947 年の点の記には「イケウレリ」とルビが振られていました。

「削る」と「はつる」

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ikeure-i   イケウレイ   木ヲ斫ル處 斧ニテ木ヲハツルヲ「イケウレ」ト云フ
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.232 より引用)
「斫ル」にはルビが振られていないのですが、どうやら「はつる」と読むようですね(「木ヲハツル」ともありますし)。

kewre は松浦武四郎も記した通り「削る」を意味するとのこと。i-kewre-i で「それ・を削る・ところ」と読めそうで、これは戊午日誌「左留日誌」の解とも永田地名解とも一致します。

一本の原木から街作りまで

ただ、仮に「木を削るところ」だったとして、何故イケウレリで木を削る必要があったのか……という問題が出てきます。一本の原木から街作りまでを一貫して行う製材所があった……とも考えづらいですし。

一応、戊午日誌「左留日誌」には次のように答が記されているのですが……

此辺椴山計にして是を土人等材木山と云へり。其義サル場所にて用ゆる処の材木皆此辺より出す也。よつて号るとかや、ホロサルよりして此材木山え凡弐里と云也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.65 より引用)
あれ、改めて見てみると割と完璧な答なのでは……?

「エケウレリ」?

遅まきながら 『北海道実測切図』(1895 頃) を見てみると、そこには「ケウレリ」とありました。多分そうなんじゃないかと思った解がそのまま描かれていたのですが、e-kewre-i で「頭(水源)・を削る・もの(川)」だったのではないかと。改めて地形図を眺めてみると、「池売川」は「茂岩山」の南側を派手に削っていました。


ただ「実測切図」が「エ──」としたのかは実はかなり謎で、他の記録は軒並み「イ──」となっていました。実際には「イ──」に近い形で認識されていたと見るべきですが、となると何故「実測切図」では……という話に無限ループしてしまいます。

午手控 (1858)シュッタ-イケウレリ
戊午日誌 (1859-1863)シユツタフウレナイイケウレリ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)シユツタ-イケウシリ
永田地名解 (1891)シュータ-イケウレイ
北海道実測切図 (1895 頃)-フレナイエケウレリ
陸軍図-フレナイイケウレリ
地理院地図シュッタ川振内川池売川

そういえば

この kewre という語は『地名アイヌ語小辞典』(1956) には立項されておらず、代わりに kewru-ru で「大きな道」という語がありました。この kewru-ru は【K】とあり「樺太方言」という扱いのようですが、根っこは kewre と近い、あるいは同じだったんじゃないでしょうか。

茂岩山(もいわやま)

mo-iwa?
静かな・霊山
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年5月8日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1379) 「シュッタ川・振内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シュッタ川

sut-ota??
麓・砂浜
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 797 号「貫気別振内線」の「池売橋」の南西で、南から沙流川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シユツタ」という川が描かれています。


『北海道実測切図』(1895 頃) にはニセウ川の支流として「シュータ」が描かれていますが、振内の「シュッタ川」に相当する川名は見当たりません。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

     シユツタ
右の方平場の中に小川有る也。本名シユツタシヤリキと云よし也。其名義は姥が此処え来りて死せしと云儀のよし也。シユツタはフツの延て有る語かと思はる。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.64 より引用)
うばがここに来て死んだから」とありますが、この手の解釈はこれまでも大体ハズレだったので、今回もそうである可能性を考えるべきでしょう。

「本名シユツタシヤリキ」というのはちょっと興味深い記述ですね。「シヤリキ」は津軽の「車力村」にも通じるものがありますが、sarki で「葦」のようにも思えます。

一方、永田地名解 (1891) は異なる解を記していました。

Shu ta   シユータ   鍋ヲ作ル「シユツタ」ト發音ス
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.232 より引用)
「鍋好き」の面目躍如たる解ですね……。確かにそのように解釈することは可能なのかもしれませんが、本当にここで鍋を作ったのか、もしそうだとしたら何故地名になったのか、と言ったあたりが示されない以上、地名としての蓋然性に欠けると判断したいです。

「じゃあ、何なの?」という話になるのですが、そう聞かれたら「うっ」となるのが正直なところです。例によって推測で考えるしか無いのですが、「シュッタ」の「タ」は「砂」や「砂浜」を意味する ota なんじゃないかなぁ……と。

では残る「シュッ」は何か……ですが、「ねもと」あるいは「麓」を意味する sut という語があるので、sut-ota で「麓・砂浜」と考えられないかなぁ……と。

仮にそうだとすれば「ストタ」あるいは「シュトタ」となってしまうのですが、「シュトタ」が「シュツタ」となり、やがて「シュッタ」になったと考えることも……一応は可能なんじゃないかな、と思えてきました(「歌志内」のように「オタ」が「ウタ」に訛るケースも少なからずあるので)。

あるいは

si-ota で「主たる・砂浜」という可能性も考えてみました。陸軍図を見ると、このあたりは沙流川の流れが二手に分かれていて大きな中洲ができていたので、これを si-ota と呼んだのでは……という案です。

「シユータ」にも近くなるので悪くないようにも思えますが、普通は si ではなく poro(大きな)を使うことが多いと思われるのが(個人的には)減点ポイントでしょうか。

振内(ふれない)

hure-nay
赤い・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年5月7日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (50) 「金駒内陸橋跡」

国道 232 号で初山別村初山別に向かいます。なんか空模様が随分と怪しくなってきましたが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

初山別は「初山別川」と「茂初山別川」の河口部の平野に形成されています。市街地の向こうに台地が見えますが、なんかこう……すごく……台地ですね(語彙力)。

2026年5月6日水曜日

北海道のアイヌ語地名 (1378) 「蜷摘橋・部鳧橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

蜷摘橋(になつみはし)

ninar-chimi-p?
台地・左右にかき分ける・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 131 号「平取穂別線」が「ポロケシオマップ川」を横断する橋……です。難読ですが、「蜷川」を読むことができればなんとかなりそうな感じもあるでしょうか。

かつては国道 237 号の橋だったようです。国道 237 号の「下幌毛志橋」は 1985 年に完成しているようなので、そのタイミングで国道ではなくなった可能性もありそうです。

沙流川流域とその周辺には何故か「荷菜」あるいは「荷菜摘」という地名が目につくのですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「蜷摘橋」のあたりにそれらしい地名は見当たりません。

「フウレナイ」の先の「ニナツミフ」

ただ戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には「ホロサルナイ」(幌毛志川?)、「シユツタ」そして「フウレナイ」(振内?)の次に「ニナツミフ」という地名?が記されていました。

またしばし上りて
     ニナツミフ
左りの方山の間に有り。此辺より川すじ至て急に成也。其名義前に有せば志るさず。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.64-65 より引用)
地名の由来は「前に書いたから省略」とありますが、えーと……「左留日誌 巻の三」に「イナツミ」という川の記録がありますね。

