2026年5月31日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1390) 「パンケユウケシュオマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

パンケユウケシュオマナイ川

panke-iwor-kes-oma-nay??
川下側の・狩場・末端・そこにある・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 274 号が右折(あるいは左折)する交叉点から 2.5 km ほど北東に進んだところに「発電所」という名前の四等三角点があるのですが(標高 290.1 m)、その南あたりで沙流川に注ぐ南支流です。川名は国土数値情報によるもので、地理院地図には川として描かれていません。

謎の「ユーケシオマナイ」

妙なことに(そしてこれは良くあることでもありますが)、『北海道実測切図』(1895 頃) では現在「パンケユウケシュオマナイ川」だとされる川には名前が記されておらず、西隣にある、現在は「三号の沢川」とされる川に相当する川が「ユーケシオマナイ」と描かれていました。


ただ、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」の内容と照らし合わせると……

戊午日誌北海道実測切図国土数値情報
ヲカシユク(ウ)ンベオカシュウンペ岡春部川
ウツフヌプリパオマナイ銀沢川
ハンケウサフパンケウシヤㇷ゚パンケウシャップ川
ヘンケウサフ--
フンカウユーケシオマナイ三号の沢川
-ペンケウシヤㇷ゚ペンケウシャップ川
ユウケシヨマナイ(無名の川)パンケユウケシュオマナイ川
ヲアイタカリオアイタカレップオワイタカ沢

こんな感じになり、『北海道実測切図』の「ユーケシオマナイ」の位置がむしろ疑わしく見えてきます。

「鹿が沢山いる沢」?

戊午日誌「左留日誌」には次のように記されていたのですが……

またしばし過て
     ユウケシヨマナイ
右のかた小川有。其名義は鹿が沢山に有る沢と云儀のよしなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.73 より引用)
これは……。yuk が「鹿」で、「ヨマナイ」は oma-nay あたりかなぁ……と考えたくなります。となると「ケシ」は kes で「末端」になりそうですが、「鹿の末端」というのは文法的にナンセンスなので、見直しが必要です。

では kes ではなく us だったらどうだろう……とも思ったのですが、usoma はどっちも動詞なので、この二つが続くというのもあり得ない組み合わせです。そして us ではなく kus だったとしても同じ問題にぶつかってしまいます。

kes は「末端」を意味する位置名詞ですが、それとは別に「まだら」をも意味するとのこと。ただ yuk-kes-oma-nay だとすれば「鹿・まだら・そこにある・川」ということになり、文法的な問題は減ったとは言え意味不明であることには違いはありません。

kes は「残り」?

萱野茂のアイヌ語辞典』(2010) によると、kes-anpa で「追いかける」あるいは「追い出す」を意味するとのこと。kes には「末端」や「尻」のように位置を示すだけではなく「残り」と捉えることもできるようで、kes-anpa は「残りを・持つ」と分解できるみたいです。

地名では rur は「海」や「海水」を意味するとされますが、沙流方言では rur は「(味噌汁などの)汁(の部分)」を意味するそうで、rur-kes で「汁の残り」となるみたいです。となると yuk-kes は「鹿の残り」と捉えることも(理屈の上では)可能ですが、わざわざ「どんくさい鹿のいる川」と呼ぶのも妙な感じがします。

ちょいと無理のある仮説

いくつかの可能性を考えてみたのですが、どれも一長一短です。仮に kes に「足跡」という意味があるのであれば yuk-kes-oma-nay は「鹿・足跡・そこにある・川」となり、シンプルで違和感のない解釈と言えます。

ただ手元の辞書類では kes に「足跡」という意味があったとは記されていないため、これは……いくらなんでも無理がある、でしょうね。

「『いつもあれを取るところ』にある川」?

となると「ユウケシ」の意味を再検討すべきなのかもしれません。yúkus-to で「ヒシの実をとる沼」を意味しますが、知里さんによるとこれは i-uk-us-to で、i-uk-us-to は「あれを・取る・いつもする・沼」と読み解けます。

「ユウケシ」ならば i-uk-us-i で「あれを・取る・いつもする・ところ」と読めそうな気がするので、「ユウケシヨマナイ」であれば {i-uk-us-i}-oma-nay で「{あれを・取る・いつもする・ところ}・そこにある・川」と読める……かもしれません。

「狩場の末端にある川」?

随分とくどい解釈になってしまいましたが、あるいはもっとシンプルに iwor-kes-oma-nay で「狩場・末端・そこにある・川」だった可能性もあるかもしれません。「イウォ」が「ユウ」に転訛したという想定ですが、松浦武四郎が記録した「鹿が沢山いる」という解釈とも一応整合性は取れている……とも言えます。

知里さんは iworiwa-or だったのではないかと考えていたようで、この iwa は「岩内川」などの iwa と通じるものがあるかもしれません(逆に iwaiwor に通じると見ることもできるのかも)。

yuk(鹿)という解釈を捨てるのはちょっと勇気が必要でしたが、よく考えてみると松浦武四郎も「鹿」とは記したものの yuk とは記してないんですよね。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2026年5月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1389) 「右左府・ホロカワウシャップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

右左府(うさっぷ)

o-sapa?
河口・頭(岬)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
旧・門別町と合併する前の旧・日高町は、1943 年までは「右左府村」という名前でした。「右左府」という地名は姿を消しましたが、道道 847 号「三岩日高線」の「右左府橋」があるほか、「ホロカワウシャップ川」を遡った先の占冠村との境界付近に「右左府」という名前の二等三角点が存在しています(標高 932.2 m)。

地名としての「右左府」は過去のものになりつつありますが、川名としては中心街の西に「パンケウシャップ川」とその支流の「ホロカワウシャップ川」が、そして中心街の東に「ペンケウシャップ川」が健在です。

北海道実測切図』(1895 頃) にも「パンケウシヤㇷ゚」と「ペンケウシヤㇷ゚」が描かれていて、両者の間に漢字で「右左府」と描かれています。「右左府」という漢字表記は、『角川日本地名大辞典』(1987) によると「明治40年浦河支庁長西忠義が,左右に道が通じるという意味で決定したという」とありますが、『北海道実測切図』に既に「右左府」とあるので、それ以前から使用されていたことになりますね。


なお『改正北海道全図』(1887) には「宇佐津富」とあるほか、「宇社布」という表記もあったとのこと。この「右左府」は、後に国道 274 号「石勝樹海ロード」が開通することで道東と道央を結ぶ交通の要衝になるのですが、それを見越したようなネーミングだったというのは(偶然とは言え)面白いですね。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が描かれていないのですが、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ウ ツ フ
左りの方小川。椴の木多し。此処までイワチシより凡また雪路一日に来るとかや。其名義は本名フツホコマナイのよし也。椴多きと云儀。また少し上りて
     ハンケウサフ
     ヘンケウサフ
左りの方小川。其名義未だ解せず。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.72 より引用)
永田地名解 (1891) にはそれらしい記述が見当たりません。

山田秀三さんの旧著『北海道の川の名』(1971) には次のように記されていました。

 北海道行政区画便覧に、「両方に出入口のある所」と書いてある。誰かの判読であろうが、少々無理な解に見える。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.146 より引用)
これは「ウシャップ」ではなく「右左府」の由来を記したようにも取れそうな……?

 萱野茂さんは、二つの川が、「互に並んで下っている」からこの名がついたのか、と意見を述べられた。ウ・サㇷ゚「U-sap 互に・下る(複数形、単数は san)」、と読まれたもの。
(山田秀三『北海道の川の名』モレウ・ライブラリー p.146 より引用)
u-sap で「互いに・山から浜へ出る」ではないか、ということですね。現在はこの解釈が広く受け入れられているようですが、他所で類例を見ないという点が引っかかっています。

ついでに言えば、地名は特定の場所、あるいは山や川を意味するポインターとして機能するもので、特にアイヌの地名は直球(ストレートなネーミング)が多いことで知られます(例えば poro-nay で「大きな・川」とか)。

もちろん「互いに並んで下っている」というのもアリだと思いますが、「あー、あの川ね」と万人が納得するネーミングなのだろうか、と疑問に思ったりもします。

では「ウシャップ」とは何なのか……ですが、やはり地形的な特徴を指していると考えたくなります。国道 237 号と国道 274 号が交叉する十字路の北に「日高神社」がありますが、その後背にちょこんとした山があるように見えます。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
あとは「ペンケウシャップ川」沿いにも似たような山があれば良いのですが、ある……と言えばあるような気も。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「頭」や「岬」を意味する sapa という語があるので、o-sapa で「河口・頭(岬)」だったのではないか……と考えてみました。地名としては不完全な形なので、本来は o-sapa-us-i で「河口・頭(岬)・ついている・もの」あたりで、o-sap-us-i と転訛した後に -us-i が落ちたとすれば「ウシャップ」に近い形になるんじゃないかな……と。

ホロカワウシャップ川

horka-{o-sapa}?
U ターンする・{右左府}
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年5月29日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1388) 「サンナコロ川・岡春部川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

サンナコロ川

san-enkor?
出ている・鼻(岬)
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「日高大橋」のすぐ北で、東から沙流川に合流する支流です。川の上流部の北側には同名の四等三角点も存在します(標高 572.2 m)。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名を確認できませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「サンナコロ」という名前の川が描かれていました。

鯨のしっぽ?

