2012年2月18日土曜日

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イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む(第10回)

 


本日は 1878/5/24 付けの「第三信」を見ていきます。

江戸と東京

まずは「江戸と東京」と題されたセンテンスから。ご存じの通り、明治維新の後に「江戸」は「東京」とその名を変えることになりますが……

 私は英国公使館の慣習に従って手紙には江戸と書いてきたが、一般には東京《東の都》という新しい名が用いられている。ミカドが以前に住んでいた京都は西京《西の都》という名をつけられたが、今では都として認められる権利は少しもない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.35 より引用)

なんだかのっけから酷いことが書かれていますね……(← 元京都人の端くれ)。ちなみに識者(誰だ)によれば、明治期に天皇が「東京」に移り住んだのは、あくまで「奠都」であって「遷都」では無いとされます。「てんと」です。「せんとくん」ではありません。

鉄道で「江戸」へ旅するといえば不条理に思えるだろうが、目的地が東京であれば、いっこうに差し支えはあるまい。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.35 より引用)

一瞬「なんのこっちゃ?」と思ってしまったのですが、「文明開化」の象徴である「鉄道」の行き先としては、昔の名前の「江戸」ではなく今風?の名前の「東京」という表現がふさわしい、ということなのだと理解しました。

横浜鉄道

鉄道唱歌に「汽笛一声新橋を」と歌われた鉄道が開通したのは 1872 年で、イザベラが日本にやってくる 6 年前のことでした。

 東京と横浜の間は、汽車で一時間の旅行である。すばらしい鉄道で、砂利をよく敷きつめた複線となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.35 より引用)

これは知らなかったのですが、今で言う汐留-桜木町の間はいきなり「複線」で開通したんですね。確かに「単線」だと正面衝突の危険性も大きいわけで、複線で開通させたのは理に適った判断だと思うのですが、コストも倍かかるわけで……。いや、結果的にはすごく正しい判断なんですが、明治初頭の「大変な時期」にこういった意思決定ができたということは誇りに思っていいんじゃないかなー、などと思います。

この鉄道は、英国人技師たちの建設になるもので、一八七二年(明治五年)の開通式には、ミカドが臨幸された。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.35 より引用)

この辺は重要な情報なので、しっかりと記されていますね。日本最古の鉄道はイギリス人技師に依るところが大半でした。彼らによって 1,067 mm という「狭軌」で建設されることになり、未だに全国の JR(新幹線を除く)は「狭軌」のままです。

工事のどれほどの費用がかかったのか、政府だけしか知っていない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.35 より引用)

何しろ、「本邦初の鉄道建設」ですからね。国家事業となるのもやむなしです。あ、もしかしたら「東洋初」だったんでしょうかね。

横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売場は英国式である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.35-36 より引用)

うーむ、「英国式の切符売場」ってどんなのでしょう……。

等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨氈を敷いていない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.36 より引用)

「下駄をはくことを考慮して──」というのが事実かどうかはわかりませんが、なかなか観察力の鋭いところを窺わせます。

どちらの終着駅にも、広くて天井がつき石を敷きつめたプラットホームがあって、回り木戸をつけた関所を設けてある。ここは、特典のある者でない限り、切符がない者はだれも通れない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.36 より引用)

「回り木戸をつけた関所」は「改札口」、またはそれに類するもののことだと思いますが、日本の鉄道ほど「改札の中と外」を厳格に管理?している例は少ないように思います。実際、海外の鉄道の駅には改札口が存在しないものも多いと聞きますが、明治の創生期からこういった考え方で臨んでいたのであれば、それはそれで興味深いですね。


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