2021年7月17日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (849) 「斜内」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

斜内(しゃない)

so-sut-oma-nay?
水中のかくれ岩・根もと・そこにある・川
so-sut-oma-nay?
滝・根もと・そこに入る・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
枝幸町と浜頓別町の境界に「ピリカノカ神威岬」があります。神威岬は「斜内山」の尾根が海まで伸びて形成されたもので、現在の国道 238 号は「北オホーツクトンネル」で尾根をまっすぐ貫いています。

浜頓別町斜内は「斜内山」の北側の地名で、かつては国鉄興浜北線に同名の駅もありました。ということで……

  斜 内(しゃない)
所在地 (北見国)枝幸郡浜頓別町
開 駅 昭和 11 年 7 月 10 日
休 止 昭和 19 年 11 月 1 日
再 開 昭和 20 年 12 月 5 日
起 源 アイヌ語の「ショ・ナイ」(滝のある川)がら出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.191 より引用)
この「斜内」という字は相当古くから使われていたようで、カタカナ表記が大半を占める明治時代の地形図においても漢字で「斜内」と描かれていました。

永田さん、それは酷い

「再航蝦夷日誌」には「シヲナイ」と記録されていました。また「竹四郎廻浦日記」には「シヨナイ」とあります。また永田地名解には次のように記されていました。

Shi o nai po  シ オ ナイ ポ  糞多キ小川 古ヘ「アイヌ」村アリシ處ニテ此川ヘ糞ヲシタリト○斜内村ト稱ス
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.436 より引用)
いやー、久々に酷いですねー(汗)。

この解について、更科さんは次のように記していました。

しかし川を神のいるところとしてけがさない信仰を持っている人達が、川に糞をするなどとはとんでもないことである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.196 より引用)
少なくとも、これは他所では見かけない解釈だというのは間違いなさそうです。

「シオナイポ」と「ショーシュツオマナイ」

更科さんは、「斜内」という地名の成り立ちについて、次のように続けていました。

古い五万分の地図ではシオナイポという地名もあるが、ここの川をショシュツオマナイとある。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.196 より引用)
ここで少々ややこしい話になりますが、永田地名解では斜内山の南北にそれぞれ「ショー シュッ オマ ナイ」があったように記録されています。永田地名解だけであれば単なる記録ミスとも考えられますが、明治時代の手書きの地形図でも斜内山の南北にそれぞれ「ショーシュツオマナイ」と描かれていることが確認できるので、少なくとも明治の頃には同名の川が山の南北にあった(と認識されていた)と言えそうです。

斜内山の南側の「ショーシュツオマナイ」は、現在「ソセツ川」と呼ばれている川のことです。

更科さんは「シオナイポ」を流れていた川が「ショシュツオマナイ」だとしていますが、少なくとも明治時代の地形図を見た限りでは両者は別の位置にあるように見えます(「シオナイポ」のほうが北西にある)。

「ショ」は「滝」か「岩礁」か

また「ショシュツオマナイ」の解釈については次のように記されていました。

ショは岩礁でシュツは根元であり、オマはそこにある沢(ナイ)で、それがつまってシオナイになり、それより小さい方の川の意味でシオナイポもあった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.196 より引用)
えっ、so は「」ではないのか……と思ったのですが、改めて知里さんの「──小辞典」を見てみたところ……

so そ(そー) ①水中のかくれ岩。②滝。③ゆか(床)。④めん(面);表面一帯。
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.125 より引用)
……とありました(うーむ)。となると「駅名の起源」が so-nay を「滝・川」としたのに対し、更科さんは so-nay を「岩礁・川」と考えていたということになり、ちょっと困ったことになります。

慌てて「午手控」をチェックしてみたところ……

シヨウナイ
 此処沖に岩有。其処の上の沢なるが故に号く。此処より西北岩少しもなし
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 六」北海道出版企画センター p.408 より引用)
むー……。大正時代の「陸軍図」を見ると、かつて「ソーシュツオマナイ」と呼ばれていたであろう川は砂浜に注いでいたのですが、明治時代の地形図を見ると河口が沿岸流で東に流されていたらしく、漁港の東側で海に注いでいたようにも見えます。となると松浦武四郎の記録は実に正しいようにも思えてくるんですよね。

so-sut-oma-nay は「水中のかくれ岩・根もと・そこにある・川」と考えられますが、どちらかと言えば「滝・根もと・そこに入る・川」と考えるケースのほうが多そうな気もします。「──駅名の起源」はコンサバな「滝」説を記しているものの、松浦武四郎が「水中のかくれ岩」説を記しているのが謎を深めていますね……。

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