この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
普及版の「第三十四信」は「伊藤の非行」と「『宣教師式』」、そして「失敗の予言」の三つのセンテンスが含まれていますが、初版(完全版)はその後に「日本の医者」「函館病院」「刑務所」「刑務所の快適さ」「菊の栽培」「盆祭り」「祝日の大群衆」と題されたセンテンスが含まれていました。それにしても大胆にカットしたものですね……。
伊藤の非行
多くのセンテンスがカットされた「第三十四信」ですが、「奥地紀行」の同行者でありイザベラを除けば最重要人物とも言える「伊藤鶴吉」についての話題はしっかりと「普及版」でも残されていました。イザベラは「旅行の準備はできた」としながら、函館の居心地の良さもあり「毎日ぐずぐず滞在している」と記し、それに続いて「伊藤について不愉快な釈明があった」と記しています。
イザベラが横浜で伊藤を雇用した際のやりとりは普及版の「第四信」(完全版では「第六信」)に記されています。詳しくは『日本奥地紀行』を読む (20) 東京 (1878/6/7) をご覧ください……と書こうとした、いや、書いたのですが、え、14 年前の記事……?(汗)
イザベラは奥地紀行に同行する「通訳」の面接を行い、有力な候補者が 3 人に絞られた……というところで、突然「なんの推薦状も持たない男」がやってきて、それが当時 20 歳だった「伊藤鶴吉」でした。
彼の言うところでは、米国公使館にいたことがあり、大阪鉄道で事務員をやったという。東のコースを通って北部日本を旅行し、北海道 では植物採集家のマリーズ氏のお伴をしたという。植物の乾燥法も知っており、少しは料理もできるし、英語も書ける。一日に二五マイル歩ける。奥地旅行なら何でも知っているという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
これは確かに「ほほう」と言いたくなる経歴です。そして何故推薦状を持っていないのかを問いただしたところこの模範的人物を気どった男は、推薦状を持っていないのを、「父の家に最近火事があって、焼いてしまった」と弁解した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
これは……。どこからか「あらかじめ証拠の方は隠滅しておくのである」と聞こえたような気が……。イザベラは「マリーズ氏は手近にいないので、聞くわけにもいかなかった」とした上で、
それよりもまず、私はこの男が信用できず、嫌いになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
と続けていました。イザベラから見て伊藤は容姿の面でも優れず、推薦状は持たず、明らかに胡散臭くて信用できない人物だったのですが、しかし、彼は私の英語を理解し、私には彼の英語が分かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
という、根本的にして重大なチェックポイントをクリアしていたのが伊藤しかいなかったということで、渋々?通訳として雇うことにした……という経緯がありました。どうやらこの後、伊藤はイザベラに次のように釈明?していたらしいのですが……
あなたも記憶されているように、推薦状なしで彼を雇ったのだが、雇ってから彼は、パークス夫人と私に対し、前の主人のマリーズ氏が彼に帰ってきてくれというのに対し「ある婦人と契約を結んだ」からと言って断った、と告げたのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
ところが、イザベラは函館でマリーズ氏と会い(!)、マリーズ氏から次のように「真相」を聞かされます。ところが、今当地にマリーズ氏がおり、氏の説明により私は、伊藤は当時すでに氏と七ドルの月給で氏の要求する期間だけ勤めるという契約を結んでいたのだが、私が一二ドル出すと聞いて氏のところから逃げて来て、嘘をついて私のところに勤めることにしたのだということが分かった!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
いやー、これは……(笑)。伊藤はどうやらマリーズ氏と「オプション契約」を結んでいたにもかかわらず、そのことを隠してイザベラの求人に「応募」し、ちゃっかりと採用を勝ち取ってしまった……ということだったようです。イザベラは「氏のところから逃げて来て」と記していますが、Wikipedia の「チャールズ・マリーズ」によると、イザベラの奥地紀行の前年(1877 年)12 月に離日していたとあります。