またしばし過
     イナツミ
左りの方小川、本名ヘンケニナツミなるよし。此処平地にしてよき地面の中に小川一すじ有が故に号しもの也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.15 より引用)
「蜷摘橋」のネタ元かもしれない「ニナツミフ」は「山の間に有り」ですが、「イナツミ」のほうは額平川の支流で「此処平地にして」とあります。

「荷菜村」と「荷菜摘村」

更に話がややこしくなります。現在の平取町域には、かつて
が存在していました。「荷菜村」と「荷菜摘村」があっただけでややこしいのですが、「荷菜摘村」のあったあたりに「紫雲古津」が移転してきたような感じです(余計にややこしい)。

「荷菜摘村」については、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) に次のように記されていました。

荷菜摘 になつみ
 平取町の南端の処の地名。「になちみ」のように呼ぶ。元来は川上のペナコリの南の辺の地名であったが,その部落の人たちが諸地を遍歴し,ここに落ちついたが,旧地の名をそのままここに残したという。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.362 より引用)
改めて『北海道実測切図』を見てみると、カンカン(=看看川)の北に「ポンニナチミ」と「ポロニナチミ」という川が描かれていました(現在の「ペナコリ川」に相当する?)。

これは「フウレナイ」の近くの「ニナツミフ」とは別だったと見られるので、「荷菜」を含めれば平取町内の沙流川流域に「ニナ」「ニナツミ」「ニナツミフ」等の地名が 4 つあり、更に(沙流川支流の)額平川にも「ポンナチミ」なる川があった……ということになりますね。

これを読んでくださっている方の頭上にクエスチョンマークが複数表示されてそうな気がしますが、ご安心ください。書いている側も「???」となっていますので。

ということで(平取町南西端の)「荷菜摘」に話を戻してしまいますが、

語意ははっきりしない。いろいろに読めるが,ninar-chimi-p「高台を・分けて流れ下る。もの(川)」のように聞こえる。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.362 より引用)※ 原文ママ
ninar-chimi-p で「台地・左右にかき分ける・もの(川)」なんじゃないか……とのことですが、同感です。山田秀三さんは「いろいろに読める」としていますが、自分には ninar-chimi-p 以外の読み方が見えてきません。

最近良く出てくる感のある chimi ですが、これまでは「似た規模の谷が複数並ぶ」ような場所で見かける地名……という印象がありました。

「ニナツミフ」はどこにあった?

地形図を見てみると、現在の「蜷摘橋」の東(幌消末峰の南麓)に似たような谷が並んでいる場所があるので、そこが「ニナツミフ」だった可能性もありそうですが、松浦武四郎は「フウレナイ」の「先」(=東)に「ニナツミフ」があったように記しているので、「ニナツミフ」の位置を「振内の手前」に求めるのはちょっと問題があるかもしれません。

まぁ、いずれにせよ幌毛志から振内のあたりのどこか(ぉぃ)に「ニナツミフ」と呼ばれた場所があり、それは ninar-chimi-p で「台地・左右にかき分ける・もの(川)」だった可能性がありそうだ……ということで。

えっ?

ところが、ここまで書き上げた後で『午手控』(1858) に次のような記述があることに気づきました。

ニナツミ
 薪取の事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.446-447 より引用)
ninar は「川沿いの台地」ですが nina は「ヒラメ」を意味し、また「木を取ってくる」という意味もあるとのこと。まぁそれだと「ツミ」が意味不明になってしまうので、あくまで参考情報ということで……。

部鳧橋(ぺければし)

peker??
清冽な
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)

2026年5月5日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (189) 函館(函館市) (1878/8/16(金))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き普及版の「第三十四信」(初版では「第三十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

失敗の予言

イザベラはどうやら領事館での食事会?に出席していたらしく、「通訳・伊藤はワイが育てた」のチャールズ・マリーズとも領事館で顔を合わせたのかもしれません。

 昨日私は領事館で食事をして、フランス公使館のディースバッハ伯爵、オーストリア公使館のフォン・シーボルト氏、オーストリア陸軍のクライトネル中尉に会った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
「シーボルト」と言えば JR 九州「シーボルト事件」を思い出します。あのシーボルトはオランダ人だった筈……と思ったのですが、それは思いっきり勘違いで、「あのシーボルト」はバイエルン王国(=ドイツ)の出身だったのですね。

そして「あのシーボルト」ことフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの「シーボルト事件」が発覚したのは 1828 年なので、イザベラの奥地紀行の 50 年も前ということになります(ついでに言えば、イザベラが生まれる 3 年前)。

ということで、どう考えても函館でイザベラが会った「フォン・シーボルト」は別人なのですが、「あのシーボルト」は追放令が解除された翌年の 1859 年に再来日していたのですね。もっとも 1862 年に帰国し 1866 年に亡くなっているので、1878 年に函館にいる筈は無いのですが。

どうやらイザベラが会った「フォン・シーボルト」はフィリップ・フランツの次男の「小シーボルト」ことハインリヒ・フォン・シーボルトだったみたいですね。Wikipedia にも「1878 年には大隈重信の依頼でアイヌ民族の視察と研究に函館、森町を経て平取に赴く」とあり、これはイザベラの「奥地紀行」の「地ならし」だった可能性も指摘されているとのこと。

ただ、そんな「小シーボルト」の奥地探検について、イザベラは次のような「予言」を行っていました。

彼らは明日奥地探検旅行に出かけることになっていて、南部沿岸で海に入る河川の水源地を踏破し、いくつかの山々の高度を測定する予定である。彼らは食糧や赤葡萄酒をふんだんに用意しているが、とても多くの駄馬を連れて行くので、その旅行は失敗に終わることを私は予言する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
ぉぃぉぃ……。イザベラにはその自覚が無かった(あるいは知らされていなかった)のかもしれませんが、自身の「奥地紀行」の「先遣隊」を努めてくれる人物に対してその言い草は酷いのでは……。

しかし私の方は荷物を四五ポンドに減らしているから、成功は疑いない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343-344 より引用)
(笑)。ちなみに「小シーボルト」が生まれたのは 1852 年で、「ワイが(略)」のチャールズ・マリーズよりも一年年少ということになります。イザベラが会った時は 26 歳になったばかりで、イザベラ姐さんの目には「この若造が」と見えていた可能性もありそうですね。

日本の医者

日本奥地紀行』の普及版「第三十四信」はこの後がバッサリカットされていますが、イザベラは函館で病院と刑務所の「見学」も行っていたとのこと。

 食事の後、領事は私を病院へ連れていってくれました。そこで私たちはフカシ[深瀬鴻堂訳注 1]医師の出迎えを受けました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.140 より引用)
「フカシ」は原文では Dr. Fucasi と綴られていました。イザベラは聞こえたとおりに綴っているのだと思われるので、もしかしたら通訳・伊藤の発音の問題か……? と思ったりもしたのですが、伊藤が「深瀬」をちゃんと発音できない筈も無いでしょうから、やはりイザベラにはそう聞こえたということなのでしょうか。

