2026年3月30日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (31) 「赤いきつねと」

滝川 IC のすぐ手前(空知川)で滝川市に入りました。カントリーサインはグライダーが描かれていますが、確か市内に滑空場があるんですよね。
背景が曇り空ということもあり、いい感じにトーンカーブを弄るのも難しかったので、オブジェクトを選択してトーンカーブを弄るという「ウソくさい補正」の出番となりました。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

深川留萌自動車道の起点となる「深川 JCT」まで、あと 12 km とのこと。ナンバリングが枝番ですが、道央道を建設した当時は計画に無かった……ということなんでしょうね。

2026年3月29日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1363) 「モソシベツ川・総主別川・宿主別川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

モソシベツ川

mo-so-us-pet
小さな・滝・ついている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取ダムの手前(西側)で南から額平川に合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「モソウㇱュペ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「モシヨシヘツ」と描かれていました。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Moso ush pe   モソ ウㇱュ ペ   ウジ多キ處 鹿死シテ蚋多シ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.236 より引用)
これは……。ちょっと俄には信じたくないような解ですね。『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると mosospe で「ウジ虫」を意味するようですが、永田方正はこれを moso に略してしまった、ということでしょうか。

一方、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

しばし過て
     モウシヨシベツ
右の方小川。高山より滝に成て落るが故に此名有と。モウとは小さし、シヨシとはシヤウウシの詰りにして、滝有る川と云儀也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.32 より引用)
こちらはめちゃくちゃ安心感のある解ですね。mo-so-us-pet で「小さな・滝・ついている・川」と見て良いかと思われます。

となると、永田方正は何を思って「ウジが湧いているところ」という解を記録したのかが気になってきます。インフォーマントにそう吹き込まれた、ということなのでしょうか……?

総主別川(そうしゅべつ──)

so-us-pet
滝・ついている・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年3月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1362) 「トエナイ川・芽生・ペンケペッカンロ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

トエナイ川

tuye-nay?
切る・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
アブシ川のすぐ東で額平川に合流する北支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) にも「トエナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トウナイ」と描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     トウナエ
左りの方平山の間小沢。其名義川口に小沼有、よつて此名有るよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.30 より引用)※ 原文ママ
to-nay で「沼・川」だよ、ということでしょうか。ただ 陸軍図を見た感じでは、沼らしきものは見当たらないようにも思えます。


さてどうしたものか……という話ですが、tuye-nay で「切る・川」と考えられそうな気がします。トエナイ川は東西に伸びる尾根を「切っている」ので、「切る川」と呼んだのではないかと……。

芽生(めむ)

mem
泉池
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年3月27日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1361) 「志文川・アブシ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

志文川(しぶん──)

supun-us-nay
ウグイ・多くいる・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
額平川の北支流で、平取貫気別の北東、タシュナイ川の東を流れています。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シュプンウㇱュナイ」という川が描かれているほか、川の西に「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」という山も描かれています。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

しばし上りて
     シユブン
左りの方小川。此川には桃花魚うぐい多きよりして号しものなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.30 より引用)
supun は「ウグイ」を意味します。岩見沢に同名の「志文」という地名があるほか、新日本海フェリーが発着する苫小牧東港の「周文埠頭」や大沼公園 IC の近くを流れる「宿野辺川」も supun 系の地名だったと記憶しています。

supun-us-nay であれば「ウグイ・多くいる・川」ということになりそうですが、ちょっと疑問なのが「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」という山名です。現在の「三角山」のことだと思われますが、「ウグイの円山」という山名はなんとも珍妙なものです。

アイヌ語の地名は「先ず川名ありき」で、山の名前はオマケ程度だ……と考えることもできるのですが、「シュプンタㇷ゚コㇷ゚」についてもまさにそんな感じだったのかもしれませんね。

アブシ川

apa-us-i?
入口・ついている・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年3月26日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (30) 「ないものはない!」

砂川市に入りました。このカントリーサインはヨットのようですが……?
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砂川市に入ってからすぐのところに「赤いきつねと緑のたぬき」が並んでいる標識があります。何故たぬきが緑色なんでしょうね……(すっとぼけ)。

2026年3月25日水曜日

きょうの出来事(2026/3/25)

今日も引き続き太平洋の上からおはようございます。
朝の 8 時を少し過ぎたところですが、早くも伊良湖岬の灯台が見えてきました。

2026年3月24日火曜日

きょうの出来事(2026/3/24)

太平洋の上からおはようございます。
今回乗船した等級は、食事が 5 食(!)ついてくるので、朝食券を片手にレストランに向かいます。

2026年3月23日月曜日

きょうの出来事(2026/3/23)

洞爺湖を眺められる高台のホテルで朝食をいただきます。ホテルの従業員の人の出身地が多種多様に亘っていたのが印象的でした。
今日はフェリーに乗船するだけという超ゆるゆるなスケジュールなので、ホテルでかなり粘ってからの出発です。

2026年3月22日日曜日

きょうの出来事(2026/3/22)

