2020年2月29日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (706) 「登川・モイレ山」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

登川(のぼり──)

ni-or??1
木・ところ
nikur??2

(??1 = 典拠なし、類型あり)(??2 = 典拠あるが疑わしい、類型あり)
後志自動車道・余市 IC の近くを南から北に流れる川の名前です。川の近くは「余市町登町」という地名もあります。また「小登川」という東支流があるほか、源流部には「小登山」「大登山」という山もあります。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ニホル」「ホンニホル」という川が、余市川の支流として記録されています。これは何かの間違いか……と思ったのですが、登川が余市 IC のあたりからまっすぐ海に抜けるルートは後に人工的に開削されたもののようで、本来は海の手前で西に向きを変えて余市川に注いでいたようです。

「竹四郎廻浦日記」には、「東西蝦夷山川地理取調図」と同様に「ホンニホル」とニホル」がそれぞれ別々に余市川に注いでいたように記されています。

 扨、此川筋の事、海岸より少し上りて ホンニホル、左りの方小流のよし。並びて ニホル、
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.418 より引用)
これを見る限り、「ホンニホル」と「ニホル」はそれぞれ別々に余市川に注いでいたと読み取れます。ただ、もし「ホンニホル」が「小登川」なのであれば、地形を見る限り、「ニホル」と合流後に余市川に注いでいたと考えるのが自然です。「ホンニホル」と「小登川」は別の川だったのかもしれません。

「ノボリ」=「山」起源説

「ノボリ」という音からは、真っ先に nupuri の可能性が想起されます。実際に源流部には「大登山」(標高 565 m)と「小登山」(標高 514.6 m)という山が存在するため関連性を考えたくなります。

明治時代の地形図を見てみると、まず川の名前が現在の「登川」ではなく「大登川」となっています。また、「大登山」は現在の「元服山」(標高 477.3 m)の位置に存在するように見えます。

明治時代の地形図と現在の地形図を比較した場合、「大登山」の場所が思いっきり移動していることになります。ただ、改めてそれぞれの地形図を眺めてみると、余市町と南の赤井川村の境界線が少しおかしなところを通っていることに気付かされます。具体的には、町村境が分水嶺を通っておらず、登川の源流部が赤井川村に含まれてしまっています。

一方、明治時代の地形図を見ると、黒川村(後の余市町)と赤井川村の境界線は分水嶺に沿って描かれています。これは境界線の移転があった……のではなく、明治時代の地形図の測図ミスが原因と考えられそうです。

別の言い方をすれば、「大登川」の源流部にあったから「大登山」だったのが、後に川の源流部が「小登山」の南東まで遡れることが判明し、源流部に近い山を改めて「大登山」と呼ぶようになった……と言えそうです。

アイヌが川の名前を重視した一方で、山の名前については無頓着だった……というのは今までも何度も記してきた通りです。結果として無名峰があちこちに存在することになったため、手近にあった川から名前を拝借したというケースが多く見られます。「小登山」と「大登山」も、「大登山」の場所の変遷を考えると、「手近にあった川から名前を拝借した」山のように思えてきます。

閑話休題

「大登山」と「大登川」(現在の「登川」)のどっちが先に存在したか……という点から検討してきましたが、どうやら川のほうが先だったのではないかな、と思い始めています(明確に証明できたわけではありませんが)。

となると「竹四郎廻浦日記」にある「ニホル」という記録をどう読み解くか、という話になろうかと思います。ni-or であれば「木・ところ」と読めそうでしょうか。この場合の ni は「流木」である可能性もあるかもしれません。

また、「西蝦夷日誌」には「ホンニクル」「ニクル」とも記されていました。これだと単純に「」だった可能性も出てきますね。

モイレ山

moyre-tomari
静かな・泊地
(典拠あり、類型あり)
小樽から古平に向かう場合、国道 229 号の「余市橋」ではなく道道 228 号「豊丘余市停車場線」の「大川橋」を通るようにカーナビに誘導されることが良くあるかと思います。良く考えると「余市橋」を渡った記憶があまり無いような……。

大川橋は余市川の河口近くにかかる立派な斜張橋ですが、余市川の河口のすぐ西側に「モイレ山」があるために、橋からは殆ど海が見えません。モイレ山の北側にはマリーナがあり、また「旧下ヨイチ運上家」があります。

「モイレ」は山の名前、あるいは岬の名前として現在も残っています。「東西蝦夷山川地理取調図」には「モエレ」とあり、また明治時代の「北海道地形図」には「モイレ」という地名?が描かれています。

「再航蝦夷日誌」には次のように記されていました。

     モイレ則運上屋元也
ヨイチ 従フルビラ場所四里三十四丁。一本五里。此処北西向。フクベ岬とシリハ岬と対峙して一湾をなせり。又此運上屋前ニ而小湾をなし、故に波無して甚よろしき処也。
(松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 下巻」吉川弘文館 p.4 より引用)
「フクベ岬」というのがどこのことか不明ですが、「シリハ岬」が現在の「シリパ岬」(あるいはそれに連なる山)を意味すると思われるので、「フクベ岬」は現在「モイレ岬」と呼んでいる岬のことと考えられそうです。明治時代の地図には既に「フクベ」という文字は見当たらず、「モイレ」と描かれていました。

山田秀三さんの「北海道の地名」には、次のように記されていました。

モイレ(moire)は「静かである」の意。モイレ・トマリ(静かな・泊地)ぐらいの名が後略されたのではなかろうか。モエレと書かれたのはその訛った形。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.488 より引用)
異論はありません。moyre で「静かである」と考えて良いかと思います。また、本来はシリパ岬との間に広がる穏やかな海を指していたと考えられるので、moyre-tomari で「静かな・泊地」だったと見て良いのではないかと思われます。

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