2016年9月22日木曜日

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「日本奥地紀行」を読む (60) 川治温泉~五十里 (1878/6/25)

 

引き続き、1878/6/24 付けの「第十一信」(本来は「第十四信」となる)を見ていきます。

ばかばかしい間違い

川治温泉での「ばかばかしい間違い」のあと、イザベラはこの日の最終目的地である五十里に向かいます。

私たちはそこを出発した。五十里(イカリ)まで歩いて五マイルである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.152 より引用)
イザベラが旅したと思われる会津西街道と五十里の集落は、今は五十里ダムのダム湖である「五十里湖」の中に沈んでしまっています。

イザベラは、どしゃ降りの雨の中を五十里に向かうことになったのですが……

道は、滝になって落ちてゆく鬼怒川にすっかり閉じ込められて、あるときは高く、あるときは低く、岩の面から突き出した支柱にささえられて進んだ。私は、日本でこれ以上に美しい場所を見ることはできないだろうと思う。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.152 より引用)
「日本でこれ以上に美しい場所を見ることはできない」と、最上級の賛辞を綴っていました。この、イザベラが絶賛した川沿いの景色も、あるいは五十里ダムの底に沈んでいる可能性が高いわけで、そう考えるとちょっと残念な感じもしてしまいますが……(だからと言ってダムが不要とは思わないですけどね)。

その後も山峡の眺めを絶賛する文章が続くのですが、次のページではこんな一節がありました。

この山峡の景色は美しいにはちがいないのだが、熱帯地方のココ榔子やバナナの樹木の眼を見はらせる個性味や優美な姿を望むものには、何かものたりぬものを感じさせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.153 より引用)
あれ、先程までの絶賛ぶりはどこへやら。まぁ、確かに美しい景色もそのまま延々と続いたならば、さすがにアクセントが欲しくなるというのも理解できます。

広い谷間

イザベラは、現在の「会津西街道」沿いのルートで北上を続けます。

広い谷間に下ってゆくと、静かな渓流は物さわがしく流れる鬼怒川と合流する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.153 より引用)
前述の通り、このあたりは今は五十里湖の底に沈んでいるので、当時の地形を知るには昔の地形図を引っ張り出してくるしかありません。イザベラの言う「広い谷間」は、現在の湯西川温泉駅の東のあたり、男鹿川に湯西川が合流するあたりのことでしょうか。

ちなみに、イザベラは「鬼怒川」としていますが、現在の地形図では川治ダムがあるのが「鬼怒川」で、五十里ダムがあるのは「男鹿川」となっています。

さらに一マイル進めば、この山あいの美しい部落に出る。戸数は二十五軒で、男鹿川という谷川の傍にある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.153 より引用)
五十里の集落は湯西川と男鹿川の合流点から 1.6 km ほど北に進んだところにありますから、やはりイザベラの言う「広い谷間」は湯西川温泉駅の近くだったようですね。そしてここでようやく「男鹿川」という名前が出てきましたが……

日本の河川の名前は、上流から下流まで一貫して同じ名であることはないから、名前を見ただけでは、地理的知識を得ることはむずかしい。河川は、その通過する地域に従って、三〇マイルから四〇マイルのうちに幾度か名前を変える。この川は、私が二日間も遡ってきた旧友の鬼怒川のことである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.153 より引用)
的確なフォローをありがとうございます。言われてみれば確かにその通りですよね。例えば琵琶湖の流出河川は「瀬田川」ですが、いつの間にか「宇治川」に名前が変わりますよね。ただ、今回の例は、少なくとも現在の場合は「鬼怒川」と支流の「男鹿川」という図式なので、「名前がコロコロ変わる」のだとも言い切れないような気もします。まぁ、細かい話はどうでもいいと言えばそれまでですけどね。

五十里

イザベラ一行は五十里の集落に到着しました。

五十里の部落は山の傾斜地に集まっており、その街路は短く原始的に見えるが、雨が晴れて明るく輝くときには、その暖かい茶色と灰色の風景は、実に魅力的である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.154 より引用)
大正の頃に測量した地図を見た感じでは、五十里の集落は川の西側にあったようです。会津西街道は男鹿川の東側を通っていたので、わざわざ集落の南北に橋をかけてまで西側に移動したのはなぜだろう……という疑問も湧いてくるのですが、水害などが少なかったのか、あるいは日当たりが良かったとか、その辺でしょうか。

