2012年8月1日水曜日

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第99回「ラ・ペルーズ図ができるまで」

 


圖地カツャチムカ・州海沿

地図系のネタをもう少し続けます。


これは「圖地カツャチムカ・州海沿」という地図のようです。……もちろん右から読んでくださいね(「圖」は「図」の旧字体です)。この地図は……「上」が「北」ではない、というのが珍しいところでしょうか。また、ポーツマス条約以後の、千島列島と南樺太の両方を領有していた時点での地図という意味でも(今となっては)貴重かも知れません。

得撫島以北の千島列島と南樺太が真っ白の地図は、今でも日本では良く見かけますけどね。

ところで、この図法は何と言うんでしたっけ。円錐図法だったかな。

める・どぅ・じゃぽん

さて。昭和期のリアルな地図の次は……


随分と手作り感が満載の地図が出てきました。日本海には "Mer du Japon" と書いてある割には北海道の西半分(の海岸線)が無かったりとか、なかなか正直なのがよろしいですね。

フランス語で「める・どぅ・じゃぽん」と書かれたこの地図の作者は……


ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローさんでした。

ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローJean Francois de Galaup, comte de La Perouse, 1741年8月23日 - 1788年?)は、フランスの海軍士官及び探検家。太平洋における遠征航海の指揮をとり、最後はオセアニアで消息を絶った。
(Wikipedia 日本語版「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」より引用)

という方なのだそうです。マゼランとかバスコ・ダ・ガマの名前はすぐに出てくるのですが、ラ・ペルーズの名前はあまり記憶に無く……。

彼は100日かけて太平洋を横断した。途中で再びハワイの近海を通過し、北西ハワイ諸島中のネッカー島とフレンチフリゲート瀬を発見。
(Wikipedia 日本語版「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」より引用)

ほうほう。フレンチフリゲート礁は太平洋戦争にまつわる書物などで良く目にするのですが、ラ・ペルーズが率いたフリゲート艦が発見したのが由来だったとは……。

フランス人の探検家、ラ・ペルーズ伯に率いられた2隻のフリゲート艦が、1786年11月6日深夜、前方に現れた未知の岩礁を衝突寸前で回避した。ラ・ペルーズはその乗艦に因んでこれを命名し位置を記録した。三日月状の32kmに及ぶ珊瑚礁と、12の砂州、高さ37mのラ・ペルーズ尖礁で構成されている。
(Wikipedia 日本語版「フレンチフリゲート瀬」より引用)

むぅ、こんな由来があったのですねぇ。

ラ・ペルーズ図ができるまで

さて、そんなラ・ペルーズさんですが、その後マニラ → マカオ →(日本海)→ 樺太へと向かいます。

奥蝦夷の住民が、奥蝦夷、蝦夷(現在の北海道)とタタール沿岸(アジア大陸本土)の地図を書いて見せた。ラ・ペルーズは、樺太とアジア大陸の間の海峡(間宮海峡。タタール海峡とも呼ばれる)を調査するため海峡の手前まで北上したが、海峡の水深がきわめて浅いことを島民から聞きその通過を断念。進路を南へ変えて宗谷海峡(樺太と北海道の間の海峡。彼に因んで後にラ・ペルーズ海峡と名付けられた)を航海し、そこでアイヌ民族と出会い、千島列島を探検。最終的にはカムチャツカ半島のペトロパヴロフスクへ1787年9月7日に到着した。
(Wikipedia 日本語版「ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー」より引用)

というわけで、北海道の西半分の海岸線が無い地図は、ラ・ペルーズがその辺の人に書いてもらった地図をベースに清書したものだったと判明しました(←)。よーく見ると、"Mer D'Okhotsk"(オホーツク海)のあたりにも正体不明の海岸線が描かれています。該当する島は無い筈なので、これは樺太かハバロフスク地方の海岸線を誤認したもの、なんでしょうね。

それにしても、樺太西海岸や沿海州からハバロフスク地方にかけてのロシアの海岸線に激しく書き込みがなされているのは何なんでしょう。


これ、なのですが……。

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