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     サンナコロ
右の方小川也。其名義は、鯨の尾を昔しひらひ持て居たりしが、空腹に成し時に此処にて喰て仕舞しと云事のよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.71 より引用)
これはまた……。日高エリアで最も山深いところに「クジラ」が出てくるのは明らかに奇妙なので、これは「駄洒落」だったと考えるべきでしょう。

となると、どこをどう解釈して「鯨の尾」が出てきたのか……という話になるのですが、知里さんの『動物編』(1976) には次のように記されていて……

( 5 ) nokór-humpe [<no(? <nu 豊漁)kor(もつ・支配する)humpe(クジラ)] 小イワシクジラ《H.》
  注.──‘もしおぐさ’に‘ノコル’‘髭の好き’とある。
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.176 より引用)※ 原文ママ
以下のように続いていました。

( 6 ) sinokor-humpe [<si-(真の・大なる)nokor-humpe(小イワシクジラ)] イワシ・クジラ [Balaenoptera borealis LESSON]《H.》
(知里真志保『知里真志保著作集 別巻 I「分類アイヌ語辞典 動物編」』平凡社 p.176 より引用)
あー、「サンナコロ」はこの sinokor だったのかもしれませんね。「ヒゲの好き」というのは謎ですが、『アイヌ語古語辞典』(2013) には「ノコル」の項に「髭のごとき」とあるので……あ。「好き」は「如き」の誤植だった可能性が(汗)。

「御影」の旧称「佐念頃」

ということなので、鯨のことは忘れて「サンナコロ」の意味するところを考えてみましょう。道東は清水町の JR 根室本線に「御影駅」という駅があるのですが、この駅は 1907 年の開業から 15 年ほど「佐念頃駅」という名前でした。

『北海道実測切図』には「サ子ンコロ」という川も描かれていましたが、現在は川名も「御影川」になってしまったとのこと(品のない戯れ歌で名が広まってしまったため、改名を余儀なくされたのかも?)。

この「サ子ンコロ」こと「御影川」ですが、河岸段丘を斜めに切り取るような形で流れていて、川の南が尖った出崎のようになっていました。そのことを形容して san-enkor で「出ている・鼻(岬)」と呼んだのではないかと考えられています。

「サンナコロ川」の河口付近を見てみると……これも岬のようになっていますね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
ということで、「サンナコロ川」は san-enkor で「出ている・鼻(岬)」か、それに極めて近い地名だったと見て良さそうに思えます。

なお国道 237 号に「三菜頃橋」という橋がありますが、この橋は「サンナコロ川」の 3 km ほど北で「モミジノ沢川」を横断するものです。陸軍図を見ると「サンナコロ」は川名のみならず地名としても認識されていたようですが、「三菜頃橋」のあたりはどちらかと言えば「岡春部」に近かったと目されるので、橋の名前が何故「三菜頃」なのかは謎です。

岡春部川(おかしゅんべがわ)

o-kus-un-pet?
河口・向こう側・にある・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年5月28日木曜日

Bojan のホテル探訪~「ANA クラウンプラザホテル稚内」編 2017(朝食編)

新しい朝が来ました。希望の朝です Day 5 は道内最終日となります。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

部屋のガラス越しなので色々と反射していたのですが、最近のフォトショは「反射の消去」ができるようになっていて、これがなかなか使えるんですよね。GPU ありきの機能でやや安定性に欠けるきらいはありますが、唯一無二の機能なので……。

2026年5月27日水曜日

Bojan のホテル探訪~「ANA クラウンプラザホテル稚内」編 2017(お部屋編)

稚内の定宿」こと「ANA クラウンプラザホテル稚内」にやってきました。まぁ記録を確かめるとこの時が 4 度目(5 泊目)の宿泊に過ぎないんですが、これでも道内で一番利用しているホテルのような気が……。
なお初めて利用した時は「稚内全日空ホテル」で、その後「ANA クラウンプラザホテル」から切り離されて現在は「サフィールホテル稚内」となっています。今となっては貴重な?「ANA クラウンプラザホテル」時代の記録……のような気もしますが、実は翌年(2018 年)にも宿泊していたみたいです。さすが(自称)定宿……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

「茜雲」の写真が印象的なカードキーの裏にはホテル名と所在地、電話番号などが記されています(IC カードキーなので部屋番号の記載はありません)。なおこの電話番号は現在も使用できるみたいです。

2026年5月26日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (60) 「ゴールイン!」

18 時を 2 分ほど過ぎたところで、ついに稚内市に入りました!
流石にこの時間になると一瞬で光量を確保するのは難しいようですね(シャッタースピードは 1/30 秒とのこと)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

更喜苫内(さらきとまない)

稚内市更喜苫内さらきとまないを北に向かいます。近くを流れる川名は「サラキトマナイ川」ですが、地名は今でも漢字 4 文字の「更喜苫内」です。

2026年5月25日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (59) 「風吹いてまんねん」

道道 923 号「メナシベツ豊富線」の分岐が近づいてきました。どうやらこの先の交叉点が道道 923 号の「終点」のようです。
右折すると「豊富バイパス」の「豊富幌加 IC」ですが、ここからだと距離的に遠回りになるのでそのまま直進します。このあたりには宗谷本線の「徳満駅」があった筈ですが、2021 年 3 月で廃止されています。……ん、2017 年時点では普通に営業中だったんですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

右側(106 系標識の裏側)には「開源パーキングシェルター」の案内がありました。「パーキングシェルター」は吹雪いた時などの避難施設で、トイレや電話もあるとのこと。一般的な「パーキング」とは異なり「シェルター」なので、雪に埋もれる心配は無い(圧倒的に少ない)筈です。

2026年5月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1387) 「岩内川・ルベシュベナイ川・那英」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

岩内川(いわないがわ)

iwa-nay
岩山・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
日高町(合併前の日高町エリア)の南西部にある岩知志ダムのダム湖に東から合流する支流です。何故か『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川が見当たりませんが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「イワナイ」と描かれています。


あ、そう言えば国鉄富内線の「日高岩内駅」がダム湖の北に存在していたんでした。ということで『北海道駅名の起源』(1973) を見てみると……

  日高岩内(ひだかいわない)
所在地 (日高国)沙流郡日高町
開 駅 昭和39年11月5日 (客)
起 源 この地の字(あざ)名は「岩内」であるが、岩内線の「岩内」と区別するため国名の「日高」をつけたものである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.99 より引用)
「駅名の起源」を「所在地の地名に由来」とするのはめちゃくちゃ合理的ですよね……。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

また夫よりしばし過て
     イワナイ
扨右の方小川。其川すじ岩崖のみ有るが故に号しなりとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.70 より引用)
「岩山」や「山」を意味する iwa という語があるので、iwa-nay で「岩山・川」ということみたいですね。「イワナイ」の「イワ」は iwa で「岩山」の場合と iwaw で「硫黄」の場合があるのですが、ここでは前者の可能性のみ提示されているので「硫黄」である可能性は捨てて良さそうな感じでしょうか。

少し気になるのが、インフォーマントが「右の方」としている点です。「相応の川」としたシキシャナイ(=イワチシ川)と比べても大差ないサイズ感だと思うのですが……。『北海道実測切図』にも川名が見当たらなかったり、妙に扱いが悪いようにも思えるのも気になります。

ルベシュベナイ川

ru-pes-pe-nay?
路・それに沿って下る・もの(川)・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年5月23日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1386) 「シキシャナイ岳・ペンケイワナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シキシャナイ岳

sir-kisan-nay??
山・耳・川
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「イワチシ川」を遡った先に存在する、標高 1,058 m ほどの山です。国道 237 号には「上岩知志」の手前(南西側)に「敷舎内」という名前のバス停が存在します。また「イワチシ川」河口の南、沙流川にある北海道電力岩知志発電所の東に「敷舎内」四等三角点が存在するとのこと(標高 254.1 m)。

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) や『北海道実測切図』(1895 頃) にはそれらしい地名が見当たらず、永田地名解 (1891) にも記載が無さそうですが、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     シキシヤナイ
右のかた相応の川也。其名義は槲柏の実多く流れ来りしより号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.69-70 より引用)
岩知志」の項でも触れましたが、この「シキシヤナイ」は現在の「イワチシ川」のことだと考えられます。何故か「シキシヤナイ」は川名としては失われてしまったものの、上流部の山の名前として生き延びていた……ということのようです。

「槲柏の実」はどんぐりのことだと思われるのですが、頭註にも「どんぐりは一般にコム」と指摘があります。知里さんの『植物編』(1976) を見ても「どんぐり」は komtun あるいは nisew あたりで、「シキシヤナイ」との繋がりが見えてきません。

