2011年5月22日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (50) 「カスペ・能津登・鮫取澗・歌棄」

 

本日は、せめて歌棄までは……あ、間に合った(←

カスペ(かすぺ)

????
(不明)


岩内の町から見て、雷電岬のやや手前に「雷電温泉」があるのですが、そのあたりに「カスペノ岬」や「カスペトンネル」という地名?があるようです。小地名すぎるからか、手元のネタ本には記載が無いようですので、推理してみましょう!

kas-pe(より正確には kas-un-pe かも)だとすると、「仮小屋・ある・もの(所)」といった意味になります。ただ、pe には「水」という意味もありますし、kas-u には「上を越す」「徒渉する」という意味があるそうで。ここは kas-u-pe で「水の上を越える」という解釈もできそうですが、これだと名詞が無いので地名っぽくありません(何かが欠けている、ということに)。

と考えると、kas-u-pe で「徒渉する・もの(所)」と考えるのが自然かも知れません。このあたりは山が海にそのまま落ちているような厳しい地形です。移動するには海辺の道無き道を徒渉するしか無かった……とは考えられないでしょうかっ?

あるいは、この「カスペ」はアイヌ語由来では無い……かも知れません(2015/1/12 追記)。

能津登(のつと)

not-oro
岬・の所
(典拠あり、類型あり)
蘭越町と寿都町の境に「尻別岬」があるのですが、そこをショートカットしているトンネルが「能津登トンネル」です。これは not で「」ではないか、と考えられるのですが、それだと「と」の音があまりに明瞭に残っているのが不自然に思えます。

某所(どこだ)でゲットした松浦武四郎の「竹四郎日誌 按西扈従」を見てみると、「ノツト」としながらも、「またノトロとも云。」としています。なるほど、これだと not-oro で「岬・の所」となり、地名としては文法的にもバッチリ!となります。「ろ」はどこへ行った? という指摘もあろうかと思いますが、……台湾あたりに帰ったのではないかと(←

鮫取澗(さめとりま)

same-koyki-tomari???
鮫・捕る・泊地
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
これも「角川──」には記載が無かった小地名なんですが、山田秀三さんの「北海道の地名」にヒントがありました。

西蝦夷日誌は西から来て「鮫コイキ泊。小湾。鮫取泊の義也。一名ホロベツと云。橋有今是を以て境(歌棄と磯谷の)とす」と書いた。サメ・コイキ・トマリは「鮫を・捕る・泊地」の意。今鮫取澗という。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.459 より引用)
ヒントと言うか……、答か(←)。same-koyki-tomari で「鮫・捕る・泊地」ですね(うぉぉ、そのまんまだ!)。ちなみに「鮫」は konkane-sik-o または same で、その「コンカネシコ」は「黄金・いっぱいである・入っている」といった意味になります。「黄金」ってまさか「キャビア」のことだったりして……。いずれにせよ、日本語からの借用のようですね。

歌棄(うたすつ)

ota-sut
砂浜・根もと
(典拠あり、類型あり)
ここは簡単に……。ota-sut で「砂浜・根もと」といった意味ですね。これは基本中の基本という認識だったのか、知里さんの「──小辞典」にも、そのものズバリの項目があります。

ota-sut, -i/-u オたスッ ‘砂浜〔の〕根もと’の義。海から上れば砂浜があり,その砂浜をつっきって砂丘の上に上れば草原がある。その砂浜が尽きて草原になる辺りを‘砂浜の根もと’と言うのである。=ota-sam.
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.83 より引用)
はい、本日は以上!(←

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1 件のコメント:

折野 伸明 さんのコメント...

カスぺノミサキのアイヌ語?解釈については、「水を渡る岬」の意味がイメージとして合致します。それは、現地にある「列岩」にポイントがあるでしょう。
「列岩」とは、新生代第四紀120~80万年前、溶岩が海底の岩盤を割って噴き出て、海水に冷やされてできた岩であると推定します。
その後、大きな地殻変動により徐々に地上に現われてきたもの。
この列岩は幅約1.8m、長さ約70mの規模で列の両側が焼けこげ炭化したような黒色を呈しています。ちょうど山側から海に向かって水際で切れています。アイヌの人々が、その昔カスペノミサキと称したのも現地をみて頷ける気がします。

 ジオグラフィック上貴重な現物標本であると素人ながら興味を覚えますが、
その昔(800~830年前)源頼朝の追手から北海道に逃れる義経を、先遣の弁慶がこの海岸で迎えるため、毎日海を見て暖を取り、夜は篝火(かがり火)を焚き待っていたという。
この列岩は、その薪を積んだ跡だとの伝説も残されている。

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