2014年11月24日月曜日

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イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む(第41回)

 


引き続き、1878/6/10 付けの「第六信(続き)」(本来は「第九信(続き)」となる)を見ていきます。

ちなみに 1878/6/10 という日付は、粕壁(春日部)にて「第六信」を書き始めた時の日付で、実際には「粕壁から栃木」が 6/11、「栃木から今市」が 6/12、そして現在読んでいる「今市から日光」は 6/13 の出来事、ということになります。

日光

イザベラは、北方探索の最初のゴールを日光に定めていました。少し言い方を変えれば、日光まではウォーミングアップのようなもので、日光で体勢を整えて更なる北方探索に出発する、という目論見だったと言えるのかもしれません。実際、日光には十日ほど滞在することになります。

ですので、日光での逗留先は予め目星をつけていた……と思ったのですが、意外なことに、次の文章を読む限りでは、必ずしも明確な計画があったわけでも無いようです。

私が鉢石で外国人を接待できるような美しい宿屋に滞在することは、もともと、計画の中にはなかった。そこで私は、伊藤に日本語の手紙を持たせて、半マイル先の、今私がいる家の主人に使いに出した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.93 より引用)

「美しい宿屋」での滞在が「もともと、計画の中にはなかった」のであれば、どこから話が湧いて出たのか、少々気になるところです。宿屋との交渉を伊藤少年に任せたイザベラは、伊藤が帰ってくるまで何をしていたかと言うと……

その間、私は、街路を登っていって、はずれにある岩の突き出たところに腰を下ろし、だれにも邪魔されずに、最も偉大な二人の将軍(家康、家光)が「栄光に眠る」山の荘厳な森を見渡していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.93 より引用)

街外れにある岩に腰掛けて東照宮の森を見ていた、ということのようです。何となく勝ち気な印象のあるイザベラですが、急に「ひとりぼっち」になったような感じがして面白いですね。

イザベラが小休止していた「鉢石」の町は、大谷川(だいや──)の南側にあるため、東照宮に向かうためには大谷川を渡る必要があります。そのため、大谷川には「神橋」という橋がかけられています。

急流がその激しい勢いを二つの石の壁でとめられているところに、橋がかけられている。長さ八四フィート、幅一八フィート、にぶい赤色の漆が塗られて、両側の二つの石の橋脚に支えられ、二本の石の横梁によって結ばれている。あたり一面が濃い緑色とやわらかい灰色に囲まれている中に、橋の明るい色はうれしい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)

長さ 84 ft ということですから、約 25.6 m ということになりますね。ちなみに幅は約 5.5 m と言いますから、現代の感覚ではそれほど大きな橋とは言えませんね。イザベラの文章から全貌を掴むのは難しいのですが、鳥居のような形をした石の橋脚の間に、ゆるやかなアーチを描いた木造の橋が架けられている、と言った感じでしょうか。

しかし、橋の建築は少しも堂々たるものではなく、その興味はただそれが御橋《神聖な橋》であるということにある。一六三六年の建造で、むかしは将軍や、天皇の使節、一年に二回だけ巡礼者のためにのみ開放されていた。橋の門は二つとも錠がかけられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)

イザベラが「御橋」と記したこの橋は、現在は「神橋」という名で知られています(この異同は和訳の問題かも知れません)。この橋の特異性は、イザベラも記した通り、勅使や将軍の一行だけが渡ることを許されていたという点にあります。いつもは鋭く──時として精一杯の皮肉も込めて──考察するイザベラですが、この「神橋」については珍しく、客観的な表現のみにとどめています。

この「神橋」で大谷川を渡ると間もなく東照宮に辿り着くのですが、「クルマ」で行くことができる道は、この橋を渡ったところで終わるようです。

人力車の道は、ここで終わる。もしこれから先に行きたいと思うならば、歩いてゆくか、馬に乗るか、あるいは駕寵で行かなければならない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)

淡々と書かれているので見落としてしまいそうですが、これは重要な一節ですね。記されているのは客観的な事実のみですが、イザベラにとっては「これまでのようには行かない」というプレッシャーを抑え込んだ文章のようにも思えます。

旅路の果て

伊藤少年を宿屋との交渉のために先に行かせてしまったために、イザベラは随分と孤独な時間を過ごしていたのですが……

伊藤は久しく姿を見せず、車夫たちはいつも私に日本語で話しかけるので、私は頼りない孤独な気持ちにさせられた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)

ようやく交渉が終わったのか、宿屋に向かって出発することになりました。

とうとう車夫たちは私の手荷物を肩に負った。階段を下りた私たちが一般用の橋を渡ると、まもなく金谷さんという私の宿の主人が迎えてくれた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.94 より引用)

イザベラ一行は、「神橋」ではなく一般用の橋で大谷川を渡ったところで、宿の主人からの出迎えを受けました。宿のご主人の名前は「金谷」と言うのだそうです。

実は、この金谷さんの宿屋が、現在の「日光金谷ホテル」の前身に当たるのだそうです。現在の日光金谷ホテルは「神橋」の手前の「鉢石」にあるので、イザベラ一行が「橋を渡ると──宿の主人が迎えてくれた」というのはおかしなことになってしまうのですが、1878 年当時は「鉢石」ではなく、住居のあった「四軒町」(現在の日光市本町)のあたりで宿屋を営んでいたのだそうです。

四軒町で宿屋を営んでいた金谷氏が、鉢石で「金谷ホテル」を開業したのは 1893 年のことだそうですから、それ以降であれば「鉢石の美しい宿屋」という表現も間違いでは無くなるのですが……ちょっと不思議な話ですね。「日本奥地紀行」の初版が 1880 年で、今回の底本は 1885 年に出た普及版なので、刊行までのタイムラグとも考えづらいです(「鉢石」という地名が和訳の際に紛れ込んだのであれば理解できますが)。

車夫の親切心

ついに、「最初のゴール」である日光の金谷家が見えてきました。

宿が見えてくると、私はうれしくなった。ここで残念ながら、今まで私に親切で忠実に仕えてくれた車夫たちと別れることになった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.95 より引用)

イザベラは、日光でのベースキャンプとなる金谷家への到着を喜ぶとともに、これまでの四日間、献身的に仕えてくれた、人力車の車夫との別れに直面することになります。

彼らは私に、細々と多くの世話をしてくれたのであった。いつも私の衣服から塵をたたいてとってくれたり、私の空気枕をふくらませたり、私に花をもってきてくれたり、あるいは山を歩いて登るときには、いつも感謝したものだった。そしてちょうど今、彼らは山に遊びに行ってきて、つつじの枝をもって帰り、私にさようならを言うためにやってきたところである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.95 より引用)

ここで車夫たちと別れるにあたって、彼らへの感謝の気持ちが素直に記されています。これまでの四日間だけでも、直截な、歯に衣着せぬ表現が多かったイザベラですが、こと車夫に関しては、概して好意的な表現ばかりだったのが印象的でした。



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