一旦「どんぐり」のことは忘れて、他の可能性を考えてみましょうか。『藻汐草』(1804) によると「シキシヤラゲシ」が「目尻」を意味するとのこと。知里さん風に分解してみると sik-kisar-kes で「目・耳・尻」となるでしょうか。

kisar(耳)は to-kisar で「沼の奥が耳のように陸地に入りこんでいる部分」(『地名アイヌ語小辞典』(1956) p.130)だと思っていたのですが、同じく『地名アイヌ語小辞典』の kisar の項には……

kisar, -a キさㇽ 耳。地形では耳のように突出ている部分。→ to-kisar. [<key(頭)sar(尾)?]
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.49 より引用)
むむ、これは……! 改めて地形図で「敷舎内」三角点を見てみると……

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
これは……確かに耳のように突き出ていますね。沼の奥が耳のように入り込んでいるのが to-kisar なので、山が耳のように突き出ているのは sir-kisar で「山・耳」ということに……?

r は,n の前に来れば,それに引かれて n になる」ので(『アイヌ語入門』(1956) p.169)sir-kisar-naysir-kisan-nay で「山・耳・川」となりますね。「シㇽキシャンナイ」がいつしか「シキシャナイ」と発音されるようになり、ついにはその意味するところが忘れられてしまった……のかもしれません。

ペンケイワナイ川

penke-iwa-nay?
川上側・岩・川
(? = 旧地図等で未確認、既存説、類型あり)

2026年5月22日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1385) 「岩知志・イツカナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

岩知志(いわちし)

iwa-chisi
岩山・あの立岩
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「幌去橋」から東側一帯の地名です。このあたりにはかつて国鉄富内線が通っていて「岩知志駅」も存在していましたが、幌去橋のすぐ南に「仁世宇駅」があったことが影響してか、駅は北よりの「上岩知志」にありました(駅名は「岩知志」でしたが)。

『北海道駅名の起源』(1973) には次のように記されていました。

  岩知志(いわちし)
所在地 (日高国)沙流郡平取町
開 駅 昭和39年11月5日 (客)
起 源 地元の人びとの希望により字(あざ)名の「岩知志」をとったものである。
(『北海道駅名の起源(昭和48年版)』日本国有鉄道北海道総局 p.99 より引用)
「地名解」という意味では何の説明にもなっていないようにも思えますが、手前の「仁世宇」や次の「日高岩内」、更にその次の「日高三岡」もこんな感じでした(汗)。

「岩知志駅」のあった「上岩知志」のあたりで「イワチシ川」が東から沙流川に合流しています。ただ 『北海道実測切図』(1895 頃) では何故か無名の川として描かれていました。


ただ「岩知志」という地名表記は明治の頃から使われていたようで、1909(明治 42)年には「岩知志駅逓」が開設されたとの記録もあります。『陸軍図』にも現在の「岩知志」と(通称)「上岩知志」に相当する位置に「岩知志」と描かれていました。

山? それとも川?

『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にもそれらしい川名は見当たりませんが、戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし上り行や、両岸いよいよ峻しく成て皆椴山のよし也。行て
     イワチシ
扨右の方高山二ツ有。其山の凹し処よりして落来るによつて号るとかや。雪の時には此処まで一日にホロサル村より上るによろしと。夏分は中々行難きよし也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.70 より引用)
これはちょっと微妙な書き方で、山の名前を記したようにも見えますが、「其山の凹し処よりして落来る」ともあるので、川の名前であるようにも見えます。このあたりの地名・川名も記録によって異同がありそうなので、表にまとめてみましょうか。

戊午日誌東西蝦夷山川地理取調図北海道実測切図国土数値情報
イツカナイイツカナイイㇰカナイイツカナイ川
シキシヤナイシラリチセウシナイ(無名の河川)イワチシ川
-?-ペンケイワナイ川
-?(無名の河川)パンケイワナイ川
イワチシ???
イワナイ?イワナイイワナイ川
ヘンケイワチシ???
フツホコマナイ?(無名の河川)(無名の河川)
サンナコロ?サンナコロサンナコロ川

戊午日誌の「イツカナイ」と現在の「イツカナイ川」が同一であると仮定した場合は、だいたいこんな感じでしょうか。注目すべきは
  • 現在の「イワチシ川」は戊午日誌の「シキシヤナイ」である可能性が高い
  • 戊午日誌の「イワチシ」は現在の「上岩知志」よりも北にあった可能性が高い
ということで、故に……ではないのですが、戊午日誌の「イワチシ」が本当に川の名前であったかどうかも、疑う余地がありそうに思えます。

国土数値情報が「パンケイワナイ川」とする川は、なんと「ペンケイワナイ川」よりもに存在することになっています(panke は「川下側」を意味します)。国土数値情報の川名は当てにならない……と言えそうでしょうか。

「イワチシ」が川名では無いんじゃないか……という疑惑?については、実は松浦武四郎がほぼ答を残していました。

また夫よりしばし過て
     イワナイ
扨右の方小川。其川すじ岩崖のみ有るが故に号しなりとかや。またしばし過て
     ヘンケイワチシ
同右の方也。是また前に云ごとし。此山も前の並びに有なり。依て此名有るなり。またイワナイは其間よりの沢也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.70-71 より引用)
あー、やはりそういうことですか。実は「夏分は中々行難きよし也。」と「また夫よりしばし過て」はそのまま繋がっているので、要は
  • 「イワチシ」→「イワナイ」→「ヘンケイワチシ」である
  • 「イワナイ」は「イワチシ」と「ヘンケイワチシ」の間の川である
ということになります。

中凹み? それとも立岩?

山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) には次のように記されていました。

チㇱは「中凹み」の意。この書き方から見ると,岩知志はイワ・チㇱ(iwa-chish 山の・中凹み)だったのではなかろうか。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.367 より引用)
この解釈だと「岩内川」の前後に「中凹み」があったことになるのですが、おそらくそうではなく、岩内川の前後に聳える山そのものが「イワチシ」(と「ヘンケイワチシ」)だったと見るべきでしょう。更科源蔵さんの『アイヌ語地名解』(1982) には次のように記されています。

 岩知志(いわちし)
 沙流川上流の農村。アイヌ語イワ・チシで、イワは神聖な岩山、チシは立岩のこと。
(更科源蔵『更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解』みやま書房 p.79 より引用)
「チㇱは『中凹み』の意」と「チシは立岩のこと」で完全に解釈が逆転していますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見ると……

chis, -i ちㇱ ①立岩。②【ナヨロ】岩石の坊主山;丸い岩山。③中凹み。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.20 より引用)
更科さんは①のように解釈し、山田さんは③のように解釈したというオチだったようです。「イワチシ」は iwa-chisi で「岩山・あの立岩」と考えて良いのではないでしょうか。

イツカナイ川

ika-nay?
溢れる・川
(? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型あり)

2026年5月21日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (58) 「ちょっと手前に『豊富町』」

「豊富町」の案内板が……なんか凄いところにありますね。画角の問題もありますが、そもそも右側にあるという時点で……。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

所在地はこのあたりで、どう見ても幌延町内です。Google マップの町境は時折間違っていることがありますが、ここは地理院地図も Google マップも同じように描いているので、案内板の場所が 0.7~0.8 km ほどズレてるということ……なんでしょうね。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
なお、この案内板の近くに「南沢入口」バス停があるそうですが、利用実績が気になるところです。

「注意 幅員減少 この先 200 m」と書かれた警告板が見えます。

2026年5月20日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (57) 「『豊富遠別線』と『稚内幌延線』」

踏切が見えてきました。この踏切は「第 2 幌延留萌線踏切」という名前とのこと。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

踏切を渡って幌延の中心部に向かいます。「稚内しんきん」のすぐ近くに「幌延十字街」バス停があり、札幌行きの「特急はぼろ号」の乗り降りができるとのこと。

2026年5月19日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (56) 「『ホロベー』と『ブルピー』」

2020/10/30 に閉鎖された旧・天塩大橋を渡って幌延町に入りました。ついに宗谷総合振興局エリアに入ったことになりますね。ん、天塩郡は留萌振興局と宗谷総合振興局エリアに跨っている……?
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

ところで、この旧・天塩大橋の現況はどうなっているのでしょう。Google マップの航空写真で見てみると……え、これは……どういうこと?

