2010年2月1日月曜日

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「泰緬鉄道」の夢と現実

 


泰緬鉄道の建設は、全線 415 km(東京から大垣までの距離に相当します)の区間を僅か 1 年 3~4 ヶ月で開通させるという、異例の速さで進められました。もともとは、ビルマ戦線に将兵や物資を輸送するために建設が企図されたわけですが、突貫工事で仕上げられた路盤は脆弱で、列車は脱線を繰り返し、想定していた輸送量の 1/10 も捌けなかった、といった話を聞いた記憶があります。[要出典]

翌年の昭和 19 年には、旧・日本軍が立案した作戦の中でも「無謀さ」と「荒唐無稽さ」の二分野で金メダルが確実だと思われる、かの「インパール作戦」が開始されたわけですが、その兵站を担うはずの泰緬鉄道も、結局は命からがら生き延びた負傷兵の退却路として細々と使われたのみだったと言います。

ゲリラ戦の原風景?

また、「戦場にかける橋」のモデルになったとして広く知られる「メクロンの永久橋」は、泰緬鉄道において唯一とも言える本格的な河川橋だったため、連合軍機から徹底的な爆撃を受け、一度は中央部を完全に破壊されたこともありました。

ただ、このあたりは陸軍の鉄道聯隊も心得たもので、上流に木製の「仮橋」を用意していました。鉄製の「永久橋」が破壊された後も、木製の「仮橋」経由で列車の運行は続けられたと言います。木橋は、小さなパーツの組み合わせでできている利点をフルに活かし、「壊れたら組み直す」という、ブロック細工のような柔軟さで、その役割を全うしたと言われます。

あ、Wikipedia にちゃんと書いてありますね。

クウェー川鉄橋爆撃
インパール作戦を粉砕した米英軍は1944年秋、本格的なビルマ進撃を前にビルマへの唯一の補給ルート・泰緬鉄道破壊を狙う作戦に出た。その際、最重要目標となったのがクウェー川鉄橋である。1944年11月29日夕刻、鉄橋に対する最初の爆撃が行われ、早くも橋桁を破壊する戦果を収めた。1945年に入ると爆撃は熾烈となり、2月9日と2月13日にそれぞれ爆撃に成功し、鉄橋の方はしばらくの間通行不可能となってしまった。ところが、同じく爆撃を受けて被害に遭った木橋は、捕虜や労務者を動員してすぐに復旧し、鉄橋の代用を見事に果たした。1945年4月3日には再び木橋が爆撃を受け、以後4月24日と6月24日にも攻撃を受けたが、結局は鉄道輸送を完全に途絶することができなかったと言われている。
(Wikipedia 日本語版「クウェー川鉄橋」より引用)

ええ、そういうことです。Active-Standby 型の Failover Path を用意し、かつ、Disaster Recovery Plan をきちんと用意していたというその用意周到さは、「ジンギスカン作戦」なる悪い冗談としか思えないような計画を本気で実行に移してしまった「インパール作戦」とは雲泥の差が感じられます。「俘虜虐待」や事実上の「強制労働」という罪業から悪いイメージで語られることも少なくない「鉄道聯隊」ですが、やるべき事はとてもきちんとやっていた、という印象を受けます。

「泰緬鉄道」の最期

うー、本題に進めませんね。えーと、そんな連合国俘虜や現地労働者の、文字通り命がけの労苦の結晶であり、鉄道聯隊が圧倒的な劣勢の中守りぬいた「泰緬鉄道」も、日本の敗戦後は大半が撤去された、と言われます。


現存するのは、タイ側の起点・ノンプラドックから途中のターサオ(現・ナムトク)までで、タイ側のナムトク以西とビルマ側の全線が、日本の敗戦後ほどなく撤去された、とされています。Wikipedia にも

現在では泰緬(タイ・ミャンマー)両国は国境付近の鉄道を取り払い、タイ側では日に2回バーンコークノーイ駅(トンブリ駅)からサイヨークノーイ駅(ナムトク駅)まで列車が通っている。
(Wikipedia 日本語版「泰緬鉄道」より引用)

と書かれています。あれ?「国境付近の鉄道を……」というのは微妙にニュアンスが違うような気が……。ということで、この辺の謎解きはまた明日にでも。

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