(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
池売川(いけうりがわ)
e-kewre-i??
頭(水源)・を削る・もの(川)
頭(水源)・を削る・もの(川)
(?? = 旧地図等に記載あり、既存説に疑問あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
振内町は主に沙流川の北岸に市街地が広がっていて、中学校などがある南岸へは道道 797 号「貫気別振内線」の「国道 237 号は振内の東の「振内橋」で沙流川を横断しているのですが、不思議なことに「振内橋」のすぐ西で「池売川」が南から沙流川に合流しています。陸軍図を見るとフレナイ(=振内)からの幹線道路は沙流川の北側を東に抜けていたので、現在の「振内橋」が架けられたのは「池売橋」よりも後だったのかもしれません。
「ケウレ」は「削る」
『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「イケウシリ」と描かれています。ただ戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。
行まゝ十七八丁にて
イケウレリ
右の方小川。其名義は船を作りに行て削ると云儀のよし也。ケウレは削ると云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.65 より引用)
どうやら「イケウ「イケウレリ」に「池売」という字が当てられたことで「レ」の音が落ちて「いけうり」になったと思われますが、振内中学校の南に「池売」という名前の四等三角点(標高 203.9 m)があり、1947 年の点の記には「イケウレリ」とルビが振られていました。
「削る」と「はつる」
永田地名解 (1891) には次のように記されていました。Ikeure-i イケウレイ 木ヲ斫ル處 斧ニテ木ヲハツルヲ「イケウレ」ト云フ「斫ル」にはルビが振られていないのですが、どうやら「はつる」と読むようですね(「木ヲハツル」ともありますし)。
kewre は松浦武四郎も記した通り「削る」を意味するとのこと。i-kewre-i で「それ・を削る・ところ」と読めそうで、これは戊午日誌「左留日誌」の解とも永田地名解とも一致します。
一本の原木から街作りまで
ただ、仮に「木を削るところ」だったとして、何故イケウレリで木を削る必要があったのか……という問題が出てきます。一本の原木から街作りまでを一貫して行う製材所があった……とも考えづらいですし。一応、戊午日誌「左留日誌」には次のように答が記されているのですが……
此辺椴山計にして是を土人等材木山と云へり。其義サル場所にて用ゆる処の材木皆此辺より出す也。よつて号るとかや、ホロサルよりして此材木山え凡弐里と云也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.65 より引用)
あれ、改めて見てみると割と完璧な答なのでは……?「エケウレリ」?
遅まきながら 『北海道実測切図』(1895 頃) を見てみると、そこには「ただ「実測切図」が「エ──」としたのかは実はかなり謎で、他の記録は軒並み「イ──」となっていました。実際には「イ──」に近い形で認識されていたと見るべきですが、となると何故「実測切図」では……という話に無限ループしてしまいます。
| 午手控 (1858) | シュッタ | - | イケウレリ |
|---|---|---|---|
| 戊午日誌 (1859-1863) | シユツタ | フウレナイ | イケウレリ |
| 東西蝦夷山川地理取調図 (1859) | シユツタ | - | イケウシリ |
| 永田地名解 (1891) | シュータ | - | イケウレイ |
| 北海道実測切図 (1895 頃) | - | フレナイ | エケウレリ |
| 陸軍図 | - | フレナイ | イケウレリ |
| 地理院地図 | シュッタ川 | 振内川 | 池売川 |
そういえば
この kewre という語は『地名アイヌ語小辞典』(1956) には立項されておらず、代わりに kewru-ru で「大きな道」という語がありました。この kewru-ru は【K】とあり「樺太方言」という扱いのようですが、根っこは kewre と近い、あるいは同じだったんじゃないでしょうか。茂岩山(もいわやま)
mo-iwa?
静かな・霊山
静かな・霊山
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「池売川」の北東に聳える山で、山頂付近には同名の三等三角点もあります(標高 403.1 m)。三角点の名前は「もいわやま」ですが、地理院地図の「地名情報」は「しげいわやま」とのこと。そりゃないわ……(汗)。手元の資料にはこの山についての情報を見つけられず、『北海道実測切図』(1895 頃) や『陸軍図』でもこの山名は確認できません。ただ 1915(大正 4)年の時点で「俗稱モイワ山」とあるので、戦前からそう呼ばれていたことは確認できます。
「モイワ」は mo-iwa で「小さな・岩山」だったと考えたいところですが、むしろ「静かな・霊山」と捉えたほうがいいかもしれません。
改めて『地名アイヌ語小辞典』(1956) から(一部を)引用しておくと……
mo も 《完》静かデアル(ニナル)。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.59 より引用)
iwa イわ 岩山;山。──この語は今はただ山の意に用いるが,もとは祖先の祭場のある神聖な山をさしたらしい。
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.38 より引用)
と言ったところです。mo って pirka などと同じく完動詞だったんですね。‹ 前の記事
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