イザベラは「マリーズ氏は手近にいないので、聞くわけにもいかなかった」と記していましたが、伊藤がイザベラの面接を受けたのが 1878 年 6 月で、この時点ではチャールズ・マリーズは中国大陸、あるいは台湾にいたと推定されます。伊藤としては「マリーズが日本にいない時点で自分は(契約上)フリーである」と考えていたのかもしれません。
ところが(Wikipedia によると)マリーズは 1878 年の夏(日付は不明)に再来日していて、「オプション契約に基づき」伊藤を再雇用しようとしたところ、伊藤はイザベラの通訳に「転身」していた……というオチだったようです。
マリーズ氏は、この背信行為によって非常な迷惑をうけ、彼の植物採集の完成に多大の不便を感じている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
改めて時系列で整理してみると、イザベラは「背信行為」としたものの、伊藤にしてみれば「不幸なダブルブッキング」だったとも言えるかもしれません。というのは、伊藤はたいへん器用で、氏が草花をうまく乾燥させる方法を教えこんだばかりでなく、種子の採集に二日も三日も出かけることを委せられるほどになっていたからである。私はそれを聞いてまことにすまないと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
今回、改めて普及版の「第四信」を読み直したのですが、伊藤はイザベラに「伊藤に非があるとするならば、「オプション契約」の件をイザベラに告げていなかった点ですが、口約束、あるいは社交辞令と捉えていた可能性もあったかもしれません(仮に「契約」を交わしていたとしても、その拘束力についてちゃんと理解していなかった可能性もありそう)。
伊藤が通訳としてのみならず、実務面でも優秀だったことはこれまでのエピソードでも何度も語られていますが、これはマリーズによる「教育」の成果も含まれていた可能性がありそうです。
氏は、伊藤が氏のところに来た頃は悪い少年であったが、その欠点もいくつか矯正してやったし、忠実に勤めたことと思う、と語っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342-343 より引用)
イザベラはチャールズ・マリーズよりも 20 歳も年上だったという点も留意すべきかもしれません。イザベラと伊藤は 26 歳差でしたが、マリーズと伊藤は 6 歳しか歳が離れていなかったため、マリーズと伊藤はイザベラとの間よりもフランクな間柄だった(あるいは伊藤が勝手にそう感じていた)可能性も考えたくなります。まぁ、チャールズ・マリーズにしてみれば「通訳・伊藤はワイが育てた」と思っていたでしょうし、「日本に戻ってきたときはよろしくな!」と釘を差していたつもりだった、ということなのでしょう。
私はマリーズ氏と領事館で会って、私の北海道旅行が終わったら、伊藤をその正当な主人に返すことに手はずを決めた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
イザベラも流石の女傑と言ったところか、「私の北海道旅行が終わったら」伊藤を返す……と話をつけたとのこと。さすがに函館から先を通訳無しで進むのは困難だ……と判断したのでしょうね。一方のチャールズ・マリーズも、今度は「伊藤を帯同して中国・台湾を回るつもりだ」と語ったのだとか。マリーズの「助手」として活躍できるだけのスキルを身につけていたということなのかもしれませんが、「また
「宣教師式」
イザベラの東京での「面接」に同席したヘボン博士も、イザベラの出発後に伊藤についての悪い噂を耳にして心配していたとのこと。ただイザベラは伊藤について「最初に嘘をついただけで、今まで彼に悪いことは何もない」と擁護しています。もっとも彼の信仰する神道も、その程度しか彼を教えていないのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
と一刺しすることを忘れていないのは、さすがはイザベラ姐さん……。イザベラは伊藤に給料を手渡した時に「礼儀作法が気に入らない」と告げたところ、伊藤は素直に「態度を改めます」と返したものの……
「しかし」と彼はつけ加えて言った。「私はただ宣教師の礼儀作法をまねしただけです!」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
このあたりの反骨精神?は、やはり 20 歳の若造らしい感じがしますね(笑)。‹ 前の記事
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