2015年5月6日水曜日

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「日本奥地紀行」を読む (45) 日光(日光市)~湯元(日光市) (1878/6/22)

 

今日からは、1878/6/22 付けの「第九信」(本来は「第十ニ信」となる)を見ていきましょう。

日本の駄馬と荷鞍

日光の「金谷家」に長く逗留していたイザベラですが、これから先の奥地紀行の準備を着々と整えていました。この日は日光から奥日光の湯元まで、馬上の旅にトライすることになったようです。

今日、私は、実験的に馬上旅行をしてみた。続けて乗って、八時間で一五マイルであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.112 より引用)
15 マイルは、計算すると 24.14 km となりますね。日光の花石町から日光湯元スキー場までの距離を Google Map で調べると 29.4 km と出ました。途中に有名な「第二いろは坂」を通るので、その分遠回りになっているのかな? と思って「第一いろは坂」経由にしてみたところ、26.5 km となりました。第二いろは坂恐るべし……(笑)。

さて、「女流冒険旅行家」として高名だったイザベラさんですが、日本の「駄馬」には興味津々だったようです。ちょっとこの文章を読む限りでは、「馬」そのものが初めてだったのか、あるいは日本固有種が初めてだったのか、判別しかねるところもあるのですが……。

私は初めて日本の駄馬を見た。この動物については多くの不愉快な話がある。今まで私にとっては騏麟や竜のように伝説的な動物であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.112 より引用)
ただ、イザベラにとって「伝説的な動物」であった馬も、馬上の人となったイザベラをぞんざいに扱うことはしなかったようです。

しかし私は、蹴られも噛まれもしなかったし、投げ出されもしなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.112 より引用)
その理由について、イザベラは次のように分析しています。なるほど、やはり雌馬のほうが気質がおとなしいということなのでしょうか。

というのは、この地方では雌馬だけしか使用されないからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.112 より引用)
「駄馬」についてのイザベラの観察が始まりました。なるほど、馬は基本的には裸足で、石が多い道では草鞋(わらじ)を履かせていたのですね。

馬は、鼻のまわりに縄をつけてひく。石の多い地面のときのほかは裸足で歩く。石だらけの道では、馬子《馬をひく人》が馬の足に草桂をはかせる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.112 より引用)
馬は人を乗せるだけではなく同時に荷物も載せていたのですが、この、一見すると単純な話にもイザベラのチェックが冴え渡ります。馬の鞍部に荷物を載せるのは馬子の仕事なのですが、

積み荷は用心してバランスを保つようにしなければならない。さもないと困った事態になる。最初に馬子が、それを全部処理する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.113 より引用)
そう言えば、馬の鞍部に荷物を載せる際は、天秤を載せるような感じで左右均等になるようにするのでしたね。まるでカーフェリーに車両を載せるようなバランス感覚が必要だということなのでしょうが、死重を活用していたとは知りませんでした。

もし正確に重さを配分できないときには、どちらかの側に石を一つ加える。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.113 より引用)
続いて、馬上の人となったイザベラ自身のインプレッションが始まりました。乗馬と言えば、乗馬体験を模したフィットネスマシン?がありましたが、前後上下(もしかしたら左右にも)に揺さぶられるのはイザベラも相当堪えたようです。

もし馬が蹟かないならば、平坦の地面では荷鞍で我慢できる。しかし坂を登るときには、背骨にひどくこたえる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.113-114 より引用)
挙句の果てには、鞍上から滑り落ちて泥まみれになるという、まるでコントのような一幕まであったのだとか。なぁんだ、結局馬から投げ出されていたんじゃないですか(笑)。

坂を下るときには、とても我慢できぬほどで、私が馬の頸からすべり落ちて泥の中にとびこんだとき、実はほっとしたほどである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.114 より引用)
「乗馬」というと、鞍上からの手綱さばきで華麗に駆けたり、あるいは停まったりというイメージがあるのですが、荷役がメインだったかも知れない駄馬はそこまで洗練された生き物ではなく、手綱も所詮は「暴走防止用」のものでしか無かったようです。

たとえ手綱があっても、馬は手綱を知らないから役に立たない。馬は六フィート前をとぼとぼ歩く馬子の綱に盲目的について行くだけである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.114 より引用)
これを見る限りでは、駄馬の旅は馬子の歩く速度を超えるものでは無かったということになりますね。

中禅寺への山道

さて、「日本奥地紀行」の「普及版」では、ここから日光湯元での宿の描写が始まるのですが、「完全版」では小旅行の内容が詳細に記されていました。湯元への旅は「馬上旅行の練習」だったので詳細は省かれてしまったのでしょうか。久々の大型カット案件です。

