この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。
熱狂的歓迎
イザベラと伊藤を乗せて青森を夕方に出港した船は、夜間の荒れた海を往くこと 14 時間ほどで、ついに函館に到着しました。日が上ってからも強風はまた出てきた。十四時間で六〇マイル進んだ後に、船は函館港の岬に到達した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
60 マイルは約 96 km ほどですが、Google マップで青森 FT から函館 FT(津軽海峡フェリー)の距離を確認したところ 111 km とのこと。なお現在の津軽海峡フェリーは青森・函館間を 3 時間 40 分で結んでいるので、イザベラの船は 4 倍ほど時間がかかったことになります。風が吹き、雨は土砂降りで、アーガイルシア(スコットランド西部の州)の悪天候の日に似ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
「アーガイルシア」は "Argyllshire" で、グラスゴーの西のあたりとのこと。山岳地帯がそのまま海に沈降したような地形のようです。風と雷雨、そして「北海の荒れすさぶ音」が、北の島に上陸しようとする私を猛烈に歓迎してくれたわけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
イザベラは、ついに「奥地紀行」のゴールである「蝦夷地」への上陸に成功したのですが、さすがに感無量だったのかもしれませんね。横浜あたりから函館まで船で移動すればもっと楽勝だったのですが、まぁ、それだと「ほんとうの日本」を見ることができなかったので。イザベラは函館の印象を、こんな風に記していました。
ジブラルタルのような岩だらけの岬、冷血のように見える灰色の町、険しい山腹に散在する松の木、実に多くの灰色の小舟、碇泊中のいくつかの汽船や外国船、たくさんの平底船が荒れる海上を軽く走る姿などが、雨や波しぶきの合間からちらりと見ることのできたすべてであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
「ジブラルタル」というのは言いえて妙かもしれませんね。湾自体の大きさは似たようなものですが、ジブラルタル海峡は津軽海峡よりも狭く、南側に「陸奥湾」に相当するような大きな湾はありません。前述の通り、「津軽海峡フェリー」は青森・函館間を 3 時間 40 分で結んでいますが、ジブラルタル海峡を航行するフェリーは 1 時間程度で海峡を渡ってしまうとのこと。函館については「冷血のように見える灰色の町」としつつも、「平穏な北国らしい光景が私を嬉しくさせてくれた」とも記していました。イザベラはイングランド北部のヨークシャー生まれですが、ヨークシャーは緯度だけで言えばサハリン北部やカムチャツカ南部と似たようなものだったりするので、函館の「北緯 41 度」というのは全然
風の中の上陸
イザベラと伊藤を乗せた船は、夜間の荒天の中を函館に向かったのですが、何故そこまでして航海を強行したのかは謎です。函館側でもまさかこの天気の中で船が出るとは考えなかったらしく、イザベラは「誰も私を迎えに来てくれなかった」と記しています(汗)。それで私は五十人の日本人と一緒に、甲板のある平底船 の頭部に固まって乗った。嵐のような風であったので、上陸するまで半マイル進むのに一時間半もかかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
ん、イザベラは「誰も私を迎えに来てくれなかった」と記していますが、もしかして、船が着岸する準備すらされてなかったということなんでしょうか。イザベラの「奥地紀行」は表題にも記した通り、1878(明治 11)年の出来事です。鉄道(JR 奥羽本線など)が未開通なのは理解していたつもりでしたが、日本で「電話」が(限定的に)実用化されたのが 1877(明治 10)年の出来事だったらしいのは失念していました。要は、当時は「電話」が事実上「存在しなかった」ということです。
それから私は風の吹いている波止場で雨の中を待っていた。そしてようやく、遅くまで寝ていた税関の役人が起こされた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333 より引用)
これ、やはり受け入れ準備ゼロだったっぽいですよね……(汗)。当時は電話が使用できず、また無線通信も実験段階だったので、「狼煙を上げる」以外の通信方法が無かったのかもしれませんが。似たような認識の齟齬はイザベラの側にもあったようで、領事館でレセプションが予定されていたことを知らなかったため、教会に向かってしまったとのこと。
私は領事館で歓待されることになっていたのだが、それを知らなかったので、ここの教会伝道館に来た。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.333-334 より引用)
イザベラは夏の大雨の中を青森まで移動し、そのまま大荒れの海を函館に向かったこともあり、自身を「文化的な住宅に入れるような服装ではなかった」と記していました。その一方で、ここまでの旅で得た達成感はかなりのものがあったようで、惨めな身なりであることを忘れさせたようです。しかし私は、あらゆる困難を克服したという勝利感を当然味わってもよい気がする。私が東京を出発するときには考えたことのないほどの多くのことをなしとげたのだから。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.334 より引用)
旅路の終わり
イザベラにとって、「北国」に「戻ってきた」ことは随分と大きな影響を与えたらしく、次のように綴っていました。北の海の轟く音はなんと音楽的に聞こえることか!吹きすさぶ風が唸り吼える音はなんと私の心を励ましてくれることだろう!烈しく雨が吹きつけてくるのさえ、わが家にいるような気がする。震えるような寒さが私を奮い立たせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.334 より引用)
「震えるような寒さが私を奮い立たせる」というのは印象的な一節ですね。またイザベラは、横浜や新潟では(あと日光でも?)「文化的な生活」を謳歌したものの、旅の途中では「宇宙人」を見るかのような好奇の視線に曝され続けていました。「条約港」として開港していた函館では、イザベラは久しぶりに「文化的な生活」を取り戻すことができたようで……
ドアに鍵をかけられる部屋にいることがどんなに嬉しいことか、担架式ベッドではなく、ほんもののベッドに横になり、良い便りをのせた二十三通の手紙が来ているのを発見し、英国人の家の屋根の下の暖かく静かなところでそれらを読むことができるのは、どんなに嬉しいものか、とてもあなたには想像できないでしょう!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.334 より引用)
『日本奥地紀行』は(イングランドに住む)イザベラの妹に当てた書簡という形を取っていますが、この記述を見る限り、実際に手紙のやり取りが行われていたようですね。ライト兄弟が飛行機を飛ばしたのは 1903(明治 36)年なので、当時は日本を訪れるには船に乗るしかなかったことになります。日本とイングランドの間の郵便は船で運ぶしか無かったということになるのですが、当時すでにそういったサービスがあった……ということになるんでしょうか。
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