ほろのべ →

旧・天塩大橋を渡った先には信号機のついた十字路があり、道道 121 号「稚内幌延線」が接続していました。

2026年5月18日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (55) 「旧・天塩大橋」

国道 232 号の、国鉄羽幌線の路盤を転用した区間を走って北に向かいます。
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

この平坦で緩やかな右カーブ……いかにも線路跡という感じですよね。猿払村の道道 1089 号「猿払鬼志別線」と似た感じがありますが、道道 1089 号も国鉄天北線の路盤を転用している筈なので、似ているのも当然かも。

2026年5月17日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1384) 「オタリマップ川・パンケセップ川・ペンケロップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

オタリマップ川

ota-or-oma-p??
砂浜・その中・そこにある・もの
(?? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、独自説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
平取岩知志の道道 638 号「宿志別振内停車場線」沿いを北に流れて沙流川に注ぐ支流です。Google マップによると、「オタリマップ川」河口の 0.3 km ほど西(下流側)に「オタリマップチャシ跡」があるとのこと。

ただ不思議なことに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) にはそれらしい川名が見当たらず、また 『北海道実測切図』(1895 頃) には現在の「パンケセップ川」に相当する位置に「オタリマプ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

またしばし過て
     ヲタリヲマナイ
同じく右の方小川。むかし此処まで舟が上りしとか申伝ふなり。其名義は本名レタリヲマナイにして、白土有る沢と云事ならざる哉。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.69 より引用)
前述の通り、現在の「オタリマップ川」と実測切図の「オタリマプ」は位置が異なります。戊午日誌の記録と合わせて沙流川の右支流を表にまとめてみると……

戊午日誌東西蝦夷山川地理取調図北海道実測切図地理院地図
ムセウムセウニセウ川仁世宇
--プンカウ-
ケナシヨシナイケナシハヲマナイイヨロマプオタリマップ川
ヲタリヲマナイヲホヽナイオタリマプパンケセップ川
バンケヒイハンケヒイ
ベンケヒイヘンケヒイピピペンケロップ川
イツカナイイツカナイイㇰカナイイツカナイ川
シキシヤナイシラリチセウシナイ?(無名の川)イワチシ川

だいたいこんな感じでしょうか。戊午日誌の「ケナシヨシナイ」を実測切図の「イヨロマプ」としたのは、「ムセウ」(=仁世宇川)から「十五六丁も岩崖峨々たる処に傍ふて上りて」とあるため、実測切図の「プンカウ」では近すぎるとの判断に依るものです。

「オタリマップ川」の実際の位置がどこだったかは疑いの余地が大いにあるものの、松浦武四郎がインフォーマントの「シユツカトク」から聞いたところでは retar-i-oma-nay で「白い・もの・そこにある・川」だったのでは……とのこと。

ただ、ここまで色々と珍妙な解釈が開陳されてきたこともあるので、「『レタリ』が『ヲタリ』に化けた」というのは本当かなぁ……とつい疑ってしまいます。『北海道実測切図』を見る限りでは、「オタリマプ」は現在の「パンケセップ川」の位置にあったと思われるのですが、「実測切図」『陸軍図』「地理院地図」のどれも河口近くの沙流川に中洲が存在するように描いています。

となると ota-or-oma-p で「砂浜・その中・そこにある・もの」と考えることもできるんじゃないかなぁ……と。

パンケセップ川

panke-pipi?
川下側・小石がごろごろしている所
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)

2026年5月16日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1383) 「ペンケユパシュネナイ川・ペンケポロナイ川・ハタオマナイ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポンモワァップ川

pon-mo-ut-ta-p??
小さな・小さな・あばら・そこにある・もの
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

国道 237 号の「幌去橋」から仁世宇川沿いを 1.8 km ほど遡ったところに「仁世宇園」というヤマメ料理が味わえる釣り堀があるのですが、「仁世宇園」のすぐ近くで「ポンモワァップ川」が西から仁世宇川に合流しています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ポンモウッタㇷ゚」と「ポロモウッタㇷ゚」という川が描かれていました。

小さなエイが流れ着いた?

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      ホンモウツタ
      ホロモウツタ
 同じく左の方小川二ツ有。モウツタとは小さき鱏の事を云よし也。昔し海嘯の時此処え来り死し有りしによつて号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.66 より引用)※ 原文ママ

頭註には「鱏」は「えい かすべ」とあります。uttap は「エイ」を意味し、海嘯つなみでここまでエイが流されてきた……というストーリーのようです。

新冠に「スタップ川」という川があるのですが、この川も huttap で「カスベ(エイ)」ではないか……と言われています。この「カスベ(エイ)」は「横臥した山」の喩えではないかとも考えられるのですが、「ポンモワァップ川」のあたりにそれらしい山があるかと言うと……微妙ですね。

仁世宇川と国道 237 号の間の山が平べったい丘のようになっているようにも思えますが、「ポンモワァップ川」とは少し離れているようにも思えます。

「ポンモワァップ」は「ポンモウッタㇷ゚」の誤記だと考えられます。「ポンモウッタㇷ゚」は pon-mo-uttap で「小さな・小さな・エイ」ということになるでしょうか。「小さな」が形を変えて続くのも奇妙な感じがありますが、隣に poro- があるので不問にして良さそうでしょうか。

ただ、日高町富川から「仁世宇園」までは国道 237 号で 40 km ほど離れているので、流石にここまで津波が来たというのは俄には信じがたいというのが正直なところです。「エイが流されてきたので」は話を盛り過ぎた……と考えたいです。

小さな・あばら(川)?

では「モウツタ」とは何か……ということになるのですが、mo は「小さな」あるいは「静かな」で、ut は「あばら」を意味します(「ウトナイ湖」が有名)。ta は「打つ」「断つ」「切る」あるいは「掘る」「汲む」と言った意味の他に「そこ」あるいは「そこにある」という意味もあるので、mo-ut-ta-p だと「小さな・あばら・そこにある・もの」と解釈できる……?

「あばら」は、地名(地形)においては「本川に直角に近い角度で合流する」ことを形容しているとも言われます。「ポンモワァップ川」は仁世宇川に直角に近い角度で合流しているので、「あばら」と呼ぶのに相応しいと言えるかもしれません。

ここで改めて問題にしたいのが、何故 mo- を冠しているのか……という点です。moutmoutta と言った語があれば話は早いのですが、手元の資料を見た限りではそれらしい語は見当たらないように思えます。

敢えて mo- を冠しているのは、si- を冠した地名が近くにあるから……と考えたくなります。そう思って地図を眺めてみたところ、6~7 km ほど北に「シュウター川」があることに気づきました。これが si-ut-ta で「大きな・あばら・そこにある」だったとすれば……?

気になる点があるとすれば ut-ta という用例を見かけた記憶が無いというところです。sut-ta で「根もと・に(ある)」という例は見つかったのですが……。

シュウター川

si-ut-ta??
大きな・あばら・そこにある
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年5月15日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1382) 「ポンモワァップ川・シュウター川・新田押」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

ポンモワァップ川

pon-mo-ut-ta-p??
小さな・小さな・あばら・そこにある・もの
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「幌去橋」から仁世宇川沿いを 1.8 km ほど遡ったところに「仁世宇園」というヤマメ料理が味わえる釣り堀があるのですが、「仁世宇園」のすぐ近くで「ポンモワァップ川」が西から仁世宇川に合流しています。

北海道実測切図』(1895 頃) には「ポンモウッタㇷ゚」と「ポロモウッタㇷ゚」という川が描かれていました。

小さなエイが流れ着いた?

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

 またしばし過て
      ホンモウツタ
      ホロモウツタ
 同じく左の方小川二ツ有。モウツタとは小さき鱏の事を云よし也。昔し海嘯の時此処え来り死し有りしによつて号しとかや。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.66 より引用)※ 原文ママ
頭註には「鱏」は「えい かすべ」とあります。uttap は「エイ」を意味し、海嘯つなみでここまでエイが流されてきた……というストーリーのようです。

新冠に「スタップ川」という川があるのですが、この川も huttap で「カスベ(エイ)」ではないか……と言われています。この「カスベ(エイ)」は「横臥した山」の喩えではないかとも考えられるのですが、「ポンモワァップ川」のあたりにそれらしい山があるかと言うと……微妙ですね。

仁世宇川と国道 237 号の間の山が平べったい丘のようになっているようにも思えますが、「ポンモワァップ川」とは少し離れているようにも思えます。

「ポンモワァップ」は「ポンモウッタㇷ゚」の誤記だと考えられます。「ポンモウッタㇷ゚」は pon-mo-uttap で「小さな・小さな・エイ」ということになるでしょうか。「小さな」が形を変えて続くのも奇妙な感じがありますが、隣に poro- があるので不問にして良さそうでしょうか。

ただ、日高町富川から「仁世宇園」までは国道 237 号で 40 km ほど離れているので、流石にここまで津波が来たというのは俄には信じがたいというのが正直なところです。「エイが流されてきたので」は話を盛り過ぎた……と考えたいです。

小さな・あばら(川)?

では「モウツタ」とは何か……ということになるのですが、mo は「小さな」あるいは「静かな」で、ut は「あばら」を意味します(「ウトナイ湖」が有名)。ta は「打つ」「断つ」「切る」あるいは「掘る」「汲む」と言った意味の他に「そこ」あるいは「そこにある」という意味もあるので、mo-ut-ta-p だと「小さな・あばら・そこにある・もの」と解釈できる……?

