2024年1月13日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (1105) 「舌辛川・チロッペ川」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

舌辛川(したから──)

{si-tat}-kar?
{うだいかんばの樹皮}・採る
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路阿寒町の中心街のあたりで西から阿寒川に合流する支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には合流点のあたりに「シタカロフト」とあります。「フト」は putu でしょうから、川の名前は「シタカロ」だったと言えそうですね。

山の麓にある川?

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

シタカラ訳して山の麓(に?)有りと云儀のよし。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.261 より引用)
ちょっと謎な解にも思えますが、si-tu-kor で「大きな・峰・持つ」と考えられそうでしょうか。

犬が子を産んだところ?

永田地名解 (1891) には全く異なる解が記されていました。

Shita kara   シタ カラ   犬ノ子ヲ産ミタル處 十勝ニ同名ノ地アリ○舌辛村
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.337 より引用)
「十勝に同名の地あり」というのが疑問だったのですが、もしかして「下頃辺」のことでしょうか? seta-kar で「犬・作る」と読め!ということかもしれませんが、久保寺逸彦アイヌ語・日本語辞典稿」(2020) によると kar-kar で「世話をする」あるいは「育てる」というニュアンスもあるとのこと。

だけかんば(の樹皮)を採る?

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

 阿寒川を遡り山峡に入った処の西支流の名,地名,旧村名。昭和 12 年鶴居村を分村し,同年舌辛村を阿寒村と改称したが役場は舌辛原野である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.278 より引用)
あっ。そう言えば「舌辛」という地名は見当たらないなぁと思いましたが、やはりそういうことでしたか(よく見ると「オトンベツ川」の近くに「阿寒町舌辛」が現存していますね……すいません)。

 永田地名解は「シタ・カラ。犬の子を生みたる処」と書いたが,八重九郎翁に聞くと,「シタッ・カラ。だけかんば・を採る」という意味だといわれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.278 より引用)
この文には補足があり、shi-tat はふつうは「うだいかんば」の意味である、としています。{shi-tat}-kar で「{だけかんば}・採る」ではないかとのことですが、-us-pet あるいは -us-nay が略された形なのでしょうね。

うだいかんばの樹皮を採る?

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) にも、次のように記されていました。

 この川の名は阿寒市街の近くで阿寒川に合する舌辛川からでたもので、アイヌ語のシ・タッ・カ ・ペッで、の皮をとる川のこと。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.263 より引用)※ 原文ママ
まるで予め答え合わせをしたかのように内容が一致していますね。更科さんは si-tat を「うだいかんばの皮」としていますが、これはその通りで、「樹木」を指す場合は si-tat-ni となります。

更科さんの文には続きがあり……

シタまたはセタが犬であるので、犬が子を産んだところなどと訳した人もあるが、それでは、シタカラという地名はいたるところにあるはずである。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.263 より引用)
更科さん、キレッキレですね!

「舌辛」は {si-tat}-kar で「{うだいかんばの樹皮}・採る」と考えて良さそうですが、個人的には松浦武四郎の記録した si-tu-kor で「大きな・峰・持つ」という解も捨てがたいところです。というのも、永田方正が言及したと思しき「十勝のシタカラ」(=下頃辺川?)も「大きな峰を持つ」ように見えるんですよね。「下頃辺」についても、いつか再検討してみたいですね。

チロッペ川

chiray-ot-pe?
イトウ・多くいる・ところ
(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
釧路阿寒町の市街地(かつての「舌辛」の市街地)の北で西から舌辛川に注ぐ支流です。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「チロツフ」と描かれています。

戊午日誌 (1859-1863) 「安加武留宇智之誌」には次のように記されていました。

何卒乙名の家までと一同急ぎ行に
     チロツベ
本名チライヲツベのよし。此川の下に大なる渕有。是に常にいとう居るよりして号るとかや。また上に小川有て、其小川の名に今は成たり。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.261 より引用)
chiray-ot-pe で「イトウ・多くいる・ところ」だったものが、略されて「チロッペ」になった……という説ですね。納得の行く解です。

鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) には、戊午日誌の解を紹介した上で、次のように続けていました。

松浦氏はチライ・オッ・ペ「chirai-ot-pe いとう魚が・群居する・もの(川)」と聞いたのであろうが、チル・オッ・ペ(chir-ot-pe 鳥が・群来する・もの(川)」とも読める。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.259 より引用)
確かにそうなんですよね。そしてちょいと気になるのが、「北海道実測切図」(1895) などが、現在の「湯波内川」を「チカップウㇱュナイ」と記録している点です。chikapchir はどちらも「鳥」を意味する語で、面白いことに現在の「湯波内川」も「チロッペ川」もかつての「オン子ピラ」の近くを流れています。

つまり、「チロッペ川」は何らかの理由で場所が取り違えられて、その後無事に元の位置に戻ってきた……という可能性も考えたくなります。だとすると「チロッペ」は chir-ot-pe だったと考えるほうが自然に思えるんですよね。

ただ、これは「確実な証拠」とは言い難いので、現時点では松浦武四郎が記録した chiray-ot-pe で「イトウ・多くいる・ところ」と見ておくのが無難かもしれません。

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