深瀬医師は単に病院長および、医者と医学校の生徒の長というだけでなく、西洋人の医者がいないので、西洋人社会全体の信頼を勝ち得ています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.140 より引用)
「深瀬鴻堂」でググったところ「鴻寿会グループ 医療法人 鴻仁会 深瀬医院」というページがヒットし、そこには「鴻寿会グループ沿革」として「1818 年 深瀬鴻斎、町医者として函館に開業」とありました。「函館で 200 年続く医院」というのも凄いですよね。

函館病院

深瀬鴻堂(初代)が院長を努めていた「函館病院」とその医療体制について、詳細が記されていました。

 外国人は、これは主に船員ですが、1 日につき、50 銭、つまりおよそ 1 シリング 8 ペンス支払い、現地の人たちは 20 銭を払います。また本当に生活に困っている人たちは無料で治療が受けられます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.141 より引用)
生活困窮者には無料で医療を提供しているというのは素晴らしいですね。医療費というものは「生存権」を行使するための「必要経費」とも言えるものですが、その費用は人によって千差万別です。その負担を平滑化するために「健康保険」や「高額療養費制度」といった仕組みが整備されたものの、現在の政府与党がその縮小に向けて動いていることには怒りを禁じえません。

 この病院には 6 人の担当日本人医師がおりますが、病院はその他に、医学校であって、日々の講義と臨床実習がなされています。そこはとても清潔で明るく、患者は英国の病院の患者のように満足しているように見えます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.141 より引用)
イザベラは久保田(秋田)でも病院を見学していますが、そこも概して良い評価だった記憶があります。イザベラの「見聞」が英国を含む欧米諸国に発信されることを明治政府は十分承知していて、そのために全力で「仕込み」が行われた可能性も考えたくなる……というのは皮相的な見方でしょうか。

岩倉[具視]と彼の使節団がヨーロッパとアメリカに西洋文明の視察に行って──日本の土壌に最もよい結果を移植しようという観点から──からわずか 7 年弱しか経っていないのに、帝国の人里はなれたこの場所でのこれらの啓蒙的現象と進歩は(多々ある中のほんの一例ですが)興味深いというだけでなく驚くべきものです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.141 より引用)
イザベラは函館病院での医療について、歯が浮きまくるような賛辞を連ねていますが、どこまで素直に受け止めていいのか、逆にちょっと不安になってきました。

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2026年5月4日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (188) 函館(函館市) (1878/8/16(金))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは普及版の「第三十四信」(初版では「第三十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

普及版の「第三十四信」は「伊藤の非行」と「『宣教師式』」、そして「失敗の予言」の三つのセンテンスが含まれていますが、初版(完全版)はその後に「日本の医者」「函館病院」「刑務所」「刑務所の快適さ」「菊の栽培」「盆祭り」「祝日の大群衆」と題されたセンテンスが含まれていました。それにしても大胆にカットしたものですね……。

伊藤の非行

多くのセンテンスがカットされた「第三十四信」ですが、「奥地紀行」の同行者でありイザベラを除けば最重要人物とも言える「伊藤鶴吉」についての話題はしっかりと「普及版」でも残されていました。

イザベラは「旅行の準備はできた」としながら、函館の居心地の良さもあり「毎日ぐずぐず滞在している」と記し、それに続いて「伊藤について不愉快な釈明があった」と記しています。

イザベラが横浜で伊藤を雇用した際のやりとりは普及版の「第四信」(完全版では「第六信」)に記されています。詳しくは『日本奥地紀行』を読む (20) 東京 (1878/6/7) をご覧ください……と書こうとした、いや、書いたのですが、え、14 年前の記事……?(汗)

イザベラは奥地紀行に同行する「通訳」の面接を行い、有力な候補者が 3 人に絞られた……というところで、突然「なんの推薦状も持たない男」がやってきて、それが当時 20 歳だった「伊藤鶴吉」でした。

彼の言うところでは、米国公使館にいたことがあり、大阪鉄道で事務員をやったという。東のコースを通って北部日本を旅行し、北海道エゾでは植物採集家のマリーズ氏のお伴をしたという。植物の乾燥法も知っており、少しは料理もできるし、英語も書ける。一日に二五マイル歩ける。奥地旅行なら何でも知っているという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
これは確かに「ほほう」と言いたくなる経歴です。そして何故推薦状を持っていないのかを問いただしたところ

この模範的人物を気どった男は、推薦状を持っていないのを、「父の家に最近火事があって、焼いてしまった」と弁解した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
これは……。どこからか「あらかじめ証拠の方は隠滅しておくのである」と聞こえたような気が……。

イザベラは「マリーズ氏は手近にいないので、聞くわけにもいかなかった」とした上で、

それよりもまず、私はこの男が信用できず、嫌いになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
と続けていました。イザベラから見て伊藤は容姿の面でも優れず、推薦状は持たず、明らかに胡散臭くて信用できない人物だったのですが、

しかし、彼は私の英語を理解し、私には彼の英語が分かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
という、根本的にして重大なチェックポイントをクリアしていたのが伊藤しかいなかったということで、渋々?通訳として雇うことにした……という経緯がありました。

どうやらこの後、伊藤はイザベラに次のように釈明?していたらしいのですが……

あなたも記憶されているように、推薦状なしで彼を雇ったのだが、雇ってから彼は、パークス夫人と私に対し、前の主人のマリーズ氏が彼に帰ってきてくれというのに対し「ある婦人と契約を結んだ」からと言って断った、と告げたのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
ところが、イザベラは函館でマリーズ氏と会い(!)、マリーズ氏から次のように「真相」を聞かされます。

ところが、今当地にマリーズ氏がおり、氏の説明により私は、伊藤は当時すでに氏と七ドルの月給で氏の要求する期間だけ勤めるという契約を結んでいたのだが、私が一二ドル出すと聞いて氏のところから逃げて来て、嘘をついて私のところに勤めることにしたのだということが分かった!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
いやー、これは……(笑)。伊藤はどうやらマリーズ氏と「オプション契約」を結んでいたにもかかわらず、そのことを隠してイザベラの求人に「応募」し、ちゃっかりと採用を勝ち取ってしまった……ということだったようです。

イザベラは「氏のところから逃げて来て」と記していますが、Wikipedia の「チャールズ・マリーズ」によると、イザベラの奥地紀行の前年(1877 年)12 月に離日していたとあります。

イザベラは「マリーズ氏は手近にいないので、聞くわけにもいかなかった」と記していましたが、伊藤がイザベラの面接を受けたのが 1878 年 6 月で、この時点ではチャールズ・マリーズは中国大陸、あるいは台湾にいたと推定されます。伊藤としては「マリーズが日本にいない時点で自分は(契約上)フリーである」と考えていたのかもしれません。