「あばら」は、地名(地形)においては「本川に直角に近い角度で合流する」ことを形容しているとも言われます。「ポンモワァップ川」は仁世宇川に直角に近い角度で合流しているので、「あばら」と呼ぶのに相応しいと言えるかもしれません。

ここで改めて問題にしたいのが、何故 mo- を冠しているのか……という点です。moutmoutta と言った語があれば話は早いのですが、手元の資料を見た限りではそれらしい語は見当たらないように思えます。

敢えて mo- を冠しているのは、si- を冠した地名が近くにあるから……と考えたくなります。そう思って地図を眺めてみたところ、6~7 km ほど北に「シュウター川」があることに気づきました。これが si-ut-ta で「大きな・あばら・そこにある」だったとすれば……?

気になる点があるとすれば ut-ta という用例を見かけた記憶が無いというところです。sut-ta で「根もと・に(ある)」という例は見つかったのですが……。

シュウター川

si-ut-ta??
大きな・あばら・そこにある
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)

2026年5月14日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (54) 「実は大都会?」

天塩町に入ります。カントリーサインは牛が潮干狩りをする?シュールなイラストで、そのちょい後ろ(圧縮されてまるで横にあるみたいに見えますが)には「てしお温泉夕映」と「鏡沼海浜公園」、そして「川口遺跡風景林」の宣伝?が見えます。
「鏡沼海浜公園」と「川口遺跡風景林」の存在は今知ったのですが(汗)、特に「川口遺跡風景林」はちょっと気になります。機会があったら立ち寄ってみたいです。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

沿岸バスの「留萌十字街」行きワンステップバスがやってきました。長距離路線ということもあり、車内にラジオが流れている(こともある?)のだとか。

2026年5月13日水曜日

函館~稚内 北海道縦断 (53) 「たらこ色のアレ」

国道 232 号は「家具の秋山」の前で左に曲がるのですが、ここから 0.4 km ほどは「碁盤の目」の向き(方角)が変わります。どうやら国鉄羽幌線の進行方向に合わせたっぽいですね。
かなりどうでもいい話をすると、シャッターに政治家のポスターが貼られていたので、Photoshop で真っ白に見えるように加工を行いました。ポスターそのものを無かったことにするのは楽勝なんですが、真っ白にするのは意外と手間がかかるんですよね……。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

国道 232 号を北北東に向かいます。左に「セイコーマート遠別店」が見えますが、この看板も現在はかなり低い位置に移設?されています。

2026年5月12日火曜日

函館~稚内 北海道縦断 (52) 「消えたアンテナ」

歌越別橋」で「オタコシベツ川」を渡って遠別町に入ります。カントリーサインは橋を渡ってすぐのところにありますが、河川改修が行われたため、町村境と川の位置は厳密には一致していません。
このカントリーサインは稲とメロンをデザインしたものでしょうか。「日本最北の水田」が有名ですが、メロンも生産されている……?

なお「歌越別橋」には旧橋もあるのですが、現在は通行禁止のようです。


【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

いかにも「ひと雨降りました」という感じの路面の上には「自動速度取締路線」の看板が。いわゆる「固定式オービス」の存在を事前に警告するものです。

2026年5月11日月曜日

函館~稚内 北海道縦断 (51) 「☆ロマン街道」

初山別村は(通称?)金駒内の登坂車線を北に向かいます。1 km ほどの距離で 50 m ほど駆け上がることになるので、5 % 程度の上り勾配ということになりそうですね。
この登坂車線は 2015 年 8 月の時点で「建設中」だったので、実際に走るのはこの時が初めてだったでしょうか。苫前郡内の国道 232 号はアップダウンが多いので、もっと登坂車線が増えると嬉しいかもしれません。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

登坂車線は左カーブの先で終了です。

2026年5月10日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (1381) 「仁世宇」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

仁世宇(にせう)

不明
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
国道 237 号の「幌去橋」のすぐ近くで沙流川に合流する「仁世宇川」という北支流があり、この川を遡ったところが平取町仁世宇です。「仁世宇園」のヤマメ料理は絶品なんですよね……!

北海道実測切図』(1895 頃) には「ニセウ川」と描かれています。『北海道実測切図』では「──川」と描かれる川は珍しいのですが、「ニセウ川」はそんな珍しい川の一つ、ということになりますね。

ニセウ? ムセウ?

ところが、不思議なことに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「セウ」と描かれていました。


戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」にも次のように記されていました。

また少し上り
     ム セ ウ
左りの方相応の川也。其名義は本名ムヱセウにして、此川鱒多きが故に、ホロサルより皆取りに来て、其処にて皆煮て先喰ふよりして号しとかや。此川すじ両岸高山有て椴山也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.65-66 より引用)
どうやらこの川の名前は「ムセウ」で、しかも本来は「ムヱセウ」だったとのこと。

「ムセウ」じゃない「ニセウ」だ!

「ムセウ」がどこかのタイミングで「ニセウ」に化けたと見られるのですが、やはりと言うべきか、永田地名解 (1891) には……

Niseu   ニセウ   檞實ドングリ 此邊檞實最モ多シ故ニ名ク土人拾收シテ食料ニ充ツ○松浦高橋二氏ノ地圖「ムセウ」ニ作ル土人モ亦「ムセウ」ト云フモノアリ並ニ誤ル
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.233 より引用)
「『ムセウ』じゃない『ニセウ』だ!」と書かれていました。似たような流れをこれまで幾度も見てきましたが、永田方正が既存の説をバッサリ切り捨てて「新解釈」を打ち出してきた場合、後にそれは無かったことにされる……というケースが少なからずありました。

「珍妙な地名解」とは

ただ「仁世宇」の場合、永田地名解の「新解釈」がそのまま定着して現在に至ります。何故そうなったのかは、松浦武四郎が記録した内容が珍妙にして意味不明なものだったから……と考えたくなります。

沙流川とその支流の情報は戊午日誌「左留日誌」に記されているのですが、これまで見てきた中ではこんな珍妙な解がありました。

川名戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」地名解
アシバキ川アシバケ聾者がここに来て死んだから
パンケチエブ沢ハンケチユツフ源義経がここで舟を作ったから
オノマップ川アノセ河口部が畳を敷いたようだから
トウナイ川トナイ金持ちのお爺さんが疱瘡で子を亡くして泣いていたから
シュッタ川シユツタ老婆が此処に来て死んだから

これらの解は「地名説話」とも言うべきもので、概して荒唐無稽なものが多いのですが、更に 2~3 通りに大別できそうな気がします。ざっくり箇条書きにすると
  • 駄洒落(似た語彙からストーリーを「創造」する)
  • 故事(実際にそういった「事件」があった)
  • その他(不明)
と言ったところでしょうか。直近の 5 例では「アシバケ」(=アシバキ川)と「ハンケチユツフ」(=パンケチエブ沢)がおそらく「駄洒落」パターンでしょう。「アノセ」(=オノマップ川)も「駄洒落」の可能性が高そうに思えます。

「トナイ」(=トウナイ川)と「シユツタ」(=シュッタ川)は、単なる「駄洒落」と考えるには強引すぎるようにも思えるので、ベースとなる出来事(事件)が別に存在していた可能性を考えたくなります。

いずれにしても、これらの「珍妙な解」(=地名説話)は「地名解」とするには少々難があると思っています。特に「駄洒落」系の解は言葉遊びに過ぎず、「元ネタ」が存在することになるので、その「元ネタ」までたどり着くことで初めて「地名解」と言える……と考えたいところです。

「鱒を煮て食う」とは

本題に戻りますが、「仁世宇」について、松浦武四郎は「『ムセウ』は『ムヱセウ』で『ここで鱒を煮て食う』から」と記しています。「ムセウ」あるいは「ムエセウ」をどう解釈すると「鱒を煮て食う」になるのかですが、suwe あるいは suke で「煮る」を意味するとのこと。

つまり「ムセウ」あるいは「ムエセウ」は、mu-suwe あるいは mu-e-suwe だったと見られますが、ここで問題となるのが mu の解釈です。地名においては mu は「塞がる」あるいは「塞がっている」と解釈することが多く、「鱒を煮て食う」とは関係が無さそうです。

ただ ma であれば「泳ぐ」のほかに「炙る」や「焼く」と言った意味があります。また e は「そこで」や「頭」のほかに「食べる」という意味もあります。つまり ma-e-suwe は「焼く・食う・煮る」となる……ということになるでしょうか。

しかしながら、ma-e-suwe で「焼く・食う・煮る」という地名が果たして実在したかどうかは、かなり疑わしいと言わざるを得ません。では、何故そのような「珍妙な」伝承が存在し得たのか……という話になるのですが、
  • 駄洒落
  • 故事
  • その他(不明)
の 3 分類で考えた場合、「故事」であればもう少し文法的にマトモな言い回しになりそうに思えます(例えば「鱒をいつも煮たところ」となって然るべきです)。

つまり ma-e-suwe は「駄洒落」だったのではないか……というのが現時点での想像です。そして「一般的なアイヌ語地名」と比べると明らかに奇妙な形なので、永田方正は『北海道蝦夷語地名解』(1891) を編むにあたり *切り捨てた* ということなのでしょう。

「ムセウ」は本当に「ニセウ」だったのか

仮に「ムセウ」で「鱒を煮て食う」という解が「駄洒落」だったとしたならば、その「元ネタ」を探すべき……ということになります。永田方正は「『ムセウ』ではなく『ニセウ』だ」として、nisew は「どんぐり」だ……と記したのですが、
  • 松浦(武四郎)と高橋(景保?)の地図は、どちらも「ムセウ」
  • 「ムセウ」と言う地元民もいる
どこからどう見ても「ムセウ」なのに「いやいや『ニセウ』だよ」と強弁しているような……?