まずは朗報から。浦河の「ウエリントンホテル」さんの朝食は 7:00~8:30 だったんですが、寝過ごすことなく無事にいただくことができました!
ちなみに 2F のレストランは「マンガ喫茶」のようになっていました。この手の構造は他のビジネスホテルでも見かけますが、本棚を見栄えの良い状態にキープするのが意外と難しそうな印象があります。ウエリントンホテルさんの本棚はまるで書店のようにきれいになっていて、これは大したものですね。

2026年3月21日土曜日

きょうの出来事(2026/3/21)

目を覚ますと、釧路の街が薄っすらと雪化粧していました。もう春の訪れが近いと思っていたのですが、北海道の冬はまだまだ終わらない!……ということなんでしょうか。
流石に 2 日連続で目が覚めたら朝食終了……というのはマズいので、今日はちゃんと起きて朝食会場に行ってきました。毎度おなじみ、17F(最上階)の「トップ・オブ・クシロ」です。

2026年3月20日金曜日

きょうの出来事(2026/3/20)

「紙の街」苫小牧からの出発です。駐車場の日陰部分には氷が張っていて「さすが……!」と思ったものの……

ヒャッホウ!

幸いなことにいい天気で路面もドライでした。これは「厚幌ダム」ですが……

2026年3月19日木曜日

きょうの出来事(2026/3/19)

日本海の上からおはようございます。
今日は新日本海フェリー「すずらん」で敦賀から苫小牧東港に移動中です。

2026年3月18日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (29) 「ナンパの聖地」

美唄市に入りました。江別以来、久しぶりのアイヌ語由来地名ですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

鉄道コンテナを輸送中のトラックが走っていました。JR 函館本線が並行する区間なので、ちょっと色々と考えてしまいますね(少なくとも旭川までは JR 貨物の列車がある筈なので、これは鉄道沿線から最終目的地に向かうコンテナなのかもしれませんが)。

2026年3月17日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (28) 「幻の『孫別 SA』」

岩見沢市に入りました。一日かけて函館から稚内に向かう *だけ* のトピックなんですが、この調子だとまだまだ連番が伸びそうですね……(汗)。
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クリーム色のバスに追い越されました。「北の星」と書いてあるので「宿泊施設の送迎バスか何かかな?」と思ったのですが、「株式会社ケーエス 北の星観光バス」という函館の会社とのこと。このバスは札幌ナンバーのようですが、千歳にも営業所があるようです。

2026年3月16日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (27) 「江別のランドマークと言えば」

江別市に入りました。時間は 13 時を 10 分ほど過ぎたところですが、この先想定される走行距離は 316 km ほどとのこと。
これは中々……微妙な線ですね。移動は 1 日あたり 400 km が大体の目安なので、残り 316 km というのは「げっ、まだそんなにあるのかよ」とも思ってしまうのですが、この日はそもそも 627 km ほど移動する予定を立てていたので、そろそろハーフウェイに差し掛かったことになります。ここまでのところはかなり順調と言えそうです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

野幌 PA の 3 km ほど手前にやってきました。地形図をよく見ないと気づかないのですが、大麻から野幌にかけては台地状の地形なんですね。江別西 IC は「台地の下」にあるので、道央道は掘割を若干の上り坂で駆け上がることになるようです。

2026年3月15日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1360) 「ウペレ沢川・タラック川・ヒカルノ沢川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ウペレ沢川

suop-sar??
箱・やぶ
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町旭の「旭新栄橋」の近くで貫気別川に南西から合流する支流です。道道 71 号「平取静内線」は「シブサ橋」でこの川を渡っています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「シユㇷ゚ウト゚ル」という名前で川が描かれているように見えます。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい名前の川が見当たりません。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      シユブシヤ
 右のかた小川。本名はシユウフシヤと云よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.27 より引用)

行者にんにくを煮て食べた?

この文に続いて由来も記されていたのですが……

 昔し饑飢の時に土人共山に入、此処にて茖葱を取りて煮て喰、其にて生命を全ふせしよりして号たりとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.27 より引用)
頭註によると「茖葱」は「行者にんにく」とのこと。頭註でも指摘がありますが、午手控 (1858) には次のように記されていました。

シユブシヤ
 フクシヤを煮て喰しと云事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.444 より引用)
「フクシヤ」は pukusa 即ち「行者にんにく」のことです。実際にそういった故事があったのかもしれませんが、いかにも「創作説話」っぽい感じがプンプンしますよね。

「ウペレ」は「ウト゚ル」か

現在の川名「ウペレ沢川」は、「シブサ橋」や「シユㇷ゚ウト゚ル」、あるいは「シユブシヤ」と関連があるのでは……と考えてみました。具体的には「ウト゚ル」が誤読または転記ミスで「ウペレ」になったのでは……と。

「箱」だった?

