2025年9月21日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1285) 「オチミナイ川・久遠川・庄内川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オチミナイ川

e-chimi-nay?
頭(水源)・かき分ける・川
(? = 旧地図に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町三石本桐(かつて日高本線・本桐駅のあったあたり)の東に「本桐橋」がありますが、橋の北東あたりで鳧舞けりまい川に注ぐ東支流です。

北海道実測切図』(1895 頃) には「オチミナイ」と描かれていますが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれているものの川名の記入はありません。


「オチミナイ」を素直に読み解くと o-chimi-nay で「河口・左右にかき分ける・川」となるでしょうか。地名における chimi は、巨大な熊手で丘を引っ掻いたような場所で良く見かける印象があるのですが、「オチミナイ川」についても水源のあたりがやたらと細かい谷に「分かれている」印象があります(黒松内町の白炭とか)。

やや恣意的な解釈かもしれませんが、「オチミナイ」ではなく e-chimi-nay で「頭(水源)・かき分ける・川」だったのではないでしょうか。あるいは o-chimi-nayo- の前の何かが略されていて、「(何かが・)そこで・かき分ける・川」だったかもしれません。

久遠川(くどう──)

kut-nay?
帯状に岩層の見える崖・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町三石歌笛の西で鳧舞川に合流する北支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「クッナイ」とあり、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「クト」と描かれているように見えます。


戊午日誌 (1859-1863) 「計理麻布誌」には次のように記されていました。

是よりして又川まゝ上り行に
     ク ト
左りの方相応の川也。其名義はむかし此川にて七ツ葉といへる草を以てウラエを作りて魚を捕しによつて此名有とかや。クトとは七ツ葉の事。また虎杖・鍬形草等を云よし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.500 より引用)
「クトとは七ツ葉の事」とありますが、知里さんの『植物編』(1976) には「草本植物の莖で中空圓棒形をなすもの」とあります。両者が指すものが同一なのかは、正直ちょっと良くわかりません。

一方で永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Kut   クッ   岩帶 岩層帶状ヲナス處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.268 より引用)
素直に解釈するとこうなるでしょうね。kut-nay で「帯状に岩層の見える崖・川」となるかと思われます。kutnay の間には何らかの動詞があり、それが略されたかもしれません。

庄内川(しょうない──)

so-nay
滝・川
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
新ひだか町三石歌笛の東で鳧舞川に合流する南支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シヨーナイ」と描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では、少し位置がおかしいものの「ソウノイ」と描かれた川に相当するでしょうか。


戊午日誌 (1859-1863) 「計理麻布誌」には次のように記されていました。

また此処にて右の方えこへて本川まゝを上り行候やしばしにして
     ソウナイ
右の方小川也。其川口平地にて谷地多し。其名義は滝の沢と云事なれども、今はなしと。昔し地震の時滝がなく成りし由申伝ふ。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.500 より引用)
「昔は滝があったけど、失われて今はなし」とのこと。永田方正メソッドですね……(汗)。まずは so-nay で「滝・川」と考えるべきでしょうか。

so は「滝」と解釈されることが一般的ですが、この「滝」の解釈は非常に広いもので、ちょっとした落差でも so とされることがあったみたいです。また so は「水中のかくれ岩」を意味することもあるので、現代風の解釈では「滝」が見当たらない場合も少なく無さそうに思えます。

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