ここまで見てきた感じでは、松浦武四郎の記録は「駄洒落」だったのではと思えるのですが、一方で永田方正の「修正」も根拠がかなり疑わしいように思えます(極端な話、永田方正が理解できるアイヌ語の語彙を適当に引っ張ってきただけにも思えます)。

永田方正は「『ニセウ』(どんぐり)が『ムセウ』(焼く・食う・煮る)に化けた」と主張していることになるのですが、永田地名解の補足には「この辺で一番どんぐりが多く、地元民はそれを拾って食べている」とあります。

そんな「由緒正しい」地名が果たして *化ける* ものでしょうか。むしろ「ムセウ」に近い *それらしい語* を探し出してきて、それっぽい「ストーリー」を「創作」したように思えてしまうんですよね。

「仁世宇」どんぐり説は論理的におかしい点が多すぎる……というのが現時点での結論です。沙流方言では「どんぐり」は「ムセウ」と言うのだ……というのであれば万事解決なんですけどね。

極端な試案

仮に「ニセウ」ではなく「ムセウ」だったとした場合、mo-{sar} で「支流の・{沙流川}」だったりして……(それは確かに極端だね)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2026年5月9日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (1380) 「池売川・茂岩山」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シュッタ川

sut-ota??
麓・砂浜
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

道道 797 号「貫気別振内線」の「池売橋」の南西で、南から沙流川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シユツタ」という川が描かれています。

『北海道実測切図』(1895 頃) にはニセウ川の支流として「シュータ」が描かれていますが、振内の「シュッタ川」に相当する川名は見当たりません。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

     シユツタ
右の方平場の中に小川有る也。本名シユツタシヤリキと云よし也。其名義は姥が此処え来りて死せしと云儀のよし也。シユツタはフツの延て有る語かと思はる。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.64 より引用)

うばがここに来て死んだから」とありますが、この手の解釈はこれまでも大体ハズレだったので、今回もそうである可能性を考えるべきでしょう。

「本名シユツタシヤリキ」というのはちょっと興味深い記述ですね。「シヤリキ」は津軽の「車力村」にも通じるものがありますが、sarki で「葦」のようにも思えます。

一方、永田地名解 (1891) は異なる解を記していました。

Shu ta   シユータ   鍋ヲ作ル「シユツタ」ト發音ス
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.232 より引用)

「鍋好き」の面目躍如たる解ですね……。確かにそのように解釈することは可能なのかもしれませんが、本当にここで鍋を作ったのか、もしそうだとしたら何故地名になったのか、と言ったあたりが示されない以上、地名としての蓋然性に欠けると判断したいです。

「じゃあ、何なの?」という話になるのですが、そう聞かれたら「うっ」となるのが正直なところです。例によって推測で考えるしか無いのですが、「シュッタ」の「タ」は「砂」や「砂浜」を意味する ota なんじゃないかなぁ……と。

では残る「シュッ」は何か……ですが、「ねもと」あるいは「麓」を意味する sut という語があるので、sut-ota で「麓・砂浜」と考えられないかなぁ……と。

仮にそうだとすれば「ストタ」あるいは「シュトタ」となってしまうのですが、「シュトタ」が「シュツタ」となり、やがて「シュッタ」になったと考えることも……一応は可能なんじゃないかな、と思えてきました(「歌志内」のように「オタ」が「ウタ」に訛るケースも少なからずあるので)。

あるいは

si-ota で「主たる・砂浜」という可能性も考えてみました。陸軍図を見ると、このあたりは沙流川の流れが二手に分かれていて大きな中洲ができていたので、これを si-ota と呼んだのでは……という案です。

「シユータ」にも近くなるので悪くないようにも思えますが、普通は si ではなく poro(大きな)を使うことが多いと思われるのが(個人的には)減点ポイントでしょうか。

振内(ふれない)

hure-nay
赤い・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年5月8日金曜日

北海道のアイヌ語地名 (1379) 「シュッタ川・振内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

シュッタ川

sut-ota??
麓・砂浜
(?? = 旧地図等に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 797 号「貫気別振内線」の「池売橋」の南西で、南から沙流川に合流する支流です。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シユツタ」という川が描かれています。


『北海道実測切図』(1895 頃) にはニセウ川の支流として「シュータ」が描かれていますが、振内の「シュッタ川」に相当する川名は見当たりません。

戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には次のように記されていました。

     シユツタ
右の方平場の中に小川有る也。本名シユツタシヤリキと云よし也。其名義は姥が此処え来りて死せしと云儀のよし也。シユツタはフツの延て有る語かと思はる。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.64 より引用)
うばがここに来て死んだから」とありますが、この手の解釈はこれまでも大体ハズレだったので、今回もそうである可能性を考えるべきでしょう。

「本名シユツタシヤリキ」というのはちょっと興味深い記述ですね。「シヤリキ」は津軽の「車力村」にも通じるものがありますが、sarki で「葦」のようにも思えます。

一方、永田地名解 (1891) は異なる解を記していました。

Shu ta   シユータ   鍋ヲ作ル「シユツタ」ト發音ス
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.232 より引用)
「鍋好き」の面目躍如たる解ですね……。確かにそのように解釈することは可能なのかもしれませんが、本当にここで鍋を作ったのか、もしそうだとしたら何故地名になったのか、と言ったあたりが示されない以上、地名としての蓋然性に欠けると判断したいです。

「じゃあ、何なの?」という話になるのですが、そう聞かれたら「うっ」となるのが正直なところです。例によって推測で考えるしか無いのですが、「シュッタ」の「タ」は「砂」や「砂浜」を意味する ota なんじゃないかなぁ……と。

では残る「シュッ」は何か……ですが、「ねもと」あるいは「麓」を意味する sut という語があるので、sut-ota で「麓・砂浜」と考えられないかなぁ……と。

仮にそうだとすれば「ストタ」あるいは「シュトタ」となってしまうのですが、「シュトタ」が「シュツタ」となり、やがて「シュッタ」になったと考えることも……一応は可能なんじゃないかな、と思えてきました(「歌志内」のように「オタ」が「ウタ」に訛るケースも少なからずあるので)。

あるいは

si-ota で「主たる・砂浜」という可能性も考えてみました。陸軍図を見ると、このあたりは沙流川の流れが二手に分かれていて大きな中洲ができていたので、これを si-ota と呼んだのでは……という案です。

「シユータ」にも近くなるので悪くないようにも思えますが、普通は si ではなく poro(大きな)を使うことが多いと思われるのが(個人的には)減点ポイントでしょうか。

振内(ふれない)

hure-nay
赤い・川
(旧地図等に記載あり、既存説、類型あり)

2026年5月7日木曜日

函館~稚内 北海道縦断 (50) 「金駒内陸橋跡」

国道 232 号で初山別村初山別に向かいます。なんか空模様が随分と怪しくなってきましたが……
【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 8 月時点のものです。各種サービスの実施状況や利用時間などが現在と異なる可能性があります。

初山別は「初山別川」と「茂初山別川」の河口部の平野に形成されています。市街地の向こうに台地が見えますが、なんかこう……すごく……台地ですね(語彙力)。

2026年5月6日水曜日

北海道のアイヌ語地名 (1378) 「蜷摘橋・部鳧橋」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

蜷摘橋(になつみはし)

ninar-chimi-p?
台地・左右にかき分ける・もの(川)
(? = 旧地図等に記載あるが位置に疑問あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 131 号「平取穂別線」が「ポロケシオマップ川」を横断する橋……です。難読ですが、「蜷川」を読むことができればなんとかなりそうな感じもあるでしょうか。

かつては国道 237 号の橋だったようです。国道 237 号の「下幌毛志橋」は 1985 年に完成しているようなので、そのタイミングで国道ではなくなった可能性もありそうです。

沙流川流域とその周辺には何故か「荷菜」あるいは「荷菜摘」という地名が目につくのですが、『北海道実測切図』(1895 頃) には「蜷摘橋」のあたりにそれらしい地名は見当たりません。

「フウレナイ」の先の「ニナツミフ」

ただ戊午日誌 (1859-1863) 「左留日誌」には「ホロサルナイ」(幌毛志川?)、「シユツタ」そして「フウレナイ」(振内?)の次に「ニナツミフ」という地名?が記されていました。

またしばし上りて
     ニナツミフ
左りの方山の間に有り。此辺より川すじ至て急に成也。其名義前に有せば志るさず。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.64-65 より引用)
地名の由来は「前に書いたから省略」とありますが、えーと……「左留日誌 巻の三」に「イナツミ」という川の記録がありますね。