松浦武四郎は「シユブシヤ」の本名が「シユウフシヤ」だと記していますが、この「シユブ」あるいは「シユウフ」は suop で「箱」だった可能性があるかと思います。いやまぁ辞書からそれらしい語を拾っただけなんですが、この川の流域は箱のような地形に見えるので……。

「シユブシヤ」の「シヤ」は sar でしょうか。位置的に「湿原」では無さそうですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) を良く見ると sar には「やぶ」や「しげみ」とも解釈できるとのこと。suop-sar で「箱・やぶ」だった可能性がありそうに思えてきました。

となると「実測切図」の「シユㇷ゚ウト゚ル」が謎めいてきます。素直に suop-utur で「箱・間」と見ても良いのですが、suop-sar の転記ミスだった可能性もありそうな気がするのですね。

ただ、この「箱」と呼べそうな盆地状の地形も川上側でいくつかに別れているようにも見えるので、「箱の間」と呼ばれた地形があった可能性もゼロでは無さそうにも思えます。現時点では「真相は謎」でしょうか。

タラック川

不明
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

2026年3月14日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1359) 「ニタツナイ川・ニタンペツ川・須留久雲山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ニタツナイ川

nitat-nay?
やち・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町旭で貫気別川に合流する南支流です。陸軍図には「ニタツナイ」が地名として描かれていました。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「ニタツナイ」と描かれています。


面白いことに、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 また向岸に
      ニタツベツ
 右の方小川也。此沢樺木多く有るよりして号ると申也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.26 より引用)
『東西蝦夷山川地理取調図』では「ニタツナイ」でしたが、『北海道実測切図』(1895 頃) には何故か「ニタッナイ」と「ニタッペッ」がそれぞれ独立した川として描かれていました。


松浦武四郎が記録した地名解もやや謎で、「樺の木」は tat-ni と呼ぶのが一般的です。nitat であれば「湿地」あるいは「やち」なので、nitat-nay あるいは nitat-pet は「やち・川」と解釈すべきだと思われるのですが……。

ニタンペツ川(アイワ沢川)

nitat-pet?
やち・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年3月13日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1358) 「セタナイ川・土用井・モイワ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

セタナイ川

sep-tunnay??
広い・谷川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取町貫気別の南東で貫気別川に南から合流する支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケセタナイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヒタナイ」という川が描かれていますが、これが現在の「セタナイ川」のことであるかどうかは不明です。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 また少し上り
      セタナイ
 右の方小川有、上は平山。本名セタヲワイナイのよし。昔し土人の犬此処に来り穴を掘、其処にて子を持ちしによつて号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.25-26 より引用)※ 原文ママ
「犬がここに穴を掘って子を産んだから」と言うのですが……。seta は確かに「犬」を意味する語なので、seta-nay であれば「犬・川」ということになりますね。「ヲワイ」については手元の辞書を少し調べてみましたが、良くわかりませんでした。『アイヌ語沙流方言辞典』(1996) によると ay-ay で「人形」や「赤ちゃん」を意味する(幼児語?)とありましたが……。

さて、このまま seta-nay で「犬・川」と考えていいものか……という話です。このあたりの松浦武四郎の記録は、実に興味深いものが多いという印象があります。最近だと「アシバキ川」を「ここで聾者が死んだので」としていたのですが、率直に言って「それってどうなのよ」とツッコミを入れたくなるものです。

ということで「犬・川」についても疑いの目で見たくなるのですが、「セタナイ」が seta-nay では無いとすれば、どういった解が考えられるでしょうか。

少し考えてみたのですが、sep-tunnay で「広い・谷川」だった可能性は無いでしょうか。sep は「節婦」と同様に、入口が狭く奥が広い川ではないかと考えてみたいところですが、「セタナイ川」についても割とそれっぽいのではないかと……。

東隣には「ペンケセタナイ川」があり、このネーミングからは同様の特徴を有していたと見るべきでしょう。この川も「入口が狭く奥が(ちょっと)広い」川だと……言えなくは無いんじゃないかな、とも。

土用井(どよい)

toy-o-i
畑・ある・もの(川)
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年3月12日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (26) 「札幌・ミルウォーキー・マルセイユ」

札幌市に入りました。函館からおよそ 3 時間半ほどで札幌までやってきたことになりますが、流石は「高速自動車国道」ですね。
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札幌南 IC まであと 2 km となりました。枝番なのは、元は苫小牧・千歳方面のみのハーフ IC だったからとのこと。

2026年3月11日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (25) 「財界さっぽろ」

北広島市に入りました。このカントリーサインは凄くわかりやすいですよね。ええ、アレです、アレ(どれ?
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走行車線が規制されていましたが、どうやら路肩の再舗装を行っていたようですね。道路脇には PA の案内が出ていますが、旭川方面と小樽方面の案内があるのは気が利いていますね。

2026年3月10日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (24) 「迫りくる北海道中央バス」

恵庭市に入りました。「千歳恵庭 JCT」で道東道が道央道に合流して、あとは札幌に向かうだけ……ですね。
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ほぼ日課のようになりつつありますが、秋の空がいい感じですよね……(語彙力)。

2026年3月9日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (23) 「魅惑の上下線分離区間」

函館を出発してから 3 時間と少しを経過したあたりで千歳市に入りました。あれ、実は意外と遠くなかったりする……?
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千歳 IC と千歳恵庭 JCT、そして札幌と帯広までの距離が示されています。比較的新しいタイプの看板ですが、何故か「道東道分岐」の番号が欠落しています。

2026年3月8日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1357) 「貫気別・タシュナイ川・イペペシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