道路の最初の部分は、幾つかの階段があったのですが登りきりました。この道は滝、寺、散在する農家、貧しい村落の間の谷を通っていますが、そこではほとんどの人々が鉢石で塗装される木製のお盆を作っていました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.48 より引用)
イザベラの一行は、日光の花石町から、大谷川に沿って西に向かったと考えられます。清滝のあたりを通り過ぎ、第一いろは坂と第二いろは坂の分岐点がある「馬返」で小休止したようです。おや、雌馬だと聞いていましたが、馬子も女性だったのですね。

私たちが馬返(つまり「乗馬返し」の意)の小村に着いたとき、伊藤と女の馬子はタバコを吸うために美しい庭のある道端の茶屋に立ち寄りました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.48 より引用)
「日光と中禅寺の間の 7 マイル」は、清滝から中禅寺までの 11 km とほぼイコールになるのでしょうか。今で言う「第一いろは坂」に近いルートだったと思われるのですが、「山の階段道」にありがちな光景が当時から存在していたことを伺わせる、面白い記述がありました。

日光と中禅寺間の 7 マイルに740段の階段があるといわれていて、そのほとんどは終わり 2 マイルのところにあります。馬車道は山際の急な曲がりくねった道を登っていき、登り易くするために、長い丸太の階段があるのですが、それが好きでない馬たちは、それぞれの脇に、互いの間に波形の引きずり跡のある 1 フィートより深い泥の穴の道路を造っています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.49 より引用)
今でもこういった登山道ってありますよね。降雨時の水路を兼ねているケースも少なく無さそうですが。

さびれた村

今で言う「いろは坂」を登り切ったイザベラ一行は、中禅寺湖の畔にやってきました。現在の「中宮祠」のあたりでしょうね。

イザベラが記した「男体山の御神体」は、日光二荒山神社のことですね。「奥宮」は男体山の頂上にあるのですが、「中宮」は「奥宮」に向かう登山道の麓にあります。なるほど、だからこのあたりは「中宮祠」と言うのですね。

男体山は御神体として崇められており、湖から3500フィートの尖った頂上には、小さな神社があり、その脇には小岩とその上におよそ百振りの剣の刃が横たえて供えられています。それは破壊的行為に崇られて、それを後悔した男たちがついに、そこに巡礼に来て、彼らの罪を作った道具を山の神を祀った神社の前に寄託したものです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.49 より引用)
現在ではホテルや土産物店などが立ち並ぶ中禅寺湖畔ですが、当時は人気(ひとけ)の無い寂れた場所だったようです。

不思議にもの哀しい光景の長い列を成す不毛で、灰色の、バラックのような家々の廃村が、湖を一定の距離にわたって取り囲み、2、3 の茶屋があるのですが、ほとんど住民がいるという気配がありません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.49 より引用)

巡礼の季節

現在でも奥日光は避暑地として人気がありますが、当時も夏になると賑わいを見せていたようですね。もっとも、その目的は避暑ではなく巡礼だったようですが。

しかし、7 月には静かな村は巡礼者で賑わい、長い、灰色の掘っ立て小屋に殺到します。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.49 より引用)
「巡礼の旅」と言えば、どことなく厳粛でストイックな印象を受けるものですが、日本における「巡礼の旅」は「お伊勢参り」に代表されるような、「大人の修学旅行」と呼ぶに近いものだったと考えられます。

日本の通常の巡礼には、厳粛さとか信心深さというものは何もありません。特別な状況下を除けば、ただ単に休日の「お出かけ」、華やかな社交的浮かれ騒ぎなのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.49-50 より引用)
イザベラもその辺の本質は既に見抜いていたようですね。

薔薇色のツツジ

「沼地のような平らな所」は、戦場ヶ原の湿原のことですね。和訳が逐語訳に近いからか、ちょっと変な印象も受けますが、それはさておき。

沼地のような平らな所を通って、また別の上りが私たちを湯元湖(これはきれいな深い緑の水の一面の広がりで、高い樹木の繁った山の影が深くさしているのです)へと、そして極度の美しさをもつ森林(そこは、あたかも岩山が大小の、しかしみな鋭い角を持つ小片に砕け散ったような土地に見えました)へと私たちを連れてゆきました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.50 より引用)
日光の湯元は今でも温泉が有名ですが、当時から有名な湯治場だったようですね。ちなみにイザベラは「この行き止まりの場所」としていますが、直前の段落で「良い案内がある優れた徒歩旅行者は、二方向から山越えすることが出来るようになっています」と記しています(ひとつは現在の「金精峠」ですね)。

そこでは大勢の裸の人々が水酸化硫黄の水蒸気の中に横たわっていました。というのも、この行き止まりの場所は有名な温泉場でとても多くの人がリュウマチや皮膚病にかかったとき出かけるのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.50 より引用)
前述のとおり、「中禅寺への山道」からは「普及版」ではバッサリとカットされているのですが、改めて見ると随分と貴重な地誌的記述が失われたことになりますね。ちょっと勿体無い感じもします。

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