2010年7月26日月曜日

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エルンスト・デグナー、亡命の顛末とその手土産とは?

 


板垣死すともデグナーは死なず

えー、そんなわけで、図らずも鈴鹿サーキットの「デグナー」の名付け親になってしまったエルンスト・デグナーさんの話題をもうちょいとだけ続けます。

エルンスト・デグナー ( Ernst Degner,出生時の名前はErnst Eugen Wotzlawek,1931年9月22日 - 1983年9月10日 )は、ドイツ・グリヴィツェ(現ポーランド領)生まれのオートバイレーサー。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

ということなのですが、

経歴
第二次世界大戦後、彼は家族と東ドイツに移り住んだ。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

のだそうです。「生まれた国」はドイツなので、今やポーランド領になってしまった故郷に留まるよりはドイツ領内に住むほうがまだマシ、という判断だったのでしょうか。

「チャンバー技術」とは?

さて、このデグナーさん、長じてはロードレースの世界で大活躍することになります。

1957年から1961年にかけてデグナーは東ドイツのMZ社のオートバイを駆り、ロードレース世界選手権の125ccクラス、250ccクラスで活躍した。MZの2ストロークエンジンは同社の技術者 Walter Kaaden が発明した排気脈動を利用するチャンバー技術等によって高いパフォーマンスを誇っていた。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

チャンバー技術というのは何でしょうか。……なるほど、排気の跳ね返りを使って混合気の充填効率を高めるというやり方ですか。排気のエネルギーを使おうという発想はターボチャージャーのようでもありますが、もっとプリミティブな発想のもののようですね。


(Wikimedia Commons より借用。この作品の著作権者である Agster 氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。: クリエイティブ・コモンズ表示 - 継承 3.0 Unported

まぁ、単純なギミックと言ってしまえばそれまでなのですが、なにしろ 1950 年代の話ですから、混合気の充填効率を高めるというアイディア自体が先取的だったのかも知れません。

亡命の手土産は

そして、米ソの冷戦構造が明確になってきたのもこの時代の話で、世界各地を回っていたエルンストには西側での暮らしに憧れを感じたのか、次のような行動に出ます。

1961年8月にベルリンの壁が完成した後、デグナーは彼の家族を西ドイツに亡命させる準備をおこなった。9月13日水曜日、彼の妻と2人の息子は西ドイツの友人の協力によって、車のトランクに隠れて国境を越えることに成功した。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

そう、西ドイツへの亡命です。そして、エルンスト本人はどうしたかと言うと……

一方デグナー本人は、その週末に開催となる第10戦スウェーデンGPに出場した。125ccクラスではホンダのトム・フィリスと年間タイトルを争っていたが、デグナーは3周目にエンジン破損でリタイアする。レース後彼はフェリーに乗り、デンマーク経由で西ドイツへの亡命に成功、家族と合流することができた。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

いつの時代もそうなのですが、レーサーはレースが終わるとさっさと荷物をまとめてサーキットを後にする習性があります。エルンストはこの「一般的な習性」を利用して、観客や関係者がサーキットに釘付けになっている間にさっさと西側への脱出を図ったと言うのですから、なかなか計算高い男だったようですね。

亡命が発覚後、東ドイツ側からは「わざとエンジンを壊した」と非難されることになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

と後ろ指を指されたのは当然のこと、更には

デグナーは1961年のスウェーデンGPの際に途中リタイヤしてそのまま西ドイツに亡命。その際にWalter Kaadenの設計したMZ製オートバイ用チャンバーの青図を服の下に隠し持っており、スズキに移籍後にその技術が西側諸国にもたらされた。
(Wikipedia 日本語版「チャンバー」より引用)

という、産業スパイ行為までやらかしているのですから始末に負えません。

人間万事塞翁が馬

そんな策士、エルンスト・デグナーですが、亡命の結果、

スウェーデンGPでフィリスは6位に終わり、タイトルの決定は最終戦アルゼンチンGPに持ち越されていた。当然デグナーはMZからの出場は不可能になったが、個人タイトル獲得のために他チームからの出場を模索していた。しかし結局東ドイツのモーターサイクル協会にライセンスを取り消されて出場は不可能となり、ホンダの125cc・250cc個人・メーカータイトル独占を許すことになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

チャンピオンの可能性があったにも拘わらず、レースに出場することができず、結局タイトルを逃してしまいます(最終ランキングは 2 位)。

とは言え、亡命&産業スパイ行為の見返りは早くも翌年にやってきます。

翌1962年シーズンには、デグナーは日本のスズキと契約し、この年から始まった50ccクラスでスズキにグランプリ初タイトルをもたらした。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

その時順位が動いた

そして、ついに「その時」を迎えます(←

同年11月に行われた鈴鹿サーキットのオープニングレース「第1回全日本選手権ロードレース」ではトップを独走中に転倒。その転倒したコーナーが「デグナーカーブ」と命名されることになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)

いやー、これだけ波瀾万丈の人生を送った人だとは知らなかったです。単にデグナーでコケただけの人だと思ってましたよ……。この人のエピソードだけで 120 分番組一本行けますね。

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