貫気別(ぬきべつ)

nupki-pet
にごり水・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取荷負から額平川を遡ると、南から貫気別川が合流しています。平取町貫気別は貫気別川の合流点の北東に位置する集落です。同名の川が存在し、虻田留寿都村・虻田郡洞爺湖町・虻田郡豊浦町を流れています。

北海道実測切図』(1895 頃) には漢字で「貫氣別」と描かれています。これは当時「貫気別村」が存在したことを示しています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヌツキヘツ」と描かれています。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nupki pet   ヌプキペッ   濁川 貫氣村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.234 より引用)
地名アイヌ語小辞典』(1956) にも nupki は「にごり水」とあります。「貫気別」は nupki-pet で「にごり水・川」と見て良さそうですね。

タシュナイ川

tay-us-nay?
林・ついている・川
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年3月7日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1356) 「荷負・キタルシナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

荷負(におい)

ni-o-i?
漂木・多くある・ところ
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号と道道 71 号「平取静内線」が分岐するあたりの地名です。ただ 『北海道実測切図』(1895 頃) では額平川を少し遡ったあたりに漢字で「荷負」と描かれています。これは当時「荷負村」が存在していたことを示すものです。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) でも、現在「荷負」とされるあたりは「ヘテウコヒ」(=二股)と描かれていて、「ニヨイ」は現在の「荷負」と「貫気別」の間あたりに描かれていました。


陸軍図でも「ニオイ」は貫気別の近く、「荷負川」の河口付近に描かれています。


「荷負」こと「ニオイ」は、本来は「荷負川」あたりの地名で、一帯の村名に昇格した後に、西側のホビボエ(=ポピポイ)やペナコレ(=ペナコリ)あたりを指すようになってしまった……ということのように思われます。広義の「移転地名」とも言えそうですね。

彫刻する?

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ニヨイ
右の方相応の川也。ニヨイとは此辺の惣名にして村名に成居たり。則下のヘナコリ、シケレへと当所川の南北に有ども、惣名はニヨイ村と云也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.17 より引用)
「荷負」がこのあたり一帯を指す地名になったのは明治以降かと思ったのですが、これを見る限り、松浦武四郎が紀行した当時から一帯を指す地名だったようですね。

名義は、此上の山に何か雑木が多く有るが、遠目に見ては彫刻にてもなせし物の様に見ゆるが故に号しと。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.17 より引用)
ここまで見た限りでは、ni-o-i で「樹木・多くある・ところ」のように思えますが……

惣て夷人は*繍のみならず、*刻等の類ひ皆ヌヒと云、また文字等を書ことまでもヌヒと称する也。其れの如しと云より起りしと。今訛りてヌイをニヨイとと転じたる也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.17-18 より引用)
頭註によると「* 縫繍」は「裁縫・刺繍」とあり、「* 劂刻」は「けつこく・彫刻」とあります。どうやら松浦武四郎は「ニヨイ」を nuye(彫刻する;書く)の転訛と捉えたようですね。

漂木がある?

ただ永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nioi,=Ni-oーi, ニオイ   樹木多キ處 ○荷負村
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.234 より引用)
この解に対して、山田秀三さんは『北海道の地名』(1994) にて次のように指摘していました。

永田地名解は「ニ・オ・イ。樹木多き処」と書いたが,知里博士は,立木の多いのはニ・ウㇱ(樹木・群生する)で,ニ・オは「地面から離れた木,木片がごちゃごちゃある」と解すべきだとされていた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.365 より引用)
個人的には「ぐう正論」と思わせる指摘です。松浦武四郎が「ニヨイ」を nuye と解したのは少々気になりますが、「ニヨイ」は ni-o-i で「漂木・多くある・ところ」と見ていいのではないでしょうか……?

キタルシナイ川

kuttar-us-nay?
イタドリ・多くある・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年3月6日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1355) 「パンケオタスイ川・アシバキ川・ウンチャシ沢」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケオタスイ川

ota-suy?
砂・穴
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
額平川の南支流で、シラカベ川の東隣を流れています。パンケオタスイ川の東(川上側)には「ペンケウタスイ川」も流れていて、その間に「歌吹」という四等三角点(標高 168.8 m)もあるのですが……なんと「点の記」によると「うたふき」と読むとのこと。

「吹」は「吹田」や「吹奏楽」では「すい」と読むので、きっと元々は「うたすい」と読ませていたのだと思われますが……。

北海道実測切図』(1895 頃) には「パンケオタシュー」と「ペンケオタシュー」という川が描かれていました。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ヲタシユ」と「ヘンケヲタシユ」と描かれています。


永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Ota shū   オタ シュー   土鍋 土鍋ヲ作リシ處ナリト云
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.233 より引用)
鍋料理の美味しい季節になって久しいですが(実は年中いつでも美味しい)、永田方正さんは「紫雲古津」も「鍋谷」とするなど、無類の鍋好きだった可能性が取り沙汰されています[誰によって?][要出典]

その証拠……というわけではありませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌​」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ハンケヲタシユイ
右の方小川也。此川鱒・鯇入るよし也。其名義は砂計有る川と云儀のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.15 より引用)
「砂ばかりある川」とのことですが、確かに ota は「土」と言うよりは「砂」と解釈するほうが自然でしょうか。

