2025年9月7日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1279) 「ツケナイ川・リクンヌシ山」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ツケナイ川

tuki-oma-nay?
その小山・そこに入る・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ベッチャリ川の北支流で、リクンヌシ山の南を流れています。浦河町ベッチャリ(おそらく通称)の道道 746 号「高見西舎線」に「ツケナイ橋」が存在しますが、ツケナイ橋が渡っている川はベッチャリ川の筈です。

北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい川が描かれているようにも見えますが、川名は見当たりません。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「トキヲマナイ」という名前の川が描かれていました。

「トーオマナイ」?

改めて『北海道実測切図』を眺めてみると、リクンヌシ山の南ではなく東に「トーオマナイ」という川が描かれていることに気づきました(現在の「ナイ左川」)。

「ツケナイ」と「トーオマナイ」は別物のように思えますが、「トキヲマナイ」が「トーオマナイ」にリニューアル(?)し、最終的に現在の「ツケナイ川」というネーミングに変化した……という可能性も出てきます。

二つ目の「トキヲマナイ」

……などと思いつつ、再度『東西蝦夷山川地理取調図』を眺めてみたところ、「ナエイ」(=ナイ川)の支流にも「トキヲマナイ」と描かれていました。まるでポケットの中のビスケットのように「トキヲマナイ」が増殖を始めてしまったようです。

今更ですが、表にまとめてみましょうか。

水系東西蝦夷山川地理
取調図 (1859)
北海道実測切図
(1895 頃)
陸軍図 (1925 頃)国土数値情報
ベッチャリ川支流トキヲマナイ-ツケナイ澤ツケナイ川
ナイ川支流トキヲマナイトーオマナイ-ナイ左川

「なんだか良くわからない」ということが可視化されましたね(ぉぃ)。

「トキヲマヘツ」と「トキヲマナイ」

戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。何しろ「トキヲマナイ」が複数存在するので、記述も二通り存在します。まずは現在の「ツケナイ川」に相当すると考えられる「トキヲマナイ」のほうから。

またしばし山間に上り行て
      トキヲマヘツ
 左り方小川。其名義不解也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.475 より引用)
しれっと川名が「トキヲマ」になっていますが、意味は良くわからないとのこと。

一方で現在の「ナイ左川」に相当すると考えられる「トキヲマナイ」ですが……

 また並びて
      トキヲマナイ
 此処左りの方小川。其名義は陶器有る沢と云儀。其訳は昔し金丁ども此処に多く住ひし時に、爰にて焼ものを多くなしたり。其破れ欠が多く此沢に有るが故に号るとかや。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.477 より引用)
金丁かねほりども」は当地で砂金を採取していた和人のことだと思われます。「ここにて焼ものを多くなしたり」とありますが、tuki-oma-nay で「酒杯・そこにある・川」と解したということでしょうか。

「その小山に入る川」?

一方で、永田地名解 (1891) には次のような記述がありました(現在の「ナイ左川」のように思われますが、詳細は不明です)。

Tuk oma nai   ト゚ク オマ ナイ   凸處ニアル澤
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.274 より引用)※ 原文ママ
tuk-oma-nay で「小山・そこに入る・川」と読めます。tuk の所属形は tuki とのことなので、tuki-oma-nay で「その小山・そこに入る・川」だったかもしれません。間の -oma が略されて tuki-nay となり、それが「ツケナイ川」になった……と見ることも可能でしょう。

浦河町ベッチャリの北に「ツケナイ」という名前の四等三角点(標高 176.1 m)が存在しますが、この山を tuki と呼んだのであれば納得の行くネーミングですね。峠を挟んで北向かいにも同名の「トキヲマナイ」があったというのは謎ですが、二つの「トキヲマナイ」を行き来するルートがあったのでしょうか。

ただ、このあたりの松浦武四郎の記録は聞き書き(実際に踏破していない)らしいので、インフォーマントの勘違い、あるいはミスコミュニケーションがあった可能性もあるかもしれません。

リクンヌシ山

yuk-un-nisey??
シカ・そこに入る・断崖
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
浦河ベッチャリの北東に位置する山で、陸運局の主「リクウンヌシ」という名前の四等三角点(標高 428.5 m)が存在します。400 m ほど南東にも標高約 427 m の山があり、ほぼ同じ高さの山が二つ並んでいることになります。

東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい山が描かれておらず、『北海道実測切図』(1895 頃) にも山名の記入はありません。

陸軍図では、南東側(三角点が存在しない側)を頂上とする「リクンヌシ山」が描かれていました。どうやら「リクンヌシ山」の頂上は三角点の無い側(南東側)とされているようですね。

「高みにある原野」???

北海道地名誌』(1975) には次のように記されていました。

 リクンヌシ山 439.0 ㍍ 元浦川中流左岸の山。高みにある原野の意か。
(NHK 北海道本部・編『北海道地名誌』北海教育評論社 p.574 より引用)
rikun-nup で「高いところにある・原野」ではないかとのこと。珍妙な解に思えますが、それを否定するだけの材料も無いのが正直なところです。

更科さんはどこからこの解を捻り出したのだろう……と思ったのですが、改めて 『北海道実測切図』を見てみると妙なことに気が付きました。浦河町野深かみのぶかのあたりに「レクンヌップ」と描かれているのですが、これが rikun-nup で「高いところにある・原野」だった可能性がありそうです。

不思議なことに、メナ川、あるいはポンメナ川のあたりには「ラウンヌップ」と描かれていて、これは {ra-un}-nup で「{低いところにある}・原野」と読めます。これはどういうことだろう……と首を傾げたのですが、上野深のあたりは河岸段丘が存在しているので、南北ではなく「台地の上」と「台地の下」の呼称だったと考えれば納得できそうです。

「リクンヌシ」と「ユクンニㇱュ」

rikun-nup は、本来は山の名前ではなく元浦川対岸の上野深のあたりの台地を指していた可能性が出てきました。さてどうしたものか……と思ったのですが、『北海道実測切図』には「リクンヌシ山」の北西に「ユクンニㇱュ」という川が描かれていることに気が付きました。

戊午日誌 (1859-1863) 「宇羅加和誌」には次のように記されていました。

凡十丁計にして
     ユクヌシ
右の方小川。其名義は毎に鹿が居ると云事の由なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.478 より引用)
yuk は「シカ」ですが、いつもシカがいるのであれば yuk-us-i で「ユクシ」になりそうな気もします。「ユクシ」であれば yuk-nu-us-i で「シカ・大猟・いつもする・ところ」あたりでしょうか。

シカの追い落とし猟?

あるいは……ですが、実測切図の「ユクンニㇱュ」からは yuk-un-nisey で「シカ・そこに入る・断崖」だった可能性もあるかもしれません。シカを崖に追い詰めて、崖の下に落としたところを捕まえる……という古典的なスタイルの猟法があるとのこと。

平取紫雲古津の西の山に「ユックチカウシ」という地名があるのですが、山田秀三さんによるとこれは yuk-kut-ika-us-i で「シカ・岩崖・こぼれる・いつもする・ところ」ではないかとのこと。「ユクンニㇱュ」でも似たような猟法が行われていた……と想像するのは、ちょっとやりすぎでしょうか。

この「ユクンニシュ」を遡った先に「リクンヌシ山」があるのですが、上野深のあたりの rikun-nupyuk-un-nisey がいつしか混同され、何故か両者が折衷した形の「リクンヌシ山」と呼ばれるようになってしまった……と考えてみたいです。

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