2023年10月15日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1080) 「冬窓床・跡永賀」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

冬窓床(ぶゆま)

puy-oma-i
穴・そこにある・もの
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
入境学の 3 km ほど西の沖合に「ローソク岩」という岩があります。冬窓床(ぶゆま)はローソク岩の 300 m ほど北、跡永賀(あとえか)の 700 m ほど東南東の地名です。「釧路町の難読地名コレクション」その 8 ……と言えるでしょうか(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」)。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) ではちょいと妙なことになっていて、「アトイカ」(=跡永賀)の東に「ワツカナイ」があり、その東に「フヨニ」と「フヨマアトカ」があります。

「プユモイ」と「フヨマアトイカ」

ちゃちゃっと表にまとめたほうが良さそうな感じですね。

大日本沿海輿地図 (1821)アトヲカ--
クスリ地名解 (1832)アトヱカフヱマブヱマアトエカ
初航蝦夷日誌 (1850)アトイカフヱマフヱマトユカ
竹四郎廻浦日記 (1856)アトイカ--
辰手控 (1856)アトイカフイマアトイカ
午手控 (1858)アトヱヲカフヱマアトヱヲカ
東西蝦夷山川地理取調図 (1859)アトイカフヨニフヨマアトエカ
東蝦夷日誌 (1863-1867)アトエカ(小川)フイマアトエカ
(岩穴)
ブイマユカ(岬)
改正北海道全図 (1887)-フユモイ
永田地名解 (1891)アト゚イ オカケプヨマ アト゚イカ
北海道地形図 (1896)アト゚イオカケプユモイ
北海測量舎図アトイオカケフヨマアトイカプユモイ
陸軍図 (1925 頃)アト--
地理院地図跡永賀あとえか冬窓床ぶゆま-

北海測量舎の地図によると、ローソク岩のあるあたりが「プユモイ」で、現在「冬窓床ぶゆま」と呼ばれるあたりが「フヨマアトイカ」だったようです。

東蝦夷日誌では「アトエカ(小川)」と「フイマアトエカ(岩穴)」の間に「ワツカナイ(小川)」とあるのですが、これが現在「冬窓床川」と呼ばれる川なのかもしれません(里程が実際の距離よりも短く記録されているという問題はあるのですが)。

また、「東西蝦夷──」以前は「フヱマ」と「ブヱマアトエカ」の順で並んでいて、これは北海測量舎図とは逆になっています。「フヱマ」と「ブヱマアトエカ」はほぼ同一の場所にあったのかもしれません。ここで問題となるのが「東蝦夷日誌」の里程ですが、

(二丁)フイマアトエカ(岩穴)此穴より則通る故號く。此處また岩の上越て、(八丁廿間)ブイマユカ(岬)、ホンソウ(瀧)過て、(十三丁廿間)リトイ平(平)名義、つづら高き土平と云儀なり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.318 より引用)
これを「フイマアトエカ(岩穴)」と「ブイマユカ(岬)」の間が「八丁廿間」と解釈したのですが、「ブイマユカ(岬)」と「ホンソウ(滝)」の間が「八丁廿間」だった可能性もあるかな……と(この考え方は北海測量舎図の記録とも近いものです)。

あ……。「冬窓床」で「ぶゆま」と読ませるのは相当無理があると思っていたのですが、「東蝦夷日誌」の「ブイマユカ」に対して「冬窓床」という字を当てた可能性がありますね。

「穴・岩」?

「冬窓床」の元となった「フヱマ」あるいは「プユモイ」は、どうやら「ローソク岩」の近くの岬のあたりを指していたらしい……というところまで見えてきましたが、加賀家文書「クスリ地名解」には次のように記されていました。

フヱマ ブヨ・マ 穴・岩
  近年迄此所に穴有し岩有之候得共、此所は此頃砂多く飛砂下に相成、相見得不申候。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.261 より引用)
puy は確かに「穴」なのですが、「マ」が「岩」かと言うと……。

「穴・入江」?

更科さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 冬窓床(ぷゆま)
 跡永賀部落の岬の蠟燭岩が、昔は鍋鉉のように穴のある岩であったのが、一方が欠けてしまったという。この岬のかげをプイ・モイ(穴の入江)といったのに当字をしたもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.267 より引用)※ 原文ママ
ふむふむ。沖合の「ローソク岩」がかつては奥尻の「鍋釣岩」のような、巨大な穴のあいた岩だったのにちなむ……ということですね。puy-moy で「穴・入江」ではないかということですが、これは明治時代の「プユモイ」という記録に近そうでしょうか。

「穴・そこにある・もの」?