日高山脈を越えた先にある新得町にも、ほぼ同名の「パンケオタソイ川」「ペンケオタソイ川」があり、山田秀三さんによると……

読みにくい地名なので日高の萱野茂氏に相談したら,オタスイなら沙流川筋の額平川にもある。ぼろぼろな砂岩にシュイ(スイ。穴)があってその名がついたと語られた。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.320 より引用)
ota-suy で「砂・穴」だったのではとのこと。他ならぬ(二風谷の)萱野さんの解なので、現時点ではこの解が最有力候補と言ったところでしょうか。正直に言えば、ちょっと喉に小骨が引っかかったような感覚も無いわけでは無いのですが……。

なお、かつて樺太は敷香の郊外に「オタスの杜」と呼ばれる少数民族の居住区(穏当すぎる表現かも)が存在していて、そこは ota-sut で「砂浜・根もと」だった可能性があります。ota-sut という地名の具体的なイメージは持ち合わせていないのですが、ちょっと気にしておきたいところです。

アシバキ川

as-pake??
立っている・岬の突端の崖
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年3月5日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (22) 「秘境感ただよう」

苫小牧東 IC の近くまでやってきました。日高道と接続するジャンクション的な位置づけの IC ですが、日高道(無料)との境界として料金所が存置されたこともあるので、機能的には「インターチェンジ」そのものですね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

昨日の記事でも触れましたが、「秋の雲」に覆われた「秋の空」が広がっています。

2026年3月4日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (21) 「ここでもう一句」

苫小牧市に入りました。初心者マークをつけた車にぶち抜かれているようにも見えますが、気にしてはいけません。
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昨日の記事で「575 がいい」と記したのですが、いきなり「誰うま」系で来ましたね。

2026年3月3日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (20) 「ここで一句」

白老郡白老町に入りました。虻田郡洞爺湖町以来、久しぶりの「町」です。
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札幌まで 110 km まで近づいてきました。あと 1 時間 20 分ほどで札幌に着く計算ですが、この時点で 11:52 だったので、……まぁそんなものですかね。

2026年3月2日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (19) 「登別・室蘭」

鷲別川を渡って登別市に入ります。……登別市に入った筈なんですが、そういやカントリーサインはどこに……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

長さ 1,800 m の「鷲別トンネル」に入ります。

2026年3月1日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1354) 「ポピポイ・シラカベ川・ポンスケレベ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポピポイ

hopi-puye??
捨て去る・あのこぶ山
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取荷負から道道 71 号「平取静内線」を東に入ったところに「ポピポイ入口」というバス停がありました。道南バスの Web サイトに「ポピポイ入口」というページがありますが、道南バスの貫気別線は 2022/3/31 で廃止され、現在は平取町がデマンドバスを運行中とのこと。残念なことにデマンドバスには「ポピポイ入口」というバス停の存在を確認できていません。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい地名が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「ホエポエ」と描かれていました。


陸軍図には「ホビボエ」という地名が描かれていました。現在の荷負の集落、あるいはその東の丘陵を指しているように見えます。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」にはそれらしい記述を見つけられませんでした。

さて、あとはこの地名をどう読み解くかですが、残念なことに類例を思い出せません。ただ「ペテウコピ」(pet-e-u-ko-hopi-i で「川・そこで・互い・に・捨て去る・所」、即ち「二股」)の近くにあるので、「ポピ」あるいは「ホエ」は hopi で「捨て去る」ではないかと考えたいところです。

となるとあとは「ポエ」あるいは「ポイ」をどう考えるかですが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) に次のような項目がありました。

puy, -e ぷィ ①穴。=suy. ②【シャリ】頭;岬。③こぶ山。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.103 より引用)
……あ。puy は「穴」だと思っていたのですが、実は「こぶ山」と解する流儀もあったんですね。となると hopi-puye で「捨て去る・あのこぶ山」と考えられそうな気がしてきました。

「捨て去るこぶ山」とは何事……という話ですが、これは pet-e-u-ko-hopi-puye では長いのでザクッと省略された……と考えたいところです。平たく言えば「川がそこで互いを捨て去るところのこぶ山」だったのではないでしょうか。

なお、現在は「平取町荷負」ですが、この「荷負」は本来はもう少し東側の一帯の地名だったようです。本来の地名は「ポピポイ」に類したものだったのが、いつの間にか「荷負」に取って代わられたと見られます。

シラカベ川

suma-ka-pet?
岩・上・川
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)

2026年2月28日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1353) 「額平川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

額平川(ぬかびら──)

nokan-pira?
細かい・崖
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川の最大の支流で、中流部に 2022 年に完成した「平取ダム」が存在します。陸軍図には「額平川」と描かれていますが、『北海道実測切図』(1895 頃) には平取町芽生のあたりに「ヌカピラ川」と描かれています。

「形像のある崖」説

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Nuka pira   ヌカ ピラ   形跡アル崖
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.234 より引用)
山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には更に詳細が記されていました。

