2012年3月3日土曜日

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「日本奥地紀行」を読む (14) 東京 (1878/5/24)

 

1878/5/24 付けの「第三信」を見ていきます。……本当にこの「第三信」は内容が豊富ですね。

風変わりな姿

「風変わりな姿」と題された、日本人の格好に関するセンテンスでは……

女性はとても小柄で、よちよち歩いている。子どもたちは、かしこまった顔をしていて、堂々たる大人をそのまま小型にしたような姿である。私は、彼らすべてを以前に見たことがあるような気がする。お盆や扇子や茶瓶に描かれている彼らの姿にそっくりだからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.39 より引用)
「お盆や扇子や茶瓶に描かれている」というのが面白いですね(笑)。「日本画」はとても写実的とは言えないと思うのですが、その反面、特色を良くデフォルメできているということなのかも知れません。現代でも「マンガ」や「擬人化」が隆盛を極める「この国のかたち」は、実は綿々と受け継がれてきた「お家芸」なのかもしれません。

女性の髪は、すべて額のところから後ろに梳いて、束髪の髷を作っている。男たちは、前髪を剃り、後ろ髪を束ねて奇妙な髷を作り、前方の剃った跡の上にひきよせている場合(ちょんまげ)のほかは、三インチほどののびた粗い髪が、がんこにも左右に分けもせずもじゃもじゃ髪となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.39 より引用)
あれ? 「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」なんて話がありましたが、その頃既に「断髪令」が出ていた筈なので、ちょんまげ姿の男性を見ることは無い筈……と思いきや。

散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)とは、明治4年8月9日(1871年9月23日)に明治政府によって出された太政官布告。一般には、断髪令(だんぱつれい)という名称で呼ばれる。
(Wikipedia 日本語版「散髪脱刀令」より引用)
うんうん。イザベラがこの文を書いているのは 1878 年なので、すでに「断髪令」が布告されてから随分と経っています。

断髪令という名称が有名であるが、散髪脱刀令は髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではない。
(Wikipedia 日本語版「散髪脱刀令」より引用)
へぇぇー。そうだったのか……。なるほど、それであれば 1878 年でも「ちょんまげ頭」の男性を見ることがあったのかも知れませんね。

東京の第一印象

続いては「東京の第一印象」というセンテンス……だと思うのですが、

 公使館からデイヴィスという護衛兵が私を迎えに来た。彼は、一八六八年(慶応四年)三月にサー・H・パークスが初めて天皇(ミカド)に謁見するために参内する途中、京都の街路で襲撃を受けた際に、斬りつけられて重傷を負った護衛隊の一人である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.39 より引用)
うーん、生麦事件なら教科書にも載っているくらいで知っているのですが、ハリー・パークスが京都で襲撃を受けたというのは初耳でした。Wikipedia を見てみましょうか。

新政府の正当性を宣言するため各国外交団に明治天皇への謁見が許された矢先に堺事件がおきたが、同事件解決後に京都に行き、三条実美・岩倉具視などに会い、天皇にも謁見した。
(Wikipedia 日本語版「ハリー・パークス」より引用)
堺事件……なんてものがあったんですね。

堺事件(さかいじけん)は、慶応4年(1868年)に和泉国堺で起きたフランス水兵殺害の責を負って土佐藩士が切腹した事件。泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)とも呼ばれる。
(Wikipedia 日本語版「堺事件」より引用)
ふむふむ。「事件の概要」というところには……

同日午後三時ごろ、領事一行を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクスは堺港に入り、湾内を測量、士官以下数十名の水兵が上陸、市内を徘徊した。夕刻、土佐藩軍艦府の命を受けた箕浦、西村らは帰艦を諭示させたが言葉が通じず、藩兵は水兵を連行しようとした。水兵側は土佐の隊旗を倒伏、逃亡しようとしたため、土佐藩側は咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷または、海に落として溺死させた。土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。遺体は16日に引き渡しを終えた。
(Wikipedia 日本語版「堺事件」より引用)
うーん。「言葉が通じず」というところが気の毒ですねぇ。

ロッシュは、同じく2月19日、在阪各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は和泉国・摂津国の間にあり、主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなど、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。
(Wikipedia 日本語版「堺事件」より引用)
そうか、慶応4年だと、まだ「戊辰戦争」なんてものがあったわけですね……。

明治政府は憂慮し、イギリス公使ハリー・パークスに調停を求めたが失敗、22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされるが、捕縛ではなく発砲による殺傷を目的とした野蛮な対応に外国は震撼した。
(Wikipedia 日本語版「堺事件」より引用)
ちなみに、かの「生麦事件」が起こったのが 1862 年(文久2年)です。その時点で「日本は野蛮な国だ」という理解が広まっていても不思議は無いような気もするのですが……(開き直った)。

ロッシュは30日御所に参内(はじめパークスも一緒に参内する予定であったが、直前に京都市内縄手通りで堺事件に憤激した攘夷志士三枝蓊朱雀操に襲撃されて取りやめとなり、翌3月1日に延期となった。)天皇からの謝意を受けた。こうして政府間の問題解決は終了することになる。
(Wikipedia 日本語版「堺事件」より引用)
なーるほど。こんな伏線があって、ハリー・パークスは京都で襲撃を受けた、ということなのですね。でも、ハリー・パークス本人の項では殆ど触れられていないのが少々不思議に感じます。

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