2010年1月25日月曜日

次の投稿 › ‹  前の投稿

写実か、それともポップアートか

 


ルチ将軍……ではなくて

さて、こちらの、いかにも独裁者チックな(←)銅像の主ですが……


ルチ将軍……ではなくて、どうやら大村益次郎さんのようです。

ちなみに、明治時代に来日して、紙幣や切手印刷の基礎技術を築いたとされる Edoardo Chiossone が描いた大村像がこちら。


(Wikimedia Commons より借用。この写真画像は日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により、その著作権による保護期間が満了しています)

いや、だから、ルチ将軍じゃ無いですよって。

ルー……じゃなくて

では、このルチ大村……いや、大村益次郎という人はどんな人だったか、というところを。

大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)

ふむふむ。

長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)

なるほどねぇ。個人的には山縣有朋というおっさ……いや、人物が陸軍の創始者に当たるのかと思っていたのですが、大村は山縣の 14 歳年長だったようですから、山縣から見て大村は「先人」に当たるようです。実際、

大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曽我祐準、原田一道らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省・陸軍省内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)

という記述もありますし。

靖国の父

そして、その大村が靖國神社内においてスターリンと勝負できそうな絶好の立ち位置を確保している理由は、

  • 明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策している。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)

だからなのだそうです。なるほど、「陸軍の父」であるか否かはさておき、「靖国の父」であることは間違いなさそうですね。

写実か、それともポップアートか

それにしても、先ほどの肖像画、何度見ても「ルチ将軍」に見えるのですが(←

エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像が現存する。但し、これは本人を直接見て描かれてはいない。そのため実際の顔とは似ていない可能性もある。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)

かなり「二次創作」入ってるっぽいです(笑)。

文中敬称略。「ルチ将軍」云々のくだりは少々悪ふざけが過ぎるかもしれませんが、大村に悪意を抱いているわけではないので、悪しからずご了承願います。

前の記事次の記事

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International

0 件のコメント:

最近の記事

    スポンサーリンク