2017年10月9日月曜日

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「日本奥地紀行」を読む (73) 宝川(西会津町)~八木山(阿賀町) (1878/7/2)

 


1878/7/2 付けの「第十四信」(初版では「第十七信」)を見ていきます。イザベラ一行は車峠の宿を出発し、津川(阿賀町)を目指します。

ひどい道路

眺めの良い部屋でオフを過ごしてリフレッシュした筈のイザベラ姐さんですが、翌朝は……平常運転と言いますか、更に飛ばしていると言いますか。

昨日の旅行は、今まで経験したうちでもっともきびしいものの一つであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.178 より引用)

まずは客観的な事実から。イザベラは 10 時間で 15 マイルしか進めなかった、と続けています。15 マイルは即ち 24 km ですから、時速 2.4 km ということになりますね。まぁ、徒歩旅だったらそれくらいでも仕方がない気もしますが……。

しかし、多くの市町村と大きな後背地をもつ肥沃な会津平野の産物を新潟に送り出すためには、少なくとも津川に来るまでは、その道路に頼らなければならない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.178 より引用)

会津盆地と新潟の間は、現在は国道 49 号の他に JR の磐越西線と磐越自動車道が通っています。磐越西線は現在はすっかりローカル線としてのポジションに甘んじていますが、上越線ができるまでは東京と新潟を結ぶ鉄道路線のひとつとして重要視されていました。

磐越西線(当時は「岩越線」)の野沢と津川の間が開通したのが 1914 年のことですが、この区間の開通により郡山と新津の間が繋がったことになります。イザベラが酷い目にあってから 26 年後のことになりますね。

イザベラ姐さんの舌鋒は更に炸裂し続けます。

この道路はあらゆる合理的な近代思想を無視したもので、山をまっすぐ登り、まっすぐ下る。その傾斜度ときたら、当てずっぽうを言うのもこわいくらいである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.178 より引用)

当時の道は現在の「獣道」に近いものだったのかもしれません。参勤交代に使用されるような街道であれば話は別だったのでしょうが、車(荷車)を通すことは考えていない道が大半だったのではないでしょうか。

私は日光を出発してから、二〇〇〇フィート以上の高さの峠を十七も越したが、車峠はその最後の峠であった。車峠から津川までの景色は、規模は小さいが、今までとほぼ似たものである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.178 より引用)

ルートを整理しておきますと、車峠から津川までは、ほぼ現在の国道 49 号に沿ったルートを通っていたと考えられます。ちょっと注意が必要なのが、イザベラが車峠のことを「2000 フィート以上の高さ」と記していることです。地形図を見ると車峠の標高は 267.2 m とあり、2000 フィートはおろか 900 フィートすら割り込んでいます。これは何をどう誤解したのでしょう。

ちなみに、純粋に標高という話では、その後に通った筈の阿賀町の「惣座峠」のほうが高いようです。残念ながら三角点の数字が無いのですが、等高線を読んだ限りでは 355 m くらいありそうです。

単調な緑色の草木

「車峠から津川までの景色は──今までとほぼ似たものである」と綴ったイザベラですが、ご機嫌ナナメのイザベラ姐さんにとっては、この景色すら呪詛の対象となってしまいました。

山々は頂上まで森におおわれ、その間に峡谷がわりこみ、ときには遠くの山脈をのぞかせる。すべてが緑色の草木におおわれている。私は機嫌が悪いときには、これを「むやみに生い茂った草木だ」と言いたくなる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.179 より引用)

これぞまさしく「ああ一面のクソミドリ」でしょうか(汗)。

ああ、山腹に突如として切り立つ岩、あるいは燃え立つような砂漠のかけらでもいい、何かぴりっと目立つような、ぎらぎら輝くようなものが、この単調な緑色の景色の中に出てこないものか。どんなに不調和なものでもかまわないのだが── 。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.179 より引用)

都会に暮らす人から見ると「なんと贅沢なことを」と思えるのかもしれませんが、日光を出発してから一週間、ずっと緑の木々に覆われた山ばかり見てきたとなると、さすがに飽きが来てしまう、ということなのでしょうか。

底知れぬ汚さ

イザベラ一行は、車峠を抜けて、鬼光頭(きこうづ)川沿いを下って「ホーザワ」にやってきました。地図には「宝沢」という地名は見当たりませんが、もしかしたら「寶坂村」のことかもしれません。

宝沢(ホーザワ)と栄山(サカイヤマ)に来ると、この地方の村落の汚さは、最低のどん底に到達しているという感じを受ける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.179 より引用)

ついにとうとう「最低のどん底」まで……(汗)。

鶏や犬、馬や人間が焚火の煙で黒くなった小屋の中に一緒に住んでいる。堆肥の山からは水が流れて井戸に入っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.179 より引用)

ひょえー……。この衛生感覚の欠如ぶりには唖然としてしまいますね。イザベラ姐さんが「最低のどん底」と評したのも理解できます。

低級な生活

イザベラは、「最低のどん底」に暮らす人々の生活についても、歯に衣を着せることなく率直に記しています。

彼らの風采や、彼らの生活習慣に慎みの欠けていることは、実にぞっとするほどである。慎みに欠けているといえば、私がかつて一緒に暮らしたことのある数種の野蛮人と比較すると、非常に見劣りがする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.179 より引用)

イザベラは、日本に来る前にもあちこち「未開の地」を旅していましたから、「未開の民」についての見識も豊富な方だったと考えられます。そのイザベラをして「──非常に見劣りがする」と言わしめたのは、これは相当なものだったと考えるしかありません。

イザベラは、日本人の本質としての「誠実さ」や「清純さ」について、ここまでの見聞から次のように記しています。

彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.180 より引用)

そして、「普及版」では突然展開が飛び、いきなり津川の宿屋の話題になります。「完全版」を見ると、この後「低級な生活」の続きと「漆の木」「漆かぶれ」「蝋の木と蝋燭」というセンテンスがあるのですが、これらは全てカットされてしまったようです。

イザベラは、当時の日本人の生活を「誠実でもなければ清純でもない」とした後ろに、次のような文章を続けていました。

 宗教と言えるものでなごりとして彼らに残っているのはいくばくかの迷信であり、未来に関することは、望みであれ、畏れであれ、ほとんど人々自身の思惑の外にある空白地帯です。本当のところ、人々はキリスト教の理想を構成する最も高い男らしさ、女らしさの典型へと引き上げられる改善的な感化を痛いほど必要としています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.69 より引用)

なるほど。宗教人としての「上から目線」の文章が続いていたのですね。これをカットしたのは適切だったのだろうなぁと思わせます。



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