ただ「プユモイ」であれば puy-oma-i で「穴・そこにある・もの」と考えたほうが良さそうな気もします。「ローソク岩」そのものを「プユモイ」と呼んだのではないかな……と。

夢のある余談

そして少し夢のある、あるいは逆に夢を壊すかもしれない余談なのですが、永田地名解には次のように記されていました。

Puyoma atuika   プヨマ アト゚イカ   穴アル立岩 和俗蠟燭岩ト云フ、大岩海中ニ兀立シテ穴アリ往時二岩並立セシガ今ハ一岩アルノミ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.331 より引用)
この注釈は更科さんの文章とも一致する内容ですが、よく見ると加賀伝蔵も「近年迄此所に穴有し岩有之候得共」と記していて、永田地名解よりも 60 年近く古い加賀伝蔵の時代で既に伝聞だったことがわかります。

ところが、東蝦夷日誌には「フイマアトエカ(岩穴)此穴より則通る故號く」と記されていました。仮に奥尻島の「鍋釣岩」のような形の岩だったとすると、わざわざ舟がその穴の中を通る必要性があるのか疑問です。

もしかしたら「ローソク岩」と岬の間の「海峡」を「穴」に見立てて、「穴のあるところ」と呼んだんじゃないかな……と。これを「穴なんて無かった」と捉えると夢のない話ですが、「ローソク岩と岬の間に(想像上の)『巨大な穴』が存在する」と考えると、なかなか夢のある話に思えませんか……?

跡永賀(あとえか)

atuy-ka
海・の上
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
冬窓床ぶゆまの 0.7 km ほど西北西に位置する集落の名前で、1919(大正 8)年までは「跡永賀村」という村が存在しました(1919(大正 8)年からは「昆布森村」)。みんな大好き「釧路町の難読地名コレクション」その 9 です(#1「重蘭窮」、#2「知方学」、#3「老者舞」、#4「分遣瀬」、#5「賤夫向」、#6「入境学」、#7「初無敵」、#8「冬窓床」)が、#1 ~ #8 と比べると若干パンチに欠けるような気も……(パンチとは)。

「角川日本地名大辞典」には「あとえが」とルビが振られています。漢字表記に引きずられたか、「賀」を「が」と発音したようですが、現在は「あとえか」と読むようです。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「アトイカ」と描かれています。そして「アトイカ」の東には「フヨマアトエカ」という地名も描かれています(詳細は上表参照)。

「海・後」?

加賀伝蔵の「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。

アトヱカ アトヱ・ヲカケ 海・後(跡)
  此所に澗有。右澗相応之時化いたし候ても、悪き澗の時化後のよふに見得るを名附由。
(加賀伝蔵・著 秋葉実・編「加賀家文書」北海道出版企画センター『北方史史料集成【第二巻】』 p.261 より引用)
atuy-okake で「海・跡」ではないかとのこと。okake という語は個人的には馴染みがなかったのですが、「地名アイヌ語小辞典」(1956) にちゃんと立項されていました。

oka オか あと(後,跡)。
okake オかケ 同上。[oka-ke(あとの所)]
知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.74 より引用)
それはそうと、加賀伝蔵の文章がちょいと難解ですね。「此所に澗有」は良いとして、この澗がかなり時化に見舞われたとしても、「悪き澗の時化後のよふに見得る」というのは一体……? どれだけ激しく海が荒れたとしても、時化の後のように穏やかなんだよ……というアピールかと思うのですが、であれば何故「悪き」澗の……としたのでしょう?

「海・跡」?

永田地名解 (1891) には次のように記されていました。

Atui okake   アト゚イ オカケ   海跡 往古海中ナリシガ今沙灣ニ變ズ故ニ名ク○跡永賀アトエカ
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.331 より引用)
興味深いことに、atuy-okake は加賀伝蔵の「クスリ地名解」と全く同じなんですよね。ただその解釈は妙にリアルに変化していて、かつて海だったが砂が堆積して陸地になった……とあります。

「海・上」?

