2016年1月17日日曜日

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北海道のアイヌ語地名 (308) 「下頃辺・愛牛・生剛」

 

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)

下頃辺(したころべ)

{si-tat}-kor-pet
ウダイカンバの樹皮・持つ・川
(典拠あり、類型あり)
浦幌町西部を流れる川の名前です。もともと現在の新吉野駅あたりが「下頃辺」(あるいは「下頃部」)という地名だったのですが、昭和 4 年に「吉野」に名前を変えてしまいました。ちなみに駅名が新吉野に改称されたのは昭和 17 年のことだったようですが、旧駅名は「下頃」だったようです(「辺」と「部」で字が違う)。改称の理由は「読みにくいため」とされていますが、もしかしたら「ニセコ」や「豊浦」、「御影(駅)」と同じような感じだったのかもしれません(記憶違いだったらごめんなさい)。

では、今回は山田秀三さんの「北海道の地名」から。

永田地名解は「シタ・コロ・ベ。犬を産みたる処。土言犬をシタと云ふ」と書いた。もしかしたらシタッ・コロ・ベ(まかんばの木・の・川)だったかもしれない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.290 より引用)
確かに、永田地名解の p.298 に当該記載が見つかりました。ただ、山田さんは si-tat-kor-pet ではないか、としたのですね。

では、続けて更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょうか。

下頃部はアイヌ語のシタッ・コㇽ・ペで、うだい樺のある川の意と思う。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.240 より引用)
おっ、見事に見解が一致したようです。{si-tat}-kor-pet で「ウダイカンバの樹皮・持つ・川」と考えて良さそうですね。si-tat は本来は「ウダイカンバの樹皮」で、木そのものを表す場合は si-tat-ni になるのですが、-ni は略されてしまったようですね。

愛牛(あいうし)

ayusni-us-i
センノキ・ある・ところ
(典拠あり、類型あり)
浦幌町南西部の地名で、かつて(1992 年まで)対岸の豊頃町旅来との間に国道 336 号線の「旅来渡船」が運行されていたところでした。元々はかなり古くからある地名のようで、色々と記録が見つかりました。

松浦武四郎「東蝦夷日誌」には次のようにありました。

アシネシユム〔愛牛〕(右野原)
(松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(上)」時事通信社 p.291 より引用)
また、戊午日誌にも次のように記されています。

また七八丁も下るや
     アシ子シユム
右のかた野原也。其名義は昔し栴(せん)の木一本有りしによって号るとかや。其根よりしてまたゝゝ小枝多くわかれて有りしによって依(号)るとかや。此処人家六七軒左り岸に立並ぴたり。是より下をトカチ村と云り。
(松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 下」北海道出版企画センター p.359 より引用)
永田地名解にも記載がありました。

Ai ush ni ushi   アイ ウㇱュ ニ ウシ  刺桐(センノキ)アル處 愛牛村ノ原名
永田方正北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.297 より引用)
「アシネシユム」と「アイ ウㇱュ ニ ウシ」で少々表記に揺れが見られるものの、地名の由来には一点の歪みもありません。念のため山田秀三さんの「北海道の地名」も見ておきますと……

愛牛 あいうし
 ベッチャロのすぐ北の辺の地名。元来はアイウシニ・ウシ(aiushni-ush-i せんの木・群生する・処)と呼ばれた処だという。それが略されて愛牛となった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.290 より引用)
ふわー。これほど真っ直ぐ正解?に向かうケースも最近では久しぶりのような気がします(もっとも、細かいことを言えば松浦武四郎が記録した「アシネシユム」の「ム」は何なんだ、という話はあるのですが)。ayusni-us-i で「センノキ・ある・ところ」と考えて良いのではないかと思います。

生剛(せいごう)

o-pet-ka-us-i
尻・川・岸・つけている・もの
(典拠あり、類型あり)
浦幌町南部、旧浦幌川沿いの地名です。「せいごう」という音からはアイヌ語由来っぽくない感じがしますが、実は……ということで(わざとらしい)、今回も山田秀三さんの「北海道の地名」から。

生剛 せいごう(オペッカウシ)
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.287 より引用)
あっ……(いきなりネタバレ)。

原名はオペッカウシ「o-pet-ka-ushi-i(山の)尻を・川の・岸に・つけている・もの」の意。同名が道内諸地にあったのであるが,ここでは,生剛という漢字を当てて,それで「おべかうし」と読ませて村名(旧)にもしていたのであったが,これでは他地の人には読めっこない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.287 より引用)
そうなんです。なんと「生剛」で「おべかうし」と読ませていたというのだから畏れ入ります。o-pet-ka-us-i で「尻・川・岸・つけている・もの」という意味で、山田さんの解説にもあるように、山の端が川岸まで達しているところ、と言う風に解釈すれば良いようです。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のようにあります。

何故この地帯にこの地名がついたか不明であるが。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.240 より引用)
ん……?

もとは浦幌川が十勝川に合流した一キロ下流の、丘の端が十勝川につき出たところをオペッカウシ(尻を川の上につき出したところ)と呼んだのに、生剛と漢字を当てたものであった。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.240 より引用)
あーなるほど。確かに明治期の地形図に記された「生剛」の位置は、現在の位置よりも十勝太に近いところでした。一時は「生剛村」として村全体の名前にもなった地名なので、少しお引越ししたのかも知れませんね。

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