ところが(Wikipedia によると)マリーズは 1878 年の夏(日付は不明)に再来日していて、「オプション契約に基づき」伊藤を再雇用しようとしたところ、伊藤はイザベラの通訳に「転身」していた……というオチだったようです。

マリーズ氏は、この背信行為によって非常な迷惑をうけ、彼の植物採集の完成に多大の不便を感じている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
改めて時系列で整理してみると、イザベラは「背信行為」としたものの、伊藤にしてみれば「不幸なダブルブッキング」だったとも言えるかもしれません。

というのは、伊藤はたいへん器用で、氏が草花をうまく乾燥させる方法を教えこんだばかりでなく、種子の採集に二日も三日も出かけることを委せられるほどになっていたからである。私はそれを聞いてまことにすまないと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
今回、改めて普及版の「第四信」を読み直したのですが、伊藤はイザベラに「北海道エゾでは植物採集家のマリーズ氏のお伴をした」とアピールし、また「植物の乾燥法も知っており」と語ったとされています(つまり、伊藤は嘘をついていたわけでは無い)。

伊藤に非があるとするならば、「オプション契約」の件をイザベラに告げていなかった点ですが、口約束、あるいは社交辞令と捉えていた可能性もあったかもしれません(仮に「契約」を交わしていたとしても、その拘束力についてちゃんと理解していなかった可能性もありそう)。

伊藤が通訳としてのみならず、実務面でも優秀だったことはこれまでのエピソードでも何度も語られていますが、これはマリーズによる「教育」の成果も含まれていた可能性がありそうです。

氏は、伊藤が氏のところに来た頃は悪い少年であったが、その欠点もいくつか矯正してやったし、忠実に勤めたことと思う、と語っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342-343 より引用)
イザベラはチャールズ・マリーズよりも 20 歳も年上だったという点も留意すべきかもしれません。イザベラと伊藤は 26 歳差でしたが、マリーズと伊藤は 6 歳しか歳が離れていなかったため、マリーズと伊藤はイザベラとの間よりもフランクな間柄だった(あるいは伊藤が勝手にそう感じていた)可能性も考えたくなります。

まぁ、チャールズ・マリーズにしてみれば「通訳・伊藤はワイが育てた」と思っていたでしょうし、「日本に戻ってきたときはよろしくな!」と釘を差していたつもりだった、ということなのでしょう。

私はマリーズ氏と領事館で会って、私の北海道旅行が終わったら、伊藤をその正当な主人に返すことに手はずを決めた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
イザベラも流石の女傑と言ったところか、「私の北海道旅行が終わったら」伊藤を返す……と話をつけたとのこと。さすがに函館から先を通訳無しで進むのは困難だ……と判断したのでしょうね。

一方のチャールズ・マリーズも、今度は「伊藤を帯同して中国・台湾を回るつもりだ」と語ったのだとか。マリーズの「助手」として活躍できるだけのスキルを身につけていたということなのかもしれませんが、「またされたら大変だ」というのが本音だったかも……?

「宣教師式」

イザベラの東京での「面接」に同席したヘボン博士も、イザベラの出発後に伊藤についての悪い噂を耳にして心配していたとのこと。ただイザベラは伊藤について「最初に嘘をついただけで、今まで彼に悪いことは何もない」と擁護しています。もっとも

彼の信仰する神道も、その程度しか彼を教えていないのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
と一刺しすることを忘れていないのは、さすがはイザベラ姐さん……。

イザベラは伊藤に給料を手渡した時に「礼儀作法が気に入らない」と告げたところ、伊藤は素直に「態度を改めます」と返したものの……

「しかし」と彼はつけ加えて言った。「私はただ宣教師の礼儀作法をまねしただけです!」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
このあたりの反骨精神?は、やはり 20 歳の若造らしい感じがしますね(笑)。

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2026年5月3日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (187) 函館(函館市) (1878/8/13(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十三信」(初版では「第三十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

仏教寺院

普及版の「第三十三信」は「風光」「風の都」「奇異な屋根の波」だけで終わっていますが、初版(完全版)の「第三十八信」はその後に「社会的退屈」「伝導拠点」「無秩序なミサ」「日々の説教」「仏教寺院」「仏教の説教」と題されたセンテンスが続いていました。

ここからは「仏教寺院」と題されたセンテンスです。このあたりは「普及版」ではバッサリとカットされたわけですが、これは「奥地紀行とは直接関係が無いから」と見るべきなのでしょう。

となると「初版」でこのような内容が詳らかに記されたのは何故? という話になりますが、これはイザベラの奥地紀行を支援してくれたイギリス政府筋や教会関係者に向けた、いわば「スポンサー向け」の内容だったと考えられます。

イザベラはわざわざ日帰りで渡島大野(現在の北斗市)に向かい「無秩序なミサ」を自身の目で確かめていましたが、一方で「敵情視察」も怠り無かったようです。

 大寺院はいつも午後はすべて貧しい階級の男女でいっぱいですが、彼らが出来うる限り静かで秩序だっています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.137 より引用)
この「貧しい階級の男女」は渡島大野のミサで「暴れていた」層とイメージが重なるのですが、実際のところはどうだったのでしょう……?

彼らは、僧侶が勤行する、聖なる場所から棚で仕切られた場所にいます。街中で聞くことができますが、非常に低くてやさしい、大きな銅製の鐘の音がそれを聞いた人を呼び寄せ、きっちり 3 時に、僧侶が重い金色に塗った寺院の内陣のドアを折り重ねて開き、壮麗な内部を通して照らす「薄暗い宗教のあかり」訳注 1 を振りまく蝋燭ろうそくとランプに火を灯します。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.137 より引用)
「訳注 1」にはジョン・ミルトンの「沈思の人」がリファレンスとして添えられていました。この詩からの引用ということでしょうか?

イザベラは「鐘の音」を「非常に低くてやさしい」と記していますが、「そうか、そう言えば」と思わせますね。「除夜の鐘」で耳にする重低音は(日本では)ごく当たり前のものですが、「教会の鐘」と比べると圧倒的にヘヴィな音でありながら音が割れるような激しさはありません。

その後もイザベラの詳述が続きますが、まさに「実況」レベルなので割愛します。

再び鐘の音がして、それから鐘のチリンチリンという音といっしょに唱和が単調に繰り返されます。その合間の人々の応誦は彼らにも分からない言葉で、南無阿弥陀仏ナム・アミダ・ブツと唱えます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.137 より引用)
「南無阿弥陀仏」が気になるのですが、原文にもしっかりと Namu Amida Butsu と記されていました。「彼らにも分からない言葉で」という注釈が添えられているのも面白いですね(まさにその通りなのですが)。「南無」と「阿弥陀」はサンスクリット語由来ではないか、とのことらしいですが……。

1 時間後、僧侶たちは列を作ってしずしずといなくなりました。それまで祭壇に跪いていた僧侶のうちの一人は人々と彼らを分けている柵のすぐ中の四角い説教台に上がっていき、日本式ではなく、その信仰の創設者[釈迦]の流儀に基づいて、日本式ではなく足を交差させて坐り、1 時間に亘って非常に熱心に説教をしました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.137 より引用)
「日本式ではなく」とあるのは「胡座あぐらをかいた」ということでしょうか。二度も「日本式ではなく」を繰り返しているのは何故なのだろう……と思って原文を確かめてみたのですが、not in Japanese fashion という表現は一度しか出てこなかったので、訳者のうっかりミスの可能性もありそうな……?

