2012年8月3日金曜日

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第101回「大日本恵土呂府」

 


高田屋嘉兵衛

ハードボイルドな資料室「北方資料館」の話題も、今日でおしまいです。えーと、まずはこちらから。


江戸時代に北方探索で名を馳せた人たちが紹介されています。まずは右から……


はい。高田屋嘉兵衛さんです。「高田屋嘉兵衛」と言えば、博多駅の 1 階に「高田屋嘉兵衛」というミニスーパーがあって、そこで売っている刺身醤油がなかなか美味なのですが……。

高田屋嘉兵衛については、以前にも「Такадая Кахея」という記事で取り上げていますので、詳しくはそちらをご覧ください。

近藤重蔵

続いてはこちらの方々。


まずは右から……


えー、この人は近藤重蔵さんですね。実は、この人のことはあまり詳しく知りません。ちょいと「うぃきぺ」を見てみましょうか。

近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。
諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。
(Wikipedia 日本語版「近藤重蔵」より引用)

ふむふむ。江戸時代後期の人ですね。間宮林蔵はよーく知っていますが、平山行蔵という名前は寡聞にして知りません……。

寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させる。
(Wikipedia 日本語版「近藤重蔵」より引用)

なるほど。いちぶで話題の「大日本恵土呂府」の木柱を立てた人でしたか。「貿易商人の高田屋嘉兵衛に──」というくだりもありますね。彼らの活躍は同世代に行われた、ということになります。

文化5年(1808年)に江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。しかし自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政2年(1819年)に大坂勤番弓矢奉行に左遷。文政4年(1821年)に小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。文政9年(1826年)に長男の近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となり、連座して近江国大溝藩に預けられる。
(Wikipedia 日本語版「近藤重蔵」より引用)

ありゃりゃりゃ……。なかなか波瀾万丈の人生だったようです。

文政12年6月16日(1829年7月16日)死去。享年59。死後の万延元年(1860年)に赦免された。
(Wikipedia 日本語版「近藤重蔵」より引用)

死後に名誉回復というのは、なんかソビエトロシア風ですね(笑)。

最上徳内

続いては……左の方を。


はい。最上徳内さんですね。名前はよーく存じ上げているのですが、あまり詳しいところは知らないもので……。

実家は貧しい普通の農家であったが、学問を志して長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、士農工商の身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。
(Wikipedia 日本語版「最上徳内」より引用)

おお、「波瀾万丈の人生」にも上がいましたね。

蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査する。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌・天明6年(1786年)には単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ、ウルップへも渡る。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人のエトロフ在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒される。
(Wikipedia 日本語版「最上徳内」より引用)

なるほどー。国後・択捉はもとより、その先の得撫(うるっぷ)まで足を伸ばしていたのですね。

寛政10年(1798年)には老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内は7度目の蝦夷上陸となる。幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
(Wikipedia 日本語版「最上徳内」より引用)

あ、近藤重蔵が上司に当たる人物だったんですね。なんとなーく逆かなぁ、なんて思い違いをしていました。

大日本地名アトイヤ

あまり長くなると文字数が収まりきらなくなるので、ちょっと引用もあっさり目にして、最後にこちらをご覧いただきます。


「大日本・・・・」と書かれた標柱です(もちろんレプリカ)。なるほど、これが近藤重蔵や最上徳内が択捉島に打ち立てたという「大日本恵登呂府」の標柱なのか……と思いきや!


大日本地名アトイヤの標柱」とあります。なんじゃこりゃ。

この標柱は 1860 年(万延元年)頃、腐朽していることがわかったのでこの島を守備していた仙台藩士が再建したのがこの「大日本地名アトイヤ」の標柱。しかし、調査が不十分であったためこの標題となった。
(北海道立北方四島交流センター「北方資料館」内展示パネルより引用

……。まだ続きがありますね。

1875 年(明治8年)持ち帰った。(模型)
(北海道立北方四島交流センター「北方資料館」内展示パネルより引用

あはははは(笑)。さすがに「大日本地名アトイヤ」では格好が悪かったからか、わずか 15 年で撤収してしまったようです。

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