またしばし過
     イナツミ
左りの方小川、本名ヘンケニナツミなるよし。此処平地にしてよき地面の中に小川一すじ有が故に号しもの也。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.15 より引用)
「蜷摘橋」のネタ元かもしれない「ニナツミフ」は「山の間に有り」ですが、「イナツミ」のほうは額平川の支流で「此処平地にして」とあります。

「荷菜村」と「荷菜摘村」

更に話がややこしくなります。現在の平取町域には、かつて
が存在していました。「荷菜村」と「荷菜摘村」があっただけでややこしいのですが、「荷菜摘村」のあったあたりに「紫雲古津」が移転してきたような感じです(余計にややこしい)。

「荷菜摘村」については、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) に次のように記されていました。

荷菜摘 になつみ
 平取町の南端の処の地名。「になちみ」のように呼ぶ。元来は川上のペナコリの南の辺の地名であったが,その部落の人たちが諸地を遍歴し,ここに落ちついたが,旧地の名をそのままここに残したという。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.362 より引用)
改めて『北海道実測切図』を見てみると、カンカン(=看看川)の北に「ポンニナチミ」と「ポロニナチミ」という川が描かれていました(現在の「ペナコリ川」に相当する?)。

これは「フウレナイ」の近くの「ニナツミフ」とは別だったと見られるので、「荷菜」を含めれば平取町内の沙流川流域に「ニナ」「ニナツミ」「ニナツミフ」等の地名が 4 つあり、更に(沙流川支流の)額平川にも「ポンナチミ」なる川があった……ということになりますね。

これを読んでくださっている方の頭上にクエスチョンマークが複数表示されてそうな気がしますが、ご安心ください。書いている側も「???」となっていますので。

ということで(平取町南西端の)「荷菜摘」に話を戻してしまいますが、

語意ははっきりしない。いろいろに読めるが,ninar-chimi-p「高台を・分けて流れ下る。もの(川)」のように聞こえる。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.362 より引用)※ 原文ママ
ninar-chimi-p で「台地・左右にかき分ける・もの(川)」なんじゃないか……とのことですが、同感です。山田秀三さんは「いろいろに読める」としていますが、自分には ninar-chimi-p 以外の読み方が見えてきません。

最近良く出てくる感のある chimi ですが、これまでは「似た規模の谷が複数並ぶ」ような場所で見かける地名……という印象がありました。

「ニナツミフ」はどこにあった?

地形図を見てみると、現在の「蜷摘橋」の東(幌消末峰の南麓)に似たような谷が並んでいる場所があるので、そこが「ニナツミフ」だった可能性もありそうですが、松浦武四郎は「フウレナイ」の「先」(=東)に「ニナツミフ」があったように記しているので、「ニナツミフ」の位置を「振内の手前」に求めるのはちょっと問題があるかもしれません。

まぁ、いずれにせよ幌毛志から振内のあたりのどこか(ぉぃ)に「ニナツミフ」と呼ばれた場所があり、それは ninar-chimi-p で「台地・左右にかき分ける・もの(川)」だった可能性がありそうだ……ということで。

えっ?

ところが、ここまで書き上げた後で『午手控』(1858) に次のような記述があることに気づきました。

ニナツミ
 薪取の事也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編『松浦武四郎選集 六』北海道出版企画センター p.446-447 より引用)
ninar は「川沿いの台地」ですが nina は「ヒラメ」を意味し、また「木を取ってくる」という意味もあるとのこと。まぁそれだと「ツミ」が意味不明になってしまうので、あくまで参考情報ということで……。

部鳧橋(ぺければし)

peker??
清冽な
(?? = 旧地図等で未確認、独自説、類型あり)

2026年5月5日火曜日

「日本奥地紀行」を読む (189) 函館(函館市) (1878/8/16(金))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き普及版の「第三十四信」(初版では「第三十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

失敗の予言

イザベラはどうやら領事館での食事会?に出席していたらしく、「通訳・伊藤はワイが育てた」のチャールズ・マリーズとも領事館で顔を合わせたのかもしれません。

 昨日私は領事館で食事をして、フランス公使館のディースバッハ伯爵、オーストリア公使館のフォン・シーボルト氏、オーストリア陸軍のクライトネル中尉に会った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
「シーボルト」と言えば JR 九州「シーボルト事件」を思い出します。あのシーボルトはオランダ人だった筈……と思ったのですが、それは思いっきり勘違いで、「あのシーボルト」はバイエルン王国(=ドイツ)の出身だったのですね。

そして「あのシーボルト」ことフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの「シーボルト事件」が発覚したのは 1828 年なので、イザベラの奥地紀行の 50 年も前ということになります(ついでに言えば、イザベラが生まれる 3 年前)。

ということで、どう考えても函館でイザベラが会った「フォン・シーボルト」は別人なのですが、「あのシーボルト」は追放令が解除された翌年の 1859 年に再来日していたのですね。もっとも 1862 年に帰国し 1866 年に亡くなっているので、1878 年に函館にいる筈は無いのですが。

どうやらイザベラが会った「フォン・シーボルト」はフィリップ・フランツの次男の「小シーボルト」ことハインリヒ・フォン・シーボルトだったみたいですね。Wikipedia にも「1878 年には大隈重信の依頼でアイヌ民族の視察と研究に函館、森町を経て平取に赴く」とあり、これはイザベラの「奥地紀行」の「地ならし」だった可能性も指摘されているとのこと。

ただ、そんな「小シーボルト」の奥地探検について、イザベラは次のような「予言」を行っていました。

彼らは明日奥地探検旅行に出かけることになっていて、南部沿岸で海に入る河川の水源地を踏破し、いくつかの山々の高度を測定する予定である。彼らは食糧や赤葡萄酒をふんだんに用意しているが、とても多くの駄馬を連れて行くので、その旅行は失敗に終わることを私は予言する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
ぉぃぉぃ……。イザベラにはその自覚が無かった(あるいは知らされていなかった)のかもしれませんが、自身の「奥地紀行」の「先遣隊」を努めてくれる人物に対してその言い草は酷いのでは……。

しかし私の方は荷物を四五ポンドに減らしているから、成功は疑いない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343-344 より引用)
(笑)。ちなみに「小シーボルト」が生まれたのは 1852 年で、「ワイが(略)」のチャールズ・マリーズよりも一年年少ということになります。イザベラが会った時は 26 歳になったばかりで、イザベラ姐さんの目には「この若造が」と見えていた可能性もありそうですね。

日本の医者

日本奥地紀行』の普及版「第三十四信」はこの後がバッサリカットされていますが、イザベラは函館で病院と刑務所の「見学」も行っていたとのこと。

 食事の後、領事は私を病院へ連れていってくれました。そこで私たちはフカシ[深瀬鴻堂訳注 1]医師の出迎えを受けました。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.140 より引用)
「フカシ」は原文では Dr. Fucasi と綴られていました。イザベラは聞こえたとおりに綴っているのだと思われるので、もしかしたら通訳・伊藤の発音の問題か……? と思ったりもしたのですが、伊藤が「深瀬」をちゃんと発音できない筈も無いでしょうから、やはりイザベラにはそう聞こえたということなのでしょうか。

深瀬医師は単に病院長および、医者と医学校の生徒の長というだけでなく、西洋人の医者がいないので、西洋人社会全体の信頼を勝ち得ています。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.140 より引用)
「深瀬鴻堂」でググったところ「鴻寿会グループ 医療法人 鴻仁会 深瀬医院」というページがヒットし、そこには「鴻寿会グループ沿革」として「1818 年 深瀬鴻斎、町医者として函館に開業」とありました。「函館で 200 年続く医院」というのも凄いですよね。

函館病院

深瀬鴻堂(初代)が院長を努めていた「函館病院」とその医療体制について、詳細が記されていました。

 外国人は、これは主に船員ですが、1 日につき、50 銭、つまりおよそ 1 シリング 8 ペンス支払い、現地の人たちは 20 銭を払います。また本当に生活に困っている人たちは無料で治療が受けられます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.141 より引用)
生活困窮者には無料で医療を提供しているというのは素晴らしいですね。医療費というものは「生存権」を行使するための「必要経費」とも言えるものですが、その費用は人によって千差万別です。その負担を平滑化するために「健康保険」や「高額療養費制度」といった仕組みが整備されたものの、現在の政府与党がその縮小に向けて動いていることには怒りを禁じえません。

 この病院には 6 人の担当日本人医師がおりますが、病院はその他に、医学校であって、日々の講義と臨床実習がなされています。そこはとても清潔で明るく、患者は英国の病院の患者のように満足しているように見えます。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.141 より引用)
イザベラは久保田(秋田)でも病院を見学していますが、そこも概して良い評価だった記憶があります。イザベラの「見聞」が英国を含む欧米諸国に発信されることを明治政府は十分承知していて、そのために全力で「仕込み」が行われた可能性も考えたくなる……というのは皮相的な見方でしょうか。