合流点東岸上手に崖があって,その上の部分に半円形の形像が見える。文化神オキクルミの妹が天に上る時に忘れていっただという。それでムイ・ノカ(箕・の形像)と呼ばれているとの事。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.365 より引用)
「合流点」とありますが、これは「沙流川本流と額平川」の合流点とのこと。「額平」は noka-pira で「形像・崖」だとあります。

地理院地図には、額平川を 2 km ほど遡ったところの南岸に、「ピリカノカオキクルミのチャシ及びムイノカ」と記されたスポットが、何故か複数描かれています。

山田さんは「この姿も萱野さんに案内してもらって教わった」と記していて、ここまで見る限り一点の曇りも無さそうに思えます。

「額平川」と「貫気別川」

ただ、松浦武四郎の記録を見ていくと、ちょっと様相が変わってきます。

現在は沙流川の支流が額平川で、額平川の支流として「貫気別川」が存在することになっていますが、ところが戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

      ヌツケヘツの部
 此巻はサル川すじの支流ヌツケヘツ川すじを誌るすが故に、ヌツケヘツ誌ともすべけれども、其川口はサルフトえ落るが故、別に表題を別たずしてサル日誌となし置。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.13 より引用)
「サル川すじの支流ヌツケヘツ川すじ」とあり、ここでは「ヌツケヘツ」(=貫気別川)がの支流という扱いになっています。ただ不思議なことに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、現在の「貫気別」のあたりに「ヌツキヘツ」と描かれていて、この描かれ方は「額平川の支流」という扱いです。


戊午日誌「左留日誌」の記述はちょっと面倒なことになっていて……

     ヌツケベツフト
またヌカビラフトとも云り。前巻に志るすヘテウコヒの事なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.13 より引用)
これは沙流川の「貫気別川河口」は「額平川河口」とも言うよ……と読み取れます。河川において本流と支流が名前を共有するということは滅多にないと思うのですが、ちょっと面白い現象ですね。

「額平」はどこのことか

「額平」の地名解ですが、戊午日誌「左留日誌」には次のように記されていました。

扨また二股より左りの方川巾凡弐十七八間有り。是も十五六丁を上り見分致し帰りたりけるが、此方を
     ウカヒラ
と云本名ヌカヒラの由也。其名義は昔し爺二人婆一人レヽヱカニと云て、まがり刎て歩行しと云が故に如此号しと云へり。其訳未だしらず。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.29-30 より引用)
前述の通り、戊午日誌の「左留日誌 巻の三」は「ヌツケヘツの部」で、この「ウカヒラ」は「ヌツケベツ村」(=平取町貫気別)の先で出てきます。この描かれ方は「貫気別川との合流点より上流側が『ウカヒラ』」であるようにも見えますが、松浦武四郎は現在の平取町貫気別のあたりを「二股」と記録し、そこから「一字下げ」で「ヌツケベツ」とのその支流を記録しています。

「箕の形の岩崖」の初出は

かなりややこしいことになっているので、改めて箇条書きにすると……
  1. 平取町荷負で沙流川に合流するのは「ヌツケベツ」で、またの名が「ヌカビラ」である
  2. 「ヌツケベツ」と「ヌカビラ」は二股(平取町貫気別)で合流する
  3. 「ヌツケベツ」は「ヌカビラ」の支流である(一字下げ)
  4. 「ウカヒラ」(ヌカビラ)は本流だが、二股(平取町貫気別)より上流の名前(かもしれない)

……箇条書きにしてもややこしいですね(汗)。そもそも 1. と 3. は矛盾していますし、4. については恣意的な読み方かもしれません。あともう一つ、重要なポイントを追記すると……

  • 箕の形の岩崖の話は出てこない

という点です。松浦武四郎の記録が完璧だとは言いませんし、インフォーマントの選択でハズレを引いたのかもしれません。ただ noka(形像)の話の初出が『永田地名解』であるという点に……どことなく胡散臭さを感じるんですよね(言い切ったな)。

というわけで

「じゃあ『ヌカビラ』はどういう意味なんだよ」とお叱りを受けそうですが、nokan-pira で「細かい・崖」だったんじゃないでしょうか。平取町芽生から平取ダムのあたりにかけて、細切れになった崖が点在しているようにも見えるので……。

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2026年2月27日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1352) 「オパラダイ川・シクケンオマナイ川・トウナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オパラダイ川

para-tay?
広い・林
(? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取ペナコリの西で「にぶたに湖」に西から注ぐ川です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「パラタイ」と描かれています。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「ハラタナイ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また其向
     ハラタイ
西岸小川也。其名義は山の中え入るや広きよゐ(林)と云事なりと。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.692 より引用)
永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。

Para tai   パラ タイ   野林 平野ニ樹木アル處松浦地圖「ハラタナイ」ニ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.230 より引用)
para-tay であれば「広い・林」と見て良さそうですね。「ハラタナイ」とあるのは少々謎ですが、para-tay-nay で「広い・林・川」ということでしょうか。文法的には違和感がありますが、taynay の間に存在した何らかの動詞が失われてしまった……と言ったところでしょうか。

