2014年10月13日月曜日

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イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む(第39回)

 


前回に引き続き、1878/6/10 付けの「第六信(続き)」(本来は「第九信(続き)」となる)を見ていきましょう。

農村

イザベラ一行は、栃木から例幣使街道を北に進みます。あ、「例幣使」というのは日光東照宮に幣帛(へいはく)を奉献するための勅使のことだそうです。平たく言えば、貢ぎ物の運び屋のことですね(平たすぎ)。

さて、例によって例の如く、前日の宿屋でも悲惨な目に遭ったイザベラさんですが、気を取り直して、平常モードで筆を進めます。

桑畑が現われてきたので、養蚕業のあることが分かる。白色や黄緑色をした蚕の繭が、平らな盆に入って、道路に沿って日向に出してあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.89 より引用)

群馬から栃木にかけての関東北部では養蚕業が盛んでしたが、さすがはイザベラさん、この辺は見逃しませんね。まんまるとした蚕の繭が天日で乾かされていた光景が描き出されています。

「古き良き日本」の情景も描かれています。

七歳か八歳の小さな女の子でさえも、赤ちゃんを背中におんぶして子ども遊びに興じていた。まだ小さくてほんとうの赤ん坊を背に負えない子どもたちは、大きな人形を背中に結んで同じような格好をしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.89 より引用)

現在では、児童の「お手伝い」を労働力として看做すのは違法ですが、発展途上の国においては今でも良く見聞しますね。これを「貧しさ故」と見ることもできますが、そういった意味では 150 年前の日本も貧しい国だったのだな、と思わせます。

もちろん、ここで描き出されているのは「子ども遊び」の話ですから、実際に子ども……おそらくは弟か妹なのでしょう……をおんぶしている子どもには「労働」という意識は無く、遊びの延長としてのお手伝い、といった感覚だったのでしょうね。

大きくなったらお嫁さんになって、そしてお母さんになる……というキャリアパスが唯一無二の物として存在していた時代だった、とも言えそうです。それを「女性の自由を阻害している」と見ることも(現代においては)可能なのかも知れませんが、その指摘が果たして妥当な物であるかどうかは検討の余地があるような気もします。

ちょっと筆が逸れましたが、イザベラの目にした明治の日本は、決して裕福な国では無かった、ということになりますね。イザベラの言う「ほんとうの日本」が少しずつ姿を見せ始めた、とも言えそうです。

続きを見ていきましょうか。

村が無数にあること、人家が立て混んでいること、中でも赤ん坊が多いことで、たいそう人の多く住んでいる地方だという印象を受ける。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.89 より引用)

身も蓋もない言い方をすれば、「子ども」=「無償の働き手」という暗黙の認識があったので、子どもを持つことによってコストが発生する、という考え方はあまり無かったのでしょうね。あと、少し矛盾した考え方かもしれませんが、大勢の子どもを食べさせるだけの生産力が、まがりなりにも存在した、とも言えるのかもしれません(これはあくまで憶測で、もしかしたら全くの勘違いかもしれませんが)。

美しい地方

イザベラが通った例幣使街道については、次のような印象を残しています。

やがて広い道路が巨大な杉の並木道に入ると、日光の神聖な神社(東照宮)に至る街道は木蔭になり、ちらちら洩れてくる日光と木蔭が草葉をまだらにすると、私は日本が美しいと思い、今まで通ってきた関東平野が醜い夢にすぎないように感じられた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.90 より引用)

例幣使街道は、栃木から鹿沼、そして今市に向かうルートを取るのですが、広大な関東平野から離れてゆくに従って山が近くなるとともに、森や林の木々を目にすることが増えてきたのでしょうね。緑の豊かな街道筋の光景を、イザベラは「美しい」と感じたようです。

記念の並木道

イザベラ一行が栃木から今市に向かった際のルートは「例幣使街道」だったのですが、これはイザベラ本人から次のように説明されています。

日光に通ずる街道は二つある。私は宇都宮から行くふつうのコースを避けた。その結果、奥州街道と呼ばれる大きな街道沿いに約五〇マイル続いている最もすばらしい街道を見ることができなかった。私のとったコースの例幣使街道は三〇マイル続く。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.90 より引用)

江戸時代に成立した「五街道」は、「東海道」「中山道」「甲州街道」「奥州街道」と「日光街道」なのですが、実は「奥州街道」と「日光街道」は日本橋から宇都宮までのルートが完全に重複しているため、「奥州街道」の代わりに「水戸街道」を「五街道」に含める、という考え方もあったみたいですね。

あ、また話が逸れてしまいましたが、イザベラは日光に向かうにあたって、当時でもメジャーだった筈の「奥州街道」+「日光街道」というルートを取らずに、例幣使街道経由のルートを選択しました。どのような意図で「奥州街道」を使わなかったのかは明記されていませんが、上記引用文中に「約五〇マイル」「三〇マイル」とあるように、例幣使街道経由のほうが距離が短かったから、と考えるのが自然かもしれません。


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