岩倉[具視]と彼の使節団がヨーロッパとアメリカに西洋文明の視察に行って──日本の土壌に最もよい結果を移植しようという観点から──からわずか 7 年弱しか経っていないのに、帝国の人里はなれたこの場所でのこれらの啓蒙的現象と進歩は(多々ある中のほんの一例ですが)興味深いというだけでなく驚くべきものです。
(高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』中央公論事業出版 p.141 より引用)
イザベラは函館病院での医療について、歯が浮きまくるような賛辞を連ねていますが、どこまで素直に受け止めていいのか、逆にちょっと不安になってきました。

前の記事

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2026年5月4日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (188) 函館(函館市) (1878/8/16(金))

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは普及版の「第三十四信」(初版では「第三十九信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。この対照表は、高梨謙吉訳『日本奥地紀行』(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳『バード 日本紀行』(雄松堂出版)の内容を元に作成されたものです。

普及版の「第三十四信」は「伊藤の非行」と「『宣教師式』」、そして「失敗の予言」の三つのセンテンスが含まれていますが、初版(完全版)はその後に「日本の医者」「函館病院」「刑務所」「刑務所の快適さ」「菊の栽培」「盆祭り」「祝日の大群衆」と題されたセンテンスが含まれていました。それにしても大胆にカットしたものですね……。

伊藤の非行

多くのセンテンスがカットされた「第三十四信」ですが、「奥地紀行」の同行者でありイザベラを除けば最重要人物とも言える「伊藤鶴吉」についての話題はしっかりと「普及版」でも残されていました。

イザベラは「旅行の準備はできた」としながら、函館の居心地の良さもあり「毎日ぐずぐず滞在している」と記し、それに続いて「伊藤について不愉快な釈明があった」と記しています。

イザベラが横浜で伊藤を雇用した際のやりとりは普及版の「第四信」(完全版では「第六信」)に記されています。詳しくは『日本奥地紀行』を読む (20) 東京 (1878/6/7) をご覧ください……と書こうとした、いや、書いたのですが、え、14 年前の記事……?(汗)

イザベラは奥地紀行に同行する「通訳」の面接を行い、有力な候補者が 3 人に絞られた……というところで、突然「なんの推薦状も持たない男」がやってきて、それが当時 20 歳だった「伊藤鶴吉」でした。

彼の言うところでは、米国公使館にいたことがあり、大阪鉄道で事務員をやったという。東のコースを通って北部日本を旅行し、北海道エゾでは植物採集家のマリーズ氏のお伴をしたという。植物の乾燥法も知っており、少しは料理もできるし、英語も書ける。一日に二五マイル歩ける。奥地旅行なら何でも知っているという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
これは確かに「ほほう」と言いたくなる経歴です。そして何故推薦状を持っていないのかを問いただしたところ

この模範的人物を気どった男は、推薦状を持っていないのを、「父の家に最近火事があって、焼いてしまった」と弁解した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
これは……。どこからか「あらかじめ証拠の方は隠滅しておくのである」と聞こえたような気が……。

イザベラは「マリーズ氏は手近にいないので、聞くわけにもいかなかった」とした上で、

それよりもまず、私はこの男が信用できず、嫌いになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
と続けていました。イザベラから見て伊藤は容姿の面でも優れず、推薦状は持たず、明らかに胡散臭くて信用できない人物だったのですが、

しかし、彼は私の英語を理解し、私には彼の英語が分かった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.47 より引用)
という、根本的にして重大なチェックポイントをクリアしていたのが伊藤しかいなかったということで、渋々?通訳として雇うことにした……という経緯がありました。

どうやらこの後、伊藤はイザベラに次のように釈明?していたらしいのですが……

あなたも記憶されているように、推薦状なしで彼を雇ったのだが、雇ってから彼は、パークス夫人と私に対し、前の主人のマリーズ氏が彼に帰ってきてくれというのに対し「ある婦人と契約を結んだ」からと言って断った、と告げたのであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
ところが、イザベラは函館でマリーズ氏と会い(!)、マリーズ氏から次のように「真相」を聞かされます。

ところが、今当地にマリーズ氏がおり、氏の説明により私は、伊藤は当時すでに氏と七ドルの月給で氏の要求する期間だけ勤めるという契約を結んでいたのだが、私が一二ドル出すと聞いて氏のところから逃げて来て、嘘をついて私のところに勤めることにしたのだということが分かった!
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
いやー、これは……(笑)。伊藤はどうやらマリーズ氏と「オプション契約」を結んでいたにもかかわらず、そのことを隠してイザベラの求人に「応募」し、ちゃっかりと採用を勝ち取ってしまった……ということだったようです。

イザベラは「氏のところから逃げて来て」と記していますが、Wikipedia の「チャールズ・マリーズ」によると、イザベラの奥地紀行の前年(1877 年)12 月に離日していたとあります。

イザベラは「マリーズ氏は手近にいないので、聞くわけにもいかなかった」と記していましたが、伊藤がイザベラの面接を受けたのが 1878 年 6 月で、この時点ではチャールズ・マリーズは中国大陸、あるいは台湾にいたと推定されます。伊藤としては「マリーズが日本にいない時点で自分は(契約上)フリーである」と考えていたのかもしれません。

ところが(Wikipedia によると)マリーズは 1878 年の夏(日付は不明)に再来日していて、「オプション契約に基づき」伊藤を再雇用しようとしたところ、伊藤はイザベラの通訳に「転身」していた……というオチだったようです。

マリーズ氏は、この背信行為によって非常な迷惑をうけ、彼の植物採集の完成に多大の不便を感じている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
改めて時系列で整理してみると、イザベラは「背信行為」としたものの、伊藤にしてみれば「不幸なダブルブッキング」だったとも言えるかもしれません。

というのは、伊藤はたいへん器用で、氏が草花をうまく乾燥させる方法を教えこんだばかりでなく、種子の採集に二日も三日も出かけることを委せられるほどになっていたからである。私はそれを聞いてまことにすまないと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342 より引用)
今回、改めて普及版の「第四信」を読み直したのですが、伊藤はイザベラに「北海道エゾでは植物採集家のマリーズ氏のお伴をした」とアピールし、また「植物の乾燥法も知っており」と語ったとされています(つまり、伊藤は嘘をついていたわけでは無い)。

伊藤に非があるとするならば、「オプション契約」の件をイザベラに告げていなかった点ですが、口約束、あるいは社交辞令と捉えていた可能性もあったかもしれません(仮に「契約」を交わしていたとしても、その拘束力についてちゃんと理解していなかった可能性もありそう)。

伊藤が通訳としてのみならず、実務面でも優秀だったことはこれまでのエピソードでも何度も語られていますが、これはマリーズによる「教育」の成果も含まれていた可能性がありそうです。

氏は、伊藤が氏のところに来た頃は悪い少年であったが、その欠点もいくつか矯正してやったし、忠実に勤めたことと思う、と語っている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.342-343 より引用)
イザベラはチャールズ・マリーズよりも 20 歳も年上だったという点も留意すべきかもしれません。イザベラと伊藤は 26 歳差でしたが、マリーズと伊藤は 6 歳しか歳が離れていなかったため、マリーズと伊藤はイザベラとの間よりもフランクな間柄だった(あるいは伊藤が勝手にそう感じていた)可能性も考えたくなります。

まぁ、チャールズ・マリーズにしてみれば「通訳・伊藤はワイが育てた」と思っていたでしょうし、「日本に戻ってきたときはよろしくな!」と釘を差していたつもりだった、ということなのでしょう。

私はマリーズ氏と領事館で会って、私の北海道旅行が終わったら、伊藤をその正当な主人に返すことに手はずを決めた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
イザベラも流石の女傑と言ったところか、「私の北海道旅行が終わったら」伊藤を返す……と話をつけたとのこと。さすがに函館から先を通訳無しで進むのは困難だ……と判断したのでしょうね。

一方のチャールズ・マリーズも、今度は「伊藤を帯同して中国・台湾を回るつもりだ」と語ったのだとか。マリーズの「助手」として活躍できるだけのスキルを身につけていたということなのかもしれませんが、「またされたら大変だ」というのが本音だったかも……?

「宣教師式」

イザベラの東京での「面接」に同席したヘボン博士も、イザベラの出発後に伊藤についての悪い噂を耳にして心配していたとのこと。ただイザベラは伊藤について「最初に嘘をついただけで、今まで彼に悪いことは何もない」と擁護しています。もっとも

彼の信仰する神道も、その程度しか彼を教えていないのである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
と一刺しすることを忘れていないのは、さすがはイザベラ姐さん……。

イザベラは伊藤に給料を手渡した時に「礼儀作法が気に入らない」と告げたところ、伊藤は素直に「態度を改めます」と返したものの……

「しかし」と彼はつけ加えて言った。「私はただ宣教師の礼儀作法をまねしただけです!」。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳『日本奥地紀行』平凡社 p.343 より引用)
このあたりの反骨精神?は、やはり 20 歳の若造らしい感じがしますね(笑)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International