現在は何故か「パラダイ川」となっていますが、「オ」がどこから出てきたのかは謎です。

シクケンオマナイ川

sir-kes-oma-nay
断崖・端・そこにある・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年2月26日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (18) 「いつか見た BMW」

室蘭市に入りました。室蘭 IC まであと 1 km ですが、見事にカントリーサインが邪魔をしちゃってますね(笑)。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

室蘭 IC の手前で中央分離帯のフェンス?が復活です。

2026年2月25日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (17) 「『SA でひと休み』」

伊達市に入りました。このカントリーサインは……謎ですね(敢えて調べようとはしないスタイル)。
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伊達市に入ったばかりですが、早速 1,500 m の追越車線がお出迎えです。舗装も直したばかりっぽいですね。

2026年2月24日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (16) 「Exit of Abuta-Toyako IC is 2km ahead」

洞爺湖町に入りました。写真は例によってチャカチャカと補正していますが、やや曇り気味なのは隠せませんね。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「清水トンネル」に入りますが、国境どころか町境ですら無く、長さも 860 m しかありません。国道 37 号だと「チャス隧道」と「クリヤ隧道」に相当するあたり……と言えば「ああ、あの辺か」と思う方もいらっしゃるかも?

2026年2月23日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (184) 函館(函館市) (1878/8/13(火))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第三十三信」(初版では「第三十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

社会的退屈

普及版の「第三十三信」は「風光」「風の都」「奇異な屋根の波」だけで終わっていますが、初版(完全版)の「第三十八信」はその後に「社会的退屈」「伝導拠点」「無秩序なミサ」「日々の説教」「仏教寺院」「仏教の説教」と題されたセンテンスが続いていました。これらは軒並み「普及版」でカットされた訳ですが、大半の内容が宗教に関するもので「奥地紀行」とは直接関係ないため、まぁカットされたのも当然の帰結でしょうか。

イザベラは函館に居住する外国人が 37 人いる……とした上で、「道徳や行状上の対立があるため社交的な交際はほとんどなく」と続けていました。同じ外国人なんだから仲良くすればいいのに……と思ったりもしますが、どのような相違が彼らの関係を冷え切ったものにしたのか、ちょっと気になるところです。

イザベラによると、9 月の末には「訪問者」が去り、長い冬が始まったあとは退屈な日々が続くとのこと。その代わりに夏の間は活況を呈していたようです。

 しかし今のような夏には頻繁に西洋の軍艦の出入りや健康志向の外国人──彼らは活火山であるコモノタケ[駒ヶ岳]の麓に横たわる幾つかの美しい湖や名ばかりの道都である遥か内陸の札幌までも冒険に出かける──の訪問があり活気づいています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
「コモノタケ」とありますが、原文では Komono-taki となっていました。これは文脈から読み取らないと訂正が難しそうですね。また「名ばかりの道都」という表現がありますが、これは the nominal capital を訳したもののようです。

要は the capital を「道都」と訳したことになりますね。時岡敬子さんは「首都」ならぬ「主都」と訳していましたが、「道都」のほうがより一般的な言い回しであるようにも思われます。

函館における外国人の娯楽としては、他には以下のものが紹介されていました。

 他には、山に登るか、開拓使庁の実験農場の一つであるナナイ[七飯]を見に行くか、シギ撃ちに行くだけが、気晴らしなのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
登山とシギ撃ちは「わかる」のですが、「気晴らしに開拓使の実験農場を見に行く」というのは、なかなか渋い趣味?なのでは……。

伝道拠点

続いては「伝道拠点」と題されたセンテンスが続きますが、原文では Mission Agencies とのこと。あと「そう言えば」という話ですが、原文では「第三十八信」自体に The Mission Work というサブタイトルがつけられていたのですが、面白いことに各種の和訳本ではどれもこの手のサブタイトルが無視されているんですよね。

 ここに伝道拠点のある四つの教会組織は教会の会堂を建てています。そのうち、カトリック教会は最も大きく、最も飾りたてられたギリシャ正教[ロシア正教]教会の壁は絵画で覆われています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
なるほど、「四つの教会組織」がそれぞれ宣教師を派遣していたのですね。「道徳や行状上の対立がある」というのも、なんとなく理解できそうな気もします。

ここまでは、ロシア正教は改宗に関しては大成功をおさめていますが、ニコライ神父がたった一人で、4、5 人の現地の助手を任命してやってきたのです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
ロシア正教は千島でも熱心に伝道活動を行っていて、少なからぬ千島アイヌがロシア正教に帰依したと聞いた記憶もあります。近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てたことが知られていますが、実はその設置の際に「ロシアの建てた標柱を撤去した」という話もあるとのこと。

父親が牧師で、「奥地紀行」でもカトリック教会の支援を受けていたイザベラとしては、もちろんスポンサーへの配慮もしっかりと行っていました。

最近数人の「シスター」が到着してカトリックの伝道に加わりましたが、多分伝道にはずみがつくでしょう。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
イザベラによると、「CMS」こと Church Mission Society英国聖公会宣教協会)は「どちらかといえば新参者」とのこと。

今私が滞在している家のデニング氏とサムライ階級出身の際立ってかしこい現地の福音伝道者である小川氏が担当しています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
歯の浮力で体全体が浮き上がりそうな勢いですね……(汗)。