仏教の説教

イザベラは、函館で日々行われている仏教の「説法会」が(渡島大野でのキリスト教のミサとは異なり)非常に秩序正しく行われていたことについての感想は記していません。

その代わりに(?)、日本での「説教」がどれだけ楽しいものであるかを力説していました。

 日本で話される説教がどんなに面白くすることができるかお知らせしましょうか。以下は、ちょうどここにある 1875 年 6 月の「ジャパン・メイル」に出ている注目すべき記事の翻訳の一片です。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.138 より引用)
そして中国の古典をもとにした説教の具体例を挙げているのですが、それに続く訳文が……ちょっと良くわからないことになっていました。

 1000 の説教台の残響が、はじめの文章の中にある──これらの言葉は、わが善き友々よ、あなた方皆がよくご存知の『小学』[朱熹原案;劉子澄作]の嘉言カゲンと呼ばれる節に見られる。(中略)極めて価値ある凝縮された教訓を含んだ 2、3 ページは以下のようです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.138 より引用)
原文は次のようになっていました。

     The echoes of a thousand pulpits are in the opening sentences: "These words, my good friends, are found in the section called Kagen of the Shogaku, which is so well known all of you. They are indeed blessed words, and well suited to be our text this evening. These words are short, but they contain an invaluable lesson."
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
翻訳(通訳)における、もはや古典的な命題と言っても良さそうな「不実な美女か貞淑な醜女ブス」が具現化したような感じですね。ここまで見てきた限りでは、高梨謙吉さんや時岡敬子さんの訳は(不実かどうかはさておき)「美女」寄りで、高畑美代子さんの訳は「貞淑」に見えるのですが、この訳もまさにその一例でしょうか。

ちなみに時岡敬子さんはこのセンテンスの最初の部分を次のように訳していました。

 何百人もの聖職者が同じように説教をつぎのように始めます。
(イザベラ・バード/時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 下』講談社 p.37 より引用)
ああ、そういうことだったのか……と思わせる訳ですが、原文は thousand ですし、pulpit は「説教壇」や「講演台」を意味する語で「聖職者」とはどこにも書かれていません。これが「不実」と言えるかどうかは、難しいところですね。

説教は日本の一つ屋根の下に集まる最も大きい集会の注意をも惹きつけるだろうと私が十分信じることが出来る、想像上の会話で終わります──。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.138 より引用)
この後に、たった一言の失言で夫婦喧嘩がエスカレートする様を示した寸劇のような内容が続いていました。要は「どんな時も発する言葉には気を使いましょう」という教訓なのですが……ある疑念が頭をもたげてきました。イザベラは、実は「説法」を見ていたのではなく「高座」を見ていたんじゃないかと(汗)。

なんか内容が「夫婦漫才」っぽいというか、あるいは「落語」っぽいんですよね。まぁ聴衆が爆笑していたという描写は無いので、ちゃんと「説法」だったのだと思いたいですが……。

いや、「僧侶のうちの一人は人々と彼らを分けている柵のすぐ中のに上がっていき」と書いてますよね? 四角い説教台の上……まさか本当に「高座」だったのでは……?

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2026年5月2日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1377) 「幌去峯・幌毛志・幌消末峰」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

幌去峯(ほろさりみね)

poro-sar
大きな・葭原
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ポロケシオマップ川の西には南に向かって尾根が一直線に伸びていて、尾根上に「幌消峠」四等三角点と「幌去峯」四等三角点、そしてその北に「幌毛志山」四等三角点が設置されています。

現在の平取町域には、かつて
が存在していました。中でも「幌去村」は現在の平取町東北部のみならず日高町域(海に面していないほう)も含む広大なものでしたが、大正 8 年に「右左府村」を分村、大正 12 年からは平取村の大字となった後、1973 年に「振内町」「岩知志」「仁世宇」「幌毛志」となり、歴史のある「幌去」の地名は姿を消してしまいます(面白いことに、幌毛志と富内を経由する道道 131 号「平取穂別線」の富内側に「幌去川」が現存していますが)。

『北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「幌去」と描かれていて、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ホロサル」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

扨其ホロサルの名義は、ホロシヤリのよしなり。多く蘆荻が有りと云て、是サル場所の根元と云伝えたり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.59 より引用)
ということで、poro-sar で「大きな・葭原」ではないかとのこと。ただ sar は他ならぬ「沙流川」を指す可能性もあるので、本当に大きな「葭原」があったのかどうかは、ちょっと判断できません。

問題は『東西蝦夷山川地理取調図』に描かれた「ホロサル」がどこの何を指していたかですが、「ホロサル村」について松浦武四郎は以下のように記していました。

扨此処より向岸え川船にてわたり、原道三丁計過坂を上りてまた弐三軒人家を過、又坂を上り
     ホロサル村
に到る。此処地形南東向一段高く、うしろに山をうけ、其下川有て、川の向ふヒラチンナイ、奥はムセウの方(ま)(見)わたし、南の方ヲサツナイまで一目に見、実に蝦夷第一の開け場所也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.59 より引用)
「ホロサル村」の川向かいには「ヒラチンナイ」を一望するとあるので、これは現在の平取町幌毛志のあたり(=「幌去峯」三角点の東隣)を想起させますが、一方で「ムセウ」(=仁世宇?)まで見渡せるとあり、これは振内町のあたりを指しているようにも見えます。

松浦武四郎の記したヒントを列挙すると次のようになるでしょうか。
  • 南東向きの地形
  • 一段高くなっている(台地?)
  • 川向かいに「ヒラチンナイ」(=ピラチナイ川か)
  • 奥はムセウ(仁世宇?)まで見渡せる
  • 南はヲサツナイ(長知内)まで一目に見える

また「ホロサル村」の上のほうより「ホロサルナイ」という「小川」が流れているとのこと。前後の川をリストアップすると……

戊午日誌 (1859-1863)
「左留日誌」
東西蝦夷山川地理取調図
(1859)
北海道実測切図
(1895 頃)
地理院地図
ホロケシヨマ-ポロケㇱュオマㇷ゚ポロケシオマップ川
ヒラチンナイヒラチンナイピリパリシナイピラチナイ川
ホロサル村---
ヲヽコツナイヲヽコツナイオウコッナイオコチナイ川
タン子サルタン子サラ--
ホロサルナイホロサル--
シユツタシユツタ-シュッタ川
フウレナイ-フレナイ振内町

