(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
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エンルム岬
enrum
岬
岬
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似川河口の南西に聳える岬です。「襟裳岬」と比べると知名度が劣るのがちょっと気の毒な感じもしますが……。この「エンルム岬」ですが、『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には……あれ? 岬の位置には「ウトルサンナイ」とあるような……? 『北海道実測切図』(1895 頃) には「エンルㇺ」とあるので、謎ですね……。
『初航蝦夷日誌』(1850) の「蝦夷地行程記」には次のように記されていました。
一、従二キリイカシナイ一 ソヲヒラ 三丁廿七間この「キリイカシナイ」は現在の「キリシタナイ川」のことだと考えられます。となると「ウトルサンナイ」は「キリシタナイ川」から 940 m ほど離れているということになりそうですね。
一、従二ソヲヒラ一 ウトルサンナイ 五丁十間
一、従二ウトルサンナイ一 シヤマニ会所ニ 五丁
ただ、次のようにも記されているので……
越而すぐニ
ウトルサンナイ
砂浜をしばし行。此上ニ寺有るなり
帰嚮山等樹院原沢寺
東都東叡山末寺。天台宗。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註『三航蝦夷日誌 上巻』吉川弘文館 p.328 より引用)
「ウトルサンナイ」は、蝦夷三官寺の一つとして知られる「等澍院」のすぐ近くを流れていたということになります。陸軍図では一目瞭然ですが、「等東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。
シヤマニ 會所(通行や、會所、藏々、備米くら、馬や、勤番所、大工小屋、雇小屋、鍛冶や、觀音堂、いなり、船玉社、また遠見番所、臺場あり) 地名エンルンなるを、シヤマニベツに住する土人を遣ふ處故に如レ此改りし也。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.212 より引用)
「エンルム岬」は目立つランドマークなので記録も豊富にあるだろう……と想像していたのですが、岬のすぐ近くにあった会所の名前が「シヤマニ場所」だったために「エンルム」の名で記録されることが極端に少なかった……ということのようです。永田地名解 (1891) にも次のように記されていました。
Eurum エンルㇺ 岬 樣似場所ノ原名ニシテ場所ヲ此處ニ置キ様似場所ト改稱セリト云フ「エンルㇺ」を「岬」としていますが、『地名アイヌ語小辞典』(1956) を見ると……
en-rum, -i えンルㇺ 岬。[つき出ている・頭]
(知里真志保『地名アイヌ語小辞典』北海道出版企画センター p.26 より引用)
ということで、enrum は en-rum で「つき出ている・頭」に分解できるのでは……とのこと。ただ実際には enrum で「岬」と認識されていた……と見て良さそうです。つまり「エンルム岬」だと「岬岬」ということになりますね。キリシタナイ川
kipiri-ka-us-nay??
あの水際の崖・のかみ・ついている・川
あの水際の崖・のかみ・ついている・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
等澍院の北西に「観音山」という山があり、その北側を「キリシタナイ川」が流れています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「キリイカシナイ」とありますが、『北海道実測切図』(1895 頃) にはなんと「キリシタンナイ」とあります。『竹四郎廻浦日記』(1856) には次のように記されていました。
キリどうやら等澍院とキリイカンナイ(=キリシタナイ川)の間は(観音山の)崖の下を通るため、海が荒れていた場合は観音山の北を通る裏道に回っていたとのこと。イカ ンナイ
此処も昔は三軒、当時一軒(ウエンフヘ家内五人)有。是より風波厳敷時は山道新道有る也。汐千て風波穏なる時は是より岩壁の下を廻り行也。此下平巌にして大汐の時(は)の萬畳敷とも云様に成る也。
昔キリシタンがいたから(!)説
東蝦夷日誌 (1863-1867) には次のように記されていました。沙濱(五丁)、キリシタン(小川)本名キリイカシと云、また切支丹宗の昔し有しともいふ。是より滿潮の時は山道あり。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.209 より引用)
「昔キリスト教の信者がいた」ってマジですか……。しかも永田地名解 (1891) にも「往時基督宗徒ノ住セシ處ナリト云フ」とあります。キリが越えている??説
「これはちょっとどうだろう」と思ったのは私だけでは無かったようで、山田秀三さんの『北海道の地名』(1994) にも次のように記されていました。キリイカウシは kir-ika-us-i(キリが・越え・ている・処)と聞こえる。キリは処によっては「山」,あるいはキロル(kir-o-ru 足・入る・道→踏み分け道)の略かもしれない。等澍院の前の浜が満潮で通れない時の山道があったという処からついた名か。
(山田秀三『北海道の地名』草風館 p.341 より引用)
kir が kiro-ru の略語ではないか……というのは、状況証拠もバッチリで説得力もあるのですが、若干語順にスッキリしないものもあるような、そうでも無いような……(どっちだ)。謎の地名「キリカッチ」との関連
もう少しヒントが欲しいなーと思って探してみたのですが、シャマニ場所の人別帳には、コタンの一つとして「キリイカシモイ」とありました。「モイ」(入江)か「ナイ」(川)かというのは一旦措くとして、「キリイカシ」で思い出されるのが kirikatchi という謎の語です。せたな町に「切梶川」という川があるのですが、永田地名解には次のように記されていました。
Kirikatchi キリカッチ 鮭ノ産卵場 石狩上川、勇拂郡ノ川ニ同名アリ「イチヤン」ト同義永田方正は kirikatchi は ichan の同義語だとしていますが、他の文献や辞書で裏付けの取れない「幽霊アイヌ語」の一歩手前の語でもあったりします。
また、むかわ町にも「キリカツ沢川」が存在します。「キリシタナイ川」も「キリイカシ──」だったのであれば、元を辿れば「キリカッチ」に辿り着く可能性もあるのではないか……と。
あの水際の崖のかみてにある川?
あるいは……例によって大胆な想像ではあるのですが……kipiri-ka-us-nay で「あの水際の崖・のかみ・ついている・川」と考えることはできないでしょうか。これだと「キピリカウシナイ」ということになるので、「キピリ」が「キリイ」に化ける必要があるのですが、地名を記号として捉えた場合、これ以上無いネーミングだと思うんですよね。ぶっちゃけ山田(秀三)さんの仮説の焼き直しじゃね? と言われたらその通りなのですが……(汗)。
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