しかし、蝦夷は仏教徒の地で、その一つの場所である大野では非常に反発が強い。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
高畑さんは翻訳の専門家では無い(と思う)からか、ちょくちょく文体がブレることがあるような……。「蝦夷は仏教徒の地」とありますが、道南は早くから和人の居住が認められた「和人地」であり、「蝦夷は仏教徒の地」という言い回しは若干主語が大きすぎるようにも思われます。

イザベラは「荷駄用の子馬」に乗って大野に向かいます。

 私たちは荷駄用の子馬に乗って、探検旅行に行きました。「蝦夷登り」と呼ばれるのに適当な歩調で行ける路がずうっと続いています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
「蝦夷登り」は、原文では Yezo Scramble と表現されていました。「適当な歩調で行ける」は at a pace felicitously とのこと。

土地の主部と頭に当たる部分を繋ぐ土地の首にあたる部分を過ぎると、輝かしい太陽の光を浴びながら、砂地を行く、楽しい乗馬旅行でした。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134 より引用)
なんか原文の紹介ばかりになっちゃってますが……(汗)。原文では After leaving the neck of land which unites the headland with the mainland とあります。これは函館駅のあたりから七重浜に向かっていた、ということでしょうか……?

 砂地の荒川村から、風光の美しい村落、非常に美しい森林に囲まれた田舎を通って大きな村である大野へと乗馬道は導かれます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.134-135 より引用)
この「砂地の荒川村」が謎なのですが、地図を眺めてもそれらしい地名を見つけられません。あ、もしかして「有川埠頭」の「有川」でしょうか? 原文が the sandy village of Arakawa となっているのが諸悪の根源なのですが……。

「大野」と言えば現在の北斗市(旧・大野町)ですが、イザベラは次のように記していました。

そこには政府から配給されたたくさんの外国の木々や花々が生い茂っています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
イザベラは何度か「ナナイの実験農場」のことを記していますが、『七重官園』は現在の七重小学校の近くに存在したとのこと。大正時代の『陸軍図』ではその跡を確認できないのですが、これは 1894 年に既に廃止されていたからかもしれません。


一方、イザベラが向かった大野には農事試験場があり、現在も「北海道立道南農業試験場」として存続しているようです。イザベラはこの農業試験場に向かった、ということなんでしょうか……?


大野の近くには、カシワの一種の丈夫な葉をえさにしている山繭の丈夫な絹の生産の操業をしている官営の工場があります。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.135 より引用)
「山繭の丈夫な絹の生産」というのは「製糸工場」かと思ったのですが、どうやら「大野養蚕場」が存在していたとのこと。時岡敬子さんの訳も若干ニュアンスが異なるように見えるので、これは原文に当たるべきですね。

Near Ono there is a Government factory, where they are utilising the strong silk of the mountain silk-worm, which feeds on the tough leaves of a species of oak.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)
これは……敢えてケチをつけるならばイザベラの文章そのものに対してでしょうか。間違っている訳では無さそうですが、どうにも意味が掴みづらいように思えます(自分には)。高梨謙吉さんなら訳文をしれっと三つに分割しそうな予感も……。

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2026年2月22日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1351) 「看看川・マカウシノ沢川・ペナコリ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

看看川(かんかん──)

kankan
小腸
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
沙流川の東支流で、「びらとり温泉ゆから」の北を流れて「にぶたに湖」に注いでいます。国道 237 号の橋は「看々橋」という名前です。

北海道実測切図』(1895 頃) には「カンカン」という名前で描かれていました。北に「ポンカンカン」という支流もあったみたいです。ピッタシですね(何が)。


東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にも「カンカン」という川が描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過る哉
     ホンカンカン
東岸に小川有。其名義は鹿の腸也。昔し此処に鹿の腸を神が童子共え呉給ひしかば、我も我もともらひしとかや。よつて号る也。しばし過て
     カンカン
東岸平地に相応の川也。其名義前に云ごとし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中』北海道出版企画センター p.689 より引用)※ 原文ママ
なんか色々と「地名説話」らしきことが記されていますが、永田地名解 (1891) を見てみると……

Kankan   カンカン   曲折 類膓ヲ「カンカン」ト云此處曲折甚シ故ニ名ク
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.231 より引用)
随分とシンプルになりましたね。この kankan については『地名アイヌ語小辞典』(1956) にも立項されていました。

kan-kan, -i かンカン 原義‘小腸’。川など小腸のように屈曲して流れている部分をいう。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.43 より引用)
看看川は、巨視的にはそれほど迂回しているようには見えませんが、細かいレベルでかなりクネクネした川なので、{kan-kan} で「小腸」と呼んだ……ということなのでしょうね。

図らずも松浦武四郎と永田方正の「記録に対する姿勢の違い」が明らかになりましたが、松浦武四郎の「説話的な解」を永田方正が「現実的な解」にサクッと置き換えてくれるのは、ぶっちゃけとても助かるんですよね(まぁ度が過ぎることが多いのがアレですが……)。

マカウシノ沢川

mak-us-i??
奥に・ある・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)