だいたいこんな感じになるでしょうか。とりあえず「ホロサルナイ」は「ポロケシオマップ川」と「振内川」の間を流れる川だ……ということになりますね。

地理院地図では、この条件に合致するのは「幌毛志川」ということになるので、「ホロサル村」は「ポロケシオマップ川」と「幌毛志川」の間の南東向きの高台にあった……ということになるでしょうか。

地理院地図には、かつての「幌毛志駅」の北東あたりに記念碑が描かれているのですが、このあたりにかつての「ホロサル村」コタンがあったのかもしれません。松浦武四郎が記したヒントとも概ね合致しそうな場所と言えそうな感じです。

古くから知られた地名だったが故に一帯を表す「大地名」になってしまい、それ故に分割されて消滅してしまったことになるのですが、「ホロサル発祥の地」の近くにひっそりと三角点の名前として生き延びていた……ということになりそうです。

幌毛志(ほろけし)

pira-kes-oma-p?
崖・末端・そこにある・もの
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年5月1日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1376) 「主辺山・ピラチナイ川・オコチナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

主辺山(しゅべやま)

mo-ru-pes-pe
小さな・路・それに沿って下がる・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川の南東側、長知内の東、幌毛志の南に位置する山で、頂上付近には(何故か)「主辺」という四等三角点(標高 240.3 m)があります。

『北海道実測切図』(1895 頃) には貫気別の北に「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」という山が描かれていて、その関連を疑っていたのですが、これは見事にミスディレクションでした。山の読み方が「しゅべ──」なのは「しゅへん──」が誤読された……という想定だったのですが、「三角点の記」には所在地の欄に「大字幌去村モルベシユベ1870番地」と書かれていました。やられた……という感じですね。

つまり「主辺山」の「しゅべ」は「モルベシュベ」が略されたものだったというオチだったようでした。「モルベシュベ」は「モルベシベ川」のことで、mo-ru-pes-pe で「小さな・路・それに沿って下がる・もの(川)」とのこと。

なお、モルベシベ川とキタルシナイ川支流の間の鞍部(峠)のすぐ西、タウシナイ川の水源付近に「主辺山」(しゅべやま)という三等三角点があります(標高 277.0 m)。こちらは所在が「大字長知内村 俗稱モルペシユペ山」とあるので、全く同じ由来で似て非なる三角点が二つ存在する、ということになりそうですね。

ピラチナイ川

pira-chimi-nay
崖・左右にかき分ける・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年4月30日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (49) 「四つの砂箱」

苫前初山別村に入りました。カントリーサインには天文台が描かれています。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の左側に「のせましょう ゆとりという名の 同乗者」と書かれた看板が見えます。この手の看板はいつの間にか撤去されていることが多いのですが、この看板は最新のストリートビューでも現存が確認できました。

2026年4月29日水曜日

「日本奥地紀行」を読む (186) 函館(函館市) (1878/8/13(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十三信」(初版では「第三十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

無秩序なミサ

普及版の「第三十三信」は「風光」「風の都」「奇異な屋根の波」だけで終わっていますが、初版(完全版)の「第三十八信」はその後に「社会的退屈」「伝導拠点」「無秩序なミサ」「日々の説教」「仏教寺院」「仏教の説教」と題されたセンテンスが続いていました。

ということで、引き続き、普及版では完全にカットされた「無秩序なミサ」を見ていきます。イザベラは大野(渡島大野、現在は「新函館北斗駅」の所在地です)まで馬に乗って小旅行に出かけたのですが……

 大野には板張りの床の伝道教室があって、伝道師の小川がそこに住んでいます。しかし、1 年に亘ってキリスト教の講義をしましたが結果は出なかったのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
いきなりズバっと来ましたね。私企業であれば「一年間結果が出せなかった」という時点で配置転換の話とかも出そうな気もしますが……。もっとも地元民にそっぽを向かれた、あるいは徹底的に無視されていたということでは無かったようで……

 村は祭りの最中でしたが、教室の戸が 8 時に開くと、直ちに、秩序のない男や女、子どもたちでいっぱいになります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
なぁんだ、大盛況じゃないですか。ただ「秩序のない男や女」の行状は凄まじいものだったらしく……

300 人の人間のなかには酒に酔ったのもいて、下駄を鳴らし、叫び、窓の枠に鈴なりになって、長椅子によじ登り、大声で笑ったり、食べたり、ランプでタバコに火をつけたり、彼らの着物を脱ぎ捨てたり、1 時間と四半時もの間、大声を出し続けたりする、私がこれまで眼にしたなかで、最も見込みがない聴集です。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
「聴集」という語は「聴衆」の誤字でしょうか。客商売を始める場合は「まずはとにかく人を集める」ところからだと思うのですが、まさにそんな状態のようにも思えます。一年間の成果がこれだとしたら、なかなかキツいですが……。

 デニング氏は卓越した言語の才能の持ち主で、下級階層の日常会話の日本語を堪能に習得しただけでなく、彼らが話すときの調子まで自由に話せるのです。頑丈な体格で非常に力強い声の持ち主で、忍耐強く大騒ぎの声を抑えて耳を傾けさせます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
「デニング氏」は「英国教会殿堂協会」が函館に派遣した人物のようです。イザベラは「デニング氏」の日本語力を絶賛していますが、欧米人はジョン・バチェラーのアイヌ語力についても絶賛していたことがあるので、額面通りに受け取るのは禁物かもしれません。

イザベラはこの日の惨状を、自身を含めた「3 人の外国婦人」がやってきたことによる「例外的な事態」と考えたようですが、どうやらそうではなかったとのこと。

イザベラは「デニング氏」の奮闘ぶりを、以下のように絶賛していました。

デニング氏は彼の時間を割き、力の限り、彼の仕事に、これ以上はないという気力と活力と情熱を持って、心血を注いでいます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
それに続く次の文章は、随分と難解なものになってしまっています。

それが反対勢力と失望によって、凌駕されることも凍らせられることもなくて、もしそうでなければ、仏教の僧侶が人々に「新しい方法」に反対するようにたきつけたため、大野の聴集がとうの昔に彼の努力を終わらせるはずだったにちがいないのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135-136 より引用)
原文にも当たってみましたが、なるほど確かにこんな感じの文章です。時岡敬子さんの訳文はもう少し日本語として読みやすくなっているでしょうか。

まぁ、ざっくりニュアンスを書けば「デニング氏はこの上なく努力しているが仏教の僧侶が民衆を焚き付けて嫌がらせをしている」ということですね。なんとも独善的な考え方にも思えますが……。

