2025年7月11日金曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1253) 「サルマップ川・シャモマナイ川・イサカナイ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

サルマップ川

sar-oma-p
ヨシ原・そこにある・もの(川)
(旧地図に記載あり、既存説、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
道道 233 号「新富様似停車場線」沿いを南に流れ、様似中学校(2014 年に現在地に移転)の南で様似川に合流する東支流です。現在の流路は湿地帯の改良のために人工的に建設されたもので、本来は 2.5 km ほど北で様似川に注いでいたと思われます。

北海道実測切図』(1895 頃) には「サラオマㇷ゚」という名前の川が描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) では「サルマフ」と描かれています。

『竹四郎廻浦日記』(1856) には「サルフツ」とあり、『東蝦夷日誌』(1863-1867) には「サルマウ(右小川)」とあります。戊午日誌「志也摩尼誌」には次のように記されていました。

是よりまた川の左右ともに平野多く、屈曲たる処をこなた彼方えと越て上るに
     サルマフ
右のかた相応の川也。本名はシヤリヲマフなるよし。其義は蘆荻有るといへる義なり。惣て此川すじの両岸谷地なり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.392 より引用)
「本名はシヤリオマフ」とありますが、sar-oma-p で「ヨシ原・そこにある・もの(川)」と見て良さそうですね。陸軍図には既に排水路として建設された「サルマップ川」が描かれていますが、まだ流域は湿地帯だったことが窺えます。

シャモマナイ川

sam-oma-nay?
日本人・そこにいる・川
(? = 旧地図に記載あり、既存説に疑問あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
様似町字岡田(岡田生活館、岡田八幡神社の近く)で様似川に合流する西支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) には「シシャモナイ」という名前の川が描かれています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には「シャモヲマ」という名前の「東支流」が描かれています。

これも例によって「東西蝦夷──」が東西を誤った可能性がありそうですが、松浦武四郎は他の記録でも一貫して「右支流」としているので、本来は右支流(東支流)だったのか、それとも松浦武四郎がずっと間違え続けたのかは不明です。

戊午日誌 (1859-1863) 「志也摩尼誌」には次のように記されていました。

しばし過て
     シヤモヲマイ
右のかた小川。本名はシヤモヲマナイにて、むかし和人住居致せしよりして号しもの也。名義和人が在る処と云儀なり。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.393 より引用)
ふむ、そう来ましたか……。『東蝦夷日誌』(1863-1867) にも似たような記述がありました。

シシヤモヲマイ(右小川)往古金坑盛りし時、和人多く住せしと、依て號し。
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編『新版 蝦夷日誌(上)』時事通信社 p.213 より引用)
これは「カネカリウシナイ川」での金掘りのために和人が入ってきていたという記録とも符合する内容で、確かにありそうな話です。永田地名解 (1891) にはちょっと違った形で記されていました。

Shamo pu nai   シャモ プ ナイ   和人ノ庫アル澤 金掘リノ居リシ處
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.284 より引用)
どこから「プ」(庫)が出てきたのか謎ですが、『様似町史』で紹介されていた「伝説」がヒントになるかもしれません。

 むかし、シャモマナイの上手から金の杯が流れてきた。これを拾った和人はそのまま姿をかくして行方不明になった。
(様似町史編さん委員会『様似町史』p.48 より引用)
いずれにせよ「和人の金掘り」と関係があると言えそうですね。sam-oma-nay で「日本人・そこにいる・川」と見て良さそうな感じです。

イサカナイ川

e-sanke-nay??
頭(水源)・浜の方へ出している・川
(?? = 旧地図に記載あり、独自説、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
「岡二橋」の北で様似川に合流する東支流です。『北海道実測切図』(1895 頃) では「エサイカナイ」という名前で描かれていて、現在よりも下流側で様似川(エサマンペツ)に合流しています。『東西蝦夷山川地理取調図』(1859) には、何故か現在名と同じ「イサカナイ」という名前の川が描かれていました。

戊午日誌 (1859-1863) 「志也摩尼誌」には次のように記されていました。

また是よりして七八丁も上るや
     イサカナイ
同じく右のかた、其名義は未だ解せざる也。水源はシトマベツの山の北東より落来るなり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下』北海道出版企画センター p.392 より引用)
この「シトマベツ」が良くわかりません。えりも町の「シトマン川」だとすれば離れすぎていますし、「鵜苫川」のことだとすれば、間の「海辺うんべ川」をどう考えるか……という問題が残ります。

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Esa ika nai   エサ イカ ナイ   前澤
永田方正北海道蝦夷語地名解』国書刊行会 p.284 より引用)
これは……どう解釈したものでしょう。e-sa-ika-nay で「頭(水源)・前(浜)・またぐ・川」とかでしょうか……?

「イサカナイ川」を水源に向かって遡ると、緩やかに右に曲がり続けて、東を向いていた川は最終的に南東を向くことになります。これは horka(U ターンする)と言えるほどではありませんが、注意すべき特性であるようには思えます。

ということで、e-sanke-nay で「頭(水源)・浜の方へ出している・川」と考えられないでしょうか。……あれ、永田地名解の「前澤」ともびみょうに整合性があるような無いような……?(どっちだ

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