私の泊まった場所はこの宿駅の本陣で、丘の上にある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.154 より引用)
この説明文を読む限り、イザベラが泊まった「本陣」も、川の西側の集落にあったようですね(地形図を見た感じでは、西側の集落は少し高台にあるように見えます)。

五十里の「本陣」

前夜は農家泊まりだったイザベラにとっては、五十里の「本陣」はかなり満足の行く宿だったようです。

昔、近くの大名は江戸へ行く途中にここで泊まるのが常であったから、大名の間と呼ばれる客座敷が二つある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.154 より引用)
歴史的背景に触れたあとは、部屋の設えについての文章が続きます。

一五フィートの高さで、天井はりっぱな黒材で、障子は格子細工の名にふさわしいりっぱな造作である。襖には芸術的な装飾が施してあり、畳は清潔でりっぱである。床の間には金の蒔絵の古い刀掛けが置いてある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.154 より引用)
このように、イザベラの眼鏡に叶う宿だったようですが、場所柄もあってか外国人相手の商売の知見には乏しかったようで、

ここの主人も、藤原の主人と同じように、旅券というものを知らない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.154 より引用)
このあたりは、前夜に泊まった藤原の宿と大差なかったようです。ということで、ここで伊藤少年の出番です。

そこで伊藤は、町で育った若者らしく振舞い、私の言う通りに説明をしてやった。村人たちはみな集まって、旅券に書いてあることを読んでもらった。伊藤は、scientific investigation(科学的調査)に相当する日本語を知らなかったが、自分の偉さを誇示しようとして、このお方は学者です《学問が深い!》、と誇張して言い聞かせているのが私の耳に入った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.154 より引用)
自分の「主人」に箔をつけることで、お供である自分の株も上がる……という考えだったのでしょうね。こういった伊藤少年の性質をイザベラが「虚栄心のかたまり」と腐していたのを思い出させます。少々不思議なのが「このお方は学者です、と誇張して言い聞かせているのが私の耳に入った」というくだりなのですが、イザベラも多少の日本語(の単語)は耳に入るようになっていたのでしょうか。

旧本陣の宿には満足していたイザベラですが、一方でそこで暮らす人々の姿に疑問を抱いたようです。

ここは昨夜の宿屋とくらべてずっと清潔なところである。しかし人は愚鈍で無感動のように見え、私は、いったいこの人々は、大名の制度を廃し封建体制を倒した人々のことを何と思っているのだろうか、貧しい民衆にも市民権を与え大急ぎで西洋文明に追いつこうとしている帝国政府のことをどう考えているのだろうか、と思ったりした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.155 より引用)
まぁ、これはイザベラの目にどう映ったかが記されているわけですから、多少は差し引いて考えないといけないのかもしれません。何しろイザベラは「よその国からやってきた異形の人」なのですから、シャイな日本人がそうそう感情を露わにするとも考えづらいわけです。

そして、イザベラ自身にもシャイな部分があるのかもしれません。まぁ、後になれば後になるほど愚痴っぽい本音が出てくるというのは、イザベラに限らず普遍的なもののような気もしますが……。

ここでは米と卵のほかは食糧が手に入らない。私の眼前には、日光の鶏肉と魚肉の思い出がちらついてくる。公使館で食べたご馳走は言うまでもない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.155 より引用)
はい。肉と魚が恋しいみたいですね(笑)。

第十一信は 1878/6/24 付ですが、藤原から五十里に移動したのは 6/25 の出来事でした。いずれにせよ夏のできごとなのですが、

夜になると温度は七〇度に下がる。ふつう私は午前三時に寒くて眼をさます。私の掛けている毛布は夏用のものばかりだからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.156 より引用)
華氏 70 度は摂氏 21.1 度ですから、五十里の夜は意外と涼しかったようです。確かに夏用の布団では寒そうな感じもしますが、

しかし私は敷蒲団や掛蒲団をつけ加えようとは思わない。その中に蚤が入っているからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.156 より引用)
これはなかなか切実な問題ですね……。蚤(ノミ)の問題は、この先もイザベラを悩ませることになることでしょう。

イザベラが日光の金谷家を出たのが 6/23 で、二日かけて五十里までやってきました。それほど悪いペースではないと思うのですが、イザベラ自身は早くも疲れを感じていたようです。

馬はのろのろと進み、身体をぐらぐらさせ、よく蹟くので、騎馬旅行は近ごろの私にはとてもつらくなってきた。私が少しでも歩ける性質であるならば、きっと徒歩旅行を選ぶのだが。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.156 より引用)

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