ただ、atuy-okake と「アトエカ」の違いがちょっと気になります。仮に atuy-ka だったとすると……

atuy-ka, -si アと゚ィカ 海上;海面
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.11 より引用)
「海の上」ということになるんですよね。つまり、かつて海だったところが今は陸地になり、その土地を「海の上」と呼んだ……というシナリオが成り立ちそうです。

釧路町史」にも次のように記されていました(おそらく「昆布森沿岸の地名考」がネタ元です)。

 アトエカ(跡永賀) 昔、海であったところ
 アトウイ(海の意)オカ(跡)オカケ(あとの所)で北海道蝦夷地名解では「海跡・往古海中なりしが、今砂湾に変ず、故に名ク」とあり、アイヌ語辞典にアトィカ(海上・海面)ともあるが、昔、海であったところと解するのが妥当である。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.125 より引用)
おおおお……。これは「完全に一致」というヤツですよね?

「フヨマアトエカ」の謎

ただ、ここで忘れてはいけないのが「フヨマアトエカ」の存在です。「釧路町史」には次のように記されていました。

 ブイマ(冬窓床) 海の中に立っている岩
 プイ(穴)マ(澗)と解するが、ここは跡永賀の一部で、アトエカ・ブイマを合わせて跡永賀と呼ばれていた。地名もブヨマ・アトエカといわれていたという。
(釧路町史編集委員会「釧路町史」釧路町役場 p.125 より引用)
うん……、確かにそう捉えることも可能でしょうか。現在でも「十勝清水」みたいに旧国名?を冠して呼ぶケースがありますが、でもアイヌ語の地名で「大地名・小地名」というパターンは意外と少ないような気がするのです。

逆に、似た特性を持つ地名に対して何らかの接頭語を冠するパターンが多いんですよね。近くだと浜中町の「渡散布」「養老散布」「丸山散布」「藻散布」なんかが典型的でしょうか。

「岩穴がある跡永賀」

ここで興味深いのが「午手控」(1858) の次の記述です。

フヱマアトヱヲカ
 岩穴が有るアトヱヲカと云り
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.340 より引用)
これを見る限り、やはり「跡永賀の冬窓床」だから「フヨマアトエカ」と言うよりは、puy-oma-{atuyka} で「穴・ある・{跡永賀}」と解釈すべきと思えます。

ただ、本来の「冬窓床」は「ローソク岩」のあたりで、どう見ても砂が堆積して陸地を成すような場所には見えません。現在の「冬窓床」のあたりは砂浜がありますが、このあたりはおそらく「ワツカナヱ」あるいは「ワツカナイ」と記録された場所なのでは、と思えます。

「高いところから海を見越して眺める」

「午手控」を更に見てみると……

アトヱヲカ
 高き処より海を見こして眺るが故云也
(松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.340 より引用)
ほう。跡永賀の集落の南には「跡永賀」という名前の四等三角点(標高 44.2 m)がありますが、三角点の東は標高 80 m ほどの山(崖の上)となっています。確かに海を眺めるには良さそうなところです。

つまり、atuy-ka は「海上、海面」と解釈するのが一般的ですが、「海・上」で文字通り「海の上」だったのではないかと。あるいはもしかしたら atuy-inkar(-us-pe) で「海・見張る(・いつもする・ところ)」で、それが更に略されて atuy-ka になったのでは、とも。

「穴がそこにある見張り場」

そして、「フヨマアトエカ」は「穴のある海の跡」ではなく、puy-oma-inkar(-us-pe) で「穴・そこにある・見張る(・いつもする・ところ)」だったのでは……と。それはどこにあったのかと言うと、おそらく「ローソク岩」の対岸の岬ではないかと。

見張り場所が二つ必要なのは、跡永賀の高台では東からやってくる舟を見張ることができなかったからではないか……と。もう一つの見張り場所は跡永賀からそれほど遠くなく、東から来る舟を見渡せる場所ということになるので、それは「ローソク岩」の対岸の岬かなぁ、と。

冬窓床ぶゆま」の項で、実は奥尻の「鍋釣岩」のような岩は無かったんじゃないか、ローソク岩と対岸の岬の間を「穴」に見立てたんじゃないか……という「夢のある余談」を記しましたが、そう考えると「対岸の岬」を「フヨマアトエカ」で「穴のある見張り場」と呼んだのも納得できるんですよね。

夢のない余談

この解の最大の難点は、加賀伝蔵が「ガセネタを掴まされた」という可能性が出てくるところです。既に atuy-ka だと「海面」なるがそれはおかしい!という認識になっていて、誰かがそれらしい解を創作した……と言った感じだったのでしょうか。

あるいは幕吏がやってくる前に女性や子供を山に逃していたので、見張り場の存在は口外できなかった……なんて可能性も、ゼロでは無かったかも……?

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