もっともイザベラにしてみれば「仏教の僧侶が嫌がらせをしている」というのも「根拠のない話」では無かったようで、以下のように続けていました。

神道が優勢であるところでは、無関心が決まりとなっています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
イザベラは「これだから仏教は」という風に捉えたのかもしれませんが、当時は神道よりも仏教のほうがより一般民衆に近い存在だったような気もするので、「仏教(の僧侶)がキリスト教に敵愾心を抱いていた」と一般化して捉えるのも、ちょっと注意が必要なんじゃないかな、とも思えます。

イザベラと同行の「ご婦人たち」が大野(渡島大野)を出発したのは午後 9 時で、なんと函館に到着したのは午前 1 時だったとのこと(!)。馬上の旅とは言えタフなものだったようですが、疲労困憊だったイザベラの眼前には函館の夜景が広がっていました。

それは私が日本で見た最初の本当にこの上なく美しい夜で、宝石をちりばめたように露をおく草に鋭い木の影を落とし、銀色の海に広がる明るい月の光、山の頂上を横切る銀色の雲、花たちの眠る香りを乗せた涼しくて柔らかい空気でした。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
高畑さんの和訳は、ちょっと日本語としては奇妙に思えることもあるのですが、原文の構造をなるべく損なわないように訳してあるが故、とも言えそうな感じです。

日々の説教

続いて「日々の説教」と題されたセンテンスに入ります。函館の中心街では日曜日の夕方に「祈りのための会堂が開かれる」とのこと。

人々はとても静かで、忍耐強くじっとしていて、大野の「異教徒」とは全く違います。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
「異教徒」は原文では "pagans" となっていました。イザベラは「異教徒」についてはバッサリと舌鋒を振るうのに対し、同胞のキリスト教伝道者に対しては全体的に歯切れの悪い書きぶりに終始しているようにも見えます。

 ここでの伝道は、大変骨の折れる仕事のように思えます。その仕事は求められ成し遂げられなければなりませんが、しばしば、目新しさは過ぎ去り表面的興味は失せてしまっています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
これも、ざっくり言えば「新奇なものとしての旬が過ぎて苦戦している」ということですよね。いけしゃあしゃあとウソを並べないあたりは評価に値しますが……。

医療伝道は全く違う立場にあります。彼の仕事は彼を必要としていて、限りない面白い分岐を繰り返し日々成長しています。彼には、少なくとも人々の体を首尾よく助けることが出来るという満足があります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.136 より引用)
「医療伝道」というのは、平たく言えば「病気を治してやるから改宗しろ」ということですよね。病という *弱味* につけ込むあたりが極めて悪質に思えるのですが、これは……効果があるのでしょうね。

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2026年4月28日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (48) 「マス内」

羽幌大橋」で羽幌川を渡ります。この川が羽幌川の「放水路」だということは承知していたのですが、工事が始まったのは 1975 年とのこと。この放水路は 1986 年に完成したのですが、なんと翌 1987 年に国鉄羽幌線が廃止されてしまいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国鉄羽幌線はこのあたりで「羽幌川放水路」を横断していたと思うのですが、ちょうど(北に向かって)左にカーブする場所だったので、どんな橋がかかっていたのか、ちょっと興味が湧いてきました。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
橋を渡って河岸段丘を駆け上がります。この写真ではその存在を認識できませんが、左側には「羽幌自動車学校」があるみたいです。

2026年4月27日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (47) 「ツルハの謎」

羽幌町に入ります。「国鉄羽幌線」や「特急はぼろ号」でおなじみの地名で、町域が北海道本体と焼尻島・天売島という離島の両方にまたがるのは道内唯一……の筈です。
もっとも「苫前郡羽幌町」なので、地名としては「苫前」のほうが知名度がありそうですが、それだけ「羽幌炭砿」の影響力?が強大だった……ということなんでしょうか。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

道路の右側には「WELCOME サンセット王国 はぼろ」と書かれた巨大なオロロン鳥の像が立っています。この「オロロン鳥」の像ですが、ボウリングのピンに見えて仕方がないんですよね……。

2026年4月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1375) 「タウシナイ川・トウナイ川・モルベシベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

タウシナイ川

tay-us-nay?
林・ついている・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
トプシュナイ川」の北東隣を流れる川で、南東から沙流川に合流しています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「タイウㇱュナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タユンナイ」という川が描かれています。ただこの川は「ハンケトフシナイ」(=トプシュナイ川?)よりも海側に描かれているので、位置関係に若干の疑問が残ります。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また少し上りし処
     タユシナイ
同じく東岸に当る。椴原有るよりして号る也。此辺東岸山麓に成り、西岸平地多し。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.55 より引用)
このあたりは妙に「タユシナイ」あるいは「タユンナイ」という川が多い印象があります。偶然なのか、それとも認識に齟齬があって同じ川が別の場所に記録されてしまったのかは不明ですが……。

とりあえず「タウシナイ川」は tay-us-nay で「林・ついている・川」と見て良いかと思われます。

トウナイ川

tunnay?
谷川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年4月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1374) 「コタンケシュワシュナイ沢・長知内・トプシュナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

コタンケシュワシュナイ沢

kotan-kes-kus-nay??
集落・末端・横切る・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
(現在の)平取荷負の北東、長知内橋との間で南東から沙流川に合流する支流……だとされています(国土数値情報による)。地理院地図にはそれらしい川は描かれていません。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」にもそれらしい川の情報は見当たらないようですが、「コタンケシュワシュナイ沢」の東には「古丹山」という四等三角点があり、また西には「上古丹かみこたん」という四等三角点が存在します。

現在の平取町荷負のあたりはかつて「ホビボエ」と呼ばれたところで、最近まで「ポピポイ入口」というバス停がありました。沙流川と額平川の間の段丘上にコタンがあったと見て良さそうにも思えます。

「コタンケシュワシュナイ沢」ですが、kotan-kes は「集落・末端」と見ていいと思われます。問題は「ワシュ」ですが、「ワ」は「ク」の誤字である可能性があるんじゃないかと思います。

もちろん「ワ」が「ウ」の誤字である可能性もあるのですが、「コタンケシュワシュナイ沢」は kotan-kes-kus-nay で「集落・末端・横切る・川」と見ていいのではないかと……。

長知内(おさちない)

o-sat-nay
河口・乾いている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年4月24日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1373) 「ンタンシケオマナイ川・オノマップ川・タイウンナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ンタンシケオマナイ川

pitan-noske-oma-nay?
川原・真ん中・そこにある・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「額平橋」の北西で沙流川に合流する支流です。なんと「ン」で始まるという、しりとりの際に問題になりそうな川名ですね(川名は国土数値情報による)。

案の定と言うべきか、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「タンシケヲマナイ」と描かれていました。


北海道実測切図』(1895 頃) には「ピタンノシケオマナイ」と描かれています(位置が少しおかしいようにも見えますが)。段々と正解?に近づいてきた感がありますね。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また五六丁上りて
     ヒタンノシケヲマナイ
西岸崩岸に有。其名義は川原の中に有小川と云儀。ヒは小石にして、ノシケは中に、ヲマは在る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.49 より引用)
お? と思わせる内容ですが、頭註には次のようにありました。

ピタラ→ピタン
河原
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.49 より引用)
ああ、やはり。pitar-noske-oma-nay で「川原・真ん中・そこにある・川」ですが、「r は,n の前に来れば,それに引かれて n になる」ので pitan-noske-oma-nay になる、ということですね(知里真志保アイヌ語入門』(1956) p.169)。

オノマップ川

an-not-sep??
もう一つの・岬・広くある
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年4月23日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (46) 「住居と風車のツーショット」

沿岸バス「特急はぼろ号」のラッピングバスが回送車とすれ違います。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

そろそろ苫前の市街地に入ったでしょうか。台地の上の街ですが、やや勾配がある以外はこれと言って変わったところはありません。

2026年4月22日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (45) 「上平バスターミナル」

海沿いの国道 232 号で稚内に向かいます。力昼を過ぎて上平に向かおうかというあたりですが、なんと 1 km 先の「片側交互通行」が予告されています。さすが北海道、スケールがでかい……!
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

予告された工事区間にやってきました。「徐行」の看板の後ろに「92 km」と書かれたキロポストが見えます。えっ、もう留萌から 92 km の走ったの……? と勘違いしたのですが、これは天塩町(国道 40 号交点)からの距離とのこと。そういや国道 232 号は留萌が *終点* だったのをすっかり失念していました。

2026年4月21日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (44) 「何故こんなところに青看板」

「サカエノ沢川」を「境橋」で渡って苫前郡苫前町に入ります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

WELCOME TO TOMAMAE と書かれた変わったデザインの看板?がお出迎えです。どことなくせたな町大成の「親子熊岩」を思わせるハートフルなデザインですが、苫前と言えば「三毛別羆事件」のあった場所なんですよね……。

2026年4月20日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (43) 「またのお越しをお待ちしております」

道の駅「おびら鰊番屋」を出発して、国道 232 号で稚内に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

これは旧デザインの 106 系標識でしょうか。「km」の文字が完全に消えているようですが……不思議なこともあるものですね。

2026年4月19日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1372) 「ピラチシュウスナイ沢・ウエンナイ沢・ニセイパオマナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ピラチシュウスナイ沢

pira-kes-us-nay??
崖・末端・ついている・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アッリオシヒナイ沢」の河口から額平川を 1 km と少し遡ったところで東から合流する支流です。流石にこのあたりになると『北海道実測切図』(1895 頃) も実際の地形との乖離が激しくなり、また川名も記入されていません。

川名の記入がないのは『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) も同様で、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」における額平川筋の聞き書きも「ユクルベシベ」(パンケユックルベシュベ沢か)で終了しています。

こんな状況にもかかわらずアイヌ語由来らしい川名が残っているというのは驚きですね。「ピラチシュウスナイ」を素直に読み解けば pira-chis-us-nay となるでしょうか。pira は「崖」ですが、ここで問題となるのは chis の解釈です。

地名アイヌ語小辞典』(1956) には次のように記されています。

chis ちㇱ《完》泣く。
chis, -i ちㇱ ①立岩。②【ナヨロ】岩石の坊主山;丸い岩山。③中凹み。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.20 より引用)
「崖がいつも泣く川」というのはちょっと詩的すぎるでしょうか。となると「崖・立岩・そこにある・川」あたりの可能性を考えたくなります。

ただ……おそらく「チシ」は「ケシ」の誤記なんじゃないかと思います。pira-kes-us-nay であれば「崖・末端・ついている・川」となり、実際の地形にもマッチしますし、地名(川名)としても一般的なものになります。「ケ」を「チ」と読み間違える、あるいは書き間違えるというのは良くある話だとも思われるので……。

ウエンナイ沢

wen-nay??
悪い・川
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)

2026年4月18日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1371) 「パンケユックルベシュベ沢・ペンケユックルベシュペ沢・アッリオシヒナイ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケユックルベシュベ沢

panke-yuk-ru-pes-pe?
川下側・鹿・路・それに沿って下る・もの
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「クチャコルシュナイ沢」を渡る「幌尻橋」から「糠平林道」(だと思う)を 1.6 km ほど北上したところに「二股橋」があり、橋のすぐ東で「パンケユックルベシュベ沢」が北から額平川に合流しています。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ユリルベシベ」という川が描かれています。「ユリ」は「ユク」の誤字である可能性が高そうでしょうか。


北海道実測切図』(1895 頃) には「ハンケユㇰルペㇱュペ」が描かれていて、何故かその支流として「ヘンケユㇰルペㇱュペ」が描かれています。


「パンケ」は「川下側」で「ペンケ」は「川上側」を意味しますが、「ペンケ──」が「パンケ──」の支流である、あるいはその逆というケースはめったに無い(おそらく無い)ので、これは何かの間違いである可能性がありそうに思えます。

現在の「パンケユックルベシュベ沢」は、『北海道実測切図』が「ヘンケユㇰルペㇱュペ」と描いた川に相当し、「実測切図」が「ハンケユㇰルペㇱュペ」とした川が「パンケユッルペシュベ沢(幸太郎沢)」となっています。また国土数値情報では「パンケユッルペシュベ沢(幸太郎沢)」とその支流の「二ノ沢」が「パンケユクルシュナイ川」となっていて、まさに百花繚乱です(なんか違う)。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

上るや
     ユクルベシベ
左りの方小川。是には鹿がニイカツフ(サルのイワナイ)の方え越行道有る故に号るとかや。本川是より右のかたなりと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.37 より引用)
鹿が新冠のほうに越える道があるとのこと。実際には「パンケユッルペシュベ沢(幸太郎沢)」を遡ると「岩知志ダム」に合流する「岩内川」の流域に出てしまいますし、「パンケユックルベシュベ沢」を遡ったとしても「千呂露川」の流域に出てしまいます。いずれも沙流川の支流なので、新冠川筋に出ることはありません。

インフォーマントの情報が間違っていたことになりますが、「本川是より右のかたなり」という点は正確で、「本川」(=額平川)を遡ると新冠川の流域に出るので、間違いと言うよりは解釈違いの可能性もあるかもしれません。

位置も名前も異同の多い「パンケユックルベシュベ沢」ですが、意味するところは panke-yuk-ru-pes-pe で「川下側・鹿・路・それに沿って下る・もの」と見て間違いなさそうな感じですね。

ペンケユックルベシュペ沢

penke-yuk-ru-pes-pe?
川上側・鹿・路・それに沿って下る・もの
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)